“エディプス王”

2018-09-30 | 【断想】音楽
 ストラヴィンスキーの「エディプス王」(1926-27)。
 ジャン・コクトーのシナリオ(ダンドリューによるラテン語訳)による2幕のオラトリオ・オペラ。
 「疫病がわたしたちに襲いかかる・・・」とのナレーションではじまる。
 登場するのは、エディプス王、その妻イオカステ、イオカステの弟クレオン、盲目の老予言者テレシアス、羊飼い、使者。
 ソフォクレスの悲劇がもとになっている。
 ライオス王は、生まれてくるわが子に殺されるという神託を受けたことが発端となる物語。
 悲劇的な運命にもてあそばれる人間の姿が描かれている。
 このエディプス(オイディプス)の物語は、様々のかたちで芸術作品になっている。
 映画で見たこともある。
 この「エディプス王」のクライマックスは、真相を知ったイオカステの自殺、両眼をえぐり取るエディプス。
 ストラヴィンスキー固有の暗さがない曲と感じた。
 また、小沢征爾指揮の演奏は、とてもめりはりのあると感じた。
 《小沢征爾指揮/サイトウ・キネン・オーケストラ/Shinyukai Male Choir/PHILIPS》

“riturn to forever”

2018-09-30 | 【断想】音楽
 チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」。
 1972年録音、クロスオーバー・サウンドの口火を切った作品だ。
 フリー・ジャズばかり聞いてきたわたしには、生ぬるいと感じた曲。
 ただ、わたしの好みとは関係なく、70年代ジャズの方向を示したものとして注目され、大ヒットした。
 特に、アルバムのB面、「サムタイム・アゴー~ラ・フェスタ」が話題となった。
 きれいで、クリアで、癒しのある曲調、音である。
 政治の世界では、ノンポリの時代へ。
 激しさからやさしさへ。
 チック・コリアは、エレクトリック・ピアノ。
 女性ヴォーカルが入り、フローラ・プリムの美しい声。
 アルバム名の「リターン・トゥ・フォーエバー」は、A面。
 他に、「クリスタル・サイレンス」、「ホワット・ゲイム・シャル・ウィ・プレイ・トゥディ」。
 命名をみても、傾向がわかるというもの。
 ECM盤。

“Persépolis”

2018-09-30 | 【断想】音楽
 クセナキスの「Persépolis(ペルセポリス)」(1971)。
 8トラックのテープによる電子音楽。
 ダニエル・タイゲが、2003年に、ベルリン工科大学の電子音楽スタジオで、ミックス・リマスターしたもののようだ。
 「ペルセポリス」は、50 分を超える長い曲だ。
 タイトルとなっている「ペルセポリス」は、古代ペルシャの都の名である。 
 クセナキスの作品のCDをさがして、ネットを見ていたら、ある人が、「ペルセポリス」について、以下のような紹介、コメントをしてた。
 「最初は聴くのが辛いかもしれませんが、凄絶な美意識に感動するでしょう・・・・・そして様々な妄想や疑問が湧きあがってきます」
 また、ある音楽の評者は、クセナキスの音楽を聴くことについて、「正直しんどい」と語っていた。
 しんどい音楽は山ほどあるが、どういうわけか、わたしは、クセナキスを聞いて、そうは感じない。
 いつも、何が原因だろうかと思っている。
 確かに、「ペルセポリス」も、騒音と言えば、騒音である。まぎれもなく、そうである。
 こういう音を、音楽として、改めて聞くことに、どういう意味があるのかと思う。
 そういうことを考えさせるための曲と言ってしまうと、どういうものでも、意味があることになる。
 ただ、人が、騒音をもって、無音をもって、音楽作品としても、そこに、作者の個性が反映される。
 そこに、好き嫌いが出る。
 ・・・・・確かに、いろいろ考えさせる。
 ちっとも、美しくなくても、それなりの感情は湧いてくる。
 例えば、建設中の建造物は、完成をもってひとつのものとなるが、工事中であっても、ひとつの姿をなしている。
 さびてきたない鉄骨を見ても、それなりの感慨は抱くものだ。
 「ペルセポリス」は、1971年の作品だ。
 モダン・ジャズの世界では、アルバート・アイラーが亡くなり、フリー・ジャズの時代から、フュージョンの時代へと移った頃だ。

“CANDY”

2018-09-29 | 【断想】音楽
 リー・モーガン(トランペット)
 ソニー・クラーク(ピアノ)
 ダグ・ワトキンス(ベース)
 アート・テイラー(ドラム)
 1958年録音、ブルー・ノート盤。
 ホーンは、モーガンひとり。
 いかしたアルバム、
 ファンキー・・・・。
 かっこよくあること・・・・。
 もったいぶったり、もっともらしかったり・・
 そんなのがなくて、気分良く聞ける。

