ブログおさめ

2006-12-31 | 【断想】ETC
 このブログの投稿を始めたのは、9月5日。従って、4ヶ月近くが経ったことになる。この間、一日も欠かさず投稿を続けた。一回の投稿は短いものでもいいから、送ろうと思って、そうしてきた。それだけ、時間にゆとりがあるとも言える。しかし、短文の場合、あらかじめ何を書くか考えておけば、一回の投稿に要する時間は、数分である。だから、何とかなってきた。それでも、出かけた先のホテルのパソコンを使ったり、インターネット・カフェで送ったりということがあった。パソコンを持ち歩けば、いいのだろうが。
 問題は、無理に毎日送ろうとすると、内容の低下をまねくことである。短いものでも、内容について確認が必要な場合があるのだが、適当にごまかすことになる。また、どうでもいいことを書いたりする。「朝ご飯を食べた。昼ご飯も食べた。晩ご飯も食べた」というような類のことは、書きたくないのだが、それに近いものになってしまうことがある。気をつけたいと思っている。
 記事については、以下の姿勢で臨んでいる。
 日々の【断想】は、樹木や森、それにまつわる諸事・文化を中心にすること。それに、宗教のこと。
 【樹木】は、樹木に関連したいささかまとまった長めのエッセイ。
 【読書】でとりあげる本は、自分の好みで手にしたものが中心とも言えるが、友人との読書会で取り上げられたもの、某誌の編集を手伝っている関係で、新刊紹介のため読んだもの等が含まれる。つい、早く読み終えられるものとの意識があり、新書が大部分を占めている。
 私のように、何かテーマをもって、まとまったものを書こうということをしないタイプには、日々、短いものでも書くんだぞと、自分に言い聞かせて、ブログに投稿するのは、向いているかも知れない。後に、まとめ直すということも出来ないわけではないから。

杖にアマンド

2006-12-31 | 【断想】神々
 アマンドというと、東京・六本木交差点の喫茶店が有名である。いつも、そのあたりには人がたむろしている。待ち合わせの場所として、アマンドが目印になっているのである。しかし、アマンドというのは、もともとバラ科サクラ属の樹木である。アマンドというのは、フランス語で、英語では、アーモンドである。
 春に桜に似た花をつける。ソメイヨシノよりは、いくらか大ぶりである。花が終わると、実ができる。その種がいわゆるアーモンドである。
 恵比寿の教会に、アマンドの鉢植えが置いてある。聖書のなかに、しばしばアマンドが出てくるので、信徒の一人が、アマンドとはかくなりと、接ぎ木したものを持ち込んだのである。
 旧約聖書民数記17章のアロンの杖のくだり(日本聖書協会・新共同訳)。
 ・・・・・明くる日、モーセが掟の幕屋に入って行き、見ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。・・・・・
日本では、あまりアーモンドの木を見かけない。地中海沿岸やカリフォルニアという乾燥気味の気候を好むようである。

緑したたるギリシア

2006-12-30 | 【断想】ETC
 紀元前50年頃に完成されたシーザーの「ガリア戦記」では、アルプス以北のゲルマニアの地には、巨大な森があると記され、紀元100年頃の作であるタキトゥスの「ゲルマニア」では、中部ヨーロッパは、鬱蒼とした森で気味の悪いところであると報告されているそうである。クレタ島も古くは、緑したたる島だったそうだが、ヨーロッパでは、まずギリシア周辺の森が破壊される。そして、それが、広がっていく。
今、イタリア、フランス、ドイツの国土における森林面積は、20~30%の間である。17世紀に国土の80%の森を失ったというイギリスでは、今、8%程度である。アメリカでも、17世紀から19世紀の300年のうちに、80%程度の森を破壊している。
 森と湖の国、フィンランドの森林率は70%弱で、日本と同じくらいである。森のあるなし、そこに住む人の心性に違いがあって当たり前である。心性に違いがあったからこそ、森林率にも差ができたとも言える。森を破壊する文明は、破壊する森を失ったとき、破綻する。その時が来ている。地球資源は無限ではないのだ。

