ハンテンボク

2006-10-31 | 【樹木】ETC
 ユリノキの別の呼び名がハンテンボク。半纏木と書く。葉の形が半纏に似ているからである。以前、プラタナスが鈴懸と呼ばれるのは、その葉の形が篠懸衣に似ているからと、間違って言ったのは、このユリノキのことと混同したことによる。昨日気づいた次第。
 ユリノキの花は、ワイングラスのような形をしている。英名はチューリップ・ツリー。雨が降ると、花の器に雨がたまる。風が吹くと、たまった水が、ポシャッと落ちてくることがある。
 雨あがりのあと、ユリノキ並木の下を歩くときは、気をつけなくてはいけない。

神への道

2006-10-29 | 【断想】神々
 休日の朝、森を大切にする文明の行方を思っていて、人間の未来を想像した。
 人間は、地球上で、自然破壊を進めることによって、その存在を示してきた。人間も地球を構成する一要素と考えれば、その一要素が繁栄・跋扈すれば、他の要素に影響を与えるのは、当たり前である。
 人間は、平和を希求もするが、戦争が途絶えたこともない。
 自然破壊も戦争も、人間の発生の時から、遺伝子に組み込まれた属性であるともいえる。それを変えたいとすれば、どうすればいいだろうか。当然、変えなくてもいいという考えもあるが。
 ただ、人間には、知恵がある。これ以上、自然破壊を進めれば、生物としての人間の存在が危うくなるということを知るようになった。戦争をすることはやめられないが、それは多大な悲惨をもたらすこと知ることが出来る。
 このような「知」も人間の属性のひとつである。科学技術の発展は、人間により多くの「知」をもたらした。おそらく、人間の属性である攻撃性、破壊・自滅への渇望という要素を消し去ることも出来るようになるだろう。人間自らの手で、人間のもつ遺伝子を変えてしまうということもできるようになるだろう。
 人間は、自らの脳で考えだしたことを、次々につくりだしてきた。しかし、まだ、神はつくらていない。いや、個人的な修練を通して、神となった人間はいたのでないのか。ただ、いまのところ、量産はされていない。量産技術ができたとき、どうするであろうか。人間は、今の人間であることをやめ、神になるのか。

樫の木

2006-10-28 | 【樹木】ETC
 いつも通る道に樫の木がある。常緑であること、樹の姿、樹皮、ギザギザのある葉の形、ドングリができること等からシラカシかアラカシであることまでは見分けられる。しかし、どちらか分からない。カシの分布では、関東にはシラカシが多いというが。
 ものの本で、アラカシの葉の方が大き目で幅広であるとか、鋸歯の際だちに差があるとか、ドングリが卵形だとか卵球・円形だとか、樹皮は灰黒色でざらつくとか、皮目があるとか違いを説明されても、実際のところ、判断がつきかねる。多分、シラカシだなと思ってみても、自信がない。
 最近発行された「樹皮ハンドブック」(林将之著・文一総合出版)をみていたら、アラカシの項に「樹皮でシラカシ等と区別するのは困難か」とあった。そのように言われるとなんだか、ホッとする。それが、シラカシであろうと、アラカシであろうと、私の暮らしにはほとんど関係ない。それでも、専門家が、見分けが難しいといってくれると安心する。
 木にシラカシ、アラカシとの名札がついているところを知っている。今度また、よく見てみよう。

古代植物・イチョウ

2006-10-27 | 【樹木】ETC
 6500万年前、中生代白亜紀末、地球上において恐竜が絶滅している。この白亜紀の前のジュラ紀が2億1200万年前から1億4300万年前、その前の三畳紀が2億4700万年前からで、その中期に針葉樹やイチョウ類、ソテツ・シダ類の森ができたということである。ジュラ紀から白亜紀にかけて、約1億6000万年の間、恐竜が地球上に君臨した。
 イチョウは、この中生代からのもので、「生きている化石」とも言われる。億万年の生命を続けているのである。また、一科一属一種という希有な植物でもある。イチョウはそこいらにあって、珍しくはないが、たいへんな植物なのである。
 人間が誕生したのは、500万年前と言われる。人間が、自然に翻弄されるだけでなく、農耕、牧畜という独自の営みをはじめて、まだ1万年である。
 人間の生息は、恐竜の跋扈にくらべ、その長さはささやかなものである。まして、イチョウにくらべると、足もとにも及ばない。

イチョウと頭髪

2006-10-26 | 【樹木】ETC
 先日の夕方、小雨が降り出した。傘をさすのが面倒だったので、衆議院の議員会館から地下鉄の国会議事堂前まで、イチョウ並木のしたを速めに歩いた。なるべく雨に濡れないように、イチョウの木の下を選んで歩いた。駅に着いて、しばらくしてから、まずかったかなと思った。
 イチョウには、強い精分がある。イチョウの実は臭い、実の落ちていた路上には、しみが残るくらいだ。木の下には、ほとんど草がはえない。イチョウの木からしたたる「しぶ」というのか、その精分が強いからであるということを思い出していた。
 私の頭は髪が薄くなった。まずかったかなと思ったのは、イチョウのしたで、いくらか雨はよけられたが、イチョウの精分を含んだ雨水が、私の頭皮に落ちなかったとは言えないことだ。草を生やさないんだから、髪の毛もはやさないのでないか。
 まあ、そんな心配をする段階は、越しているのでないかと言えば、そうだろうが。

