前言訂正・篠懸

2006-09-30 | 【樹木】ETC
 鈴懸の木(プラタナス)の葉の形が、山伏の篠懸衣に似ているところからの呼び名とした記述(9月29日・プラタナス並木)は、記憶違いでした。
 自信がなかったので、何かで確認したいと、能楽関係の本を当たっていたのですが、見つからなかった。
 今日になって、樹木関係の本を見ていたら、判明した次第です。
 「秋につける球形の果実が、山伏の着る篠懸に似ていることことからつけられたという」(淡交社・身近な樹木ウォッチング)という説明をまず読んだ。しかし、この言い方に疑問をもった。篠懸というのは、あくまで衣類なのである。
 次に、「秋に実る果実はそう果が集まったもので、名前はこの果実を山伏が首にかける篠懸に見立てたもの」(日本文芸社・樹木図鑑)という説明に出会った。篠懸は着るものから、首にかけるものとなった。
 そして、「和名のスズカケノキという命名は松村任三博士だそうだが、牧野博士によるとこれは山伏の法衣の名で篠懸というのがあるのを、そこに付けてある球状の飾りの呼び名と間違えて付けてしまったもので、もし強いて書くなら鈴懸とでもしなければ意味が通じないそうだ」(中公新書・辻井達一著・日本の樹木)との解説を読んだ。
 要するに、命名に関係があつたのは、葉の形ではなく、実の形だった。

「犬狼都市」

2006-09-30 | 【断想】ETC
 澁澤龍彦の「犬狼都市」を読んだ。小説である。
 トータルな印象は、芸術品というより、上等な「工芸品」というところか。
 狼(コヨーテ)、ダイヤモンド、贅肉とは無縁そうな若い女などが登場する。
 狼の肉を食べること、ダイヤモンドの中からの狼の遠吠えが聞こえること、ダイヤモンドの中に女と狼が入り込むこと、ダイヤモンドの中の狼が紫色になり燠火のような赤色になること、金色の暈をおびた狼のペニスのこと、赤熱した焔の剣(狼のペニス)に刺しつらねかれる若い女のこと、犬族と魚族の確執などが語られる。
 このように小説を紹介されて、読んでみようと思う人はいるだろうか。要するに、面白いという類のものではない。狼やダイヤモンド(硬質なもの)、ファロスなどが好きな人が読めばいい、そんな小説ではないだろうか。
 改めて読むと、書かれた時代背景もあろうが、ダサイなと感じさせるところもある。ヒロインである若い女が、花模様のネグリジェを着たり、婦人雑誌を読んだりするところだ。
 この作品は、澁澤龍彦の若い頃のもので、数篇小説をものしたあと、氏は晩年近くまで小説を書かなかった。年齢には、人間の精神にもたらす決定的なものがある。よくわかることだ。

【余話】「犬狼都市」の古い本をもっていた。初版ではないと思うが、それに近いものだったと思う。確か銀色のケースに入っており、活字は緑色だった。もう随分前だけど、知り合いの女性に貸した。それっきり返ってこない。5~6年前だったか、久しぶりに顔を見た。本を借りていると言っていた。覚えていてくれていることが嬉しかった。
 今年の年賀状に、「庭さえやってれば幸せ、という日々です。バラへの興味は尽きません」とあった。

快適主義の哲学

2006-09-29 | 読書
【本の紹介】
 ●自分のためのエコロジー/甲斐徹郎著/ちくまプリマー新書/735円
 
暑い夏をいかに涼しく過ごすか。このように思われる方は是非一読するといい。著者の家は、東京の街中にありながら、外気温36度の時も、クーラーなしで、26~27度だそうです。これを達成する方途が示してあります。植物による遮熱、冷気とその流れなどが活用される。半世紀前には、日本で普通だった自然の恵みを取りこむ知恵が、今、失われている。ただ、過去への回帰はできない。著者は、新しいパラダイムを「自立型共生」と名付ける。快適主義の哲学が語られている。
※政策研究フォーラム発行月刊誌「改革者」のために書いたものであったが、季節はずれになった。

旅の衣は篠懸の

2006-09-29 | 【樹木】ETC
「旅の衣は篠懸の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしをるらん」
 能の名作「安達原」や「安宅」の出だしである。
 小学館発行の「謡曲集②」を開くと、註に、「篠懸」の説明として、「山伏が白衣の上に着る麻の衣」とある。 鈴懸の木の葉の形と衣類である「篠懸」の関係について、確認しようと思うのだが、いったいどこに書いてあったのだろう。註には、なかった。

