魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

嫌よ嫌よ

2024年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

外国人観光客に別料金を課す動きが広がっている。これには賛成でも反対でもないが、魂胆が卑しくみっともないと思う。色々理由をこじつけているが、一言いいたい、
あんさんらは円高の時、外国人観光客を安い別料金にしはったかな?

記憶も新しい70円台の超円高の時、外国人観光客が極端に減って、それでも日本に来てくれた観光客は「高い、高い」と切り詰めながら細々と回っていたが、当たり前のように同一料金を取りながら、観光客が減る心配だけをしていたではないか。

「おもてなし」が聞いて呆れるとはこのことだ。観光客の数を減らしたいなら、ハッキリそう言えばいい。「家元本山」でも言ったように、野次馬観光を閉め出し、日本を学びに来る人しか来られないことにして、一方では料金でも優遇し、条件によっては無料にする。
目先の土産物で金を取らず、御朱印やお守りのように、帰依と修行と学びで金を取る。海外にはその関連グッズ、ブランドを売る。寺社仏閣も歌舞伎も相撲も工芸もアニメも居酒屋も、その体験そのものを学びと位置づけ、帰依した者しか入山させない。日本はそういう場だと行動で示すべきだ。

おもてなし観光の参考にすべきは四国で、八十八カ所霊場めぐりが全域の文化として定着し、全域が基本的に修行の場になっている。四国の人々も「おもてなし」が身についている。
現金に目先の金儲けしようと思うから、どんどん来て下さいと言いながら後ろを向いて顔をしかめ、別料金を取ることを当然だと思う。
こういう考え方でいると、韓国の済州島のように誰も来なくなり、イメージも信用もかえってマイナスにしてしまう。

「武士は食わねど高楊枝」の精神性が日本の価値ではないのか。家元や本山は莫大な金を集めるが、決して物を売って金を集めない。
チマチマと個々の料金を取るより、入山料、拝観料をドンと取れば良い。日本への観光ビザ入国には「研修費」として10万円ぐらいの入国料と20万円ぐらいの保証金を設定し、それでも来たい人だけ来ることにすれば、熱心な人と金持ちだけが来るし、逆に日本のブランド価値も上がる。むろん、留学やビジネスなどの非観光ビザはウエルカムだ。
これには反対で、別料金をというなら、結局、イヤヨイヤヨと言いながら金だけ欲しいが本心だ。みっともないことこのうえない。


見える魚

2024年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

海水エネルギーは希望だが、海底資源のマンガンノジュールはかなり前から話題になっていた。それをようやく引き上げるような話がでている。しかし、これまで何度も「いよいよ!」と期待しても、未だに現実的な利用に至っていない。底引き網や、掃除機でドドドと吸い上げれば良さそうに思えるが、ことはそう簡単にはいかないらしい。

良くわからないのは、引き上げることが難しいのか、利用の技術が無いのか、とにかく、目の前に見える魚がなぜ釣れないのか不思議に思う子供のようにもどかしい。
釣り針を魚に食いつかせることの難しさを聞かされているうちに、どっかの赤フンドシのオッサンがやって来て、バーッと投網を打って、全部持って行ってしまうような気がして、気が気ではない。

もし引き上げることができるなら、とにかく引き上げて保管しておいたらどうなのか。
戦艦大和を引き上げるのは色々と難しいが、あんなに大量に転がっているのを公表しておきながら、引き上げないのは、どんな理由を聞かされても理解できない。
本当に日本に権利があるのか疑わしくなってくる。
もしかすると、実は曖昧な権利なので、日本の日本のと言いながら国民を洗脳し、韓国の独島のように国民を信じ込ませて、戦争をも辞さない認識を醸成しようとしているのではないか。あるいは、各国の出方を窺っているのか。
それとも、海底に張られたバリアを取り去ると、その下からゴジラが出てくるのだろうか。


大仏建立

2024年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

三碧辰年もいよいよ佳境に入ってきた。プーチンも小池百合子も正念場を迎えている。年頭の「三碧辰年」に、日本はエネルギー大国になれると書いたのだが、海底資源だけではなく、海水そのものをエネルギーにする技術が目前まで来ているそうだ。
化石エネルギーは既に限界であり、光や風力など自然の恵みを活かすことが盛んになっている。しかし、海水から水と水素を取り出して使う技術が確立すれば、海に囲まれた日本は大盤石だ。のみならず、その技術そのもので食っていける。

