エロースの仕業

2019-01-07 | 【断想】神々
 エロースの金の矢で射られると、やむにやまれぬ恋に狂うことになる。
 美の女神で母であるアプロディテの命によって、エロースは金の矢を射る。
 クレタ王妃パシパエは、牡牛に焼けるような恋情を抱く。
 パシパエは、とんでもない手段をとる。
 造り物の雌牛に、身をひそめて、牡牛と交わり、悦びに酔う。
 そうして生まれたのが、ミノタウロス。
 鋭く尖った角を持つ牛頭人身、毛むくじゃらで牛の蹄をもつ脚、巨体である。
 しかも、人肉が主食という怪物。
 雌牛を造ったのは、ダイダロス。
 ※ギリシャ神話から、自己流に。エロースの数多い悪戯のひとつを。

Asura

2018-06-19 | 【断想】神々
 阿修羅は、サンスクリット語(梵語)のAsuraの発音を漢字に置き換えたもの。
 「生命(asu)を与える(ra)者」、「非(a)天(sura)」と解されもするが、これでは、どちらかというと相反する意となる。異なる性格を持つ神となるが、そのような両面込みの神としての名前であったとしておいてもいいのかと思う。
 西域では、大地に恵みを与える太陽神、インドでは、大地を干上がらせるわざわいの太陽神ともされたそうである。思えば、太陽には、そんな両面がある。
 それで、インド神話では、鬼神ののひとつとされている。怒りの神、戦い好きの神で、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪神である。阿修羅と同類の悪神は他にも多くいた。
 後に、仏教では、釈迦の教えの守護神となる。善神として、その戦闘能の発揮を期待されるのである。
 興福寺の阿修羅からは、通常の阿修羅とは異なる印象を受ける。そのまなざしは、人の持つ業や、この世にともなうわざわいに向けられいるようで、深い悲しみをたたえている。
 以上、興福寺発行のガイドブック「興福寺」、毎日新聞社発行の「阿修羅」等を参考にした。

「阿修羅像」覚書

2018-06-18 | 【断想】神々
 興福寺の阿修羅像は傑出した美術作品であると思う。
 興福寺の八部衆立像のひとつである。
 八部衆は、インド古来の神々であるが、仏法守護等の役目を与えられた。
 もともと異教の神々なので、仏教の教理によったものではない。
 以下の八軀。
 阿修羅(あしゅら)顔が三つ、腕が六本
 五部浄(ごぶじょう)象の冠、下半身だけ残る
 沙羯羅(しゃがら)肩から頭に蛇
 迦楼羅(かるら)頭部は鳥の形
 鳩槃荼(くばんだ)髪の毛が尖っている
 乾闥婆(けんだつば)獅子の帽子
 緊那羅(きんなら)目が三つ、一つは額に、頭に角が一本
 畢婆迦羅(ひばから)顎髭老人
 これらは、造仏所長官である小野牛養の指揮のもと複数の工人で制作されたとされる。
 仏師は将軍万福、彩色のチーフは秦牛養ら。

ゴリアテの対戦相手

2013-05-24 | 【断想】神々
 旧約聖書サムエル記の上と下に、ペリシテ人のゴリアテの名前が出てくる。
 上での戦いの相手はダビデであり、下での相手はエルナハンである。
 ダビデとエルナハンは同一人物なのか。
 ダビデがゴリアテを倒したというのは、作り話なのか。
 この三人のうちに架空の者がいるのか。
 考古学の調査・研究で、史実が判明したものもあるが、わからないことも多い。
 そんなことが、「聖書考古学」(長谷川修一著・中公新書)に書かれていて、なんとも興味深い。

信仰の深さ

2013-04-13 | 【断想】神々
 祈ることによる救い、信じることによる救い、それは、科学的ではないと言われるかも知れないが、確かにあることを誰もが気づいている。
 祈りの強さや信仰の深さを計る物さしをわれわれは持ってはいない。故に、虚妄とも見なされる。ただ、誰も、それだけだとは思っていない。
 わたしたちの知恵には何かが、欠落している。かつては持っていたかも知れぬ知恵を失いつつあるのでないか。
 宗教的なもの、伝統文化というようなもの、これらに対し、感性をはたらかせられぬというのは、生命体としての衰退かとも思う。