プラタナス並木

2006-09-29 | 【樹木】ETC
 昨日、厚生労働省に用事があり、衆議院議員会館への帰り道、外務省と総務省の間を抜けた。そこは、プラタナスの並木になっている。樹高7~8メートルくらいあろうか、それなりに立派である。枯葉がちらほら見られた。
 今月半ばの日曜、新宿区戸山に出かけた。用件はすぐ終わり、どうしたものかと思って、思いついたのは新宿御苑の散歩だった。明治通りを南下するだけで、すぐに行けると。
 久しぶりの新宿御苑は、新鮮だった。こんなに立派な木がたくさんあったかと。
 そして、整然としたプラタナス(鈴懸の木)並木の見事さを再確認した。並木の他に、思わず、凄いとうならせるプラタナスの巨樹もある。主幹は失われているようだったが。
 ちなみに、修験者・山伏が露よけに羽織る衣のことを篠懸(鈴掛)という。プラタナスの葉の形に近いからの呼び名である。確かそうだ。

金木犀1200年

2006-09-28 | 【樹木】ETC
 金木犀の香り漂う季節となった。
 日本一古くて、大きな金木犀が、静岡県の三嶋大社にある。樹齢1200年以上、樹高約20メートル、根元の周囲約4メートルというものである。かつて、花の季節になると、二里四方に香りを漂わせたとも伝えられている。生命力にあふれ、花も一度満開になったあと散って、もう一度、花をつけると言うことだ。
 昨年夏、三嶋大社を訪れ、その金木犀を見た。以前、写真では見ており、一本だけでも鬱蒼とした感じがありそうで、楽しみにしていた。
 しかし、じかに見た金木犀は、なにやら色褪せ、全体にスカスカしているように感じられた。寄る年波のせいなのだろうか。私の見た写真は、もっと樹勢が盛んな時期のものだったのだろうか。
 今、花の季節、三嶋大社の金木犀はどうなっているのだろうか。
金木犀の香りがしたとき、あなたは、ふと歩みを滞めないだろうか。1200年の命、いったいどれだけの人に、しばしの憩いを与えてきたのだろうか。

「快楽主義の哲学」

2006-09-27 | 【断想】ETC
 「美意識を洗練させよ」と書いたとき、頭のなかにあったのは、澁澤龍彦の著になる「快楽主義の哲学」である。その中で、確か、澁澤氏が言っていたと。
 この本は、1965年にカッパブックスとして出版されたものである。当時の氏のイメージからすると、このような大衆向けの体裁での出版は、アレッと感じさせるものであった。
 その内容は、高校生だった私にとって、このうえなくエキサイティングに感じられた。すぐさま私の一番の本となった。宇野亜喜良のイラストも素晴らしかった。本棚の奥から取り出したその本は、かなり傷んでおり、書き込みだらけだった。
 ページをめくり、「美意識を洗練させよ」という記述をさがした。ところが、久しぶりに開いたこともあり、なかなか見つけられなかった。丹念にページを繰り、ようやく見つけた。
 快楽主義の巨人たちについて話すとして「彼らはいずれも、高い知性と、洗練された美意識と、きっぱりした決断力と、エネルギッシュな行動力の持ち主でありました。この四つの条件がそろって、はじめて人間は翼を得たように、快楽主義的な宇宙の高みに舞いあがることができるのです」とあった。
 快楽主義者の条件として、「知性」「美意識」「決断力」「行動力」があげられていたのである。快楽主義と言わずとも、あった方がいいものである。当時、私は、この四つを紙に書き、机の前に張り出していたことを思い出した。そして、今までの自分について、何をやってきたんだろうと振り返えらざるを得なかった。
 「快楽主義の哲学」に出会ってから、40年ばかりが経っている。「美意識」もいいが、歳をとり、みてくれも悪くなってしまったなあ、と。

美意識を洗練させよ

2006-09-26 | 【断想】ETC
 本日召集の臨時国会で首班に指名されることになっている安倍晋三氏が、先頃出した本に「美しい国へ」というのがある。総理の座ねらいの雰囲気づくりの宣伝の一環で出された観がある。信頼できる先輩が、中味のない本だと評していたので、本屋で平積みになっているのを幾度も目にしたが、手に取ってみることすらしなかった。
 ただ、「美しい国へ」というタイトルは、誰かが乙女チックなとけなしていたが、面白いなと思っていた。何故なら、美しいかどうかということを価値判断の基準にしようという姿勢は、政治の場ではめずらしいからである。正しいかどうかとか、より多くの人の幸せに結びつくかどうかといったのはあるのだが。
 美醜、正邪、幸不幸、いずれも抽象的といえば抽象的だ。絶対的といより、その判断は主観的要素が強くはたらく傾向にあるし、時の風潮にも左右される。
 しかし、今、美しかどうかを前面に打ち出すことは、そういゆう価値判断もあるんだよとアピールすることにつながると感じて面白いと思った次第だ。そのこと自体は大いに価値あることと思ったのである。
 昨日、陪席していた会議の席上、某氏が、「日本はもともと美しかった。美しくなくしたのは自民党ではないか」というようなことを言った。この言葉に誘発されて思ったことがある。
 昨年は、政治の世界では、郵政民営化問題をめぐって大騒ぎした。その中で、小泉チルドレンなるものがわき出てきたが、この人達に美しさは感じない。なにやら節操というものが感じられない。ほとんど同じ法案への賛否を変えた人もいた。小泉総理にきられた人達の方が遙かに美しい。そのように感じるのは私だけだろうか。小泉総理は、志操のない醜悪な輩に支えられて政権末期を過ごしたのでないだろうか。
 美意識を洗練させることは、楽しく生きるために大切なことと思っている。