問題は政府と企業であり、これまで日本でいくらすごい技術が生まれても、片っ端から他国にもって行かれてしまい、ノーベル賞だけを喜んでいる。こんな日本をよく知るiPS細胞の山中博士は自ら実用化の研究発展に力を入れており、ノーベル賞以上にこの面が賞賛されるべきだ。それだけに、逆に情けないのは政経のリーダーと言われる人たちで、ビジョンも気概もなく、保身と誰かの尻馬に乗ることだけを考えている。

政治と金問題など、鹿の角をどれぐらい切れば馬になるかのような話ばかりで、日本人はこんな枝葉末節の話に血道を上げる。要は何に使ったかさえハッキリしていれば、誰がどう集めようと、大義は守れるはずだ。
何かを始めようとすると、細かい問題ばかり取り上げて潰してしまうのは、日本だけでもないが、膠着語のせいか日本の思考文化は特にややこしく、問題を複雑にする。

大仏建立
日本の縮図のような京都は、観光客対策に観光特急を走らせたのは良いが、わざわざ特別料金を設定し、1100円のバス地下鉄一日券か、一回500円の現金料金でしか乗れない。案内所で説明を受けた観光客なら理解できるだろうが、行き当たりばったりで来た人には、単に「高い!」だけだ。乗るわけがない(少なくとも当初は)。
どんな立派なアイデアや発明も、こうした細かなこと、余計なこだわりで、「仏作って」魂を詰め込み過ぎる。

日本製品が売れなくなったのは、色々な機能を詰め込み過ぎたことがある。
日本の新しい技術やアイデアが潰れてしまうのは、責任者の保身もあるが、気を回し過ぎて、口や手を入れ過ぎることも一因だ。先ずは現場に任せるか、それが心配なら他人の意見を聞いてみることだ。島国の「一人っ国」日本は、他人の考えに鈍感だ。

日本の死活をかける大仏建立たる「海水利用」はシンプルにいきたい。技術投資やビジネス展開はもとより、確たる未来展望と信念を持って臨むことが重要だが、その前に、国内の既得権にしがみつく連中や海外のハゲタカに覚られないうちに、粛々と進めることが何より重要かもしれない。
♪ ワライカワセミに話すなよ ケララケラケラうるさいぞ


サナギ化

2024年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、カスハラ解消の動きが盛んだが、カスタマーハラスメントは30年の不況が生んだ日本の萎縮であり、サナギ化状態なのかもしれない。
幼虫も成虫も積極的に動くが、変身前のサナギは外界に働きかけず、閉じこもり、死んだように制止している。

日本の接客を伴うビジネスは、バブル崩壊のショックで戦う気力を失い主張をやめ、ひたすら受け身になり、相手の意に沿うことだけで、買ってもらおうとしてきた。
「ひざまずき接客」や「ひたすら謝罪」、商品開発より値下げ販売。誰も異を唱えないが、不様で惨めを売りにする乞食ビジネスであり、データ詐称や認証不正も「貧すれば鈍する」の例だ。
この「乞食」という言葉を不適切用語として抹殺する言葉狩りもまた、クレームと萎縮の相関から起こるカスハラの類なのだが、それすらも当たり前になっている。言葉は本来ただの記号であって、言う者も聞く者もそれに勝手な価値を持たせているに過ぎない。差別さえも実害が起こるまでは聞き流せるものだ。言葉と実害は直接の関係はない。

バカヤロウと言われて怒るのは、自分が馬鹿と利口のタテ型思考をしていることで、その基準の下にされたと思うからだ。人には様々な能力があり、自分は他人が勝手に決めた基準に属さないと思えば、『あなたの基準はそうですか』と笑い飛ばせる。
物理的な差別なら、訴訟など物理的に対応するしかないが、言葉に抗議や禁止を求めるのは、バカヤロウと言われて「何を!」と胸ぐらを掴むのと同じで、むしろ、被害主張自体が物理的実力行使だ。

