三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「銃殺された遺体、石で押さえた」7千人が犠牲になったコルリョンコルの73年

2023年06月29日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-06-29 08:45
■「銃殺された遺体、石で押さえた」7千人が犠牲になったコルリョンコルの73年
 李承晩政権の軍警による朝鮮戦争中の民間人銃殺 
 「弾丸で割れた頭、肉片が土の上に出ていた…」 
 慰霊祭、真実和解委員長と大田市長は不参加

【写真】1950年の朝鮮戦争勃発直後、大田市山内のコルリョンコルに連れて行かれ、両足首をつかまれ銃殺される直前の被害者。故イ・ドヨン博士が1999年末に米国立公文書記録管理局(NARA)で発掘した写真=資料写真//ハンギョレ新聞社

 1950年7月4日、イム・スンジェは生まれて100日が過ぎたばかりの娘の泣き声を背にして家を出た。「儒城(ユソン)警察署に出頭せよ」という通知に従わなかったら、後でどんな目にあうか分からなかったからだ。いやな予感がした。妻には「警察署に寄ってから出勤する」と言って、いつものように自転車に乗った。
 大徳郡(テドックン、現在の大田市大徳区)の懐徳面邑内里(フェドンミョン・ウムネリ)で生まれたイム・スンジェは、幼い頃から聡明で家族の期待を一身に背負っていた。本家に人手が足りなかったため養子に入ったが、伯父と伯母は彼を実の息子と考えていた。日帝強占期に鉄道学校を卒業した彼は、1944年に鉄道局に就職して順調な職場生活を続けていた。1950年4月に次長になった矢先に戦争が起きた。
 いつものように自転車に乗って出勤した後、イム・スンジェは消えた。家族は彼を探しまわった。警察官だったイム・スンジェの義弟は儒城警察署を訪ね、彼の行方を尋ねた。同じ警察官なのに儒城署の警察官は「二度と聞くな。訪ねてもくるな」と色をなした。
 「山内に連れて行かれたんだそうだ」。
 彼の行方について「山内(サンネ)」という地名が言及されるようになったのは、ある程度時間がたってからだった。

◆私は韓国で真実を見た
 英国の日刊紙「デイリー・ワーカー」の記者アラン・ウィニントンは1950年7月、大田(テジョン)山内のコルリョン谷(コル)を訪れた。同年8月、「私は韓国で真実を見た(I saw the truth in Korea)」との見出しを付けた記事で、彼は当時のコルリョンコルの現場の様子を次のように描写している。
 「歩くたびに徐々に地中に沈んでゆきつつある肉片や骨が見えた。(中略)大きな死のくぼみに沿って青白い手、足、膝、肘、そしてゆがんだ顔、銃弾によって割れた頭が地面から突き出ていた」。

【写真】「韓国での政治犯処刑」と題する米国の報告書に添付されたコルリョンコル虐殺現場の写真。米国極東軍司令部駐韓連絡事務所の総責任者レナード・アボット少佐が撮影したもので、故イ・ドヨン博士が1999年に初めて発掘し世に公開した。大田山内コルリョンコル対策会議提供//ハンギョレ新聞社
【写真】「韓国での政治犯処刑」と題する米国の報告書に添付されたコルリョンコル虐殺現場の写真。米国極東軍司令部駐韓連絡事務所の総責任者レナード・アボット少佐が撮影したもので、故イ・ドヨン博士が1999年に初めて発掘し世に公開した。大田山内コルリョンコル対策会議提供//ハンギョレ新聞社
【写真】「韓国での政治犯処刑」と題する米国の報告書に添付されたコルリョンコル虐殺現場の写真。米国極東軍司令部駐韓連絡事務所の総責任者レナード・アボット少佐が撮影したもので、故イ・ドヨン博士が1999年に初めて発掘し世に公開した。大田山内コルリョンコル対策会議提供//ハンギョレ新聞社
【写真】「韓国での政治犯処刑」と題する米国の報告書に添付されたコルリョンコル虐殺現場の写真。米国極東軍司令部駐韓連絡事務所の総責任者レナード・アボット少佐が撮影したもので、故イ・ドヨン博士が1999年に初めて発掘し世に公開した。大田山内コルリョンコル対策会議提供//ハンギョレ新聞社