柿木畠の棗

2006-10-25 | 【樹木】ETC
 金沢の柿木畠に、日本基督教団の金沢教会がある。教会のわきから前を鞍月用水が流れている。今、教会の前は暗渠になっている。かつては、流れに架かった橋を渡って、祈りの時にむかったものだった。それは、かけがえのない恵まれたエントランスではなかったろうか。
 かつては、水が流れ、橋があり、教会前に樹木が数本並んでいた。確か、ヒマラヤ杉だったと思う。モミの木の方がいいのになと思っていたが。流れには、そういえば鰻も棲んでいた。教会前の小さな橋の下には、コウモリも棲んでいた。ヒマラヤ杉のてっぺんや教会の屋根の十字架には、鳶がとまっていたりした。鳶が蛇をくわえていたこともあった。
 今はどうなっているか知らないが、礼拝堂の裏に庭があった。それなりの広さがあった。
 隣の家との間には塀があった。塀にのぼると、そこに棗(ナツメ)の木があった。隣の家の庭に生えていたのである。実がなっているのを見つけたときは、サッとあたりに目を配り、サッと手を伸ばして、実をとって食べたものだ。味のうすい林檎という感じだったかな。
 私たちは、多くのものを無くしながら、暮らしている。

柿の木は人里に

2006-10-24 | 【樹木】ETC
 「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」あまりに知られている正岡子規の一句である。
 京都嵯峨の芭蕉も訪れたという去来の閑居「落柿舎」。なにやら人の気持ちを落ち着かせる名前である。
 柿の木のある風景を思い浮かべると、そこには人家がある。茅葺きでも、瓦葺きの家でもいいが、木造純和風の家の庭で赤い実をつけているのが似合うように思う。
 柿は、日本原産。日本の風景にピッタリで当たり前。柿の実の食べ方もいろいろだが、ともかく、そのおいしさは世界一級と思う。
 言いたかったのは、柿の木は、森より人里にあってしっくりする木であるということ。あたたかみや落ち着きを感じさせる木である。

小さい頃、金沢の柿木畠という町にいたことがある。そのことは、いずれまた書くこともあるだろう。

核・中国の脅威

2006-10-24 | 読書
本の紹介】
中国の「核」が世界を制す/伊藤貫著/PHP研究所/2006年3月発行/1400円

※以下は、備忘のためもあって、記したものです。

●国際政治へのスタンス
 「平和主義者」が跋扈する日本なるがゆえに、極めて貴重な本である。
 著者は、国際関係の理解の仕方を、二つのパラダイムに分けて説明している。ひとつはリアリスト・パラダイムであって、主に軍事力の均衡、バランス・オブ・パワーから捉えていくものである。もうひとつは、ウィルソニアン・パラダイムと呼ばれるもので、国際ルールの強化や国際組織の充実、経済の相互依存性を高めることによって、平和が達成されるとする考えである。日本外交がどちらのパラダイムにあるかは、言うまでもない。
 どちらのパラダイムがより平和を実現するかも検証されている。平和・非戦的なウィルソニアン・パラダイムにある者が、平和の維持に貢献しているとは限らないことが語られている。伊藤氏は、リアリスト・パラダイムの立場で論じている。
 中国については、基本的に覇権主義国家と分析し、経済的豊かさが、自由化や民主化に結びつかない現実を指摘している。中国共産党は、これまでに、推定3800万人から6500万人の殺人を行うことによって、勢力拡大と体制維持をしてきており、このやり方を放棄することは、現在の共産主義体制を崩壊させることにつながり、選択されることはなかろうと述べている。
●高まる中国の脅威
 中国は、アメリカの親中派とも結びつき、着実に国力を高めている。現在の成長が続けば、2020頃には、アメリカと肩を並べるようになると見られている。核戦力も増強され、宇宙開発、すなわちこれからの戦争能力の向上も進められている。
 日本が進めようとしているミサイル・デフェンス・システムの構築も無力化の日が近いと。
 中国は核兵器開発を推進した理由を「現在の国際社会で自主的な核抑止力を持たない国は、真の独立国として機能できない」「米ソ両国は、同盟国を守るために核ミサイルの撃ち合いをするような愚かな国ではない」等と挙げている。このリアリズムを、われわれ日本人は持たなくてはならないのでないか。
●日本の選択肢
 日米同盟について、アメリカには、日本に自主防衛力を持たせないためのもの、日本が国家として自立しないためのものとの認識があることが披露されている。このことは、日本人として、深く胸におさめなくてはならないことだろう。自衛隊の実態を考えると、アメリカの認識・意志がわかろうというものだ。
 また、アメリカには、日本の核武装を容認してもよいという考えを持つ者もいることにも言及している。
 いずれにしろ、中国は、今後、日本にとって最大の脅威となること、それに対応する選択肢はなかなか厳しいこと、何もしなければ、属領となってしまう恐れがあること。日本を守るには、中国よりアメリカと組んだほうがましであると。
 本書の結論は、日本は、核武装を含めた自主防衛政策の推進と日米同盟維持政策を両立させるべきであると言うことである。独立国としての日本の生命線は、そこにあると。
 大東亜戦争に負けたが、天皇制は存続した。中国が日本を支配したら・・・・・・。

