三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 10

2007年09月14日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■6(続2)、韓国での証言、犠牲者の故郷の現風景
映像:証言する呂且鳳さん(2007年7月17日、20日)
テロップ:呂且鳳さん(1913年生)

光州刑務所に入れられていた
まもなく出獄するという時
看守が来て、どこかに行けという
行きたくないといったら
ここから出さないという
かぎをかけてしまって、どうしても行けという
行かないわけには行かない
光州刑務所から5人
第7次「朝鮮報国隊」だった
光州からソウルに行って、それからプサン
プサンから船にのってコクラ刑務所
人が多かった。2日間そこで寝た
ヤハタからまた船にのった
何百人か知らないが、ひとがおおぜいいた
女たちもいるし、男たちもいた
海南島では木造の飯場、一部屋8人ずつ
朝から飛行場作りの仕事
5時になったらもどる
たくさん死んだ
マラリア、熱病、餓死
朝の点呼の時、弱って仕事が出来なくなった仲間はどこかに運ばれていいった
どこでどうなったのか
二度と戻って来ない人が多かった
列を作って飛行場に行く途中
山の中で、坐ったまま木に縛りつけられている死体を見た
揮発油をかけて焼いたらしく、死体の腹から腸がとび出ていた
食べ物がなかった
わたしは、コメを盗んだ
それを食べたといって、さかさに吊るされて殴られた
殺されそうになった
3人の日本兵から死ぬまで殴ると言われ、逆さまにぶら下げられた
頭も顔も身体も滅多打ち
血まみれになった
殴られて口がこんなにまがってしまった
ドラム缶の小便桶のそばにくくりつけられた
頭の方から小便が流れてきて、濡れるままだった
動くことができなかった
同胞が水を運んでくれ、ワカメ汁も作ってくれて、それで生きた
(解放を聞いて) 気分がよかった。みんな、踊った
朝鮮人は人民会をつくった

映像:第七次南方派遣隊職員編成表
テロップ:第7次「朝鮮報国隊」の看守名簿
     朝鮮総督府刑務所の用紙に書かれている
映像:衣笠一の手記『わが足跡(上)』の「海南島到着 陵水時代」
   →「朝鮮報国隊」、「台湾報国隊」にかんする部分を拡大
テロップ:衣笠一氏(1913年生)は、第7次「朝鮮報国隊」の隊長
     1946年に日本に戻った
映像:忠清南道大徳郡炭洞面 金本山雄(海南海軍施設部朝鮮報国隊所属)
   →「朝鮮報国隊」の部分を拡大して停止
ナレーション:「南方派遣報国隊」の看守として海南島に行った朝鮮人看守が、海南島で日本軍
      に編入された場合もありました。
映像:本願寺『教誨百年』上巻
テロップ:本願寺『教誨百年』上巻
     1974年4月刊
ナレーション:「朝鮮報国隊」には教誨師も同行しました。
       本願寺の渡辺智賢は、「朝鮮村虐殺」当時、海南島にいました。
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