弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

親指シフトキーボードそしてGW

2008-04-28 18:36:40 | サイエンス・パソコン
4月27日の朝日新聞beの1面「日曜ナントカ学」は、「ケガをしないパソコン追求」と題して、長時間パソコンを使い続ける人が、肩こりや頭痛などを起こさないようなパソコンを追求しています。

「それなら親指シフトキーボードだろう」と突っ込みを入れようと2面を開いたら、何とそこには親指シフトキーボードの話題が掲載されていました。ありがたいことです。

「仮名で入力できるキーボードなど、ストレスを軽くするための工夫も行われてきた。たとえば、富士通による『親指シフト方式』。」
「『各文字の出現頻度はもちろん、文字の連なり方の特徴などまで、徹底的に日本語を解析、どの文字配置が指の動きを最小限にできるかを考えた』と開発者の神田泰典・富士通顧問は振り返る。」

それは、親指シフトを使う私にはよく理解できます。ごく普通の日本語文を入力するときは、きわめて快適に指が動きます。それに対し、カタカナ語の入力となると、とたんに指の動きがぎくしゃくするのです。カタカナ語は文字の連なりが普通の日本語と異なるので、親指シフトの特質が生かされないのですね。

「愛用者は今もいる。文筆業者、司法関係者など、長い文章を書くことの多い『プロ』が多いのが特徴だ。翻訳業の竹内裕さん(名古屋市)もそんな一人。
『書くのは、日本語と英語が半々。どちらで書いているのかわからなくなって、しばしぱカタカナ語を英語のスペルのまま打ったりする。両者を別のシステムにしておいた方が効率的。一種のバイリンガルです。』」

“英文入力が多いからこそ、日本語をローマ字入力で打つことに抵抗がある”として親指シフトを使っている人は確かにいます。日常に英文入力を行っている人にとって、"computer"を"konnpyu-ta-"などと打つのは大きな抵抗でしょう。

「『打つ文字と表示される文字が違うローマ字入力は、日本語を書く方法としては自然ではない。定着したのは、ある意味不思議』と、人とコンピューターの問題に詳しい奥野卓司・関西学院大教授(社会学)ははなす。」

次に記事は、携帯電話のテンキー入力について述べます。
「達人と呼ばれる人は、100字の漢字かなまじり文を1分で打ち込むことができるという。」
「10個だけのキーは、何よりも覚えやすい利点がある。テンキーだけのパソコンの時代の到来も予感させる。」

これはまたおかしな方向に話が展開したものです。
「覚えやすい」を第一に考えるなら、五十音順のキー配列が候補に挙がるはずです。たしかにワープロ専用機の初期にはこのようなキー配列がありました。私が最初に買ったオアシスライトFも、設定で五十音順配列に変更することが可能でした。
しかし五十音順配列は普及しなかったわけで、ちょっとでも習熟したあとはおそらく使いづらい配列なのでしょう。

携帯入力方式は、打鍵数が恐ろしく多いのではないでしょうか。たとえ親指1本入力ではないにしても、打鍵数の多さで腱鞘炎になるはずです。なお、高速入力を実現している達人は、おそらく仮名漢字変換機能の助けを借りて少ない文字入力で文章を書いているのでしょう。それであれば、普通のキーボードでもその機能を使おうと思えば使えるのですから、キーボード比較を行う上ではどちらかの条件に合わせるべきでしょう。

「達人で100文字を1分」と驚いていますが、文字入力シロウトの私でさえ、20年ほど前には漢字仮名まじり文を10分間で900文字入力するスピードでした。親指シフトです。
親指シフトには、シロウトでもこのレベルに比較的簡単に到達できるというメリットがあります。

そして今回の記事「日曜ナントカ学」の最初のテーマである「ケガをしない」という観点でも、親指シフトに軍配が上がるはずです。打鍵数の少なさから、腱鞘炎になりにくい打鍵方式であると思っています。


すでに世の中はゴールデンウィークに突入しています。私も明日から旅行に出かけます。旅行先からアクセスできるかどうかはわからないので、次の発言は旅行から帰る5月7日以降になると思います。

それでは皆さん、よい連休を!
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金賢姫拘束の真相(5)

2008-04-26 11:31:26 | 趣味・読書
昨年の12月15日にフジテレビ放送の『大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち~封印された3日間~』を見て以来、このブログでは4回にわたって金賢姫拘束に至るできごとで知り得た事実を述べてきました。
昨年12月16日 金賢姫拘束の真相
  12月26日 金賢姫拘束の真相(2)
  12月28日 金賢姫拘束の真相(3)
今年1月29日 金賢姫拘束の真相(4)