桃の実パワー

2006-12-29 | 【断想】神々
 黄泉の国に旅立ったイザナミノミコトを訪ねたイザナギノミコトは、大八島へ一緒に帰ろうと誘う。イザナミノミコトは、自分は既に黄泉の国の住人になり、帰ることはできないと言いつつも、黄泉神と相談してみると応える。そして、決してのぞいてはいけないと言い残して、殿の中に入る。
 待ちくたびれたイザナギノミコトは、つい殿の中をのぞいてしまう。そこに、蛆にたかられ、雷神にとりかこまれた穢れた屍体を見る。禁忌を破ったイザナギノミコトにイザナミノミコトは「吾に辱見せつ」と怒る。そして、逃げ去ろうとするイザナギノミコトを鬼女たちに追わせる。
 イザナギノミコトは、逃げながら、葡萄の木をはやしてその実を食べさせ、竹をはやしてその筍を食べさせて鬼女たちをまこうとする。最後には、悪霊邪鬼たる雷神の兵に追いかけられ、桃の実を投げつけて、ついに退散させる。
 イザナギノミコトは桃の実に言う。「あなたが、私を助けたように、葦原の中つ国に住む人々が、苦しみ、患いなやむときには、どうぞ助けてやってください」と。
 以上、古事記の一節である。
 古来、桃の実には、魔除けの力があるとされてきた。また、不老長寿の力もあるとされてきた。どうしてだろうか。あの形からだろうか。命が連想される形ゆえか。

ゆたかな森と人

2006-12-28 | 読書
【本の紹介】
●世界森林報告/山田勇著/岩波新書/2006.3.22発行/¥780
 
生態学者であり、森林の研究者である著者によって世界の森が紹介されている。熱帯雨林のバリ島のことを皮切りに、まさに、歩きまわった五大陸の森のことが語られている。主な植生のことは勿論、環境破壊の現況にも触れ、たいへん興味深く、また、大事な問題提起もされている。
 美しい棚田のことも語られる。人がなす美の創造であると。
 そして、この本を魅力的にしているのは、世界の森を巡り歩いている著者が、そのことを楽しんでいるのが伝わってくること、そして、それぞれの地域に住む人々の表情が描かれていることである。ゆたかな自然に包まれて暮らしている人は、貧しくとも満ち足りた顔をしていると報告されている。
 ミャンマーの奥地のロンジー姿の女性たち、タイのマングローブ林の篤林家・・・・。人間が、心優しく、ゆたかに生きるということが、どういうことであるかが、自然に伝わってくる。今、われわれが、そのただ中にある文明の主流が、大きな反省の時を迎えているように思わざるをえない。喪してしまったものを取り戻せるだろうか。
 この書はまた、エコツーリズムの視点で、各地の森が眺められている。あなたも、ゆったりした時を求めて、森へでかけますか。

中庭のアンズ

2006-12-26 | 【樹木】ETC
 子供の頃、2年くらい住んだ家の中庭に、アンズの木があった。春にサクラのような花が咲き、2階の窓からすぐ目の前に見える。そして、そのうち丸い実をつける。窓から手を伸ばして、実をもいだりした。
 バラ科サクラ属の木々は、美しい花と実で、わたしたちを楽しませてくれる。アンズ、ウメ、サクランボ、スモモ、モモ・・・みんな、そうだ。アーモンド(アマンド)も同属。春に花をつける。
 今、12月。木々は葉を落としてしまった。これからは、春を待つ季節である。

師走の牡蠣事情

2006-12-25 | 【断想】牡蠣
 金曜の夜、食事をしたイタリア料理の店に、牡蠣はおいてなかった。店のご主人は、手に入れにくいというように言っていた。ノロウィルスのせいである。
 土曜の昼、時々行く焼き肉屋で、生牡蠣を注文した。少し前に行ったとき、おいてあったからだ。ところが、なかった。
 土曜の夜、家で鍋に、スーパーで買った牡蠣を入れて食べた。スーパーから、姿を消すまでにはなっていない。
 以前このブログで、休日に通る道に、オイスター・バーがあると言った。日曜の夕刻、その店に寄った。余り時間がなく、生牡蠣の盛り合わせにグラスワイン1杯くらいでと思っていた。しかし、折悪しく、クリスマス・イブ、予約で満席ですとことわられた。明日も明後日も店はやってますと言われたが、いつも通るところではないのだ。
 これが、12月の生牡蠣事情。いささか食べるのにこだわり過ぎかな。

今宵ベツレヘム

2006-12-24 | 【断想】神々
 今年は、24日が日曜(主日)なので、イブに行われる夕礼拝(燭火礼拝)とクリスマス礼拝が同日となっている。
 「神の御子は今宵しも
  ベツレヘムに生まれたもう。
  いざや友よ、もろともに
  いそぎゆきて拝まずや」(讃美歌111番)
 イエス・キリストの降誕にちなんだ讃美歌はひろく親しまれている。クリスマスの讃美歌は、なんだか、幼ない頃を思い起こさせる。

