「形而上的な観念性」

2009-04-01 | 読書
 竹西寛子著「式子内親王」(講談社文芸文庫)の2章に、次のようにある。

「前小斎院御百首」の中から、
  見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
  浮雲を風にまかする大空の行方も知らぬ果ぞ悲しき
二首を撰んだ私の、内親王の作品における形而上的な観念性を重んじたい立場はすでに明らかであろう。

 最終章の「・・・・人間を超えるものへの思いを自然に引き起こす・・・・」と通じるものと思う。「形而上的な観念性を重んじたい立場」という言い回しにも共通するのだが、著者自身が、どう感じ、どう思うかをストレートには表現していない。あくまで傍観者的、評論家的なのである。おそらく、そういうスタイルに、つまらなさを感じてしまうのだろう。

竹西寛子の「式子内親王」

2009-04-01 | 読書
 竹西寛子の「式子内親王」(講談社文芸文庫)を一応、読み終えた。一応としたのは、読んで理解したというより、目を通し終えたに近いからである。
 総じて、期待はずれであったと言える。内親王の和歌が多く取り上げられているのは、それが読めていいのだが、竹西氏の文章が、わたしには分かりにくいものだった。一つの文がやたら長かったりして、読んでいるうちに、何が何だか分からなくなるということがままあった。もともと、古文の読解力、知識に乏しいうえに、苦手の文章に辟易した。
 著者の思いを端的に分かり易く、読者に伝えようとはしていないかのようである。悪く言えば、このような文章を書くひとは、自らのうちにも混濁があるのではないかと。このようなエッセイに、韜晦は必要としないはずである。
 よって、折角の式子内親王のすばらしい歌をあまり愉しめなかった。
 内親王の歌に関して、最終章に「・・・・神といわず仏といわず、人間を超えるものへの思いを自然に引き起こす・・・・」との表現の評があった。要するに、このように感じているということだと思う。それでいいのだが。

桜のときへ

2009-04-01 | 【樹木】ETC
 昨夜、一昨夜と、桜並木の道を帰る。
 多摩動物公園のまえをはしる通りである。
 かつて並木の桜が伐られ、道が整備されて、あらたに植えられた桜の木だ。
 だいぶ、木も生長し、さまになってきた。
 一昨夜より昨夜と、桜の花は多くひらいていた。

さくられうらんたれば

2009-04-01 | 【樹木】櫻
 4月。室生犀星の桜の詩からはじめよう。
  春の寺
 うつくしきみ寺なり
 み寺にさくられうらんたれば
 うぐいすしたたり
 さくら樹にすゞめら交り
 かんかんと鐘鳴りてすずろなり
 かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
 をとめらひそやかに
 ちちははのなすことをして遊ぶなり
 門もくれなゐ炎炎と
 うつくしき春のみ寺なり