老いて色香を

2014-11-04 | 【樹木】エッセイ
 先般、九十七歳で、天に召された知り合いの女性がいた。友人が、彼女の思い出を一文にした。
 彼女の幼子のように純真な信仰にふれ、神さまの恵みのうちに自分もあることを感じたとあった。
 某日、入院中の老女を見舞いに行った。いささか意識が混濁しているようであったが、看護師への愚痴を言い、自分の病気のことを顧みず、家に帰りたいと口走っていた。
 人は時と場で、異なった相貌を見せるものであるが、なんだか悲しかった。
●美女も老いれば
 時は、晩秋へ。枯葉の季節。木々は枯れて、葉が落ちても、翌年には新しい葉が芽生えるが、人は枯れる一方。そのうち火葬場行きとなる。
 美女も時経れば、老婆となる。
 老いて、色香ただよわす女性もいるが、ただ醜悪となる女性も多い。 年増の独り身の女性に、よく言ったものだ。
 「いまのうちだよ。もっと年をとると、誰も振り向かなくなるよ」
 「色恋に身を焦がした女ほど、老いても色香を残すものだよ」
 これも、女をたぶらかそうという男の言い草か。こんな戯れを楽しんでおられるのは恵まれたことか。
●安達ヶ原の鬼婆
 人それぞれ、さまざまな星の下に生まれる。自らの力では、なんともし難く、鬼婆となることもある。
 謡曲「安達ヶ原」でおなじみの黒塚の鬼女の話である。荒涼とした枯れ野に吹く風にのって、おのれの業に呻吟する老女の声。そこは、陸奥の安達ヶ原、鬼となった女が棲み、旅人の肉を喰らい、血をすすると言われた。
 伝説では、公卿に仕えていた乳母が、公卿の子の病気を治すには妊婦の生肝が必要との占いにしたがい、それを求めて旅立つ。
 そして、安達ヶ原で見つけた妊婦の腹を裂き、肝をとりだした。殺した後で、その妊婦が、自分を尋ねて諸国を廻っていたわが子と知る。老女は驚愕、狂って鬼女となる。
 無残な運命とも言えるが、老女のうちには、鬼女となる要素があったということか。いや、その可能性は誰にもあるものであろう。
 我欲にとらわれず、他への思いやりを失わず、自制の心を身につけることが大切なのだろうか。
●あの桜を観ない春なんて
 いささか前のことだ。時は春、ところは京都。知恩院の前を通って、円山公園に入った。広く知れ渡っている枝垂れ桜の周りには、人のにぎわいがあった。
 車椅子を止めて、ゆっくり眺めている人も何人かいた。長年、あの桜を観てきた人かなあと思った。からだは不自由になっても、桜は観なくてはということなのかなと、その心根が、なんとも嬉しかった。
 そう言えば、車椅子に座っていたのは、みな姥桜だった。
●姥桜の色香
 京の桜守である佐野藤右衛門の「櫻よ」という本を数年前にとても楽しく読んだ。
 円山公園のかの枝垂れ桜のことにふれて、次のようなことが語られていた。
       ◇
 姥桜はええなぁ。「色香」がある。花にはみな「色気」があるんです。その「色気」を通り越すと、「色香」にかわる。・・・桜も姥桜になると、それまでの「色気」にかわって、ものすごい「色香」が出る。・・・それで、場所が祇園やから、ますます「色は匂へど散りぬるを」ですわ。
       ◇
 男のことは、さておいて、女性のなかには時折、老いて、気品を増す方がいる。
 願わくは、平穏無事に過ごしたいもの。勝手な言い分であるが、老醜で厭われたり、鬼女になったりせず、いつまでも色香をただよわす女性とともにいたいもの。