ドングリの季節

2006-09-25 | 【樹木】櫟
 一週間くらい前か、強い風が吹いた後、木々の小枝が路上に落ちているのを見かけた。まだ青いどんぐりをつけたものもあった。暑い暑いと過ごしてきたが、もうすぐ、どんぐりの季節なんだなと思っていた。
 昨日、ニホンカモシカが、木から落ちたクヌギの実を食べているのを見た。その実は既に茶色くなっていた。日毎、秋らしくなっているんだなあと思った。
 去年は、どんぐりが不作で、餌を求める熊たちが里に出没したというニュースがあった。今年の出来はどうなのだろう。

動物園の散歩道

2006-09-24 | 【樹木】ETC
 多摩動物公園に入って、そうそうに左に道を選び、園の一番外側をまわるコースは、動物がいない散歩道になっている。15分ばかり、木々の間を抜けることになる。
 人気がないので、単に動物を見に来たのでない人にはいいかも知れない。男女の二人づれなどを見かける。
 そのコースに一番多い木は、コナラだ。次は、ヤマザクラか。他に、思い出せるままにあげると、クヌギ、イヌシデ、シマサルスベリ、ネムノキ、アキニレ、カラスザンショウ、ホオノキ、スギ、エゴノキ、アカマツ、イロハカエデ、キブシ、コブシ、エノキ、ケヤキ・・・・。
 鳥も見かけるが、多くはカラス。アオサギのもっそりした姿には、ドキリとさせられたりする。季節によるのだろうが、キツツキ科のコゲラを続けて見かけたことがある。その時はなんだか、嬉しかったね。
 動物園で見るものは、動物だけではない。

オオカミたち

2006-09-23 | 【断想】ETC
 多摩動物公園に、ヨーロッパオオカミがいる。はじめは、雄と雌の2匹だったのが、去年、今年と子どもができて、現在は、6匹いる。先にうまれた子どもの2匹は、他の動物園に行ってしまっている。
 動物園には散歩がてらよく行くので、オオカミたちとは、顔なじみだ。口笛をふくと、こちらを向き、私の顔をじっと見つめる。何かをもらえるとでも思っているのだろうか。眺めている内に、オオカミたちの個性が見えてくる。すばしっこい奴、おっとりした奴、これが分かると愉しみも増す。それに、オオカミは他の動物に較べて、明らかに賢そうだ。その瞳、視線は、人の心をも読み取ろうとしていかのようである。生物同志としての交信が成り立つと言ってもいいのかな。
 澁澤龍彦の「犬狼都市」を読み直してみようかな。
 それはそれとして、日本の森ばかりではなかろうが、長年、オオカミは、生態系の頂点にたち、森の秩序を保ってきた。ゆえに、オオカミは、大神に通じ、祀られもしてきた。 ニホンオオカミがいた頃は、鹿が増えすぎて、森や作物が荒らされることは少なかったという。鹿やカモシカは若木の芽を食べる。その跋扈による森の荒廃は、下流域に洪水をもたらす因にもなると言われる。オオカミは人の暮らしを守るとも思われた故に、崇められもした。
 そのニホンオオカミは、害獣として人間の手で殺され、明治末期、姿を消した。その後、オオカミにかわり、人間が鹿やカモシカを殺してきた。カモシカは絶滅寸前だが、鹿は生き延び、害獣となっている。鹿を殺す人間は減っている。
 羽村動物園に、シンリンオオカミがいる。これは、でかい。迫力満点だ。しかも動きも速く、力強い。頭もよさそうだ。こんなのに襲われたら、やられるしかない。、群れに囲まれたらおしまいだ。銃があっても役に立たないのでないか。
 森に棲む獣で、オオカミには、熊などとまったく異なる感情を抱かせる。オオカミを神的なものとしたのは日本だけではなかった。