参考文献としては、
砂川昌順著「極秘指令~金賢姫拘束の真相
李鍾植著「朝鮮半島最後の陰謀―アメリカは、日本・韓国を見捨てたのか? 「非道な北朝鮮」と「愚かな韓国」
を読みました。

フジテレビの番組を見るまで、金賢姫拘束に至る主役は韓国官憲であると単純に信じていました。ところが、日本の在中東大使館員たちが独自の調査で、バーレーンに潜伏する金賢姫らに到達し、バーレーンから出国しようと試みた金賢姫らを拘束するに至ったらしいことがわかりました。
私はそれでも、韓国官憲ルートと日本大使館ルートがそれぞれ独自に金賢姫に到達したのかなと、類推していました。たとえ日本大使館ルートが存在しなくても、韓国官憲ルート単独でも金賢姫に到達しえたのではないかと。

ところが、砂川さんが書いた極秘指令~金賢姫拘束の真相によると事実は異なるようです。
複数の情報相互間で矛盾がある場合、砂川さんの本の内容に(たとえ誇張はあるにしろ)嘘はないものとして扱いました。矢原さんがご存じの範囲で「それは違う」というところがありましたら、ぜひ教えてください。

《在バーレーン日本大使館での動き》
1987年11月30日午後、アラブ首長国連合の日本大使館から極秘大至急電報が入ります。「大韓航空機が行方不明になったことと、その飛行機からアブダビ空港で降りた客の中に2名の日本人名らしき客がいること、貴国に入国していないか調べてほしい」という内容でした。
調査開始時の時刻は4時6分です。
大使館員として航空会社に問い合わせても相手にしてもらえません。砂川さんは裏ルートを使い、ガルフ航空の搭乗者名簿の閲覧に成功、「シニチ、マユミ」という2名の名前を見つけました。
砂川氏は直ちに空港に向かいます。出入国管理官室で膨大な入国カードの調査を開始します。砂川氏は、2人が搭乗機を予定より早い便に変更したと自分で推理し、その推理に基づいて入国した時刻を勘で予想し、入国カードの山の一部から調査を開始します。勘は当たり、チェックをはじめて6、7分経過後に2人の入国カードが見つかりました。
その日の夜、本国の外務省から出張でやってきた審議官との夕食会の席上で砂川氏は「バーレーン中のホテルに電話をかけまくりましょう」と提案します。まず最初に目星をつけたリージェンシーホテルに電話をしたら、果たして2人は滞在していたのでした。砂川氏が蜂谷真一と電話で話をします。話の様子から、砂川氏はこの2人がただの旅行者でないことに気付きました。テレビ番組では、参事官が蜂谷真一と話を交わしたことになっています。

《韓国官憲ルート》
空港において、砂川氏立ち会いの下で蜂谷真一の所持品チェックをしたところ、在バーレーン韓国大使館の金書記官の名刺が見つかりました。名刺には、大韓航空機の墜落を示唆する文字がボールペンでメモ書きされていました。ホテルで金書記官が2人に接触したことを物語っています。
2人が自殺を図り、病院へ搬送された後、韓国大使館の金書記官が空港に飛び込んできます。「ホテルで会った時は、二人は単なる旅行者だと思ったのですが・・・。まさか、こんな事態になるとはまったく想像だにしていませんでした」
韓国当局から2名について外務省を通じて在バーレーン日本大使館に照会があったことなど、一切登場しません。
これが真実とすると、韓国ルートにおいて、蜂谷真一と真由美にバーレーンで面会までしていながら、単なる旅行者であって爆破犯人であるとは気付かず、あやうく取り逃がすところだった、ということになります。


《在UAE日本大使館での動き》
こちらについて、私は情報をほとんど持っていません。
番組紹介その他によると、「大韓航空機が突然消息を絶った」というそれだけの情報から、矢原さんは「爆破墜落した可能性が高い」「日本人が関与しているのではないか」「搭乗員名簿を自分の目で確かめるべきだ」とお考えになり、調べた結果、問題の飛行機からアブダビで降りた「シニチ」「マユミ」の2名の名前を発見します。
その後の2人の足取りは不明であるまま、中東の各日本大使館に「大至急調査して欲しい」との緊急電を発します。