「戦う動物園」

2006-10-24 | 読書
【本の紹介】
●戦う動物園/小菅正夫・岩野俊郎著 島泰三編/中公新書/2006年7月発行/840円
 二人の動物園長の語らいを中心にまとめた本。一人は、「行動展示」で話題の旭川・旭山動物園、もう一人は北九州・到津の森公園。閉園もしくは、閉園の危機から劇的な再生を果たした理由が何であるかが、伝わってくる。当然ながら、動物のことも語られているわけだが、読者は人間の生き方について、おおくの示唆を得ることになるだろう。危機・困難にあって、スジを通すこと。動物、人、社会への愛着としっかりした眼差しを堅持すること。動物園の存在理由が問われ、説かれる。

柿泥棒

2006-10-23 | 【樹木】ETC
 確信・計画犯であった。僕たちは、バケツや籠を用意して、そこに向かった。塀を越える。見張りをおく。木に登る。ほれぼれするほど美味そうな見事な柿の実。以前から目を付けていたのだ。そこの柿は特別だと。柿の木の枝は折れやすいから気をつける。どんどんもぐ。地上の者は、次々受け取る。僕たちは、密かに、その場を離れる。計画の成功、大いなる収穫に喜びの声をあげた。
 金沢で少年の頃、秋の日の想い出だ。

おもわぬ木蔭

2006-10-22 | 【断想】神々
 いつも気持ちを平静に保つことは、難しいことだ。気がかりなこと、心配なこと等を抱えていると、先のことについて悲観的になりがちだ。
 今日、歌った讃美歌のひとつ。536番。

 むくいをのぞまでひとにあたえよ、こは主のかしこきみむねならずや。
 水の上に落ちて、ながれしたねも、いずこのきしにか生いたつものを。
 あさきこころもてことをはからず、みむねのまにまにひたすらはげめ。
 かぜに折られしと見えし若木の、おもわぬ木蔭にひともや宿さん。

 どこかの岸にたどりつくと思おう。おもわぬ木蔭に巡り会えると信じよう。

クマシデ属

2006-10-21 | 【樹木】ETC
 外へ出た帰りに、イヌシデの枯葉を一枚ひろってきた。特に感興を呼ぶようなものでなく、単なる落ち葉である。イヌシデは、カバノキ科クマシデ属の木で、同属にクマシデ、アカシデ、サワシデ(サワシバ)等がある。総じてあまり変哲のない雑木で、注目されることも少ない。サイズも中型。
 クマシデの果につく葉状の苞、果穂はイヌシデに較べて、ふっくら太めである。イヌとクマの違いと覚えればいい。アカシデは名の通り、秋に葉が一番赤っぽくなり、いかにも紅葉、きれいだなと思わせる。イヌシデは淡黄色。こんな風に見分ける。
 これらの木は、風媒花で花粉を風で飛ばす、実も果苞が翼となって風に乗る。風まかせ。いい風が吹くといいね。

全山、楓

2006-10-20 | 【樹木】楓
 紅葉の楓のしたを歩いて、なんて美しいのだろうと感じた記憶がある。中学生の頃だったと思う。金沢からそんなに遠くない医王山あたりで見た楓だった。
 小さい頃から、赤い葉のモミジは知っていた。モミジより大きい葉の楓のことも知っていた。だけど、全山、楓かと思わせるそこで見た楓は、街中で見るものより、葉も大きく、色は中間色風で、やさしみがあって、ただ美しかった。
 こんなことを思い出すとは。
 そういえば、その近くに、小さな湖があった。そのほとりに、山小屋というか、バンガローというには少ししっかりした建物があって、何度か泊まった。そこで、夏、西瓜を喰った。あそこで、神さまの話を聞いた。

「悪魔のささやき」

2006-10-19 | 読書
【本の紹介】
●悪魔のささやき/加賀乙彦/集英社新書/714円
 もうこの世の中嫌になったな、そんな時、あなたの背中を一押しするもの。ある者は自殺し、ある者は殺人に手を染めもする。行動にいたる不思議な時のはざま。あなたの耳元に悪魔のささやき。犯罪心理の研究・分析から、日本人の性行、今の世の諸相についても鋭いメスが入れられる。大東亜戦争に突き進む日本人、戦後の「民主主義者」への豹変、進歩的文化人の跋扈、草木もなびく全共闘等々、著者はそこに同じものを見る。悪魔のささやきを聞くことなく過ごす術も語られる。