美しい島のために

2006-12-23 | 【断想】ETC
 「天国に一番ちかい島」とも宣伝されるバリ島。そのバリ島のことが、先般読んだ安田喜憲著「一神教の闇」に記されてあった。
 道脇に石や木の彫刻が、これでもかというくらい並んでいる通りがあるそうだ。それらの彫刻は売り物である。「こんなに作って売れるのですか?」と問うと、「それこそ市場経済に毒された考えだ」と応えられたということである。
 農民が、農作業の暇な時に作ったもので、作ること自体に喜びを見いだしており、売れれば売れたでいいが、本来収入は、農作物で得ているのだ、ということであったそうだ。美しいものを作ることにこそ価値を見いだしているということである。
 作ったから、必ず売らなければというけちくさい発想から生まれたものではないと。
バリ島農民のゆたかな心根を感じるとてもいい話である。しかし一方、街中では、ゴミが増えているということである。かつては、街中でも、通りはいつも掃き清められていていたのに、最近はゴミが目立つようになってきているとも聞く。観光がバリ島民の生活習慣をスポイルしているのでないかと。美しさを大切にする気持ちに変化を生じさせているのでないかと。土産物の木彫などにしても丹誠込めたものが減り、安っぽいものが増えてきていると聞く。
 自分の目で見たわけでも、かつてのバリを知っているわけでもないので、何とも言えないが、大いに想像できることであり、残念なことである。
 このようなことは、バリ島だけのことではない。
美は、いろんな要素・条件があって成り立つ。人の心の脆さをもしらなくてはならない。

大雑把な歴史

2006-12-22 | 【断想】ETC
 いつもバッグに入れているメモがある。以下はそのメモの一部。
150億年前  :宇宙の誕生(ビックバン)
46億年前   :地球誕生
6500万年前 :恐竜大絶滅(恐竜は1億6000万年の間、地球上に君臨)
500万年前  :人間の誕生
1万年前    :人間による農耕、牧畜の本格開始
6000年前  :人類に文明
5000年前  :最初の都市文明(シュメル)
3000年前  :一神教の誕生(寒冷化、天の神が小麦の生産を支配)

牡蠣のシーズン

2006-12-22 | 【断想】牡蠣
 先日、北九州空港で待ち時間がたっぷりあって、ビールを飲んでいた。店先の陳列棚に、殻つきの牡蠣を焼いたものがあったので、おかずにと注文した。ここは、広島にも近いし、うまい牡蠣がおいてあるのでないかと思った次第だ。しかし、今は、やっていないということだった。
 ノロウィルスによる感染性胃腸炎の流行の余波によるものだった。牡蠣フライなら出せるというので、それにした。本当は、生牡蠣を食べたかったのだが。
 牡蠣に直接の因があるわけでないのに、風評が広まり、牡蠣が食卓から敬遠されている。全国第2位の牡蠣産地である宮城県では、出荷を停止などしている。関係業者は、大打撃だ。
 今、牡蠣は旬だ。風評などにまどわされてどうする。今晩は、イタリアンの店で食事の予定だが、牡蠣があったら、食べてやろう。

龍神の棲む欅

2006-12-22 | 【樹木】ETC
 今年も残り少なくなってきた。
 この年に見た樹木のひとつである。秩父札所第14番今宮坊、今宮神社の境内の欅。樹齢500年、幹周8.2メートルという古木である。主幹が失われており、大きな洞があいている。龍神の棲処と言われている。
 見たのは、夏のことだったので、葉が繁り、よくわからなかったが、インターネットで調べて、枯木を見たら、面白い形姿をしていた。恐竜が前肢を天にかかげているかのようであった。また、腕をひろげ、通せんぼをしている大蟇みたいでもあった。太い支幹を左右に伸ばしているのである。
 すぐ傍らに、池があった。確か、龍神池と名付けられていたように思う。いい水にも恵まれて、生きてきたのであろう。
 「駒つなぎの欅」と呼ばれているそうで、徳川家康が馬をつないだということになっている。
すぐ近くまで、人家や車が迫っているせいもあるだろうか、あまり、木に宿る霊を感じなかった。どこかへ、出かけていたのだろうか。

イスラムの預言者たち

2006-12-22 | 【断想】神々
 イスラム教の聖典「コーラン」には、25人の預言者が出てくるという。預言者とは、未来を見通す予言者ではない。神の言葉を預かり伝える人のことである。その25人には、アダムとイブのアダムも入っているが、特に大いなる預言者としてあげられるのは、ノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)、モーゼ(ムーサー)、イエス(イーサー)である。そして、最大最後の預言者が、ムハンマド〈マモメット〉である。
 ノア、アブラハム、モーゼ、イエスは聖書に登場する。
 イスラム教からすると、イエスを神にしてしまったのが、キリスト教の誤りであるということになる。