茶碗と美女たち

2016-12-27 | 【樹木】エッセイ
 和泉式部が「花もみな夜更くる風に散りぬらん何をか明日のなぐさめにせん」とうたったのは、春の花爛漫の季節が過ぎゆく頃のことであったろうか。
 しかし、この歌、四季の移ろいとは関係なく、人生の春遠くなり、齢を重ねていく者のこころに、深く沁みるものがある。
 花のごとき美女たちも老い、鬼籍に入った友も増え、身の衰えが現実となると、明日のなぐさめは何かと惑ってしまう。
●白い抹茶碗
 気に入りの茶碗でお茶をすすることを老後のなぐさめにしようというわけではない。ただ、以前から、焼き物には興味があった。
 神谷町で骨董屋をやっていた老人が造った徳利や盃を家で使っていた。仕事柄、目利きなのか、いにしえの名品を模してのそれは魅力的であった。そして、いつしか抹茶碗にも興味を抱くようになった。
 秋のはじめ、八王子の西放射線ユーロードで陶器市があるのを知って、出かけた。有田、唐津、萩、備前等々と全国津々浦々の焼き物がならぶ。
 その中に、福山に窯をもつ人が自分で焼いたものを売っている店があった。わたしより少し年下のお喋りの方で、わたしが手にとって見ていた茶碗の説明をしてくれた。
 「牡蠣の殻を粉状にして用いた。なかなかうまくできなかった」と。
 牡蠣好きのわたしとしては、放っておけず、買い求めた。
 茶碗やお茶に関心をもちだして、よかったことのひとつは美女との交流にひろがりができたことか。
●温かみのある茶碗
 以前、お祖父さん手造りという温かみのある茶碗でお茶を点れてもらった。点れてくれたのは、顔の輪郭が、ボッティチェリの描く女性に似てくっきりとした美女である。武人にして茶人の古田織部のことを教えてもらいもした。
 某日、彼女と焼き鳥と赤ワインで、よもやま話をした。いつしか、彼女も四十代なかばで、独身。
 「女は、本能に発するかも知れないけれど、子どもがつくれる時期を過ぎると結婚観が変わる。過ぎてしまうと、前のようには結婚を意識しなくなる」と、何だかふっきれたような言。
 これから子どもをつくることはないにしても、彼女はまだ若い。結婚と言う「呪縛」をはなれた次元で、もっと男との充実した関係をつくられんことを。世の中、男と女、男と過ごす愉しみは、多くの潤いや豊かさをもたらすだろうに。当然、わずらわしさもともなうだろうが。
 こう思うのは私の心の何ゆえか。
●しぶい茶碗
 自分と同世代の六十代後半の女性に対すると、いささか思いも異なってくる。
 かつて仕事の同僚で、今は裏千家の師匠をしている方が、時折、お茶会に招いてくれる。わずらわしい作法を教えてもらいもしたが、身につかない。でも、嬉しく思っている。
 それなりに立派な茶碗で、お茶を点れていただく。
 茶席で使われた柿の蔕と呼ばれるしぶい茶碗が気に入って、欲しいと言ってみたが相手にされなかった。
 当然ながら、彼女の周りの女性には、それなりの年齢の人、独り身の方も多い。皆、いまだ色香をたたえているとも言えるが、色事の対象として、見ることはない。
 「いい男を見つけてはどうなの」と声をかけても何だか他人事。
 私の心の何ゆえか。
 こんなことを言うと、「あなたのような禿頭の老人に、とやかく言われるのははなはだ迷惑、おおきなお世話、筋違い」とののしられそうである。
 さしずめ、わたしの「なぐさめ」は、こんなたわいもないことを言ったり書いたりすることか。
 (月刊誌「改革者」2016年12月号)