クセナキスの電子音楽、ミュージック・コンクレート「Persépolis(ペルセポリス)」(1971)。
この曲を聞くのは二度目だ。
前のは、EDTION.RZ盤、2003年に、ダニエル・タイゲがベルリン工科大学の電子音楽スタジオでリミックスしたものだった。
●愉しくない音楽について
クセナキスの作品そのものでなく、現代音楽のひとつのジャンルとなっているミュージック・コンクレートについて思うこと。
さまざまな音等をもとに音響や録音の技術を駆使し、実験的に作ったようなものを音楽と称して、有料で人に聞かせると言うのは、あつかましいも度が過ぎると言えなくもない。
そうは言うものの、聞きたい者だけが、聞けばいいだけのことで、「あなたに強要しているわけではない」と言われれば、それまでだが。
ただ、なんだかまともですばらしいものとなっている状況をどうかと思う。
やりたい人が、何をやろうと勝手なことだが、それを商品としてしまうことに、詐欺みたいだと言いたくなる。
いや、これは、ミュージック・コンクレートに限ったことではない。要するに、聞く者の愉しみを度外視したような音楽作品について思うことである。
また、現代音楽と言っても、いわゆる西洋音楽の延長線上にある。それが西洋音楽のアンチテーゼとしてと言っても、やはり、延長線のうちにある。
いわゆるクラシックというジャンルや西洋から離れた地域の音楽他に、すばらしいものは山ほどある。西洋音楽の前衛ときどったりするのは、西洋中心主義にとらわれた偏狭なものでしかないとも思う。
●今回の「ペルセポリス」
さて、今回の「ペルセポリス」であるが、Asphodel Recordsから2002年に発売されたもので、GRM studioで作られたもの。約60分の曲。
廃墟のなかにいるような気持ちになる。
垂れ下がった鎖が揺れて音をたて、吹き過ぎる風にきしむものがある。
何度も言うけど、クセナキスの作品に接して、聞くのがいやになるということはない。引きこまれてしまうのだ。
このミュージック・コンクレート作品の金属的なノイズは、いにしえから、人の胸の奥に響いている音であり、共鳴するところがあるからいいのだろう。
ただ、人の胸の奥に鳴っているのは、こんな音ばかりではないことを忘れてはいけない。
この作品は、イランの第5回シラズ・ペルセポリス国際芸術祭からの委嘱によるもの。1971年にペルセポリス遺跡で、初演されている。
この地上には、多くの人がそれぞれに多くの思いをもって生き、そして死んできた。
その思いは、肉体がほろびた後も、何らかの音を発し、渦を巻いてきたかも知れぬ。
今も響いているとも言える。
それは、とりたてて、あげつらうようなものではないのだが。
たいしたことではない。
ペルセポリスの広場でブランコがきしむ。
4000年前にひとりの子がこいでいた。