木の芽ときの歌

2009-03-31 | 【樹木】ETC
 1.朝、薔薇の赤っぽい若い枝葉が千切れ、折れていた。
   何者かの仕業である。
   近くの木で、鵯が騒いでいた。
 2.痒いなあ。
   落ち着かないなあ。
   木の芽どき。
 3.春がすすむ。
   桜が咲く。
   週末は花見か。
 4.色っぽいのがいいな。
   蕪村の一句。
   ゆくはるや同車の君のささめごと
 5.シャワーを浴びるつもりで。
   西脇順一郎の詩はいかがですか。
   「旅人かへらず」の37。
   何者かの投げた
   宝石が
   絃琴にあたり
   古の歌となる


花水木の十字架

2009-03-30 | 【樹木】ETC
 教会暦ではいま、受難節。
 ゴルゴダの丘へ向かうイエスの姿が想起されます。
 あの十字架は、ハナミズキ(花水木)を材としていると伝えられている。
 ハナミズキの木というと、あまり大きなものを見かけたことがなく、そんな材がとれるのかなと思う。
 かの地では違うということか。
 十字架として使われて以来、大きくならなくなったとの伝もある。
 また、白い4枚の花びらには長短があって、十字架を思わせると。
 ※田中修著「都会の花と木」(中公新書)を参考にした。

あちこちコブシ

2009-03-30 | 【断想】ETC
 コブシ(辛夷)の白い花。
 この季節、こんなにあちこちにあったのかと、気づかせる。
 時の流れのなかで普段忘れていたことが、時として思い出されたりする。
 必ずしもいいことばかりではない。
 何十年も前のままで、とどまっている自分にも気づく。

ボケいろいろ

2009-03-29 | 【樹木】ETC
 ここのところ、外を歩いていて、紅い花を咲かせたボケ(木瓜)が目につく。
 梅の花が終わり、桜の花が咲き出す頃である。
 梅や桜は、バラ科サクラ属だが、ボケは、異なる。バラ科ボケ属。
 平安時代に、中国から渡来したと言われる。
 一本の木に紅と白の両方の花が咲いていたりする。園芸種が多い。
 花に桃色が混じると、ヒボケ。
 白に淡紅のぼかしが入ると、サラサボケ。
 小形種に、クサボケ。
 俺は、イロボケ。

檻のなかのシベリアオオカミ

2009-03-29 | 【断想】ETC
 羽村の動物園には、シベリアオオカミがいる。
 いつもの道を迂回して、動物園に寄った。
 はじめてシベリアオオカミを見たときの印象が強く残っている。
 大きさ、すばやい動き、全体から精悍さが発していた。
 ところが、今日はなんだか老けて見えた。
 全体に穏やかな感じなのだ。
 森を忘れ、檻になれてしまったのか。
 おまけに、檻の外へ向けて、小便をした。
 でも、こいつと素手で闘って、勝てるとは思わなかった。
 俺は、オオカミを「尊敬」している。

「けしからぬかたこそあれ」

2009-03-28 | 【断想】ETC
 紫式部日記に記された和泉式部評の部分をもう一度、訳してみた。なるべく、余計なプラスマイナスをせずに。
【私訳】和泉式部というひとは、すてきに歌を交わしました。ですが、けしからぬところがありました。さりげなく、さらっと文を書くと、才がきわだち、その言葉に香りたかさがありました。歌は風雅でしたが、歌の知識や理論には足りないものがあって、まことの歌人とは言えません。思いつくままの即興にも、必ずすばらしいところがあって、目を引くものが含まれています。
【原文】和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほいも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと、ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへ侍り。

紫式部の和泉式部評

2009-03-28 | 【断想】ETC
 花に喩えるなら、式子内親王は清楚な梅の花、和泉式部はにぎやかな桜の花か。
 竹西寛子の「式子内親王」を読んでいる。
 和泉式部の歌について、次のようにあった。
 内親王の歌との比較のなかで、「一時代前の和泉式部の歌にも、観念性はあった。ただ和泉式部は、観念を、決して観念らしくあらわさなかった。読者として彼女の観念性に想い到るのは、あるいは、私達の内なる観念を喚起するのは、終始、彼女の肉体の声を通じてであった。感覚を貶めまいとする観念と、すぐれた感覚におのずから宿る観念との違いであろうか。」と記している。
 また、二者の属する階層の違いがもたらす歌の表現にふれつつ、「王朝の『女房歌人』のすべてが和泉式部のような歌を詠み得たのではなかった。そこには紛れもなく王朝の一階級に属していながら、この世にただ一つという体質、資性、才能の発露がみられるのである。」と。
 紫式部日記に記された和泉式部評を読んでみた。
 以下は、私のいい加減な訳である。後で、誤解がないよう原文を載せておきます。
 【私訳】和泉式部という方は、男性ととてもすてきな歌のやりとりをしました。それはいいのですが、男性にちやほやされていなと気がすまないようなところがあって、しかも、すぐさまからだの関係もできてしまう困ったところがありました。何か節度が欠けているのです。さりげなく、さらっと風雅な歌を詠む才がありました。そのなかにきらりと光るものがあるのです。ところが、歌論的な素養がなくて、本格的な歌人とは言い難い方でした。

