枯木の幹のなかに

2009-04-10 | 【樹木】ETC
 アルベール・カミュの「異邦人」(窪田啓作訳・新潮文庫)を読んでいる。
 Ⅱ部の2まで読んだ。あと3、4、5の三つのパートでお終いになる
 Ⅰ部の3以降、生の植物が出てくることはない。
 Ⅰ部の5に、「林檎のような顔」、6に「菜っ葉服」などとの言葉がある。
 Ⅰ部の終わりで、主人公の男は、アラビア人をピストルで殺す。
 Ⅱ部の2に、刑務所暮らしのなかでの主人公の思いが語られている。
 「その頃、私はよく、もし生きたまま枯木の幹のなかに入れられて、頭上の空にひらく花をながめるよりほかに仕事がなくなったとしても、だんだんそれに慣れてゆくだろう、と考えた。そうすれば、過ぎてゆく鳥影やゆきちがう雲の流れを待ちもうけるだろう。」
 何となく、印象的な部分だった。俺は、木の幹に入れられるという想像をしたことなどないと思った。そして、木の幹などで人を挟んで殺すという処刑方法が、古事記だったかに書かれていたことを思い出した。
 それから、小さい頃に、透き通ったガラスのケースに、男と女がならんで入るというイメージをよく抱いたことを思い出した。そのケースは、欄干のようなところに飾られるのである。
 とりとめのないことを書いてしまった。

ザアカイが登ったイチジク

2009-04-09 | 【樹木】ETC
 聖書に出てくるイチジクというと、まっさきに思い浮かぶのが、エデンの園にいたアダムとイブの陰部を隠したイチジクの葉である。
 次に、徴税人ザアカイが登ったとされるイチジクの木である。
 ルカによる福音書19章1節から4節に次のようにある(日本聖書協会・新共同訳)。
 「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人かと見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」
 エリコのイチジクとは、どういう種類だったのだろうか。少なくとも、小男といえ、人が登れるだけの木だったということである。
 小さい頃の知り合いに、ザアカイとの渾名をつけられた人がいた。背が低くて、細身の方だった。確か、民間学校の事務をやっていた方だった。いつも「ザアカイ」と呼びかけて、あれこれ教えてもらったりしていた。とても、親しみを抱いていたことが記憶に残っている。
 聖書には、他に、いちじくの木の教えとか譬えとして、イチジクが出てくる。
 イチジクの木の生長に係わるところがあるので記しておく。
 「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」(マタイによる福音書24章32節、マルコによる福音書13章28節)
 「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおずと分かる」(ルカによる福音書21章29節、30節)

アルジェのイチジク

2009-04-09 | 【樹木】ETC
 イチジク(無花果)の原産地は、アラビア半島と言われる。
 日本には、江戸時代に、中国から伝わったという。
 1万年以上前のヨルダン渓谷の遺跡から、栽培されていたとみられるイチジクの実が発掘されている。
 人類との関わりは古いようだが、日本に伝わったのは、そんなに昔のことではない。
 わが家のベランダのイチジクは、ドーフィンという種類のもので、日本では一番多く、一般的なものである。アメリカからのものだそうだ。
 もともと中国から伝わったとされるのは、ホウライシ(蓬莱柿)といわれ、関西以南で出回っているという。
 他に、フランス原産のビオレ・ソリエスという実が深い紫となるイチジクがある。
 白イチジクには、トルコで生産されているスミルナ、カリフォルニア生産のカリミルナ、イタリア原産のカドタなどがある。
 カミュの「異邦人」に出てくるイチジクは、何だったのだろうか。アルジェあたりのものである。

ドラセナに「もっと光を」

2009-04-09 | 【樹木】ETC
 ドラセナ・コンシンネ・トリカラー・レインボーはマダガスカルの産。
 太陽の光が好きだ。
 去年の5月、切り戻し、植え替え、挿し木をした。
 一鉢だったものが、三鉢になった。
 それぞれ、うまく根付いてくれた。
 室内の窓の近くにおいてあった。
 気温があがってきたので、外に出してやろうと思う。
 二つめの芽が出かかったままで冬を越したひとつから。

