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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

沙土の欽帝村で 4

2011年03月25日 | 海南島
 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれました。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、ここだ、といいました。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示しました。そのあたりには、10人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたそうです。
 その近くに石でつくられた家がありました。その家は、当時もあったとのことでした。石組みのしっかりした家で、人は住んでいませんでした。その家の前から、虐殺現場が見えました。
 そのあと、王徳林さんたちが、逃げて隠れた地点に案内してもらいました。
伺堂の前の道を右にそれ、大きな樹木の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えました。その竹林の奥に隠れたそうです。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたそうです。
 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近い自宅そばの豚小屋の前で、王徳信さん(1954年生)は、「兄が日本兵に腹を切られてまもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞いた。父は銃剣で3回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。姉は日本兵に強姦されて殺された」と話しました。

 日本政府は、海南島沙土での日本政府と日本軍の犯罪記録を公開していません。当時、沙土地域を占領していたのは、日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の部隊でした。
 海南島においても沙土虐殺にかんする記録・報告は、わずかです。いちばんくわしいのは、澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころ編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている、温家明・温明光口述(曾憲富、呉可義、雷登華整理)「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」です。
 2003年8月20日に新華網は、沙土虐殺にかんする「目睹大 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」と題する記事を配信しました。そこには、つぎのように書かれていました。
                                     佐藤正人

