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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

【第19次来海南調査日軍侵瓊罪行】5 金鶏嶺采石場

2011年03月21日 | 海南島史研究
http://nanhai.hinews.cn/viewthread.php?tid=2447003&rpid=4104736&ordertype=0&page=1#pid4104736  

  3月1日中午,海南岛近现代史研究会负责人佐藤正人先生、金静美女士、大阪产业大学齐藤教授、大阪桃山学院久保井教授和日本友人竹本昇先生等一行五人在海南网友邢公(担任翻译)、陈先生(司机兼翻译)和负责摄影录像的青龙剑、俞海军的陪同下,前往乐东黄流东金鸡岭采石场调查当年日军侵琼罪行。
  根据日本海南岛近现代史研究会人员掌握的资料,认为黄流机场的军事工事的石料来自金鸡岭采石场。。。
                                     青龙剑
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【第19次来海南調査日軍侵瓊罪行】 4 楽東黄流机場

2011年03月20日 | 海南島史研究
http://nanhai.hinews.cn/viewthread.php?tid=2446149&rpid=4101107&ordertype=0&page=1#pid4101107

  1940年4月,日军控制海南岛后,为了把海南建设成为向华南战场和西南战场进行空袭的航空基地及向南入侵东南亚各国的战略基地,决定在海口、三亚、黄流设立南进军用机场,在陵水、北黎、潭牛、加来四地修建应急练习用基地(随着战局的变化没有完成),培训航空队解决自身兵力的不足。黄流机场番号为“航空十三基地”,日军拆毁了新荣、官园、赤龙、茅坡、酸梅头、多能、海棠、小村等24个村庄的6950多间民房,建成占地5平方公里的黄流机场。机场四周设有壕沟和铁丝网,机场内设有指挥塔楼、地下仓库、飞机库、炸药库、雷达站、电厂、暗堡、兵营、医院以及慰安所等。抗日战争期间,日军的战斗机多次从机场起飞,轰炸广西南宁等地的中国空军基地和滇缅战略运输线。

  3月1日上午,海南岛近现代史研究会负责人佐藤正人先生、金静美女士、大阪产业大学齐藤教授、大阪桃山学院久保井教授和日本友人竹本昇先生等一行五人在海南网友邢公(担任翻译)、陈先生(司机兼翻译)和负责摄影录像的青龙剑、俞海军的陪同下,前往乐东黄流机场调查当年日军侵琼罪行。
  当我们从海榆西线拐进新荣村,来到昔日的黄流日军机场时,眼前是一片宽阔的蔬菜大棚和水稻田。我们直奔不远处的一座两层塔楼,目前的主人是来自山东潍坊的王常利,今年41岁,是这片蔬菜大棚的承包户,他向我们介绍了机场周边的环境。
  原营地除了这座2层的指挥塔楼外,还残留下一座3层的机场指挥办公楼,机场水泥跑道已经成为宽阔的车道和晒谷场,在跑道西北侧的稻田里还裸露有20多处水泥工事。对照那份兵力布防图,应分别是地下仓库、防空掩体、机场暗堡、气象站及水塔等遗迹。
  询问了稻田插秧的老农,他们说在赤龙溪、芒坡村口旁还有一些堡垒,另外腰果厂后面还有一水塔,当时机场的用水是从利国望楼河取水,入秦标村水塔后,直通水管至机场。这些是目前我省遗留下来作为日军铁蹄蹂躏过海南岛的铁证之一。
                                      青龙剑
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【第19次来海南調査日軍侵瓊罪行】3 三亜朝鮮村

2011年03月19日 | 海南島史研究
http://nanhai.hinews.cn/viewthread.php?tid=2443728&rpid=4098764&ordertype=0&page=1#pid4098764