ところで、写真でイスラームというブログサイトで、昨年末にこの話題が記事になり、矢原さんが発言なさっているのを拝見しています。

このサイトでの矢原さんの以下のご発言が気になっていました。
---矢原さんのご発言---
韓国警察が何故でてきたのか、これも不思議ですよね。
11月30日、私がしつこく調べているのに不審を抱いた、大韓航空のアブダビ支店長からの「日本大使館はいったい何を調べている?」との問いに初めて「二人の日本人名が搭乗者名簿にある。」と答え、ここから韓国側が大騒ぎし始めたのを覚えています。その後韓国大使館とは連絡をとりましたが、韓国警察とは一切接触も、情報交換もしていません。

韓国大使館との関係ですが、私が大韓航空に二人の日本人名を伝えた後、韓国大使館と情報交換を約束し、事実、色々な情報のやりとりをしました。ただ、大韓航空のK支店長や大使館の人たちは、手柄を自分のものにしたいという欲望があったのかもしれませんね。

シンイチとマユミの二人がバーレーンへ向かったとの情報を入手した後は、これをバーレーンに電報と電話で連絡し、その後は連絡を取り合っていましたから、これ以降のアブダビの様子はバーレーンでも承知していた筈です。二人が当初計画していたGF353便からGF003便に変更してバーレーンに向かったこと、バーレーンに二人が入国した情報も含めて、私が入手した情報は全てバーレーンにも連絡してあります。(番組では少々違うようになっていますが)

番組では、塩原、砂川そして私の三人の事だけが強調されていますが、他にも事件解決のキーパーソンが何人かいます。
今回JALが取材を拒否したため、彼らのことはあまり触れられていませんが、JAL(番組では日系航空会社となっていました)のT氏とY氏の協力なくして事件は解決していません。
---引用終わり---

世の中では、「金賢姫拘束に至った捜査の中心は韓国官憲が担っていた。日本は、韓国からの要請で蜂谷真一らのパスポートが偽造であったことを調べたのみ」という常識がありました。
今回のテレビ番組から「韓国官憲は独自に捜査を絞り込んでいたかもしれないが、日本大使館ルートも独自に調査を進めていた」のかな、と想像しました。

しかし、砂川さんの著書と矢原さんのご発言から、全く別の姿が見えてきます。
○蜂谷真一らの存在をあぶり出したのは、矢原さんの独創と努力の賜です。
○矢原さんの調査結果を知らされてはじめて、韓国サイドは蜂谷らの存在を知りました。
○そしてバーレーンの韓国大使館員がホテルで蜂谷らと面会までしていながら、日本人の旅行者としか認識せず、日本大使館が動かなかったらあやうく二人を取り逃がすところでした。


もう一点、二人がバーレーンに飛来したことの確定と、バーレーンの空港で二人の入国カードを発見するいきさつです。
砂川さんの著書では、二人がバーレーンに来たかどうかわからないままに調査を開始し、二人が搭乗便を変更したことは全く砂川さん単独の推理ということになっています。
一方、矢原さんのご発言では、二人がバーレーンに向かったことも、搭乗便を変更したことも、矢原さんが気付いてバーレーン日本大使館に連絡なさったということです。
この矛盾をどう考えるか。
砂川さんが緊急情報の第一報を受けてから二人の入国カードを発見するまで、ほんの数時間です。矢原さんが第二報、第三報を発信しても、受信したバーレーン日本大使館の電信担当官が解読し上司に報告し、外で飛び回っている砂川さんに到達するまでの間に、砂川さんが独自に解明した、ということは十分にあり得るだろうと思っています。


以上のような疑問点を抱えている状況ではありますが、そしてフジテレビの番組作成にはいろいろの問題があったようですが、それにしても、矢原さんのお働きがわれわれの目に触れたというその一点については、本当に良かったと思っています。

ぜひ、矢原さんには本当のところを語っていただきたいと思っています。

追伸:この記事の続編を金賢姫拘束の真相(6)で継続中です。
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弁理士義務研修スタート

2008-04-24 20:45:11 | 弁理士
弁理士法の改正で、弁理士が研修を受けることが義務づけられました。4月からはeラーニングのサービスが開始されています。

私自身、3月以来ずっと多忙な状況が続いていたのですが、最近になってやっと一息ついてきました。そこで、今週から弁理士会ホームページのeラーニングに手を出し始めています。

こちらの入り口からアクセスし、弁理士会から知らされているIDとパスワードを入力してサービス画面に入ります。
ずいぶんと多くの講義が登録されていました。数えると60以上の講義数があるようです。
科目ごとに、単位数が0.5単位から2.5単位までいろいろです。まずは短いのからと、平成18年度改正法の解説(1単位)、特実審査基準(発明の単一性)(1単位)を聞いてみました。