武士の商法
30年の逃避が、外では中韓のクレーム外交に屈服し、内では被害や差別を主張する大声に、誰も抵抗できない常識を作ってしまった。
「いらなきゃ買うな」と言える商売は、武士の商法かもしれないが殿様商売ではない。武士の商法は同時に、職人の商法でもある。
殿様は恩着せがましいが、武士や職人は筋を通す。媚びや騙しの商売はできない。自分が納得できる商品しか売らないのは同じだが、礼節を気にしない職人に対し、武士は礼節を知っているので商取引は可能だ。

東京は武士と職人の街で、関西から行くとカルチャーショックを受ける。半世紀前は江戸の息吹が色濃く、冬の寒い日に灯油が切れて近所の燃料店に買いに行くと、店は開いてるのにオヤジが奥から「もう閉めたよ」と言って、売ってくれなかった。オカミさんだったら売ってくれたかもしれない。
かと思えば、御徒町に小物の買い出しに行って、支払おうとしたら量を見て、「おたく、業者?」と聞くから「ええ、まあ」と答えると、「じゃあ、計算し直さなきゃ」と、一言も値切らないのに勝手に卸値にしてくれた。逆に、値切ったらこうはいかなかったかもしれない。少なくとも良い顔はされなかっただろう。これは、いわゆる気っ風の問題だ。

メタモルフォーゼ
その東京も含め、近年は日本全体が卑屈な商売をするようになった。社会に何かを提供する気概や自負を失い、とにかくお金が欲しいだけになった。卑屈が卑屈を強いる社会に、今まで物も言えなかった卑怯者が湧き出して、言いたい放題やりたい放題になったのが、カスハラ、炎上のクレーマー暴走だ。クレーマーとは過激な被害主張者のことだろう。

カスハラ対策はクレーマーを押さえ込もうとしても、本当の被害者である売り手側の信念がなければ解消しない。
暴言を吐く客をつまみ出し、状況次第では逆提訴で企業側の信条を広報する、それぐらいの屈しない姿勢と信念を持つことによって解消するし、それが企業の信頼性を高める戦いにもなる。そして、それを是とする社会啓蒙にもなる。
錦の御旗のように、弱者という立前を掲げれば何でもまかり通ってしまう日本社会の風潮は、出る杭を打ち何もしない冬のサナギであり、表面的な静止故に裏ではエネルギーの流れが偏り、格差という見えない変貌が進んできた。

もう、30年の眠りから大きく変身し、新しい大空に羽ばたく時がきている。
ただ、この変身の時が最も危険な時であることは、国民すべてが覚悟すべきだろう。
今はまだ、80余年前と同じ暗黒の戦中戦前の中にいる。


凜と日本

2024年06月11日 | 京都&ケンミン文化

またも世界遺産でグダグダが始まった。日本は軍艦島に懲りず、佐渡金山を「果敢に」願い出ている。
政治が絡む文化遺産組織などに、不様な媚びを売る卑しさは捨てるべきだ。どうしてもお墨付きがほしいなら、UNESCOやICOMOSの実態をただす努力の方が先だろう。

何度も繰り返すが、日本は自ら世界の権威づけの中核になれないのなら、潔く一切の権威付けに距離を置いて、暗黙の抗議を示すとともに、モンドコレクションと大差ない安っぽい遺産ショーとは無縁の、世界の遺産「日本」として孤高の姿を示すべきだ。
世界遺産に媚びることで、日本の価値を劣化させていることに気づかないのだろうか。
善し悪しは別にして、どう見られようと、日本は確実にスペシャルな国だ。
その特殊な国が権威に媚びを売ることで、貴重な特殊性が汚れそのものになっていく。

元々、世界遺産なるものは人類の歴史と営みの中で、結果的に偶々あったものに乗っかって権威になろうとする、ハゲタカのような欲と偽善の「魂胆」の塊だ。政治家が自らの存在理由を誇示するために、他人の業績に乗っかって国民栄誉賞などを授けて見せる、えげつないでショーだ。
世界遺産委員会なるものが何時どの様に生まれ、そして消えていくのか。大局的、客観的に考えれば、いかに儚いものか誰でも気づくはずだ。このうたかたの夢に翻弄され、刹那の時代の間でさえ、自ら価値を落とすことになる世界遺産委員会巡礼など、どう考えても愚かしい。

