在海口日本総領事館警察署が『治安月報』(1942年4月分)に「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山」と書いている「田独鉄山」は石原産業が、「石碌鉄山」は日本窒素が「経営」していました。
石原産業の経営者だった石原廣一郎は、日本軍が海南島に奇襲上陸してから2か月後の4月に、日本海軍の部隊に護衛され、海南島の田独村などを回りました。
石原は、1939年4月1945年12月末から1948年12月末までA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されていましたが、そのころ書いたと思われる「回顧録」の「海南島資源調査」と題する部分でつぎのように言っています。
「海口に新たに台湾銀行支店が昨日開設せられたので、ここに立寄った。
……昨日開店したばかりであるが昨日一日中に預金が三、四万円あった。
その預金者は慰安婦のみであるという話を聞いた時、当地占領後わずか二ヵ月に過ぎないが早くも慰安婦が来て、かくも稼いだかと思うとまた変な感じがする。
帰りに街を注意して見ると、各所に慰安所という看板が上がっていることに気付く。
慰安婦は……日本人、朝鮮人、台湾人などであって……」、
「文嶺は……戦闘のあとで所々人家は破壊され町人はほとんど退散して空家となり……。
討伐に出掛けると、どこからか兵隊が豚や鶏を徴発してくるのが兵隊の唯一の楽しみであった。
文嶺を中心として鉄鉱、石炭、鉛、亜鉛などの調査をしたが……」、
「田独鉄山と楡林港。
鉄鉱の小塊が各所に点在している。いずれの石をとっても皆立派な赤鉄鉱であった。
山頂付近に行くと一丈数尺もある大岩石状の鉄鉱露頭あって、実に見事なものであった。
楡林は……湾内はかなり広くして……。
田独鉄山はわずか六、七「キロ」の所にこの良港を持っていることは、経営上いかに好条件であるか」、
「石碌山の銅鉱は相当なものでないかと予想されるが、いまだ皇軍の占領地域にあらざるのみかこの地を手に入れるまでには相当日数を要すべく、今回調査できざるは残念である。……上空から飛行機調査をすることとし……。
石碌山一帯を一日も早く討伐して頂きたいものであると述べたるに、太田司令官御尤もな御意見である、その方針で作戦をやりますと答えられた。
これに基づき討伐を進められ、四、五ヵ月の後に石碌山の調査ができるようになって調査した結果、石碌は銅鉱にあらずして鉄鉱であったがその鉱量は数億屯を埋蔵する一大鉄山であることが発表され……」。
石原産業は、1940年7月から田独鉱山の鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめました。
田独鉱山での採鉱と、鉱石を積み出す楡林港までの鉄道建設のために、海南島の人たちだけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人びとが酷使されました。病気や栄養失調や強制労働や暴行によって毎日のように労働者が死に、遺体は鉱山の近くで石油をかけて焼かれたといいます。
田独鉱山の犠牲者が埋められた場所には、1948 年4月に海南鉄礦田独礦区の労働者が「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」を、2002年に海南省人民政府と三亜市人民政府が「田独万人坑死難砿工紀念碑」を建立しました。「田独万人坑死難砿工紀念碑」の碑文には、「朝鮮、印度、台湾、香港、および海南省各市県から連行されてきた労働者がここで虐待され労働させられて死んだ」と書かれています。
佐藤正人