いずれも、講義が第1章~第3章に別れ、各章毎に終わると択一テストを受けさせられます。ややこしい問題もあります。改正法の解説はシフト補正禁止がメインテーマでしたが、第1章は入力ミス、第2章ではシフト補正のややこしい問題で間違え、なかなか一発では合格させてくれませんでした。「不合格」表示が出ても、すぐに再トライして合格をもらうことができます。

空いた時間、例えば残業がない日の終業後に1科目ずつ聞くような形で、必要な単位を修得していくことができるでしょう。

これだけの科目数を準備するのは大変だったことでしょう。弁理士会のスタッフの皆様、講師を引き受けられた先生方、ご苦労様です。
講師としてしゃべるにしても、聴衆が皆無の中、カメラに向かって喋り続けるのは大変だろうと推察します。聴衆の反応が感じられないため、どうしても講義が一本調子にならざるを得ないでしょう。

2本の講義を聞いた感じでは、特にシフト補正だとかややこしい課題だったせいもあると思いますが、予備知識なしでいきなりこの講義を聞いたらちんぷんかんぷんだろうと思います。もし「はじめて接する人にも理解してもらおう」とのスタンスだとしたら、講義の趣向を工夫する必要があるように思います。
それと、シフト補正にしろ発明の単一性にしろ、最近の法改正にからみますし、日々の中間処理でも改正法の適用と改正前法の適用が混在しています。従って、改正前との比較や、現時点で改正前、改正後の基準がどのように適用されるのか、といった点についても詳しく説明する方が親切でしょう。
特に発明の単一性については、改正前の出願の単一性についても、法律は変わらないのに審査基準が変わっているのですから、その点についてもきちんと説明した方がよろしいでしょう。

発明の単一性の講義のなかでもシフト補正が出てきました。効果確認テストでも出題され、単純化すると「シフト補正は許されない」(○か×か)といった問題が出たのですが、シフト補正が許されないのは昨年4月以降の出願のみであり、現実に今日流れている中間処理案件の大半はシフト補正が許されるという実務があるものですから、つい「×」を選択してしまいました。採点結果は「不正解」です。あくまで現行法で答えなければならないのですね。
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改正特許法成立と年金納付

2008-04-22 22:48:06 | 知的財産権
ねじれ国会の中で、何でもかんでも法案審議がストップしているとしたら、特許法改正もお蔵入りか、と案じていましたが、通るべきものは通るのですね。4月11日に参議院で可決成立し、4月18日に公布したとのアナウンスでした。

法改正の内容については、このブログでも話題にしてきました。年金改正の話題だけですが。通常実施権登録制度については去年触れました
出願実務的には、査定不服審判請求期間が3ヶ月に延びたこと、そのときの補正は審判請求と同時にしかできなくなることが大事です。

施行日はまだ決定しておらず、6月1日予定とのことです。もうすぐじゃないですか。施行規則やら様式やらの準備は間に合うのでしょうか。

取り敢えず、年金の支払いに注意が必要です。
年金支払い期限が6月1日以降に到来する案件については、支払いを6月1日以降まで待つことが必要です。それにより年金納付額が安くなるからです。私の場合にはそのような案件がないので、あれこれ気を揉む必要がありません。

法改正後も相変わらず、年金の額が審査請求の時期によって変動します。審査請求日が平成16年4月1日より前なのか後なのかによって、年金額が異なります。年金支払いのたびに、その案件の審査請求日を確認して納付書を作成しなければなりません。今回の法改正で一本化して欲しかったのですが、残念ながらそのような対応はなされませんでした。
電子出願ソフトで、年金納付書に審査請求日を記載しておくことにより、納付書に記載した金額の正否を判定することは原理的には可能です。そのようなことを行っていないかどうか、念のため、特許庁に電話で確認してみました。
回答はというと、「電子出願ソフトで年金額のチェックは行っている。審査請求日が平成16年4月1日以前か以後かで決まる2種類の年金額のいずれかであれば、警告は出さない。」ということでした。審査請求日を勘違いしただけの誤りの場合、警告なしで納付が行われてしまうということです。

年金納付額が二本立てのままとなることが決まったのですから、ぜひ電子出願ソフトの改訂をお願いしたいです。特許料納付書の中に【出願審査請求日】の入力を許容し、その日付に基づいて正しい年金額を計算し、納付書の中に記載されている金額が正しいか否かを判定すればいいのです。
近いうちに特許庁に対して要望を出すことにしましょう。
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宇宙研と糸川英夫

2008-04-20 21:40:21 | サイエンス・パソコン
宇宙航空研究開発機構(JAXA)のホームページで、日本の宇宙開発の歴史~宇宙研物語~が掲載されています。