  关于“三亚朝鲜村”,我以前有所了解:
  1943年,日军从朝鲜半岛抓来一批朝鲜政治犯,以“朝鲜报国队”命名,强迫他们修鉄路、建机场、挖隧道、采铁矿。1945年8月15日,日本天皇宣布无条件投降。日军为隐瞒暴行,于9月将1000多名朝鲜劳工诱骗到荔枝沟南丁附近山麓,进行惨绝人寰的大屠杀,尸体便埋在一片荒坡上的大坑里,史称“千人坑”。为纪念这段悲惨的历史,当地政府和人民将此地命名为“朝鲜村”,一直沿用到1975年才改为“三罗村”。
  现居美国的韩国人张达雄是唯一逃生者。1998年6月,他带领韩国KBS电视台记者到朝鲜村制作节目,在“千人坑”遗址上找到了七具韩国劳工遗骸。同年8月,在海南从事农业开发的韩国信宇公司老板申在弘(媒体译为“徐在弘”)在韩国偶然看到KBS电视台摄制的这段历史片,十分震惊。这位韩籍外商返回海南后,专程去趟三亚南丁,查找到了累累白骨的朝鲜劳工殉难遗址——“千人坑”。并于9月1日在殉难遗址处用中、韩两国文字立起三块色“日寇时期受迫害朝鲜同胞死亡追慕碑”,供来华的朝鲜人凭吊。
  1999年底,为了追慕同胞,申在弘计划在“千人坑”处建成“中国海南岛朝鲜人慰灵墓”地,出资保护三亚朝鲜劳工殉难遗址。并将周边150亩荒坡与南丁三罗村签订了30年承租荒地协议,对该朝鲜劳工殉难遗址进行保护性开发。
  2000年1月,申在弘又从韩国请来八位人骨专家和韩国记者,对“千人坑”尸骨进行部分考证。两个月来,共挖掘出109具朝鲜劳工遗骸。部分尸骨手腕处还戴着铁制手铐,头骨上被钉入粗铁钉。申在弘将其中104具遗骸烧成骨灰,装入骨灰罐,储藏在骨灰室内。另5具代表性遗骸分别安放在“迎乐斋”石屋内的五口玻璃棺内,准备等所有遗骨挖掘出土后集中掩埋。

  2011年2月28日上午,在海南网友邢公(担任翻译)、陈先生(司机兼翻译)和负责摄影录像的青龙剑、俞海军的陪同下,海南岛近现代史研究会负责人佐藤正人先生、金静美女士自2003年之后再次来到三亚南丁三罗村调查当年日军侵琼罪行,同行的有来自日本的大阪产业大学齐藤教授、大阪桃山学院久保井教授和日本友人竹本昇先生。
  然而,跃入我们眼帘的场景却是一片荒凉,慰灵墓碑的周边是齐腰高的枯草;“迎乐斋”石屋的大门紧锁着,锁头已锈迹斑斑;骨灰室的纱门也破旧不堪;当年挖掘出朝鲜劳工遗骸的“千年坑”已成为三亚高速绕城公路工程公司制作排水沟预制板的工地……种种迹象表明申在弘的计划似乎已经停顿。
  为什么?我带着疑问,询问周边的住户,终于找到负责看守“千人坑”的林旺财及村民林学东。据了解:几年前,三亚市政府×部门以“尸骨不能确定为朝鲜人”为由,而不同意对遗址进行保护性开发,“碑,就维持现状”,雇员林旺财“也有两三年没有拿到老板的工资了”。可见,韩国商人申在弘的开发计划已经停止两三年了。林旺财还提供了新的信息:原先这里由我保管,“迎乐斋”石屋的“钥匙也在我手里”。自从去年7月,风力达12级的“康森”台风登陆三亚,“掀翻了屋顶,后来老板派人维修后,钥匙就拿走了。”
  三亚朝鲜村,是日军侵略海南岛期间杀害和奴役数万名国内外劳工的遗址之一,是日军侵华罪恶的历史见证地。建议海南省文史考古部门对其尸骨定性后,如同田独“万人坑”和八所“万人坑”一样,将其列为海南省省级文物保护单位,以成为进行革命传统教育和爱国主义教育的课堂。
                                       青龙剑
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三重県・熊野市を被告とする訴訟手続きを済ませました

