三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三亜市鳳凰鎭羊欄村で 2

2009年10月12日 | 海南島
 6月28日に、羊欄村を再訪し、黎金茂さん(1927年生。漢族)から話を聞かせてもらうことができました。黎金茂さんが海南語で話し、それを林彩虹さんが普通語で通訳してくれた証言は、つぎのとおりです。

 「日本軍が来た時、わたしの両親は死んでしまっていた。わたしは、叔父にかわって日本軍のために働いた。日本兵は大人をしょっちゅう殴ったが、子どもや年寄りは殴らなかったからだ。
 12~13歳ころ、わたしは、日本軍が三亜飛行場をつくるときに働かされた。工事している人のところに茶や水を運んだ。一日2回。二人が組んでいっしょに運んだ。
 日本兵は、働いている大人に昼食をだした。子どもにもだしてくれることがあった。
 毎日午後に仕事が終わると、日本兵はわたしたち子どもに1毛くれた。軍票だった。大人は5毛だった。
 日本軍は、朝鮮人や台湾人をたくさんつれてきて、飛行場をつくらせた。当時、わたしは、日本兵が朝鮮人を殴るのをいつも見ていた。朝鮮人は食べるものがあまりないので、すこし休んでいると、日本兵はすぐになまけているといって殴った。朝鮮人はおおぜい日本兵に殴り殺された。殺された朝鮮人は埋められた。
 朝鮮人は、毎日、朝早く並ばされ、歌をうたってから仕事をはじめた。
 朝鮮人が着ていた服は、青色だった。背中に白い字で番号が書かれていた。服はボロボロだった。
 朝鮮人はかごを背負って、土を運んでいた。朝鮮人は、滑走路や防空洞をつくっていた。防空洞は飛行機をいれる所だ。日本軍はアメリカ軍が飛行機から爆弾を落とすのを恐れていた。
 はじめてアメリカ軍が飛行場に爆弾を落としたとき、そこで働いていた朝鮮人がたくさん死んだ。
 日本軍は、この近くの妙林村のそばに日本農民をたくさんつれてきて六郷村をつくった。六郷村で日本農民は、コメや野菜をつくっていた。
 当時、日本軍が派遣した台湾人がわたしたちや朝鮮人を管理していた。台湾人は白い服を着ていた。日本兵は軍服を着ていた。
 日本軍が来てから、農民の生活は苦しくなった。着る物もなくなった。日本軍の仕事をさせられ自分たちが生きるための仕事ができなくなったからだ。
 当時、ある日本人が「野菜会社」をつくった。農民たちが野菜をその会社にもっていくと、その会社は、布地と交換した。
 日本が敗ける前に、朝鮮人はいなくなっていた。どこにいったかわからなかった。
 日本軍の船が海にいるのを見たことがある。小さかったがとても早かった。
 日本軍は敗けたとき、武器を各地に埋めた。
 日本軍が敗けたときは、とてもうれしかった」。

                                     佐藤正人
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