「宇宙研」とは何でしょうか。
日本のロケット開発、宇宙開発は、終戦後まもなくからしばらくの間、糸川英夫氏という個人の個性に牽引されて進歩してきました。糸川氏が主導して、外国の力を全く借りず、ペンシルロケット → カッパーロケット → ラムダロケットと開発を進め、日本最初の人工衛星「おおすみ」を成功させるに至る舞台となったのが、その「宇宙研」です。

最近、この糸川英夫氏と宇宙研にまつわる話を2冊の本を通して知ることができました。

はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語 (幻冬舎新書)
吉田 武
幻冬舎

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昭和のロケット屋さん―ロケットまつり@ロフトプラスワン (Talking Loftシリーズ)
林 紀幸,垣見 恒男,松浦 晋也,笹本 祐一,あさり よしとお
エクスナレッジ

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はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語 は、糸川英夫が主導したロケット開発の物語が全体の三分の一、ポスト糸川時代の宇宙研の話が四分の一、残りが探査機はやぶさの物語、といった配分で、話が進みます。
昭和のロケット屋さんは、東大宇宙研の技官として宇宙研が打ち上げたロケットのほとんどに携わったという林紀幸氏と、メーカー側でペンシル、カッパを含むロケットの設計に携わった垣見恒男氏を招いた対談を本にしたものです。お二人ともすでに現役を退き、50年前のペンシルロケットのはじめから、最近までの宇宙研の裏話を腹蔵なく話されています。

糸川英夫氏は、航空機の専門家として、戦時中は中島飛行機で戦闘機の設計を行い、名機といわれる陸軍の「隼」戦闘機を設計した人です。隼は加藤隼戦闘隊で有名ですね。
戦後、日本は航空機開発を一切禁止され、失意の糸川氏はしばらく音響の研究などを行っています。その研究で米国を訪れた際、米国でのロケット開発の状況を知り、「ロケットなら日本も世界で競争できる」と確信します。
日本に帰った糸川氏は、東大生産研で強力に仲間を集め、1954年にロケット開発を始めます。これが「宇宙研」の始まりです。
東大生産研とは、戦時中に技術者を増員する目的で開設された「東大第二工学部」の後身で、千葉にありました。本郷だと教授同士が足を引っ張り合うのが常でしたが、生産研にはそれがありませんでした。資金も潤沢です。このような組織が存在したことが、日本の宇宙開発には幸いしました。

糸川氏は産業界にも声をかけますが、液体ロケット技術を持っていた三菱重工は興味を示さず、戦時中から固体ロケット技術を持っていた中島飛行機が分社化してできた「冨士精密」が名乗りを上げます。そして、固体ロケット燃料技術を持っている日本油脂も全面的に協力します。ここから、「宇宙研のロケットは固体燃料ロケット」との流れができました。

1958年は「国際地球観測年」でした。各国のロケットで協力して高層を観測するという企てに対し、日本は糸川氏らのカッパロケットで対応します。カッパロケットは高度60kmを実現しました。結局、米ソの他は英国と日本のみが参加できたのでした。

糸川氏は、1967年に宇宙研の教授を退官します。朝日新聞のつまらないやっかみ記事が原因でした。しかし宇宙研の進歩は続き、ロケットはカッパからラムダに進歩し、1970年には日本発の人工衛星「おおすみ」打ち上げに成功します。日本は世界4番目の衛星自立打ち上げ国になりました。中国が打ち上げる直前です。
ロケットはラムダからミューに進歩します。ミューロケットの最後を飾って惑星間探査機「はやぶさ」が打ち上げられ、はやぶさは見事に小惑星「いとかわ」の観測と軟着陸-再離陸を実現したのでした。

昭和のロケット屋さんで林氏と垣見氏は、糸川氏がどんな人だったのか、糸川氏と垣見氏がどのように意地の張り合いをしていたか、詳しく語り合います。
日本のロケット開発が、何の予備知識もない状況から、少人数の人たちの情熱と努力と、若干無謀な実験の積み重ねでここまで到達できたのだということがよくわかりました。
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メタボ対策の成果

2008-04-16 21:37:30 | Weblog
久しぶりにあった知人から、「ずいぶん痩せていませんか」と聞かれました。そうなんです、ずいぶん痩せたんです。

私は身長が167cmです。体重は、1997~2000年頃は65kg程度だったのですが、01年から上がりはじめ、02年には69kgまで上がってしまいました。何とか体重を減らそうと、通勤の行き帰りに20分ずつ早足で歩くことをはじめたのですが、体重は一向に減りません。そうこうするうちに、2004年の検診では中性脂肪が跳ね上がり、とうとう「高脂血症」の烙印を押されてしまいました。2002年からは超音波検診で「脂肪肝」の所見も入っています。