サルトルのマロニエ

2009-04-08 | 【樹木】ETC
 アルベール・カミュの著作は、かつて何冊か読んだ。文庫化されたようなものは、読んだと思う。先般、「シジフォスの神話」を本棚から取り出して開いたら、ほぼ全面にわたって、線が引かれていた。かなり、熱心に読んだようだ。書き込みもしてあった。
 同じ頃、ジャン・ポール・サルトルも定評が高く、小説や戯曲の作品があった。本屋に行けば、必ずその著作集が並んでいた。何冊か読んだ。確か、哲学書の方は、敬遠していたように思う。賢明な選択だったと思う。
 振り返ると、カミュのものは、今に残るものがあるが、サルトルに関してはない。文学作品としてのレベルが違うような気がする。
 ただ、このブログで植物のことを書くようになってから、サルトルの「嘔吐」に出てくるマロニエのことにいつか触れようと思っていた。サルトルの実存主義の哲学を示すという有名な箇所である。
 以下、白井浩司訳による、その部分の抜粋である。あくまで、参考まで。
 「さて、いましがた、私は公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に、深くつき刺さっていた。それが根であるということももう思い出せなかった。言葉は消えうせ、言葉とともに事物の意味もその使用法も、また事物の表面に人間が記した微かな目じるしもみな消え去った。いくらか背を丸め、頭を低く垂れ、たったひとりで私は、その黒く節くれだった、生地そのままの塊と向かいあって動かなかった。その塊は私に恐怖を与えた。それから、私はあの啓示を得たのである。・・・・・・・・・存在とは、事物の捏粉(ねりこ)そのものであって、この木の根は存在の中で捏られていた。というか、あるいはむしろ、根も、公園の柵も、ベンチも、貧弱な芝生の芝草も、すべてが消えうせた。事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。その漆が溶けた。そして怪物じみた柔らかい無秩序の塊――裸の塊、恐ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」
 マロニエはいいけど、なんだかつまらない。俺には向かない。
 駅前のケーキ屋、確か「マロニエ」。

「まどふは春の心」

2009-04-08 | 【樹木】櫻
 千載和歌集から、櫻の歌を一首。
 花ゆゑに知らぬ山路はなけれどもまどふは春の心なりけり(道因法師)
 さまざまな惑いがある。
 櫻の候といわず、春夏秋冬。
 それでも惑うということは、選択肢もあるということで、結構なことでもある。
 惑ういとまもなく、運命のいたずらにもてあそばれることもある。
 「あの女に声をかけようか、どうしようか」と惑うもこの世の花、春の情。

バルコンから無花果

2009-04-08 | 【樹木】ETC
 アルベール・カミュの「異邦人」(窪田啓作訳・新潮文庫)を読んでいる。
 かつて読んだ小説だ。わたしの世代の読書率は高いのでないだろうか。人気の高い作家であった。全体は、Ⅰ部とⅡ部になっており、Ⅰ部は六つのパートに、Ⅱ部は五つのパートに分けられ、番号がふられている。
 Ⅰ部の2まで、読み終えた。ところどころ、植物の名前が出てくる。意外な感じがした。こういうことに気づくのは、植物に関心を持つようになったからだろう。
 1には、「すずかけ」、「糸杉」、「ジェラニューム」、それに「土にまじっていた草木の根の白い肉」と出てくる。
 2には、「無花果」が出てくる。主人公の男が、日曜の午後、バルコン(バルコニー)で過ごし、まちの通りなどを眺めている。次のようにある。
 「通りを縁どる無花果の木の上に、空は、澄んでいたが、きらめきを欠いていた。・・・・・私はながいことそこにいて空をながめた」
 無花果(イチジク)の木の並木があったのだろうか。日本では、無花果というと、薄暗いじめじめしたようなところに生えている木というイメージがあるが、ヨーロッパでは違っているようだ。樹種も異なり、背丈も日本のより高いようだ。そして、並木にも用いられたようだ。
 ところで、このように植物が出てくるということは、カミュの意識にあったということである。何を言いたいかというと、こういうことも含めて、カミュを見なくてはいけないのでないかということ。
 ときは春。私の住まいのバルコニーならぬベランダの無花果は、日ごとにあきらかな生長を見せそうである。

