コブシまだ咲かず

2008-01-31 | 【樹木】ETC
 コブシの花期は、3月頃から。まだ間がある。コブシは迎春花とも呼ばれる。スペード形の樹形をして、他の木の花に先駆けて、枯野に白い花をきわだたせる。北国では、その花を見て、農作業を始めたりする。
 宮沢賢治の「詩ノート」に、コブシが出てくる詩を見つけた。
  こぶしの咲き
  きれぎれに雲のとぶ
  この巨きななまこ山のはてに
  紅い一つの擦り傷がある
  それがわたくしも花壇をつくっている
  花巻温泉の遊園地なのだ

通り道の牡蠣の店

2008-01-30 | 【断想】牡蠣
 休日に買い物に出かけたときには、大概、牡蠣を買って帰る。ほとんどバター炒めで食べる。牡蠣が好きだ。
 休日によく通る道にオイスター・バーがあった。店が開いていない時刻に通ることが多くて、なかなか入れなかった。一度、店が開いている時刻に通り、ようやく牡蠣が食べられるかと思ったら、忘年会シーズンだったかで、予約がないと駄目と断られた。そうこうするうち、店が移転した。その場所はすぐ近くだったので、そのうち機会を見つけて行こうと思っていた。
 昨夜、友人と広尾で食事をした。その帰り、その店の付近を経由するとになり、1年越しの思いを果たした。生牡蠣を白ワインを飲みながら食べた。ゆったりしたなかなかいい店である。また、行こうと思う。
 このように牡蠣にこだわるのは、おいしい牡蠣と豊かな森、水が不可分の関係にあるからで、木々へのこだわりの延長である。

安眠高臥対青山Ⅱ

2008-01-29 | 【断想】ETC
 1月22日のブログに書いた「安眠高臥対青山」であるが、その出典を調べてもらったら、「五灯会元」には、とりあえず見あたらなかったということであった。載っているとされた箇所が間違っていて、見つけられなかったのかも知れない。
 中国の宋の時代の仏書である「碧巌録」に、一字違いで「閑眠高臥対青山」とある。バージョンの違いと推測される。

桃の花を待つ

2008-01-29 | 【樹木】ETC
 黄泉の国のイザナミノミコトを訪ねたイザナギノミコトは、そこで禁忌を犯し、鬼女、雷神の兵に追われることになる。そして、その恐ろしき追っ手に桃の実を投げつけることによって逃れた。古来、桃の実には魔を払うパワーがあるとされた。
 イザナギノミコトが投げた桃については、普通の桃の実でなく、山桃の実でないかとの説を何かで読んだ。サイズ、色合いが異なって、その場景のイメージが違ってくるが、そうかなあとも思う。
 桃のことを書こうと思ったのは、次の宮沢賢治の文に触発されてのことである。凄いなと感じた。童話「烏の北斗七星」の一節である。
 《夜がすっかり明けました。桃の果汁のような陽の光は、まず山の雪にいっぱいに注ぎ、それからだんだん下に流れて、ついにはそこらいちめん、雪のなかに白百合の花を咲かせました》
 そんな朝を眺めたいものだ。

雪の枯葉

2008-01-24 | 【樹木】ETC
 夜、ベランダから、マンション前の小さな公園を見下ろすと、大きな枯葉がいっぱい落ちていた。今時いったい何の葉か、こんな葉を落とす木はないはずだと思いつつ、周りの木々を眺めた。
 しかし、よく見れば、枯葉と見えたのは、今日降った雪が地表にまだらに残っているのだった。

 一夜明けると、枯葉と見えたものは、雨に溶けていた。

腐った死骸を体内に

2008-01-23 | 【樹木】ETC
 これまで何度か、樹木の命の姿について触れてきた。改めて以下を記しておく。
 「昆虫記」で有名なファーブルは、次のように言っている。
 心材が硬化しにくく腐ってしまうような樹木について、「腐敗した死骸を体内にかかえつつ、表面はあふれるような生気を楽しんでいるのだ」と。いずれにしろ樹木が生命活動を行っているのは、樹皮の下の層の部分や葉、花であり、「若いと同時に老いており、死んでいると同時に生きているのだ」という存在であるということだ。
 生命とはなんだろうか、生きるというのはどういうことだろうか、命の継承とは何かと思わずにはおれなくなる。
 ※引用は、「ファーブル植物記」(日高敏隆・林瑞枝訳、平凡社ライブラリー)