これは非常事態です。
2005年の秋だったと思うのですが、新聞で「パワーウォーキング」の記事を見ました。多分こちらの日経新聞記事と思います。
今までの早足ウォーキングと異なるのは、「肘を90°曲げて腕をよく振る」の1点です。その他にも上記の記事にあるようにいつくかのポイントがありますが、それまでの早足ウォーキングとさほど変わりません。しかし、早足で歩きながら肘の角度を90°に変えるだけで、意識しないのに、自然と歩くピッチが速くなるのです。
さっそく始めました。通勤カバンを、それまでの肩掛け式からリュックサックに変えました。歩く距離としては、朝夕それぞれ片道20分の道を歩いています。
パワーウォーキングについて解説した本も購入しました。以下の本です。
生活習慣病が治るドイツ式ウォーキング―1週間で血糖値、コレステロール値が下がる (講談社の実用BOOK)
パワーウォーキング協会,ハートヴィッヒ ガウダー
講談社

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重要なポイントは、心拍数の目標を定め、ウォーキングの間その目標の心拍数を維持することです。この本によると、目標心拍数は年齢によって異なります。
まず、「最高心拍数=220-年齢」を定め、理想のトレーニング時心拍数が最高心拍数の60~75%と計算されます。55歳ですとトレーニング時心拍数は99~123(毎分)です。
最初は、信号待ちの時などに脈拍を測っていたのですが、どうも歩いているときの心拍数は測れていないようです。しょうがないから心拍計まで購入しました。私が買ったのは下のカシオ製です。一方を肌に直接接するように胸に巻きます。計測されたデータがワイヤレスで腕時計型の表示器に表示されるというわけです。

歩いている間の心拍数は、だいたい130前後でした。私の年齢としてはちょっと高めでしょうか。
するとどうでしょう。しばらく経ってから、体重がみるみる減り始めたのです。
定期検診の記録を見ると、2003~2005年に67kg程度だった体重が、2006年には62.7kgまで下がったのです。
この年の定期検診で、高脂血症と脂肪肝の烙印を消すことができました。

しかし、体重はあるレベルまで下がったらそこで落ち着いてしまいます。
そして去年の6月です。
ある日突然、食が細くなったのです。普段の7~8割まで食べると、それ以上食べられません。無理に食べると食べ過ぎ症状で数時間苦しい思いをします。
それ以来、食事の量が減りました。
するとまた、一度は落ち着いた体重が下がり始めたのです。2007年の定期検診ではとうとう59.0kgに下がりました。
さすがにちょっと不安になり、このときの定期検診ではバリウムではなく、胃カメラ検診を受けました。幸いに無事でした。
その後も、食は細くなったままです。これはとてもありがたいことで、腹7分目の食事でもその後に空腹を感じずに済むのです。

私は、1997年の定期検診以来、γ-GTPが上限を超えていました。酒を飲まないのに高いので、ドクターがいつも首をひねっていました。ある年に肝炎の検査までしました。そのγ-GTPが、とうとう基準値内の値に収まったのです。

2007年の定期検診では、有料オプションで内臓脂肪検査の項目が加わりました。折角だから受けてみました。おなかのへその位置でCT断層写真を撮影し、内臓脂肪面積を計算するのです。私の場合、48.8平方cmと出ました。比較対象としては「100平方cm以上で『内臓脂肪型肥満』の疑い」とあるのみで、私の数値が並なのか優れているのか、よくわかりませんでしたが。
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JAPAiNと言われたことを覚えておこう

2008-04-15 20:20:23 | 歴史・社会
英エコノミスト誌が、「JAPAiN」と題した特集記事を掲載したのは2月23-29日とのことです。日経新聞では、3月12日に紙面1面を割いて抄訳を掲載しました。

JAPAiN(苦痛に満ちた日本)
(副題)「世界第2位の経済がいまだに立ちすくんでいる・・・」

この記事の内容については、日本の政治、経済に携わる人たち、そして国民が強く肝に銘じるべきと思うのですが、ネットで調べても全訳を手に入れることができません。

取り敢えず、日経新聞の記事から気になるところを拾ってみます。

「民主党はいまや成長を目指す経済改革どころか、あらゆる政策協議を滞らせる力を持つに至った。」
「経済運営を担当する閣僚にも失望感が広がっている。大田弘子経済財政相は1月に開会した通常国会で、もはや日本は『経済は一流』と呼ばれる状況ではないとまで述べた。この認識は確かに正しいが、それにどう対処するかについては、残念ながら大田氏はほとんど語らなかった。」

