三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 12

2013年12月09日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島で 9 浪炳村の犠牲者2
 ことし3月28日に続いて、わたしたちは、10月27日に浪炳村を再訪した。
 趙志賢・世東・王文卿整理「日寇在浪炳村的暴行」には、日本軍に殺された浪炳村の村民は36人であるとし、その36人のうち、李宏欣さん、鍾仁慈さん、李照奇さん、鍾景依さん、李開恒さん、李仁秀さん、李國球さん、洪芝芬さん、庄其受さん、蒙子性さん、李開漢さん、呉資生さん、郭福昌さん、李國輝さん、鍾茂舅さん、李徳良さん、梁再寧さん、梁昌亮さん、符開紀さん、鍾仁周さん、鍾仁端さん、李仁専さん、李仁基さん、李仁親さん、李仁珊さん、鍾良輝さん、呉其興さん、鍾必光さん、鍾黒口さん、李三小さんの30人の名が記されている。
 
 わたしたちは、3月28日と10月27日に、浪炳村の書記(村長)の李宏安さんと村人に、その36人のことをたずねた。
 その結果、つぎのことがわかった。
 「日寇在浪炳村的暴行」に日本軍に殺害されたと書かれている李仁秀さん、鍾仁周さん、李仁珊さんは、日本軍によってでなく、国民党軍に殺された。李仁秀さんは、李宏安さんの父であり、日本敗戦後、1949年に、37歳のときに国民党に殺された。
 李開漢さんは蒙開漢さん、梁昌亮さんは梁昌深さん、李仁親さんは李仁烈さん、呉其興さんは呉其欣さんの誤記。
 呉其興さんと鍾必光さんは日本軍に殺されなかった。郭福昌さん、李國球さん、洪芝芬さん、李照奇さんは、浪炳村の村内でなく、保平に連行されて保平で殺された。
 梁再寧さんは、梁家学さんの父だった。梁家学さんは、3月28日に、
   “みんな逃げたとき父もいっしょに逃げて、隠れていたが、日本兵に見つかって殺された。
   銃で撃たれたあと、銃剣で刺された。32歳だった。そのとき家族は、父、母、わたしの3人
   だった。母は弟を妊娠していた。わたしは4歳だった”
と話した。
 李徳良さんは李開見さん(1928年生)の父だった。李開見さんは、10月27日に、つぎのように話した。
   “わたしの父は、日本軍に殺された。父が殺された時、わたしは山に逃げていたので、父が
   どのように殺されたのかは知らない。母が自分を連れて山に逃げた。父は32歳だった。父
   とともに、父の妹が村で捕まって、河のほとりで強姦されて殺された。30歳だった、結婚して
   いなかった。共産党の婦人組織の責任者だった。遺体は地中に埋めただけで墓はない。
    日本軍がいなくなった時、わたしは村にいた。日本軍がいなくなったのはうれしかったが、
   父親を失ったので悲しかった”。

 中共昌江黎族自治県委党史辧公室編『昌江英烈傳』(1989年5月)に、浪炳村に生まれ育ち抗日闘争に参加した蒙開仁さんの伝記(符開梅収集整理)が収録されている。また、海南省昌江黎族自治县地方志编纂委员会編『昌江県志』(新华出版社、1998年6月)には、蒙開仁さんについてつぎのように書かれている。
  ■蒙开仁 (1911—1946年),昌江县昌城乡浪炳村人,是中共浪炳村党支部的创建者和领导者。幼时曾在浪炳村念过私塾。“七·七”事变后,他积极参加抗日救亡活动,不久加入中国共产党。任过大光乡、旦光乡(三个乡合并)、新荣乡民主政权乡长、党总支委、昌一、三联区区员等职务。
1938年5、6月,蒙开仁根据区委的指示和部署,与郭天元、谢宗、李鸿勋等联合发动大光乡各村保、甲长,揭发大光乡国民党乡长李赞堂和两名副乡长的贪污勒索罪行,迫使三个正副乡长辞职。
  1943年3月至6月,蒙开仁同郭天元先后两次组织6个青年,夜间潜入昌城敌据点行刺日军马队,刺死军马4匹,伤多匹,给日军很大打击。
  1943年8月,与吉克强组织旦光乡自卫队配合县挺进队,围攻国民党反动派盘据的靛村据点,击毙国民党顽固分子郭金良。同年10月,三家村的国民党反动头子赵履尊和赵赞漠等率100多人到浪炳村打劫,抢走200多头耕牛。蒙开仁接到情报后,立即和吉克强分头到附近的各村庄组织民兵自卫队和群众,兵分四路夹攻敌人。敌人闻讯丢下耕牛仓煌逃跑。同年12月,国民党反动头子张焕球率领100多人驻扎靛村,掠夺民财,为非作歹。蒙开仁组织大光乡的民兵配合部队围攻敌据点,迫使张焕球撤离。
  1944年6月,蒙开仁又再次率领大光乡的自卫队去围攻盘据在靛村的顽敌,击毙顽匪“地头蛇”钟红(旧县村人),迫使盘据在靛村国民党顽匪不得不将据点搬到大风村去。
  1946年,蒋介石发动全面内战,国民党46军渡琼抢劫抗战果实打内战,大光乡政权被破坏。根据县委的指示,蒙开仁率领大光乡的党员和村干部撤退到山区的芦古村一带隐居待命。后党组织派蒙开仁潜回大光乡开展活动。4月的一天,蒙开仁与地下党组织的有关人员,在光田村附近的坡地上集合,不幸被判徒张天荣杀害。张天荣残忍地割下蒙开仁的头颅,提到大风村献给其主子。蒙开仁同志牺牲时,年仅35岁。
                                          佐藤正人
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