梅の花を待つ

2008-01-23 | 【樹木】梅
 梅が花つけるのを待つ。
 あと1ヶ月くらいか。
 住まいの窓の外の梅の木は、蕾をいっぱいつけているが、昨年2月に吉野梅郷で買った鉢植えの枝垂れ梅は、蕾の数が少ない。何かがいけなかった。今は、少ない花でも、それが開くのを待つしかない。

安眠高臥対青山

2008-01-22 | 【断想】ETC
 禅語に、「老倒疎慵無事日 安眠高臥対青山」(五灯会元)というのがある。
 友人から調べごとを頼まれて、たまたま知ったものだ。
 《老いも深まり、もう何ごとにもこだわることがなくなった。横になって、うつらうつら緑なす山を眺めているよ》そんなような意味だ。
 わたしは、まだ「老倒」とまではなっていないが、生きていれば、いずれその日が来る。世俗へのこだわりから解き放たれることはあるだろうか。終日、青山を眺めて過ごすというような環境に身をおけるだろうか。

銀竜にからむ古桐

2008-01-22 | 【樹木】ETC
 岡倉天心の「茶の本」(村岡博訳・岩波文庫)を斜め読みした。先般読んだ「照葉樹林文化とは何か」(佐々木高明著・中公新書)に、茶を飲む習慣は照葉樹林文化のものとあった。そう思って読むと、確かにそうなのである。中国については、南北に違いがあることが述べられていた。茶の習慣は、南方発生の文化である。
 茶とは直接には関係ないが、「第5章 芸術鑑賞」に道教の「琴ならし」という物語が紹介されていて、桐の木が出てくる。その表現が面白いと感じたので記しておく。
 「大昔、竜門の峡谷に、これぞ真の森の王と思われる古桐があった。頭はもたげて星と語り、根は深く地中におろして、その青銅色のとぐろ巻きは、地下に眠る銀竜のそれとからまっていた」
 古くて大きな木の表現として、成る程なと思わせられた。

蝋梅はロウバイ科

2008-01-22 | 【樹木】梅
 そろそろ、蝋梅の季節。あの蝋のような透明感のある黄色い花びらが何ともいい。昨年、吉野梅郷で、蝋梅の花を見たのは、2月だったろうか。梅の花が咲き出す頃だった。
 蝋梅は、名に梅とあるが、ロウバイ科ロウバイ属の樹木であって、梅とは異なる。梅はバラ科サクラ属である。

狼とのトラブル回避

2008-01-21 | 【断想】ETC
 柳田国男の「遠野物語」に狼が登場するのは、36話から42話である。
 読んで思うのは、狼は理由もなく人を襲うということはないのではないかということである。狼ばかりではないかとも思われるが。
 狼の鳴き声を真似して、狼の神経を尖らしたり、狼の子を殺したり、人の過剰な警戒心や恐れが、刺激してしまったような時にトラブルが起こっているようである。犬を怖がる人ほど犬に吠えられるというのと同じである。
 以前、ものの本で、獲物をめぐっては、猟師と狼の間には、暗黙のルールがあったと読んだ。狼に追い立てられたであろう獲物を図らずもしとめたときには、猟師たちは、狼の取り分を、そこに残したという。
 「遠野物語」の中にも、狼に殺されたばかりと見られる鹿を見つけたときのお爺さんの判断の話がある。鹿の皮は欲しいが、狼が手にした獲物を横取りしては、狼との間にトラブルが発生すると、あきらめるのである。狼とともに生きるには、こういう知恵が必要なのである。

栗ときのこのご馳走

2008-01-20 | 【樹木】ETC
 宮沢賢治の「狼森」は、本文では黒い松の森とされている。その森には、狼が現れる。狼たちは、子供たちと一緒に過ごしたかったようだ。人里から連れ出した子供たちを自らの馳走とはせず、栗やキノコをご馳走しているのである。狼のひとつの側面と言えるのだろう。