2011年03月18日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、きょう(3月18日)、午後2時から、津市市民活動センター会議室で、新聞社・通信社記者、テレビ記者に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場への三重県と熊野市の課税取消しを要求する訴訟提起について報告し、質疑にこたえたあと、午後3時半に津地方裁判所で提訴手続きを済ませました。「裁判」(口頭弁論)は、数か月後に開始されます。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国江原道議会議員一同の三重県にたいする「嘆願書」を知事に渡すために三重県庁に行きました。三重県政策部知事室の阪三雅人副室長と三重県総務部税務政策室の紀平洋副室長が応対しました。
 江原道議会議員一同から三重県知事に渡すことを委託された「嘆願書」とその日本語訳文を、知事に必ず渡すようにと、わたしたちは言いました。
 それにたいし、阪三雅人副室長は、
    「この「嘆願書」は、担当する部署に渡す。知事に直接渡すかどうかは、担当する
   部署が判断する。知事のところまで届けす、担当部署で処理することもある」
と答えました。
 3時50分から5時10分まで、1時間20分の話し合いのなかで、阪三雅人副室長は、「嘆願書」を必ず直接知事に届け、知事が江原道議会議員一同に返信するようにすると約束しました。
 きょう提出した「訴状」の結論部で、わたしたちは、つぎのように述べています。
                                 佐藤正人
     
    2010年3月28日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑が除幕された。
    「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。父母
   とともに来て亡くなった子どもたち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで、命を
   失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」と
   記された追悼碑の前には、犠牲者35人の名前を記した35個の石が置かれていた。
    紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立したのは、朝鮮人と日本人であ
   る。
    本件原告も朝鮮人と日本人である。
    朝鮮の故郷から強制連行され、紀州鉱山で命を失った朝鮮人を追悼する意味
   は、朝鮮人と日本人では同じではない。しかし、朝鮮人も日本人も、共に、「な
   ぜ、みなさんがここで、命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴
   史的責任を追究していきます」と犠牲者に約束している。
    本件土地の公共性は、朝鮮人と日本人の歴史的諸関係にかかわっている。韓国
   江原道議会議員一同が、「追慕碑の敷地にたいして、“公共性がない”と言う理由
   で課税したという話に接しました。これは、非常に不当な処分であり、残念に思い
   ます」と述べているのもそのためである。
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【第19次来海南調査日軍侵瓊罪行】2 万寧月塘村

2011年03月17日 | 海南島史研究
http://nanhai.hinews.cn/viewthread.php?tid=2442498&rpid=4093432&ordertype=0&page=1#pid4093432

  2月27日上午,海南岛近现代史研究会负责人佐藤正人先生、金静美女士、大阪产业大学齐藤教授、大阪桃山学院久保井教授和日本友人竹本昇先生等一行五人在海南网友邢公(担任翻译)、陈先生(司机兼翻译)和负责摄影录像的青龙剑、俞海军的陪同下,前往万宁月塘村调查当年日军侵琼罪行。
  中午,我们首先来到月塘村“朱氏祖祠”旁的“ 3.21惨案纪念碑”前,碑是由海南岛近现代史研究会负责人佐藤正人先生和金静美女士的多方筹款下修建的,并于2008年4月26日举行了揭碑仪式暨悼念活动。
  1945年5月2日(农历三月二十一),鸡啼两遍,万城据点的日军派遣队和伪军300多人,由地主朱洪堂带路迅速把月塘村围个水泄不通。天刚亮,日军闯入村中,逐户搜捕屠杀,村民有的被枪托砸死,有的被刺刀捅死,有的被利剑砍成3段,有的村民拼死外逃被机枪射死。
  村民朱学平家8口人,全遭残杀;朱学绪家9口,死去7口;朱玉经一家13口全部被杀死。。。
  村民朱学庄不满周岁的儿子,被日军抓住向上一抛,用刺刀迎着一挑,稚嫩的身躯被刺穿,摔在地上,脑浆四溅。。。
  在村里,我们遇到77岁的朱光清,当时只有19岁,在家门口,他的手足胸腹被日军刺伤5处,至今仍留有深深的伤疤。。。
  朱建华在自家门口控诉日军残杀他家六口人,自己当时还是个不懂事的小孩子,身上也被鬼子刺刀捅了四刀,说着就脱去上衣,露出腰部深深的伤疤。。。
  在近4个小时时间里,月塘村有190人被无辜杀害,伤33人。全村房屋被焚烧70多间,被抢去耕牛10多头、肥猪30多只,凡值钱的东西被洗劫一空。
  为了铭记这次惨案,月塘村民将这一天定为“亡日”,举行祭奠,一则永远悼念遇难亲人,二则警策世人,勿忘国耻,不让历史悲剧重演!
                                     青龙剑
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【第19次来海南調査日軍侵瓊罪行】1 海口東山鎮