 ウィニントン記者が現場を訪れたのは、1950年7月6日から7月17日未明にかけて起きた「第3次コルリョンコル虐殺」の直後だった。イム・スンジェがコルリョンコルに連れて行かれたのも、この時と推定される。
 ウィニントンは記事で「7月16日に100人ずつ乗せた37台のトラックが移動し、かなりの数の女性を含む3700人の人が射殺された」と記している。彼は「銃撃や殴打、そして斬首は韓国の警察が行ったが、これは米国の犯罪」、「(虐殺は)米軍の将校たちが見守る中で行われ、(虐殺過程に動員された)運転手のうちの数人は米国人」だと報道した。
 コルリョンコルで最初の虐殺が起こったのは、戦争勃発直後の1950年6月28日から6月30日にかけて。当時、李承晩(イ・スンマン)大統領とシン・ソンモ国防部長官ら政府閣僚たちは27日未明、大田に来ていた。翌日、予備検束で逮捕された保導連盟員と大田刑務所に収監されていた麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件関連の思想犯の一部がコルリョンコルに連行された。

【写真】1950年8月に英国「デイリー・ワーカー」のアラン・ウィニントン記者が書いた「私は韓国で真実を見た」と題する記事に掲載されたコルリョンコル虐殺現場の写真。土の上に虐殺された人々の手足などが現れている=資料写真//ハンギョレ新聞社
【写真】1950年8月、英国「デイリー・ワーカー」のアラン・ウィニントン記者が書いた「私は韓国で真実を見た」との見出しの記事の表紙=大田山内コルリョンコル対策会議提供//ハンギョレ新聞社

 大田東区朗月洞(トング・ナンウォルトン)にあるコルリョンコルは、人影の少ない谷間だった。米陸軍対敵諜報隊(CIC)の派遣部隊の戦闘日誌は、6月28日からの3日間でコルリョンコルで1400人が銃殺されたと記録している。当時、銃殺を執行した警察の責任者はメディアとのインタビューで、次のように証言している。
 「死刑に使う柱を地面に10本打ち付けておいて、死刑囚の目を覆い、後ろ手に木の柱に縛りつけた。7メートル前方から狙撃手が、弾丸が1発ずつ装填されたM1で射殺した。(憲兵の)指揮者の号令に従って(憲兵が)撃つと、死刑囚の首がガクッと下がった。すると指揮者が確認射殺をした。確認射殺が終わると、消防隊員が手の縄をほどいて遺体をあらかじめ準備していた薪の山に投げ入れた。遺体が50~60体たまったら火葬した」。
 1950年7月1日未明、李承晩大統領は秘密裏に大田を去った。大統領が去ったその日の明け方、大田地検の検事長は大田刑務所に「左翼極烈分子を処断せよ」という電文を送った。当時、大田刑務所には4千人が収容されていた。7月2日、第2師団の憲兵隊は大田刑務所に「左翼囚、すなわち布告令・国防警備法違反など主に麗水・順天反乱事件(の関係者)、保導連盟員、10年以上の強力犯を引き渡せ」と要求した。翌日、在所者たちはコルリョンコルに連行された。当時、大田刑務所の特別警備隊長は、その時の状況を次のように述べている。
 「在所者を座らせて穴の方に向かせ、在所者の後頭部に突き付けて撃つんだ。後ろから撃つと血と脳髄の白っぽいのが飛び出して、ズボンがぐちゃぐちゃになる。すぐに穴に死体が逆さまに突き刺さって足が上に向き、ひどいものでした。憲兵の指揮官が青年防衛隊に山の上から石を転がして持ってこさせて死体を押さえつけさせていました」。
 5日間続いた第2次虐殺の犠牲者は1800~2000人と推定される。1950年6月28日から7月17日にかけて、3次にわたり7千人あまりがコルリョンコルで集団射殺されたのだ。

【写真】2021年9月10日にコルリョンコルの虐殺現場から発掘された遺骨=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】2021年8月6日、大田山内虐殺犠牲者遺骨発掘団の研究員たちが、コルリョンコルの現場で遺骨発掘作業を行っている=発掘団提供//ハンギョレ新聞社
【写真】2021年にコルリョンコルで発掘された虐殺犠牲者の遺骨=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社