世界遺産として守らなければ消えてしまうと考えるのは、それこそ人間の傲慢だ。何千年の遺産なるものは残るべくして残り、消えるべくして消えた。まして、数十年や数百年の遺産など、つかのまの祭りそのものだ。消えるか残るかは土地の人間の選択であり、日本に多く残る文物も中韓では消えている。爆破されたバーミヤン大仏のように、武力の前には何の歯止めにもならなかった。

日本人が本当に歴史や自然を守ろうと思うなら、それは日本人が決めることであり、そのためにも、怪しげな世界の魑魅魍魎に惑わされず、自らの価値を理解し、凜として孤高な日本であり続けるべきだろう。
それでも、どうしても世界遺産がほしいなら、天皇制を申請する事を考えてみてはどうか。
→「日本遺産」20150708 「家元本山」20240522


意思優先

2024年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム

もう、車を持っていないので、「へー!」という話なのだが、欧州車オーナーの記事によると、近頃の車には抜いて確かめるオイルゲージが無く、コンピューターで判断し、それがまたややこしく、コンピューターの要求する条件に合わせなければ計測できないのだそうだ。
そのレベルや真偽のほどは解らないが、欧米の科学信仰は「デキル亊はスル事」の精神があり、コンピューター技術もどんどん取り入れる。新しい技術は神から賜ったのだから、使うべしの衝動があるようだ。だから、教会が月探検や遺伝子操作、AIの新技術にストップをかける。東洋人から見れば不思議な教会の横槍だが、そもそも科学自体が神の賜り物と考えられているからだ。この点、中国には何のこだわりも歯止めも無い。

欧米の新技術に対する積極性は、それが本当に前より良いかではなく、とにかく新しい技術を優先する。コンピューターコントロールを過信して起こった飛行機事故も少なくない。(→「飛行危機」)
自動車の自動運転については様々な事が懸念されているが、問題は何でもコンピュータ任せにするのではなく、何を任せ、何を任さないかだ。

自動車の運転に関して、視聴覚や機器操作の判断は、おそらく人間より機械の方が確かだろう。だから、無人の車が公道を走るのは危ないというなら、飲酒運転やスマホ操作、高齢運転の方が遙かに危ない。一方、A300の様に人間の意思とコンピュータの意思が矛盾して起こった飛行機事故では、設計思想に重大な誤りがあった。操縦主体を人より機械を優先していた。
これから先、ますます自動化が進むだろうが、無駄な議論をするより、機械的「判断」はどんどん機械に任せ、何をどのように動かすかの「意思」は、確実に人間を優先するというポイントを押さえれば良いのではないか。

欧州車にマニュアルのオイルゲージが無く、コンピューターだけでオイル交換の意思決定をするのだとしたら、小さな事のように見えるがA300と同じ設計思想であり、いきなりEV転換を義務づける発想と同じで、やっぱり教会に叱ってもらうしかない。もっとも、その教会は、原爆開発当時にはごく一部の反戦論者を除き、口を挟むことはなかった。

 


もしもし

2024年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

海外探訪番組で出会う外国人、ことに中国人には驚くほど日本語が上手な若者がいて、それが皆、独学の上、日本人に初めて会ったという。そんなシーンが、一度や二度ではないから、かなりの人口がいると思われる。大方は、日本のアニメやテレビ番組に触発され、勉強を始めたものらしく、正式な学習をした人より自然な会話をする。
日本人は10年以上英語を勉強しても、まともに話せる人が少ないが、学校での語学学習がむしろ能力を摘んでいるのではないか。

学校教育、ことに日本の学校は個人の能力を伸ばすのではなく、型にはめることだけに専念し、不適合者を規格外として弾き飛ばす。スーパーで売られる規格品のキュウリより、商品にならなかった変形キュウリの方が圧倒的に美味いのはよく知られるところだ。ついでに言えば、現在の日本がここまでダメになったのは、この規格品作りに偏差値という等級まで付けて、トコトン個性を剥ぎ取った規格品が社会を動かすようになっているからではないのか。マニュアル社会もその一例だ。

