●わが身世にふる
《花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに》
古今集に収められている小野小町の一首である。
「ながめ」は、長雨であり、眺めであろう。花の移ろいをぼんやりと眺めているうちに、いつしか長雨の季節になり、時は過ぎゆき、齢も重ね、わが身の色香も衰えてきた・・・・。
そんな女性のため息を聞ような歌である。
●世の中にあやしきものは
周辺の美女たちが、そんなため息をもらしているというわけではない。だけど、あわただしい日々の仕事に追われるうちに、いつしか独身のまま四十歳代にとという女性も多く、気にかかる。
誰しも、いつしか老いてくる。
おおきなお世話と怒られそうだが、結婚はともかく、せめて、もっと色恋に時をついやしたらとお節介にも思う。
人は人が気になるもの。男と女はあやしいまでにひきあい、恋もする、それが自然である。
恋多き女、和泉式部の「あやしきもの」としての歌。
《世の中にあやしきものはしかすがに思はぬ人の絶えぬなりけり》
なんだか、自然の摂理からはずれた人もいるような。わたしだけの思い過ごしか。
●紫陽花という樹木
長雨の時期、梅雨の季節の花と言えば、紫陽花。
紫陽花は、植物の分類では、ユキノシタ科アジサイ属の落葉低木。見かけは草花の一種のようであるが、樹木である。
いわゆる紫陽花というのは、ガクアジサイの園芸品種のひとつ。花とされるのは、発達した萼片が多くついて、こんもりとなったもののことである。この萼片とは、雄蕊や雌蕊が退化したあとのもので、装飾花と言われる。
●梅雨空に七変化
紫陽花は、花の色が変わるので、七変化の異称がある。淡青、淡紫、淡桃・・・と、目を楽しませてくれる。ちなみに、土壌の酸性度が強いと青に、アルカリ度が強いと紅になる。
この七変化ゆえに、その花言葉は「移り気」とか「心変わり」。
ともかく「花色」の変化が注目される。
美しいままに変わるのはいいが、そうとばかりは言えない。やがて、枯れ萎み、醜くもなる。
●幽霊となった紫陽花
わたしの住まいの近くの高幡不動尊は、紫陽花の花の時季には、人でにぎわう。だけど、関東で、その名所として一番知られているのは、北鎌倉の明月院か。「アジサイ寺」とも呼ばれる。
その近くに住んでいた澁澤龍彦の風雅なる著書のひとつ「フローラ逍遥」に、次のようにある。
「アジサイの花は、萎れてもそのまま放っておくと、いっかな地上に落ちず、かさかさに乾いて自然にドライフラワーになる。萼が緑色をおびて、アジサイの幽霊みたいな感じになる。私はそれが好きで、この天然ドライフラワーを鋏で切って、広口の瓶に投げこんでおくことがある」
●春ぞ経にける
澁澤龍彦のように枯れた紫陽花を楽しむ人もいるかも知れぬ。
しかし、一般的とは言えなかろう。花も人も、旬がある。それぞれにもっとも美しく華やかな時季というものがある。
やはり、女ざかりのうちに色恋をと思う。
老いてなお、色香をただよわす女性もいるが、それは、過ぎし日の色恋があってのことではなかろうか。そんなことを言って、女性をそそのかすこともある。
さて、新古今集から式子内親王の歌をひとつ。
《はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば花にもの思ふ春ぞ経にける》