◆北朝鮮に対する利敵の可能性をなくせ
 韓国軍と警察が自国民に対してこのような恐ろしいことをしたのはなぜだろうか。
 日帝強占期が終わった後も、大田(テジョン)刑務所は「窃盗犯」と「思想犯」でいっぱいだった。解放後、朝鮮半島の南側では左右対立が激化しており、李承晩(イ・スンマン)による単独政府樹立に反対する騒乱が広がるにつれ、収監者はさらに増えていった。1948年3月には1875人だった大田刑務所の収容者は、1949年には3041人にまで膨れ上がっていた。その中には麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件と済州4・3事件の関係者もいた。
 李承晩政権は1949年6月5日、左翼からの転向者を「国民保導連盟」という反共団体に加入させた。「左翼を転向させて保護し導く」との趣旨だったが、実績に目がくらんだ公務員たちは左翼と関係のない人々までやみくもに加入させた。
 1950年6月25日に戦争が勃発すると、内務部治安局は全国の道警察局に「要視察人全員を警察に拘禁するとともに、刑務所の警備を強化せよ」とする非常通報を送る。保導連盟に加入させられた人々は警察署、面事務所の倉庫、刑務所などに拘禁された。そして6月28日、コルリョンコルで最初の虐殺が起きた。

◆父の恨(ハン)、解いてさえあげられたなら
 イム・スンジェの娘のイム・ナムシンさん(73)は、出勤途上で永遠に帰れぬ道へと旅立った父を忘れたことはない。家族たちはイム・スンジェが「山内(サンネ)に連れて行かれた」といううわさを聞き、せめて遺体を探そうとしたが無駄骨に終わった。
 息子探しに没頭していた祖父は、食を断った末に病んで亡くなった。家運は徐々に傾き、ナムシンさんが12歳の時に母親は再婚した。祖母の下で育ったナムシンさんは「両親を失った大田」が嫌いで大邱(テグ)に嫁いだ。

【写真】コルリョンコル虐殺の犠牲者イム・スンジェさんの娘のイム・ナムシンさん(73)が2日、大邱の自宅でハンギョレの取材に応じ、父親と撮った唯一の写真を手に涙を流している=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社

 ナムシンさんは2020年12月に発足した第2期真実・和解のための過去事整理委員会に真実究明を申請した。2005年に発足した第1期真実和解委は、2010年に「戦時とはいえ、国民の命と財産を保護すべき国が、収監された在所者を左翼の前歴がある、または人民軍に同調することが憂慮されるとの理由のみで、適法な手続きもなしに射殺したのは、明白な違法行為」だとし、「その責任は当時の李承晩大統領と国に帰属する」と明らかにした。
 しかし、現任のキム・グァンドン真実和解委員長は最近、朝鮮戦争前後の違法な民間人集団死亡事件の被害者が補償を受けることは「深刻な不正義」だと発言し、遺族の胸に剣を突き刺した。
 コルリョンコルに2024年までに建設される予定だった「朝鮮戦争民間人犠牲者慰霊施設」は、着工さえできずにいる。2007年から現在までにコルリョンコルで発掘された遺骨は1441体。大田山内事件犠牲者遺族会と大田山内コルリョンコル対策会議は、2000年から毎年6月に「コルリョンコル虐殺犠牲者慰霊祭」を行っている。今年も27日にコルリョンコルで慰霊祭が開催された。
 慰霊祭に参列したナムシンさんは、無念の魂を慰める宗教祭礼を見つめながら涙をぬぐった。真実和解委のキム・グァンドン委員長と大田市のイ・ジャンウ市長は、この日の慰霊祭には参列しなかった。2010年以降は毎年送られてきていた大田市長の追悼の辞も、今年はなかった。
 父親と一緒に撮った100日祝いの写真を手に、ナムシンさんは泣きながら語った。「写真の中の父を忘れたことはありません。無念の父の死を明らかにできなければ、死んでも死にきれないと思います」。

【写真】2021年8月、コルリョンコルの入り口に「世界で最も長い墓 コルリョンコル」と記されたリボンがかかっている=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】コルリョンコルに建てられた追悼碑=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】現在のコルリョンコルの様子。2020年からの3年間にわたる遺骨発掘が終わり、地ならしされている。この場に「朝鮮戦争民間人犠牲者慰霊施設」が建設される=大田山内コルリョンコル対策会議提供//ハンギョレ新聞社
【写真】昨年6月27日、大田市東区朗月洞山内コルリョンコルで開催された「山内虐殺事件犠牲者合同慰霊祭」で、大田山内事件犠牲者遺族会のチョン・ミギョン会長が祭祀の膳に杯をささげている=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】イム・ナムシンさんが27日午前、大田東区朗月洞のコルリョンコルで開催された「大田山内コルリョンコル虐殺事件73周忌犠牲者慰霊祭」に参列し、涙を流している=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】27日午前、大田市東区朗月洞のコルリョンコルで開催された「大田山内コルリョンコル虐殺事件73周忌犠牲者慰霊祭」で、大田山内事件犠牲者遺族会のチョン・ミギョン会長が杯をささげている=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社

チェ・イェリン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-06-28 06:00
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