竹西寛子著「式子内親王」(講談社文芸文庫)の2章に、次のようにある。
「前小斎院御百首」の中から、
見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
浮雲を風にまかする大空の行方も知らぬ果ぞ悲しき
二首を撰んだ私の、内親王の作品における形而上的な観念性を重んじたい立場はすでに明らかであろう。
最終章の「・・・・人間を超えるものへの思いを自然に引き起こす・・・・」と通じるものと思う。「形而上的な観念性を重んじたい立場」という言い回しにも共通するのだが、著者自身が、どう感じ、どう思うかをストレートには表現していない。あくまで傍観者的、評論家的なのである。おそらく、そういうスタイルに、つまらなさを感じてしまうのだろう。
「前小斎院御百首」の中から、
見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
浮雲を風にまかする大空の行方も知らぬ果ぞ悲しき
二首を撰んだ私の、内親王の作品における形而上的な観念性を重んじたい立場はすでに明らかであろう。
最終章の「・・・・人間を超えるものへの思いを自然に引き起こす・・・・」と通じるものと思う。「形而上的な観念性を重んじたい立場」という言い回しにも共通するのだが、著者自身が、どう感じ、どう思うかをストレートには表現していない。あくまで傍観者的、評論家的なのである。おそらく、そういうスタイルに、つまらなさを感じてしまうのだろう。