ジャズ来るべきもの

2018-09-29 | 【断想】音楽
 オーネット・コールマンの「ジャズ来るべきもの」。
 1959年の録音だ。
 ドン・チェリー、チャーリー・ヘイデン、ビリー・ヒギンズと一緒だ。
 コールマン・カルテットのデビューだ。
 いまや、フリー・ジャズの古典。
 音を肉声に近づけるとか。
 サックスは、奏者の息づかいがあらわれやすいとか。
 でも、今、聞くと、何だか平板な感じ。
 当時は、ジャズに限らず、「来たるべきもの」に心躍らせて、このアルバムに接した。
 アトランティック盤。

“Polytope de Chuny”

2018-09-29 | 【断想】音楽
 クセナキスの電子音楽「Polytope de Chuny(クリュニーのポリトープ)」(1972)。
 寂れた町の廃れた工場の近くで、強風の日に耳をすましているような。
 人影はないが、さまざまな音がする。
 重い扉がすれている。
 どこかに大きな穴が空いていそうだ。
 何かが流れ出ているのか。
 こんな曲をわざわざ作ることもなかろうに。
 作らなかったら、聞くこともなかったろう。
 この世は、無駄だらけ。

“Terretektorh”

2018-09-29 | 【断想】音楽
 クセナキスの管弦楽曲「Terretektorh(テルレテクトール)」(1965-66)。
 88の楽器のオーケストラのための曲。
 「Terretektorh(テルレテクトール)」の意味は不明。
 じめじめした沼地を歩くのでなく、かたく固まった地の上をどこからか聞こえてくるおとを聞きながら歩む。
 その音は、森が発するものではない。
 《Orturo Tamayo指揮/Residentie Orchest The Hague/MODE》

“Metastaseis A”

2018-09-29 | 【断想】音楽
 クセナキスの管弦楽曲「Metastaseis A(メタスタシス・転移)」(1953-54)。
 クセナキスの最後の作品であるパーカッションと小オーケストラのための「オメガ」は聞いたが、普通に管弦楽曲とされるものは、聞いていなかった。
 この「Metastaseis A」が初めてだ。
 クセナキスの作品の中で、初期のものである。
 この前、1951 年作で、未公表の「Six Chansons」を聞いた。
 まだ、クセナキスの独自性が鮮明になる前のものだった。
 ただ、個性の元は現れていて、好ましい感じを抱いたが。
 「Metastaseis A」は、「クセナキス」になっている。
 どうしてか、親しみを感じる。
 硬質の美がある。
 以下で聞く.
 《Orturo Tamayo指揮/Orchestra Sinfonica RA/MODE》
 65人のミュージシャンによる管弦楽団のためのオリジナル・バージョンとある。

えのころ草

2018-09-28 | 【草花】ETC
 某日、えのころ草をみて、思い出す。
 ティタン神族の末子クロノスのこと。
 西脇順三郎「旅人かへらず」48
  あの頃のこと
  むさし境から調布へぬける道
  細長い顔
  いぬたで
  えのころ草
 同じく「旅人かへらず」122
  十二月の初め
  えのころ草の枯れ
  黄金の夢は去り
  夢の殻のふるへる

山杜鵑

2018-09-27 | 【草花】ETC
 この前、散歩していて、ヤマホトトギス(山杜鵑)の花を見つけた。
 久しぶりに見つけた。
 「やったぁ」と言う感じ。
 さて、名前はと、間違えたくなく、改めて図鑑を開き、確認した。
 ヤマジノホトトギス(山路杜鵑)は、花びらが反らない・・・などと。
 そんな時間、よき時と言えよう。

“妖精のくちづけ”

2018-09-27 | 【断想】音楽
 ストラヴィンスキーの「ディベルトメント」を聞く。
 バレエ音楽「妖精の口づけ」から編曲された管弦楽曲。
 4楽章でできており、第一は「シンフォニア」、第二は「スイス舞曲」、第三は「スケルツォ」、終わりは「パ・ド・ドゥ」。
 以前、よく聞いていた好きな曲のひとつである。
 曲調には、かったるいところがあり、はれやかな気分にはなれない曲。
 これは、ストラヴィンスキーが持って生まれたものの反映だろう。
 ラテン的なものからは、遠い。
 《リッカルド・チャーリー指揮/ロンドン・シンフォニエッタ/DECCA》
 この洋盤のCDは同じものが2枚あり、そのうえ、ほぼ同じ曲が収められ、演奏も同じ日本盤をもっている。
 うっかり買ってしまったようだ。

“クラリネット狂詩曲”

2018-09-27 | 【断想】音楽
 ドビュッシーの「クラリネットのための狂詩曲」(1909-10)。
 《アンセルメ指揮/スイス・ロマンド管弦楽団/Robert Gugholz(クラリネット)/DECCA》
 続けて、「Clair de lune (月の光)」も聞いた。
 これは、独立した曲なのだろうか。
 いずれも、普通に聞きよい曲である。