ベランダから見る鳥たち

2009-03-27 | 【断想】ETC
 住まいのベランダにいて、よく見かける鳥たち。イヌシデやコブシの梢、常緑のシラカシやトウネズミモチの繁み、また地上に。
 ヒヨドリ(鵯)、キジバト(雉鳩)、メジロ(目白)、サンショウクイ(山椒喰)、スズメ(雀)、ムクドリ(椋鳥)、セキレイ(鶺鴒)。そんなところか。いや、烏もいるな。声だけで姿は見かけぬが、ウグイス(鶯)もいるな。それから、随分前から、そのいい声で、気になる鳥がいる。みかけはアカハラのようなのだが、名前がわからない。
 先般、このブログに、コゲラ(小雀)みたいのをよく見かけると書いたが、図鑑などで、調べてみると、尾羽の長さや頭の白色、細身の体つきなどから、サンショウクイと思われる。
 その名前は気にもなるが、総じて、鳥への関心は薄い。
 鳥の声に、オリビエ・メシアンのように、聖なるものを感じることもない。
 ただ、住まいの周りに木が多く、鳥たちがよくいるのは、いいことだと感じている。

紫式部と和泉式部

2009-03-27 | 【断想】ETC
 紫式部日記に、紫式部からみた和泉式部のことが書かれているという。
 恋多き女と言われた和泉式部には、反道徳的なところがあるが、歌の才には他の追随をゆるさぬキラリと光るものがある。ただし、論理的な文を書く才はないというような評であるようだ。紫式部日記で、確認してみたいと思う。
 紫式部は、根気よく長文が書ける小説家タイプ、一方、和泉式部は、より感覚派というか、詩人タイプだったのかなと思ったりしている。

鉢植え樹木の現況

2009-03-27 | 【樹木】ETC
 ベランダに鉢植えの樹木で、梅、櫟が一鉢づつ、薔薇が二種で二鉢、無花果が三鉢ある。
 梅は、紅枝垂れで、ほとんど花が枯れた状態だ。虫につかれたり、健康体ではない。
 櫟は、実生のものである。枝先の芽が大きくなってきている。
 薔薇は、大胆に剪定してあったが、今はまた、葉を繁らし出している。元気である。
 無花果は、昨春、一鉢の無花果の枝を切り、挿し木で二鉢増やした。
 もとの根つきの無花果が一番大きく、その頭頂の芽は、ほんの少しひらきかけている。
 特に観察するということでもないが、その変化を見ている。

夕桜を見に行こうか

2009-03-27 | 【樹木】櫻
 昨夕、これから花見に出かけるというひとがいた。
 東京の桜、花を楽しむにはもう少しか。
 京都の蕪村は花見が大好きだったそうだ。
 よく門人などに、東山知恩院あたりに夕桜を見に出かけようとか、握り飯を用意して嵯峨野あたりに行こうよと誘ったとということだ。蕪村の花の句をひとつ。
  花に来て花にいねぶるいとまかな

「けふのみの春」

2009-03-26 | 【断想】ETC
 先日、東京に桜の開花宣言が出された。
 昨日、国会図書館の前を通ったら、そこのソメイヨシノがちらほら花をつけていた。
 今朝、そんな三月下旬、空に雪がちらついた。
 ここ数日、春のコートにしていたが、 冬に着ていて汚れたコートをまた着た。
 汚れたコートというのも、嫌いじゃない。
 今日のような日もあるが、季節はめぐる。
 そのうち、春爛漫、桜花、霞か雲かとなる。
 そして、いつしか、春が過ぎ去っていく。
 与謝蕪村の春の句をひとつ。
  けふのみの春をあるひて仕舞けり
 時の流れ、過ぎた時への慚愧、名残惜しさ・・・・。
 金曜日には、「このまま帰るのもさみしいな。誰かつきあってくれる奴いないかな」。
 老年には、「このまま、この世、終わりにしたくないな」。
 そんな思いも。

それぞれの枕

2009-03-26 | 【断想】ETC
 それぞれの枕、そこに男と女。
 帰り来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふたちばな(式子内親王)
 枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部)
 誰ためのひくき枕ぞ春のくれ(与謝蕪村)