  1941年6月,海南澄邁縣橋頭鎮沙土村一帶的10個村莊中1116人喪生在日偽軍的屠刀下。聖眼村現年84歲的溫明光老師被砍了17刀後死裡逃生。為了記下日本鬼子在海南犯下的滔天罪行,當年的溫明光老師將鬼子所欠下的債一筆一劃地記了下來,並一直保留在身邊。近日,為教育後代勿忘國恥,溫老翻開了那塵封了62年的記載著日本鬼子所欠中國人民血債的本子,流淚向記者講述了當年他所目睹的大經過,希望媒體將之公諸於世。
■禍起偽軍百姓遭殃
  溫老對記者說,日本鬼子侵略中國,海南島淪陷時期,臨高縣新盈港有個大漢奸叫林桂深,是全島偽軍的總司令。1941年春節前,林桂深為了發財,經常用一艘大帆船載滿本地特產經海口出售,再從海口市辦貨回新盈。這樣來來往往終被當地的國民黨軍察覺,便派幾艘快帆船滿載兵丁,將林桂深大船上的貨物搶劫後並將大船沉到了大海裡而後返回聖眼灣(今名太陽灣)。
  溫老回憶說,當時,洗劫大船的兵丁中有一個臨高人,因為分贓不平,便私自逃回臨高,投入林桂深部下,當起了偽軍排長。為了立功,就把搶劫大船的經過全部告訴了林桂深。林桂深為了報自己的大船被劫之仇,即向新盈日本司令報告,稱搶劫大船的盜賊全駐在澄邁沙土一帶,要求日本司令派兵剿滅。這下日本鬼子找到了掃蕩的借口,遂立即出兵,進行清剿。
■奸殺婦女刀砍青年
  1941年農歷閏六月十二日上午,鬼子偽軍約600人從海陸兩路把沙土沿海一帶十個村莊包圍起來,隨即展開了一場大,“那場面真慘啊”,幾十年過去了,溫老想起那血腥的場面,仍腿腳發顫。
  溫老激動地說,鬼子殺人的方式多種多樣,並且在各個村莊裡實施的方式都不同。鬼子偽軍到一些村莊時,先把村裡的人民群眾集中起來,選擇青年婦女進行強奸,然後用刺刀刺進婦女的陰道,慢慢地弄,直到弄死為止。弄死了婦女後,再對全村的群眾進行殺戳,直到殺死為止。在有一些村莊則是把全村的人集中起來,先把體強力壯的青年用繩子縛實,強迫跪下,再由鬼子隊長拿大刀一個一個地斬頭,斬一個,鬼子就鼓一次掌。
■假言開會集中掃射
  溫老接著說,日本鬼子當時把有些村莊的男女老少集中起來,分到幾個庭院,強迫這些人全部面向土牆跪著,每人後面站著一個端著刺刀的鬼子,鬼子首長一聲令下,鬼子手中的刺刀就一直刺向每個村民的背心,一直刺到沒人顫動為止。有時都把全村的人關入房內,前後門口都站著幾個拿槍的鬼子,再由鬼子隊長和通日官拿戶口冊點名,兩人一次地驗證。鬼子隊長騙人說是交出良民證放回家,其實,這些村民一走出房門,即有另外4個鬼子接過去拖到別處刺死,這樣兩人一次地殺死,全村的人死完了也不知道。
  說到這裡,溫老已經老淚縱。他說,更讓人心顫的事,日本鬼子在有的村莊把全村人集中起來,到庭院坐好,假言開會,人到齊後即用機關槍掃射,直到人死完為止。
■孩子當靶子老人當球踢
  溫老痛哭道,當時日本鬼子進村時,遇到小孩,竟用刺刀穿起來向天空旋轉,然後用力拋出去,一聲聲慘叫震驚村莊。更讓人痛心的是,日本鬼子竟把老人當球踢,你一腳踢來,我一腳踢去,如同踢足球一般,一直到老人斷氣為止。
  當日本鬼子把10個村莊的人殺光後,便到田野外面和海邊進行搜尋,把抓到的人押到漁船上集中,然後拿起機槍掃射,再鑿穿船底,把船沉到海裡。
■一日內殺死1116人
  當記者問這次大中,這10個村莊的死亡人數時,溫老顫抖著手從箱中拿出了一個記事本,那上面有溫老對這次大的死亡人數記錄,記者現把溫老記載的死亡人數公布如下:昌堂村147人,美梅村45人,那南村52人,昌表村62人,北山村158人,上帝村2人,聖眼村256人,文旭村62人,福留村265人,欽帝村67人。
  不到一天的時間,日本鬼子就在沙土這一帶的村莊殺害了1116人,傷者不知其數。其中的聖眼村中有45戶被滅絕,真是慘無人道。日本鬼子殺戮完後,在外逃命的村民還久久不敢回家;沙土一帶臭氣衝天,鬼哭狼嚎。
■身砍17刀死裡逃生
  據溫老回憶,大的那一天,他正在聖眼村的學堂中教書,當時學校裡面有60個小學生。突然,一批日本鬼子從外面湧進來,將學生關在一間房內,然後將老師用馬刀猛砍,他身中17刀後倒在血泊之中,鬼子踢了他幾腳,以為他死了,就離開了。然後將關在房中的60名小學生全部用馬刀殺死,鮮血染紅了整個學校。
  過了一天後他堂哥從外面回來,看到他還在動,就把他抱到山上,用酒洗傷口,找草藥治療,慢慢他竟奇跡般地活了下來。他傷還未好,就到各個村莊找幸存者了解這次大的情況,用心記錄了這段泣血的歷史。
■四個月後再次掃蕩
  10個村莊1116人死去還不到4個月,鬼子又再次將沙土一帶的13個村莊包圍,好在村民跑得快,死傷不多,但損失卻慘重。
  溫老說,同年農歷10月中旬的一天夜晚,花場偽會長漢奸王希智引金江的鬼子和偽軍,纔芳村、馬村的鬼子一同把沙土13個村包圍得水洩不通,這次來的鬼子見人就殺,見物就搶,把沙土各村的牛、羊、豬、雞、鴨、鵝、金銀衣服布匹等一律搶光,屋內的缸、鍋、碗、盤通通打碎,然後放火燒屋。小美良村燒得最慘,一片瓦片都沒留下,木春村和富裡村也燒去70%以上。所存下的房子都是鬼子走後,村民回來從大火中搶過來的。
  這次鬼子在富裡村打死6人,在聖眼村打死8人。
■重溫歷史勿忘國恥
  講完62年前這慘烈的一幕,年邁的溫老已是老淚縱,他說,為了讓後代了解當年恥辱,他從前經常到澄邁的各學校講述這段歷史。
  現在自己老了,而當時見證這段歷史的人活在世界上也已經不多,為了讓後代“勿忘國恥”,作為歷史的見證人首先想到的是將這段歷史形成文字,教育子孫後代,銘記於人們心裡。
  
  【写真】溫明光老人給記者翻看記錄著日軍血債
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