「日本企業は・・・悲しいかな、生産性は極めて低い。」「大規模投資と低成長の結果、日本の投資に対するリターンは米国の半分だ。」

設備投資や輸出が伸びているのに個人消費が伸びません。企業は記録的な利益を計上しながら、賃金水準が上がっていないからとします。「政治家は・・・もっと賃金を上げるよう迫っている。だが企業が慎重なのは、政治家が無能で予測不可能なこととも無縁ではない。」

「日本に必要なのは根本的な経済改革だ。」として、外資規制の緩和、輸入食品の関税引き下げ、農業補助金の削減、貿易自由化の促進、外資系企業に対する税制優遇、企業を補助金漬けにしている制度の廃止、労働市場の流動性向上、財政規律の強化(現時点の累積財政赤字はGDPの約180%に相当)、年金基金や保険会社の説明責任の強化、民営化の推進などを挙げます。
 経済財政諮問会議の伊藤隆敏東大教授の言として、同会議が提唱する改革を実行すれば日本は年2%の成長率を達成できるが、しなければ1-1.4%程度の低成長に留まる、との予測を紹介します。
「日本は改革を断念したようだから、教授が正しければこれからは低成長しか期待できない。この責任は能力や先見性に欠ける政治指導者と、彼らが行う政治の混迷にある。」

「第一の責任者は安倍前首相だ。・・・学校での愛国心教育などお気に入りの国家主義的な取り組みに邁進した。
 それ以外の問題にあまり目を向けなかった安倍氏は地方の衰退や賃金の伸び悩みに配慮せず、官僚の不祥事にも、深刻化する年金記録問題にも注意が行き届かない。短命だったが、安倍内閣では閣僚の不祥事が続いた。参院での敗北は、その報いだったと言える。」
「第二の責任者は自民党内で隠然たる勢力を誇る旧世代の大物たちだ。彼らは福田氏を担ぎ出した。」「福田政権になると、決定権は派閥と長老たちの手に戻った。大連立をめぐる小沢自民党代表と福田首相との秘密会談を仲介したのは、日本最大の部数を持つ読売新聞グループ本社の渡辺恒雄会長だった。
 旧世代はクーデターに成功し、政治の主導権を取り戻した。構造改革は滞り、貿易障壁撤廃に向けた交渉にもブレーキがかかっている。財政均衡を目指す税制改革も先送りされた。ある改革派官僚は民営化や規制緩和を推進してきた官僚のやる気が低下しているといっている。」

「福田首相は日本の問題を安倍氏より理解している。・・・
 だが首相には、こうした目標をがむしゃらに追求する行動力も求心力もないと、連立与党も野党も考えている。08年度予算案を見ると、自民党のお得意様である農家と土木建設業者が、このところ無縁だった大盤振る舞いにあずかっていることがわかる。

 そして第三の責任者は民主党の小沢代表である。民主党には市場志向の改革を指示する若手政治家が大勢いる。彼らは、戦後ほぼ一貫して自民党の一党支配が続いてきたことに問題があるとし、主要政党による政権交代があれば日本の政治はよくなると考えている。おそらく小沢氏も同じ考えだろう。
 だが豪腕でならす小沢氏は専横なワンマンの一面を持ち、僚友に相談せず取引をする傾向がある。これは透明性と説明責任を掲げる政党の党首としてはまことに好ましくない。しかも機を見るに敏な小沢氏は次第に一貫性の欠如を示すようになってきた。たとえば農家の味方を標榜するのは、農村地帯の比重が高い参院選では妥当な戦略だとしても、自民党の古くさい政治家と何ら変わらない。」
「代表の座をめぐって意見対立が起きるようなことがあれば、民主党は空中分解しかねないとわかっている。小沢氏が離党を決意したら(何しろその前歴がある)、何人かの議員は行動を共にするだろう。そうなったら民主党は参院での優位を失う。」

「さらに非難されるべきは、相反する主義主張を抱えこんだままの自民・民主両党であり、参院と衆院を別々の党が支配する事態を想定していなかった憲法であろう。さらに言えば、国家運営についての選択肢を有権者に示す手段としてではなく、個人や一族郎党の利益を実現する手段として政治をもてあそぶ風土こそが問題である。」
「そして最後に、有権者も責任の一端を負うべきである。」
-----以上--------

エコノミスト誌の記事が、どの程度真実をついているのか判断できませんが、ポイントを突いているような気がします。
外国の雑誌にここまで言われる前に、日本の論壇がもっと激論を交わして欲しいものです。
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勝間和代「お金は銀行に預けるな」

