信州で蕎麦を

2023-05-18 00:00:14 | あじ
長野と言えば、蕎麦が名産。思い出すと数十年前、大学生の頃、野尻湖の方にあったゼミ担当教授の山荘に大勢で合宿に行く際、途中の長野駅から徒歩で善光寺に向かった時に店頭で蕎麦を打つ蕎麦店が並んでいたような記憶があるが、善光寺の周りには蕎麦店が並んでいるわけでもなく、そもそも善光寺に行った記憶がないことから、蕎麦をいただいた後、罰当たりにも善光寺に行かずに次を急いだに違いない。

山荘では翌日からの討論会の前夜祭のあと、カードゲームで広く薄く独り勝ちし、帰京後、大学近くの玉打ちでさらに膨張させ、枯渇寸前だった自動車教習場の授業料を賄ったというさらに罰当たりな記憶もよみがえってきた。

今回はアルペンルートのツアーの前付けとして善光寺が組み込まれ、限られたフリータイムを有効に使う必要があるので多くの店から選ぶわけではなく、善光寺から遠くなく、格式がありそうで、列が少しだけできている店ということで、善光寺から数番目の「藤木庵」ということ。地味な店構えで表参道に面していても通り過ぎそうだった。



店内は、外観とは異なり現代的な構造で、運よく3番目に着席できた。そばを食べない手はないので蕎麦と天ぷらを注文。二八蕎麦である。蕎麦はつゆで食べ、天ぷらは塩で食べる。



都会の蕎麦と比べようにも、都会にはチェーン店は多数あるものの蕎麦単独店は激レアになってしまい。年に1回だけ行くぐらいなので記述困難だ。

藤木庵は文政十年創業となっている。1827年。いわゆる文化文政の最終盤である。江戸の町人を母体とした爛熟文化で、北斎、広重、国芳、馬琴、一九、大田南畝や柄井川柳、伊藤若冲などが登場。また、同時代に西郷、大久保、勝らが生まれ、シーボルト事件も起きている。種馬将軍徳川家斉の時代で、10年後には維新の第一弾である「大塩平八郎の乱」に繋がる。そして明治維新から日清、日露戦争を経て原爆が落とされるまで大わらわだった。

この藤木庵創業の文政十年だが、晩年を故郷の信州柏原で過ごした小林一茶が亡くなっている。65歳で亡くなったのだが、三人目の妻が妊娠していて一茶没後に女児を出産。色々あってその子が小林家を継ぐことになり、末裔の方が今でも家を守っている。実は冒頭の段落で書いた教授だが、小林一茶の研究家でもあり、山荘の近くに小林家の末裔の方がいて、一緒にあいさつにいった。噂通り、一茶の肖像画とそっくりだった。おそらく、小林家は次の代ではないだろうか。

高齢でも蕎麦を食べれば子作りの原因行為ができるという例に一茶はよく使われるが、その後、すぐに亡くなったことは語られない。