■海南島で 5 波鰲・上嶺園・上辺嶺の犠牲者
1941年5月13日に、日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵が、瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村を、5月19日に上辺嶺村を襲って、住民129人を殺害した(王先柏・梁必強・蔡哲「楽会県波鰲、上嶺園、上辺嶺三村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史第6輯 日軍暴行録専輯』1995年9月、参照)。
その1か月前、1941年4月12日から14日までの間に、同じ佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊が、排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮していた。
波鰲村の入り口に、波鰲・上嶺園・上辺嶺三村の犠牲者の墓がある。その墓碑には、犠牲者すべての名が刻まれている。
2002年10月にわたしたちは、波鰲村で、生き残った王京海さんと林克連さんから話しを聞かせてもらった。ふたりは、“日本兵は、軍刀などで村人を殺したあと、遺体とともに家を燃やした。まだ生きている人も焼き殺された”と話した。
佐藤正人
1941年5月13日に、日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵が、瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村を、5月19日に上辺嶺村を襲って、住民129人を殺害した(王先柏・梁必強・蔡哲「楽会県波鰲、上嶺園、上辺嶺三村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史第6輯 日軍暴行録専輯』1995年9月、参照)。
その1か月前、1941年4月12日から14日までの間に、同じ佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊が、排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮していた。
波鰲村の入り口に、波鰲・上嶺園・上辺嶺三村の犠牲者の墓がある。その墓碑には、犠牲者すべての名が刻まれている。
2002年10月にわたしたちは、波鰲村で、生き残った王京海さんと林克連さんから話しを聞かせてもらった。ふたりは、“日本兵は、軍刀などで村人を殺したあと、遺体とともに家を燃やした。まだ生きている人も焼き殺された”と話した。
佐藤正人
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