【巴川】

【巴川】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 8 日の日記再掲

母が他界したことの予想通りの心の痛みとは別に、思いがけない心の変化があって戸惑うことが多い。

母が末期のすい臓ガンとわかった 2 年前の夏から煙草を一本も吸っていない。
母は娘時代に患った肺結核で片肺を失っていたので、なるべく母の前では煙草を吸わないようにしていたのだけれど、さらにガンであるとわかったので願をかけたわけではないけれどタバコを止めることにしたのだ。そのころ一日の喫煙量が 60 本で、これはちょっとひどいなと思ってもいたのだ。

何の禁断症状もなくふわっと喫煙を止めて丸二年になる。介護中に吸いたいと思ったこともないタバコが、母の遺品整理で心がきりきりと痛むたびに、吸いたくて吸いたくてたまらなくなるのに驚いた。線香やロウソクを見るたびに「(ああ、これがタバコだったらなぁ)」などと思ったりする。こんなことは二年間に一度もなかったことなのだ。

友人によれば、喫煙の習慣というのは幼い頃の母乳を唇で探し求めて吸いつく=口で乳首にしがみつくことによって依存する体験が十全に得られなかったことによる口唇愛(こうしんあい)の変形したものなのだそうだ。そういわれてみると母を失った寂しさと喫煙願望は容易に結びつく。

   ***

戸田書店刊『季刊清水』38 号が出来上がって書店店頭に並んだらしい。

表紙デザインを担当させて頂いて 3 号目であり、今回も見開き 2 ページで巴川に関するエッセイの依頼もいただいた。

ファイルの日付で確認すると 7 月 25 日となっており、母がいよいよ衰えてきて大変な時期で、こちらの怠慢も重なって遅れ遅れになっていたので、ドタバタとしたデータ入稿となり関係者にご迷惑をおかけしたのを思い出す。

写真上:巴川と四方沢川の合流地点「よもざわはし」橋上から。
写真下:巴流(ぱる)大橋。巴川と塩田川を跨いでいる。
Data:RICOH Caplio R1

「巴川というもうひとりの母」と題して原稿を書いたのだけれど何を書いたかまったく覚えていない。ファイルの日付は 2005 年 7 月 24 日 16:07 になっているので、母に昼食を食べさせたあと蒸し暑い 2 階に上がって夕食の買い出し前に書き上げたのだろう。

静岡県清水能島。
祖父母の家は堀込橋上流の川端にあった瓦工場だった。入江新富町で生まれた僕は両親とともに、母が少女時代結核で隔離されていた離れで暮らしていた時期があるので、アルバムをめくると巴川の写真がたくさん出てくる。

「巴川」について何かを書くと必ず昭和三十年代初頭の綺麗だった巴川の話になってしまい『季刊清水』にもそんな思い出話を書いたのだと思う。

写真上:塩田川。この川は水量が不安定だが魚影が濃い。小学生時代、見事な虹色の婚姻色が出たヤマベを釣ったことがある。
写真下:9月3日の巴川。向こうに見えるのは堀込橋と静清バイパス。
Data:RICOH Caplio R1

介護をしながら仕上げた表紙とエッセイは母に見せることができなかったけれど、「店頭に並びました」と言われて意外な心境の変化に驚く。

清らかだった昔の巴川が大好きなのだけれど、昔の巴川よりいま現在、今日この時の巴川の方がもっと好きになっているのに驚く。巴川に限らず昔の清水が大好きだけれど、いま現在、今日この時の清水の方が今はもっと好きなのである。

そう思って、母が亡くなった後この日記に掲載するために撮影している写真を見ると、感傷的な黄昏時は別にして、明るい日中の写真は初めて清水の街に生まれ出たように嬉々としているのに気づく。

母乳を唇で探し求めて吸いつく=口で乳首にしがみつくことによって依存する体験によって始まる口唇愛は物理的に母親から離れることによって【永遠の母親】という根源的依存対象を獲得するという高次な接触の仕方に成熟するのだそうだ。

非常に高尚な話過ぎて友人の言わんとすることの全ては理解しがたいけれど、「垂乳根(たらちね)の母」からも「巴川というもうひとりの母」からも離れることによって成熟したのかもしれないなぁ、と都合のいいとこどりして自分のことをそう思ったりしている。

【 5.6 キロ】

巴流(ぱる)大橋から巴川河口までは 5.3 キロあると標識に書かれている。

僕にとっての巴川は巴流大橋の上流 300 メートルにあった祖父母の家から下流域を意味している(上流にはほとんど行ったことがなかった)ので、巴川の全長は 5.6 キロメートルだとも言える。

そのわずか 5.6 キロメートルの流域に語り尽くせない思い出があり、そしてこれからその数倍もの思い出が作って行けそうな気がするのであり、それが人であれ物であれ、凡庸なものを好きになるということの凄味なのだろう。

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