2011年03月16日 | 海南島史研究
 http://nanhai.hinews.cn/thread-2438053-1-1.html

 2011年2月25日夜,海南岛近现代史研究会负责人佐藤正人先生第19次来海南调查日军侵琼罪证,同行的还有海南岛近现代史研究会负责人金静美女士、大阪产业大学齐藤教授、大阪桃山学院久保井教授和日本友人竹本昇先生等。
 2月26日上午,一行五人在海南网友邢公(担任翻译)、陈先生(司机兼翻译)和青龙剑(摄影)的陪同下,前往海口东山镇调查当年日军侵琼罪行。出发前,网友成有子专程往宾馆看望日本友人。
 在东山镇光明村许书轩先生(54岁)、龙山村陈秀花(81岁)、黄丕学(68岁)的帮助下,寻找到当年日军在凤山、昌尾修筑的炮楼遗址。当年才10岁的女童陈秀花控诉在修筑炮楼担土时遭受日军的虐待。
 下午,在卜正村邱敦伦老人(91岁)的帮助下,我们在马坡村找到当年13岁被日军抓去干苦役的陈信才(83岁)老人。他给我们讲述日军在南渡江渡口运输兵力的情景。。。
                                      青龙剑


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韓国江原道議会議員一同の「嘆願書」

2011年03月15日 | 紀州鉱山
 昨年12月5日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどいに、江原道麟蹄郡から紀州鉱山に強制連行された丁榮さんの子の丁炳碩さんと孫の丁乙權さんの友人の金良圭さんが参加しました。
 そのとき、追悼の場に三重県と熊野市が課税してきていると話すと、丁炳碩さんは、このことを、江原道庁や麟蹄郡庁や江原道内に13個ある文化院などに伝え、対処していくと語りました。
 今年2月28日に、韓国江原道議会議員一同は、三重県と熊野市に「追悼碑の敷地にたいする課税を考え直してほしい」という「嘆願書」をだしました。その全文と、その日本語訳文は、つぎのとおりです。
 金良圭さんは、いま、追悼碑の場への課税問題に対処する民間での運動を準備中です。


■탄 원 서
 먼저, 일제에 의해 불법 강제로 징용되어 먼 이국에서 억울하게 돌아가신 조선인 (한국인)영혼에 대하여 삼가 조의를 표하고 명복을 빌며, ‘기주광산의 진실을 밝히는 모임‘의 활동에 감사드립니다
 우리는, 일본 구마노시와 미에현이 일제 강제징용 피해자들을 위해 ‘기주광산의 진실을 밝히는 모임‘에서 세운 추모비 부지에 대해 미에현과 구마노시이 “공공성이 없다”는 이유로 과세했다는 소식을 접하고 심히 부당한 처분으로 이에 유감을 표한다.
 늦었지만 지금이라도, 그들의 억울한 죽음과 외로운 혼을 달래주고, 양국의 보다 넓은 화해와 우호의 차원에서 추모비 부지에 대한 과세를 재고해 줄 것을 정중히 요청한다.
   2011년2월28일
            대한민국 강원도의회 의원일동


