旅の終わりに「行く秋ぞ」

2007-07-31 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」、お終いである。
 芭蕉は、敦賀から南下、美濃の大垣へ。伊勢の静養先から曾良も出迎えに来てくれ、親しき面々と再会を喜び合う。
 「旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて、蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」で、読了。
 芭蕉は、教養もセンスも、そして精神力も傑出していたのだろうな。それでいて、「おくのほそ道」に登場する栗斎や等栽という隠者とは異なって、門人との関係もしっかりつくっておける社会性ももちあわせていたようだ。こんなこと、改めて言うまでもないことだが。一言、感想。
 小学生時代以来の友だちで、今は俳人の東出泰二郎さんが、私の「おくのほそ道」ブログに同行してくださった。素晴らしいコメントもいただいた。どれだけ、気持ちにはりをもらったことか、とても嬉しい。
 7月もお終いである。

「陰晴はかりがたし」

2007-07-30 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は敦賀の港に着く。その夜は、「月殊に晴れたり」。近くの気比の明神を訪ね、月光が境内の白砂を照り輝かす光景を眺める。「御前の白砂、霜を敷けるがごとし」とある。
 「月清し遊行の持てる砂の上」
 翌十五日の仲秋の名月は、雨に降られて見ることかなわず。
 「名月や北国日和定めなき」
十六日は、秋晴れで、敦賀から舟で、種の浜に行く。浜の寺で酒を飲む。十四日夜にも酒を飲んだとの記述がある。「おくのほそ道」、敦賀にいたり、酒が出てくる。
 十六日(陽暦九月二十九日)の一部始終につては、「等栽に筆をとらせて寺に残す」とある。

「道の枝折りと浮かれ」

2007-07-30 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、福井で、等栽という名の古き隠士を訪ねている。十年余り前に、江戸で会ったということである。「あやしの小家」にたどり着く。
 隠士の妻を「侘しげなる女・・・・昔物語にこそかかる風情ははべれ」と表現して歓んでいる。十五夜の名月は、敦賀で見ようと道案内する等栽の姿を「裾をかしうからげて、道の枝折りと浮かれ立つ」とまた、歓んでいる。この節、句はないが、いかにも愉しげである。

「無用の指を立つる」

2007-07-29 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、越前に入る。吉崎で、汐越の松を歌った西行の作を絶賛している。「この一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし」という具合である。こういう言いまわしがあるのかと思う。その和歌、実際は蓮如の作だそうだ。この節に芭蕉の句はない。
このあと、永平寺を参拝している。

芭蕉・加賀での足跡

2007-07-28 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉の加賀の国での足跡。金沢のあとに、小松の多太神社で実盛を偲び、白山を望みつつ那谷寺を訪ね、山中温泉で湯の匂いを愉しみ、大聖寺の全昌寺に泊まっている。この間、曾良が体調を崩し、同行をやめている。
 実盛の首洗いの池や那谷寺は、子どもの頃の遠足コースだった。それぞれの謂われは、郷土史で教わった。最近の子どもたちはどうなのだろう。
 実盛で、「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
 那谷寺で、「石山の石より白し秋の風」の句
 謡曲に「実盛」がある。
 幽霊たる実盛が自らの死を語る。「あつぱれおのれは日本一の、剛の者と組んでうずよとて、鞍の前輪に押し付けて、首掻き切つて捨ててんげり」と。
 また、「鬢鬚の白髪たるべきが、黒きこそ不審なれ、樋口の次郎は見知りたるらんとて召されしかば、樋口参りただ一目見て、涙をはらはらと流いて、あな無慚やな、斎藤別当にて候ひけるぞや・・・洗はせて御覧候へ」と。
 芭蕉の「むざんやな」は、この樋口の次郎の感嘆から。
 これだけでは、話の筋が分からないかも知れない。どうぞ、「平家物語」でも、謡曲「実盛」でもお読みください。

金沢にて「秋の風」

2007-07-27 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、市振の関から、黒部川を渡り、那古浦(新湊市)を経、倶利伽羅峠を越えて、加賀の国に入る。わが郷里である。
 金沢に着いたのは、陽暦八月二十九日である。秋の気配がただよいだしている。
 この節に、「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句がある。兼六園の山崎山近くに、その句碑があって、小さい頃、石に刻まれたこの句を幾度となく読んだ。言葉自体に難しいものはなく、子どもでも楽に読めた。この句から、赤とんぼが連想される。実際、石碑に、赤とんぼがとまっていたように記憶している。
 山崎山には、春夏秋冬、よく登った。つもった雪の上っ面が氷るような朝にも登った。
 山崎山の裏、石引町側に小さな池があった。少し薄暗いところで、近くに氷室も確かあった。兼六園の「水泉」をつくりだす元となる水の取り入れ口もそのあたりだったはずだ。
※兼六園は、庭園として六つの優れた要素を兼ね備えているところから、その名がついている。「宏大」「幽邃」「人力」「蒼古」「水泉」「眺望」の六つである。