スダジイの古木

2006-09-22 | 【樹木】ETC
 父の兄は戦死している。支那事変で亡くなっている。 先日、「あの頃はまだ、丁重に弔われた。大東亜戦争が進んでからは、そうではなくなった」と昭和2年生まれの母が言っていた。
 同日、樹齢800~1000年というスダジイの古木を見た。東京・羽村市の阿蘇神社にはえている。時折通る道から少し入ったところなので、幾度か仰いでいる。 多摩川のほとりにある。かなりいたんだ部分もあって見苦しいところもあるが、まだ樹勢はさかんだ。
 源平の合戦があった頃から、生きていることになる。人間とは桁違いの生命力を感じる。そのスダジイの生のうちに、多くの人間の生死、盛衰があったことになる。
 あわただしく通り過ぎてはいけない。しばし、古木のそばにいるべし。何か深く語りかけてくるように感じるものだ。平清盛や源頼朝とも話ができるかのようだ。
 「私たちの生命とは何なのだろうか」「いったい私たちはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」

レイシーの「森」

2006-09-20 | 【断想】音楽
 モダンジャズのソプラノサックス奏者にスティーヴ・レイシーという人がいる。フリーからポストフリーの奏者である。アルバムに「森と動物園」というのがあり、これは、フリー時代のものである。A面が「森」、B面が「動物園」という曲である。1966年、ブエノスアイレスでの録音である。
 先般、森を感じさせる音楽ということで、バルトークに触れた際、そういえばジャズには誰かいるかなと思って、思い出したのが、レイシーのForestである。
 レコード盤をもっていた。かつて、わざわざ購入したのは、当時読んだ本に、レイシーのことを褒めたものがあったからだ。その本を読み返してみた(ジャズ・ノート/清水俊彦/晶文社)。
 「うわの空の聴き手には、長く冷たいものに」感じられるだろう。しかし、聴く者が聴けば、良さが分かるというような挑発的なことが書いてあった。恐らく、私は、その挑発にのってしまったのだろう。
 休日の午後、「森」のことを書くなら聴いてからと、かけてみた。何十年ぶりかのことである。思った通りだった。ちっともおもしろくなかった。もしかしたら、その良さが分かるかも知れないと思ったのは、間違いだった。奏者の人となりや置かれた状況、音楽への姿勢等への共感でもあれば、また違ったのかも知れない。
 聴き終えて、改めてその本を開いてみた。その「音楽世界の内部に身を投じ、流れのままに従うように務めなければならない」そうすれば、「濃密さを味わうことができる」とあった。もしかしたら、評者も、そんなにいいとは感じていなかったのでないかと思った。
 何れにしろ、私には、良さは感じられなかった。
 フリー・ジャズや現代音楽では、こういうことが特によくある。素直に聴けば、良さが分かり、愉しむことも出来るとも言われもするが、そうとばかりも言えない。
 音楽に限ったことではないが。

深山幽谷の憂鬱

2006-09-20 | 【断想】ETC
 国際社会のなかで、日本が平和と繁栄、国家としての独立性を今後どのように維持していくかとなるとなかなか厳しいものがあると感じている。
 アメリカと中国に関して、所感を一言。
 アメリカの独善性には、鼻持ちならない面もあるが、自由と民主主義において価値観を共有する同盟国であるという基本を忘れてはいけない。戦後日本の形成に功も多く、罪も多いと思うが、気に入らないところは、日本人自身がしっかり改善していけばいい。
 一方、中国であるが、将来のことを考えると最も気になる国である。民主化されるということは、あるかも知れないが、たとえそんなことがあっても、あの国の覇権主義はおさまるものだろうかと心配だ。近隣に存在することもあり、鼻持ちならないではすまない面があるように思うのである。毛沢東に発し、営々と築き上げてきた核戦力体制もある。そのパワーを外交にフルに活用されたからといって、文句をいっても始まらないというとが現実政治だ。
 中国では最近、言論、報道の統制を強めているということである。胡錦涛政権の安定のためと言われるが、それだけ不安定要因があるということである。
 中国大陸沿岸部の経済的繁栄と内陸部の貧困の格差の大きさは以前より指摘されている。昨年の民衆の騒動は9万件近くとも言われる。これらの沈静化は、非民主国家における暴力により行われていることは言うまでもない。
 一般の観光旅行で、そのことを感じなくても、中国は共産主義の国なのである。この基本は忘れてはなるまい。そして、今後どうなるのが、日本にとって好ましいかも常に考えておく必要がある。
 深山幽谷、風光明媚な地域に住む中国人が、豊かな自然にかこまれているにもかかわらず、その表情は暗く、瞳はうつろであると聞いたことがある。沿岸部の繁栄が程遠いもので、自分たちに無縁であること、無力感のなせるわざではないかと。騒動を起こす気力すら失われていると。人間とはやっかいなものだ。
 いずれにしろ、中国の今後の動向には、注意をはらっていかなくてはなるまい。