きょう(2010年10月5日)、ソウルで、金永振さん(1924年11月15日生)と李西根さん(1923年1月14日生)から話を聞きました。
金永振さんと李西根さんは、鎮海にあった日本海軍の海兵団の「1期生」で、6か月の「訓練」のあと卒業し、卒業のときに「所属」が決められ、金永振さんは、日本海軍佐世保鎮守府第8陸戦隊に、李西根さんは日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に「配属」され、1943年夏に、海南島に向かわされたそうです。
鎮海から乗った船は、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で、魚雷をうけて沈没し、生き残った2人は、マニラからサイゴンに行ったそうです。
サイゴンのフランス軍基地の近くに1か月ほど滞在したあと、金永振さんは、数人乗りのジャンクで、李西根さんは50人乗りのジャンクで、海南島に向かったそうです。
金永振さんは、“サイゴンを出て海南島の三亜に上陸し、トラックで日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8陸戦隊の司令部があった嘉積にいった。それからずっと嘉積にいた。嘉積にいた日本兵は、毎日「討伐」に行ったが、朝鮮人のわたしは行かなかった”と話しました。
李西根さんは、“海南島の三亜に上陸し、日本海軍海南警備府舞鶴鎮守府第1陸戦隊の司令部があった那大にいった。那大に6か月ほどいたが、そのとき、五指山のほうに「討伐」に2回行った。交戦したが、こちらも向うも死んだものはいなかった。「討伐」は3日ほでで、山のなかで「野営」した。那大から澄邁に行き、澄邁から東山分遣隊の駐屯地に行った。東山には古い城が残っていた。その近くの山の上に石でつくられた3階建ての日本軍の望楼があり、そばに兵舎と食堂があり、周りは鉄条網で囲まれていた。東山では「討伐」に行かなかった。東山分遣隊にいた朝鮮人はわたし1人だけだった」と話しました。
佐藤正人
金永振さんと李西根さんは、鎮海にあった日本海軍の海兵団の「1期生」で、6か月の「訓練」のあと卒業し、卒業のときに「所属」が決められ、金永振さんは、日本海軍佐世保鎮守府第8陸戦隊に、李西根さんは日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に「配属」され、1943年夏に、海南島に向かわされたそうです。
鎮海から乗った船は、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で、魚雷をうけて沈没し、生き残った2人は、マニラからサイゴンに行ったそうです。
サイゴンのフランス軍基地の近くに1か月ほど滞在したあと、金永振さんは、数人乗りのジャンクで、李西根さんは50人乗りのジャンクで、海南島に向かったそうです。
金永振さんは、“サイゴンを出て海南島の三亜に上陸し、トラックで日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8陸戦隊の司令部があった嘉積にいった。それからずっと嘉積にいた。嘉積にいた日本兵は、毎日「討伐」に行ったが、朝鮮人のわたしは行かなかった”と話しました。
李西根さんは、“海南島の三亜に上陸し、日本海軍海南警備府舞鶴鎮守府第1陸戦隊の司令部があった那大にいった。那大に6か月ほどいたが、そのとき、五指山のほうに「討伐」に2回行った。交戦したが、こちらも向うも死んだものはいなかった。「討伐」は3日ほでで、山のなかで「野営」した。那大から澄邁に行き、澄邁から東山分遣隊の駐屯地に行った。東山には古い城が残っていた。その近くの山の上に石でつくられた3階建ての日本軍の望楼があり、そばに兵舎と食堂があり、周りは鉄条網で囲まれていた。東山では「討伐」に行かなかった。東山分遣隊にいた朝鮮人はわたし1人だけだった」と話しました。
佐藤正人
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