勇壮・壮大・艶っぽさ

2007-07-26 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、酒田、新潟、直江津と歩み、市振の関(今の新潟、富山の県境近く)に着く。この行程の九日間、「暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事を記さず」とある。
 この節には、「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句。
 近くの「親知らず・子知らず・犬戻り・駒返し」を訪れた夜、伊勢参りの遊女たちと泊まり合わせての句。「一つ家に遊女も寝たり萩と月」
 勇壮、壮大、艶っぽさ、いろいろだね。

象潟の合歓木

2007-07-26 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は象潟に着く。気持ちの高揚が伝わってくる。「この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、・・・」と記されている。この後に続く情景描写より、この導入部分が素晴らしい。
 象潟での曾良の句に、「象潟や料理何食ふ神祭り」がある。季節、土地を思えば、きっと岩牡蠣も食べたことだろう。
 芭蕉には、「象潟や雨に西施がねぶの花」の句。「ねぶの花」とは、合歓木の花。雨に濡れ、しだれる薄桃色の刷毛のような花。何とも言えぬ色気があるね。
 その花、実は雄蕊。

「水みなぎって」最上川

2007-07-26 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。  
 芭蕉は、最上川で舟下り。「水みなぎって舟危ふし」とある。出羽三山の羽黒山に登り、羽黒権現に参拝。住職にもてなしを受けている。次ぎに、月山に登る。山頂で、「笹を敷き、篠を枕として」朝を待つ。その朝、湯殿山へと下る。その後、鶴岡を経て、酒田港へと到る。健脚である。「最上川」が入る句が二つ。
 「五月雨をあつめて早し最上川」
 「暑き日を海に入れたり最上川」

「佳景寂寞」

2007-07-25 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、尾花沢から、およそ七里先の立石寺に足をのばす。行って還る道のりである。この節は、とりわけ簡潔、歯切れがいい。
 「岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ」と記されている。そして、あまりに有名な一句。
 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」

 昨日、大津にて梅雨明けを迎えた。蝉の声を聞いた。

「涼しさをわが宿にして」

2007-07-25 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、「高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし」という嶮しい山を越え、尾花沢に到る。尾花沢では、紅花問屋を営む商人にして俳人の清風という人に長旅の労をねぎらってもらっている。感謝の意をこめての句。
 「涼しさをわが宿にしてねまるなり」
 「ねまる」というのは、膝をくずして、楽なスタイルでいるというような意味だそうだ。

馬が尿するとき

2007-07-25 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、平泉をあとにして、岩手、鳴子温泉、尿前の関を経る。出羽の国への山越えの途中、風雨に見舞われ、山中の農家に三日間逗留する。その折の句。
 「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」
 寒い地方にはあることだが、人家の屋根の下に馬も同居していたわけだ。
 そういえば、牡の馬が尿をするときは、ペニスが長く垂れる。象もそうで、それは太くて、まさしく五本目の足みたいだ。

三代の栄耀一睡のうち

2007-07-24 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、松山、石巻、平泉と進む。平泉では、「三代の栄耀一睡の中にして・・・」と往時の悲劇を思い、死者たちの霊の安らかなることを祈っている。
 「夏草や兵どもが夢の跡」
 「五月雨の降り残してや光堂」
 「つわもの共の夢のあと」か、胸に迫るものがあるな。志や野望、身を焦がす衝動も、満足に遂げられることは稀で、いつか冥界の者となる。夏草のいきれを嗅ぐとき、浮かんでくる句だ。
生き延びて、遂げられぬ思いをなだめようとしているうちに、やがて身は老いて、そのうち呆けて、あの世行き。

「扶桑第一の好風」

2007-07-23 | 【断想】ETC
 「おくのほそ道」である。
 芭蕉は、松山の景色を「扶桑第一の好風」を言い、「ちはやぶる神の昔、大山祗のなせるわざにや」と絶賛している。
 扶桑とは、日本の異称。北畠親房の「神皇正統記」に関して、このブログに書いたときに触れた。扶桑の木とは、日の出ずるところの架空の神木。