■嘆願書
 さいしょに、日本により、不法的に強制徴用され、遠い異国で無念に亡くなられた朝鮮人(韓国人)の魂にたいして、冥福を祈り、“紀州鉱山の真実を明らかにする会”の活動に感謝します。
 わたしたちは、日本の熊野市と三重県が、日帝強制徴用被害者たちのために“紀州鉱山の真実を明らかにする会”が建てた追慕碑の敷地にたいし、“公共性がない”という理由で課税したという話に接しました。これは、非常に不当な処分であり、残念に思います。
 遅くなりましたが、いまからでも、彼らの無念な死と孤独な魂を悼み、両国のより広い和解と友好の次元で、追慕碑の敷地にたいする課税を考え直していただけるよう、要請します。
   2011年2月28日
             大韓民国 江原道議会 議員一同、
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「英国人墓地」というものはなにか

2011年03月14日 | 紀州鉱山
 「英国人墓地」についての質問にたいする熊野市の回答文をみますと、何点かの疑問点が浮かんできます。

■疑問点1.「英国人墓地に灰を埋めた」と言われている灰について
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が、2009年9月11日付で熊野市にたいして質問した「『史跡 英国人墓地』にイギリス兵の遺骨は埋葬されていますか」について、2009年10月16日付の熊野市の回答は、
    「第2次世界大戦中に旧紀和町で亡くなられた16名の英国人捕虜の方を埋葬して
   いた場所にあったイギリス兵の遺骨は、戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されて
   おり、現在の英国人墓地には埋葬されておりません。また、1981年(原文「元号」
   使用)頃に現在地に移設する際に、元の場所を重機で掘り起こしたところ壺が発見
   され、中に灰が入っていたため、壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋めたと聞
   いております」
となっています。
 この回答では、「現在の英国人墓地には埋葬されておりません」と断定しながら、「壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋めたと聞いております」と伝言形式で記述されているため、私たちは再度、2010年2月1日付で、「現在の英国人墓地“に埋められているという灰”は、イギリス兵の遺骨の灰ですか」と質問しましたが、今になっても熊野市はこの質問に答えようとしません。
 1965年に文化財指定し、1981年に移設され、1987年に所有者が変更されているのですから、熊野市文化財保護条例にもとづき、「移設」と「所有者の変更」にともなう適切な措置が講じられなければなりません。この灰“が、なぜイギリス兵の遺骨の灰”であると答えることができないのか、この点について、熊野市に明らかにしてほしいと思います。

■疑問点2.「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」の碑の建立に、熊野市(旧紀和町)はまったく関与しなかったのでしょうか。
 「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された碑の最後の行に、「1987年6月(原文「元号」使用)吉日 紀和町教育委員会」と刻まれています。
 熊野市が答えるように「1981年に紀和町の住民の方が個人で作ったもの」であったとしても、1987年6月の碑の建立に熊野市(旧紀和町)が、まったく関与していないということは考えにくいことです。
 この碑を見るかぎり紀和町がかかわったと判断されることから、このことについても、私たちは2010年2月1日付で、再度、熊野市に「この碑文に『紀和町教育委員会』と署名されていますが、この碑の建立には、紀和町教育委員会は、まった関与していなかったのですか」という質問をしましたが、熊野市は答えようとしません。
 関与したことが明らかになると「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑」の建立は公共性を有しないと主張する熊野市みずからの基盤が維持できないからなのでしょうか。 
 ぜひ、熊野市にこの質問にも答えてもらいたいと思います。
                                     竹本 昇

■補記 
 熊野市指定文化財「英国人墓地」についての紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が、2009年9月11に熊野市市長と教育長におこなった9項目の質問全文と、それにたいする10月16日付けの熊野市濱口幸治熊野市教育委員会社会教育課長からの回答の全文は、『会報』第52号・第7号(2009年11月4日発行)に掲載してあります。
 「英国人墓地」の碑文版には、
    「神のより偉大な栄光のもとに、1941年から1945年の戦争中、ここ板屋、あるいは
   その附近で逝去した英国兵士を追想して」
という意味の追悼文がイングランド語で記されています。この碑文は、この「英国兵墓地」が、「墓地」ではないことを示しています。
 それにもかかわらず、『紀和町史』下巻(1993年3月、紀和町発行)には、「英国人16名の霊が眠る墓地(所山)」という写真が掲載されており、
    「16名は、異郷で故郷の空を慕いながら寂しく病没した。現在所山の英国兵墓地
   に葬られ十字架の墓標の下に眠っている」
と書かれています。
 熊野市は、「英国人墓地」を「1981年に紀和町の住民の方が個人で作ったもの」と言っていますが、すでに1965年に文化財指定されているのであって、「個人で作った」という説明はなりたちません。「英国人墓地」問題には、さまざまな虚偽が内包されています。
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訴状の構成

