三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮政治犯集中営」

2014年04月07日 | 「朝鮮報国隊」
 中国社会科学院の「中国社会科学院中日歴史研究中心文庫」の一冊として 2013年8月付けで社会科学文献出版社から出版された何天義編著『日军侵华战俘营总论』に「朝鮮政治犯集中営」という小節があります(303~305頁)。そこには、つぎのように書かれています(かなり事実と異なる非科学的な記述ですが、その一部を翻訳・紹介します)。
                                               佐藤正人


 「田独鉄砿の略奪を加速させるために、日本軍は中国各地から1万人以上の中国労工を連行しただけでなく、占領下の朝鮮の監獄から、減刑を口実にして、海南島に連行し、“朝鮮報国隊”と命名し、強度の苦役を強制した。
  後して「朝鮮犯人」数千名が三亜荔枝溝の三羅二村(現、三亜市田独鎮南丁三羅村)に設立された集中営に入れられた。
  かれらは、中国の労工と同じく、わずかなサツマイモ、とうもろこし、カボチャのスープを食べ、そまつなわらぶきの家に住み、竹の二段ベッドで眠り、麻袋やセメント袋を着た。
  戦争捕虜は毎日14時間働き、仕事を終わらなければ食事を与えられず、ひどく殴られた。殴られ殺された戦争捕虜は南丁村の北の丘に埋められた。
  1945年8月15日に日本天皇が無条件降伏を宣言したあと、海南崖県域内にいた日本軍は悲しみつつ投降の日を待っているとき、緊急に洞窟を掘り、武器や軍用物資を隠匿するという最後のあがきをおこなった。かれらは、1000人あまりの朝鮮政治犯を脅迫して南丁村付近の山麓に洞窟を掘らせ、物資を隠匿したあと、これらの朝鮮人を殺し、南丁村の丘の穴に埋めた。当事者の記憶によると、そこに埋められた1300人はすべて朝鮮人で、その後、そこは、“南丁千人坑”遺跡となっている。死難者を紀念して、当地の黎族群衆は、三羅二村を朝鮮村と改名した。
  ……………
  韓国KBSテレビは、紀州鉱山の真実を明らかにする会などの協力のもと、ドキュメンタリー《長埋在海南島的朝鮮魂》を放映し、三亜田独朝鮮村で発掘された朝鮮労工の遺骸について報道し、再び韓国を震動した。
  ……………」。
  

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