水に縁あるヤマブキ

2009-04-13 | 【樹木】ETC
 吉野川岸のやまぶき咲きにけり嶺のさくらは散りはてぬらむ(藤原家隆)
 新古今和歌集に収められている一首である。
 ヤマブキ(山吹)は、湿気の多い地を好むようである。
 秩父だか富士山麓だったか、どこかでヤマブキをメインにした公園に行ったことがある。
 全体に薄暗く、じめじめしたところで、水車小屋もあったように思う。
 公園奥の傾斜地を歩こうかと思ったが、蝮に注意との標識があり、やめた。
 そう言うことで、ヤマブキが詠まれている和歌には、川や蛙がよく出てくる。
 蛙を食べる蛇までは、出てこないようだが。

ムルソーの幸福

2009-04-13 | 読書
※ここのところ、アルベール・カミュの小説「異邦人」(新潮文庫)のことを、このブログで、何度か取り上げた。その際、翻訳者の名前を間違って記していた。白井浩司でなく、窪田啓作である。お詫び申し上げます。訂正させていただきました。

 カミュの「異邦人」は広く読まれた小説である。
 主人公のムルソーへの共感が、多いからであろう。
 私たちは、悲しくないのに悲しい振りをしたり、振りをしているうちに本当に涙を流したり、それぞれに己をごまかしつつ暮らしている。
 世間で受け入れてくれる「よき人」を演じているとも言える。
 裁判は、一般的な通念、良風とされる観念を集約したものを、判断材料として行われる。 もし、個々人が、己をごまかすことをやめ、演じることをやめてしまうと、ムルソーのようになってしまう。ただ、実際は、己のうちなる声に、耳を傾けることなく、この世を過ごす人が大概か。
 社会のルールというのは、時とともに変化もする。地域によっても異なる。いずれにしろ、絶対的なものとは思えない。あらかたの人が、それでよしとすという程度のものだ。ただ、それもなかったら、あらかたの人が困ることになる。
 ムルソーの司祭とのやり取りも、信仰や神のことがテーマになっているが、同じようなことかと思う。特に、キリスト教文化圏にない、日本では、ムルソーの考え、スタイルも受け入れやすいのでないか。
 久し振りの小説だった。
 一番最後にあるムルソーの思いを記した部分が印象的だった。意味がとりにくいところがあるが、以下の通りである。
 「・・・・・死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。・・・・・・そして、私もまた、全く生きかえったような思いがしている。・・・・・・と星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。・・・・」
 これは、宇宙との一体感のようなことだろうか。

蓑ひとつだになき

2009-04-13 | 【樹木】ETC
 ヤマブキ(山吹)の花には、一重五弁のものと八重咲きのものがある。
 八重の山吹は、実をつけることがない。八重というのは、雄蕊や雌蕊が、花びらに変化していることが多い。山吹においても、雄蕊は花びらとなり、雌蕊は退化してしまっているのである。
以下、有名な話である。
 降り出した雨にこまり、蓑を所望した太田道灌に、村娘が差し出したのは、八重の花がついた山吹の枝であった。道灌は、その意を解さぬまま、蓑を手に入れることなく、その場を離れた。
 後になって、道灌は、次の和歌を知り、不明を悔いる。
  七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき(兼明親王)

吹く風と山吹の花

2009-04-13 | 【樹木】ETC
 春の野に咲く山吹色(ヤマブキイロ)の花。
 その花の色は鮮やかである。
 それは、色の名ともなった山吹(ヤマブキ)の花。
 バラ科ヤマブキ属の落葉低木。
 古今和歌集から、紀貫之の一首。
  吉野川岸の山吹ふくかぜにそこの影さへうつろひにけり
 木々の緑がいっきに増えている。
 春はすすみ、うつろう。