2011年03月13日 | 紀州鉱山
 3月18日に津地方裁判所に提訴する訴状で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、朝鮮人を追悼する場は私有地ではなく、公共の場であり、課税されるべき土地ではないという、あたりまえのことを主張し、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働に歴史的責任をもつ三重県と熊野市がその土地に課税することが、どれほど悪質な行為であるかを詳細に分析・提示しています。
 以下は、対三重県訴状(「不動産取得税賦課処分取消請求事件」)と対熊野市訴状(固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件)の構成です。

■対三重県訴状の構成
 第1 請求の趣旨
 第2 請求の原因
  (一) 本件「不動産取得税賦課処分」に対する「不服審査請求」が「棄却」に至った経緯
     1)本件土地取得に先立つ事情
     2) 原告の「不動産取得税減免申請」を文書で受理しなかった処分庁の対応
     3) 三重県知事の『裁決書』に見られる責任回避の姿勢 
  (二) 原告らが取得した本件不動産は、非課税あるいは免税が相当であること
     1)「保安林」と「墓地」が非課税であること
     2)「墓地」と「追悼碑建立の地」の共通点は公共性である
     3) 本件「追悼碑建立の地」の歴史的背景と熊野市の事情
  (三) 結論 「追悼碑建立の地」には、二つの公共性がある

■対熊野市訴状の構成
 第1 請求の趣旨
 第2 請求の原因
  (一) 本件「2010年度固定資産税賦課処分」及び「減免不承認処分」に対する「異議
   申立」が「棄却」に至る経緯
    1)本件土地取得に先立つ事情
    2)本件固定資産税の「減免申請」が「不承認」となり、「異議申立」が「棄却」とされ
     た事実
  (二)被告熊野市の公共性判断における二重規準
    1)被告熊野市が、「英国人墓地」を指定文化財として管理している事実
    2) 原告らの「朝鮮人の追悼碑建立用地提供の要望」に対する熊野市の理由不
     明の拒否
    3) 原告が求めた「固定資産税減免申請」に対する「不承認の理由」、及び、「異議
     申立」に対する被告の「棄却理由」の意味不明について
  (三)原告らが取得した本件不動産は、非課税あるいは免税が相当であること。
    1)「墓地」が非課税であること
    2)「墓地」と「追悼碑建立の地」の共通点は公共性である 
  (四)結論 「追悼碑建立の地」には、二つの公共性がある 
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集会と提訴延期のお知らせ

2011年03月12日 | 紀州鉱山
 福島原子力発電所の破局的崩壊が進行しているようです。
 明日(3月13日)開催する予定であった、紀州鉱山の朝鮮人「追悼の場」への課税に抗議する集会は、延期することにしました。
 明後日(3月14日)午前10時に予定していた津地方裁判所への熊野市と三重県を被告とする訴状提出は、3月18日(金曜日)午後3時に変更しました。熊野市を被告とする訴訟提起期限が3月21日(休日)なので、3月18日が期限日になります。
 訴状提出に参加してくださるかたは、3月18日午後2時までに、津市中央3番1号の津地方裁判所庁舎(A館)正面西出入口に来てください。午後2時から同所で、記者会見をおこないます。
 また、この日、提訴後、三重県庁に行き、三重県知事に江原道議会議員一同の「嘆願書」を渡します。この「嘆願書」は2月28日にだされたもので、「追悼碑の敷地にたいする課税を考え直してほしい」という内容のものです。
 延期した、紀州鉱山の朝鮮人「追悼の場」への課税に抗議する集会は、第1回裁判(口頭弁論)の直前に開催することを検討中です。
 決定しだい、あらためてお知らせします。みなさんの参加をお待ちしています。
 ご質問などは、竹本昇 t1950@lilac.ocn.ne.jp に寄せてください。

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