学校で正式な日本語を習った人ほど、母国語の癖が抜けない。日本人になったドナルドキーンほどの日本通が、英語イントネーションが抜けなかった。
学校教育の適合者は、識別、記憶、組み合わせが得意な、パズルやクイズの専門家だが、現場で言葉を吸収した人は、違和感のない話し方をする。アニメや映画などでも原音で聴けば、子供と同じで、知らない単語や曖昧な発音はあるが、ネイティブのようになる。言葉とは本来そういうものだ。もちろん、大人だから、深い理解もする。

さらに、語学も発展した現代では、体感を知識で補強することもできるから、本当に「ぺらぺら」に外国語をしゃべる人がいる。ところで、この「ぺらぺら」というのはおそらく日本人が欧米語を聞いたときの音感だろうから、「日本語がぺらぺら」はおかしいが、もう日本語として固定している。

言語差別
語学などなかった昔から、人々は知らない言語と出会っても友好的であれば互いになじみ、片言で意思を通じ合ってきた。7世紀以前の日本もそうだったはずだが、千年以上も島国に閉じこもり差別意識に加え、教育の普及や識字率の高さが災いし、異邦人への壁が生まれた。しかし、これは政権寄りや内陸の話で、長い海岸線に暮らし漁労、交易などで生きてきた人々は、積極的な交流感覚を持ってきたし、今でも海沿いの人はオープンだ。
ネットなどで、人を蔑視し誹謗したがるのは、ネットや組織の閉鎖意識の人だ。英語の野蛮人=barbarianも、ギリシャ以前の「バーバーと訳のわからない言葉をしゃべる人」から始まっている。他言語や文化、異論を積極的に理解しようとしないのは平安貴族と同じで、変化を恐れ、他を蔑視し安寧に閉じこもろうとする島国日本の習性だろう。

幕末維新や敗戦占領下では、日本中の至る所で積極的な体感言語を学ぶ人が増えて、学校など行ってなくても自由に話していた。最も、この時でも会話ができる人を周囲は「語学」ができると表現していたから、日本人には能力や学力への信仰心があるようだ。
このため、学位を過信したり、逆に学ぶことの難しさを過剰に意識して、なかなか実力がつかないことも、日本人の会話力の低さにつながっている。
日本の英語教育は、道具としての言葉をパズルや謎解きにし、おいそれと蘊奥を極められるようなものではないと、恐怖心や距離感を植え付けるだけの逆効果を生んできた。
幼児期からの英語教育に反対する人にはそのトラウマがあるのだろう。

垣根のない人々
インド人や中国人が簡単に日本語を話すのは、外国語並みに方言が存在し、違う言語に抵抗がないからだろうし、欧州人は逆に方言を外国語と認識し、その違いを学ぶだけで話せるものだと考えている。
日本人は関西弁と関東弁を平気で聞き分けるのに、恐れ多い「語学」の壁が外国語を遠ざけた。近年は環境変化や教育改革でかなり解消されてきたが、聞きかじりの単語だけで外国人に声をかけたりする文化は無い。

日本語に聞き耳を立てている外国人が、かわいいと面白がる言葉に「もしもし」がある。
確かに、言われてみれば、「もしもし」は角の立たない言葉だ。
「申し上げる」の「もおす」は、始めは「a」を含む「まおす」だったが、遠慮しながら発する言葉なので「o」に変わったのだろう。母音の「a」はハッキリさせる音で、「o」は柔らかい音だ。呼びかけの言葉なので両唇音の「m」でインパクトを付けながらも「ま」ではなく「も」で柔らかく呼びかける。さらに二度繰り返すことで、リズムにより言葉の意味を薄め、ただの音にする。「ハイは一度にしろ!」と怒る理由でもある。

電話に「もしもし」と呼びかけるのは、ハッキリとしかも柔らかく対応する「おもてなし」精神の表れで、外国人だから音感でそれが解るのだろう。だから、同じ両唇音でも「b」と「a」で始まる「バカヤロウ」は、日本人、ことに関東人が思う以上に、外国人に強烈なインパクトを与えるようだ。中漢の映画では、悪辣な日本人がやたら「バカヤロウ!」を連発する。