むごいことを祈る

2011-09-16 | 【断想】神々
 生きるため、獲物を狙って、身を潜めるとき、豹は、祈るか。
 エピクロスが、人の祈りについて、語っている。
 忘れないよう、記しておく。
 「もし神が人間の祈りをそのままに聴き届けていたならば、人間はすべて、とっくの昔に亡びていたであろう。というのは、人間はたえず、たがいに、多くのむごいことを神に祈ってきているから。」(出隆、岩崎允胤訳)

神社めぐり

2010-08-24 | 【断想】神々
 「この夏、春日大社、諏訪大社、三島大社に行ったよ」
 「どちらも立派な神社ね。諏訪大社は上社と下社があるけど」
 「そうだね、二社四宮をまわったよ」
 「わたし、神社同好会なの。全国の神社めぐりをしているの」
 「どうりで」

すぐそこに神さま

2008-09-11 | 【断想】神々
 小さい頃、教会では、「いつも神さまとともにありますように」と祈った。
 神社では、「神よ、われに力を与えたまえ」と祈った。
 誰かの歌ではないが、神さまは、すぐそこにいた。
 おばあさんとは、お寺に法話を聞きに行きもした。
 日本人の信仰とは。

バベルの塔

2008-08-02 | 【断想】神々
 バベルの塔は、バビロンの南側低地エス・サクンに実在していた。それは、敬神の建造物、神殿であった。塔と呼ばれているが、いわゆる上方への垂直的動きをしめす塔とは、性質の異なるものであった。
 長谷川三千子著「バベルの謎」(中公文庫)に、そのように記してあった。たいへん興味深い本だった。この本のことは、別途記したい。

偉大なるものは天に

2008-06-30 | 【断想】神々
 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。(旧約聖書 詩編147の8節)
 雨は恵みである。雨なくして、食料となる植物は芽生えない。恵みは天から来る。偉大なるものは、天に存するとつながっていく。このような思いは、ユダヤ教、キリスト教において顕著である。
 日本はいま、梅雨。雨は天からふんだんに降り注ぎ、それが当たり前で、特別の恵みとの思いは薄い。

神々の通り道

2007-06-18 | 【断想】神々
 八百万の神々の世界では、いたるところに神が宿る。神木と言われる樹木も多い。その神々がどこからくるのかとなると、さまざまである。樹木そのものが神性をもつ場合もある。一般に、天から降るというのが多いと思うが、必ずしもそうではない。海の向こうからやってくるとすることもよくある。神は、岬の先の小島などを通って、樹木に至り、その枝に座したりする。
 垂直移動だけでなく、水平移動もある。

山の神に向かいては

2007-05-29 | 【断想】神々
 山の神は男神か、女神か。キリスト教では「天に在します父なる神」と祈るが、洋の東西を問わず、総じて、天には男の神、地には、大地母神というように女の神をみるケースが多いようだ。山は、われらの生存のための食料という恵みをもたらすところであり、母性と結びつけられるということが多い。
 マタギの風習には、山に向かって感謝をしたり、願いごとをするとき、男根を晒して行うということがあるそうだ。男根を必要とし、よろこぶとすれば、男より女であろう。
 また、女人禁制の山があちこちあるが、そのわけを山の神は女ゆえに、女どうしの諍いを起こさないため、嶮しい山の危険から女を守るためとする見方がある。女人禁制を男女差別というような角度からだけ見るのは、薄っぺらである。

宇宙の果てと木々と風

2007-05-11 | 【断想】神々
 宇宙の果てのことは、考えないことにした。俺は神ではないから。
 ただ、その神が、人間の脳がつくった神だとしたら、神にも、宇宙の果てのことはわからないだろう。
 常人たる俺にわかることといえば、こういうことだ。
 一昨夜は、風がなくて、木々もじっとわだかまったままだった。
 昨夜は風があって、木々がざわざわいっていた。
 そっちの方が気分がいい。