下枝の丸いふくらみ

2009-04-08 | 【樹木】ETC
 鉢植えの無花果が、一枚目の葉をひろげた。
 まだ2センチに満たない小さなものだが、裂もあり無花果の葉の形をしている。
 無花果の花のうは、6月から9月頃に葉腋につくというが、葉がない枝に、もうそれらしきものが丸くふくらんでいる。
 無花果の花のうのつき方は、若枝や古枝によって異なると読んだことがあるように思うが、よく覚えていない。
 いずれにしろ、その丸いふくらみが今後どうなるか、見守っていきたい。

スギナとツクシ

2009-04-07 | 【草花】ETC
 スギナの緑色の方を栄養茎という。
 生きるための養分を摂取する。
 うす茶色のツクシのことを胞子茎という。
 子孫のための生殖器官である。
 ツクシを土筆と書くが、通常、土筆をツクシとは読めないだろう。
 ツクシはスギナの根茎に付いている。
 土を突いて出てくる。
 そして、「シ」は、子。竹の子の子と同じ使い方と見られる。
 それで「付く子」、「突く子」から、ツクシと呼ばれるようになったらしい。

土筆と杉菜

2009-04-06 | 【草花】ETC
 道ばたにツクシが頭を出しているのを見つけた。
 小さい頃は、ツクシンボと呼んでいた。
 見つけると、どうしてか摘んで集めた。
 うちでは、おひたしなどにすることはなかったが。
 ツクシは土筆と書く。
 筆の形に似ているからである。
 ツクシは地下茎でスギナとつながっている。
 ツクシはトクサ科のスギナのいわば花にあたる部分である。
 スギナは杉菜と書く。
 その姿が杉の木を連想させるからだ。
 スギナは多年草で、シダ植物である。
 杉の木状のところが葉っぱにあたる。
 ツクシは、花と言ったが、胞子をつくるところである。
 スギナが生え出しひろまると、なかなか除草できないと言う。
 根が地下深くまで伸びるのである。
 いわば、やっかいものでもあるのだ。
 しかし、都会では減ってきていると言う。
 宅地造成などで、土を深くまで掘り返すからである。
 多少やっかいものでも、ところどころ生えていた方がいいね。
 ツクシンボを見つけたときの喜びを大切にしたいね。
 ツクシのこと書いていて、金沢で過ごした幼年時代のことを思い出した。
 墓場で遊んでいて、石の間に生えている数十センチも背丈のあるツクシ見つけて嬉しかったな。
 気味悪さもあったから、覚えているのかな。


染井吉野の命

2009-04-06 | 【樹木】櫻
 春に美しい花をつけ、秋には葉を染め散る落葉樹は、常緑の春秋の変化が少ない木に較べて、寿命が短い。
 桜は総じて、その命は短めである。
 命の火の燃えかたが、速いのである。
 特に、日本の桜の七割方を占める染井吉野は、接ぎ木によることもあり、六十年くらいと言われる。
 長興山紹太寺趾の姥桜は、樹齢330年以上ということだった。
 江戸彼岸であった。
 桜の古樹というと、江戸彼岸ということが多い。
 実生の野生のものほど、根もしっかりして強いと言われる。
 基本的に、野生ということは、その木の生長に適した地で育つということがある。
 ところを得て、生きるということ。
 さて、人間は。

三叉の枝と花

2009-04-05 | 【樹木】ETC
 春に黄色い花をつける木のひとつにミツマタ(三椏、三叉)がある。
 昨日、小田原のまちを歩いていて、何カ所かで見かけた。
 枝先に球状の花序をつける。
 また、枝先が三つに分かれる、それで三叉である。
 高さがせいぜい1~2メートルのもので、庭先などに植えられる。
 園芸品種で、花が赤っぽいのがある。
 それは、アカバナミツマタと言われる。
 たまたま、それも見かけた。
 いつもと所を変えると、見かけるものも違ってくる。