2008-04-13 18:44:16 | 歴史・社会
勝間和代さん、最近は執筆で大活躍ですね。
このブログでは去年の夏に無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法紹介しました。このときは、この本で親指シフト入力を薦めているということがきっかけでした。事実、この本のおかげで、親指シフトにトライする人がとても増えているようです。
今回は次の本です。
お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践 (光文社新書)
勝間 和代
光文社

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第一印象として、以前紹介した日本人は、なぜ老後の資産運用を間違うのか?―銀行・証券会社へ行く前に読む本と方向付けが極めてよく一致していました。

第1章 金融リテラシーの必要性

「リテラシー」とは、もともとは「読み書き能力。転じて、ある分野に関する知識」を意味しますが、「リテラシー」とわざわざカタカナで書く場合、「与えられた情報や知識を鵜呑みにせず、そこで得た情報や知識と学習者個人の経験との相互作用の中で主体的に読み取らせる」意味を含むそうです。
従って、「金融リテラシー」と書く場合、金融の情報や知識を主体的に読み解くことができるようになることを指すとのことです。


第2章 金融商品別の視点

まず「分散投資」を説きます。
自分の金融資産を元本保証の定期預金などのみとしていた場合、利子が低く、せいぜいインフレ率に見合った程度しかリターンがありません。それに対し、リスク資産といわれるものは、リスクを負うかわりにリターンがインフレ率+3~5%が見込まれます。10年以上のスパンで考えると、定期預金のみではみすみす資産増加のチャンスを逃しているというわけです。

リスク資産は、長期的に見るとリターンが見込めますが、短期的には上がり下がりがあり、元本割れすることもあります。勝間さんは、あくまで中期的に見ることが大事で、株価の上がり下がりに一喜一憂してはいけないといいます。

そして、個別の金融商品について一通りの説明があります。
 ○株式・・・プロが得して個人が損する
 ○為替(グローバルソブリン債、FXなど)
 ○不動産、リート
 ○投資信託
 ○生命保険
 ○コモディティ(商品)
 ○デリバティブ(先物・オプションの基礎知識)

第3章 実践

金融でしっかり儲けるための5原則
 第1原則 分散投資、分散投資、分散投資
 第2原則 年間リターンの目安として、10%はものすごく高い、5%で上出来
 第3原則 タダ飯はない
 第4原則 投資にはコストと時間が必要
 第5原則 管理できるのはリスクのみ、リターンは管理できない

金融リテラシーを身につけるための10のステップ
 ステップ① リスク資産への投資の意思を固める
 ステップ② リスク資産に投資をする予算とゴールを決める
 ステップ③ 証券会社に口座を開く
 ステップ④ インデックス型の投資信託の積み立て投資を始める
 ステップ⑤ 数ヶ月から半年、「ながら勉強」で基礎を固める
 ステップ⑥ ボーナスが入ったら、アクティブ型の投資信託にチャレンジ
 ステップ⑦ リスクマネジメントを学ぶ
 ステップ⑧ リターンが安定したら、投資信託以外の商品にチャレンジ
 ステップ⑨ 応用的な勉強に少しずつチャレンジ
 ステップ⑩ 金融資産構成のリバランスの習慣をつける

ステップ④では、ノーロード(買うときの手数料がいらない)、インデックス投信を推奨しています。インデックス投信にもいろいろあるので、①日本株式、②日本債券、③海外株式、④海外債券それぞれのインデックスファンドに4分の1ずつ投資することを勧めています。

このように、私のように金融リテラシーがゼロである素人にも、1年経てばしっかりと知識を身につけることのできる実践メニューを用意してくれています。少なくとも「この本1冊読めば大丈夫」ということではなく、「1年間OJTでしっかり金融リテラシーを身につけることが必須。その暁には、お金にしっかり働いてもらう体制ができているでしょう。」であることは間違いありません。

藤原美喜子さんからも叱咤され、今回勝間和代さんからも叱咤激励されました。今まで食わず嫌いだった私も、そろそろ金融リテラシーの実践勉強に取りかかることにしますか。
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間違いだらけのクルマ選び(2)

2008-04-10 20:31:38 | 趣味・読書
徳大寺有恒さんの「間違いだらけのクルマ選び」については、2年前に紹介したことがあります
そこにも書いたとおり、1976年に最初に刊行された「間違いだらけのクルマ選び」は、それまでおかしな方向に走っていた日本の乗用車の動向を、たった1冊で正しい方向に転換させる力があったと感じております。

その初年度「間違いだらけのクルマ選び」を、私は間違えて廃棄してしまったのです。とても残念に思っていたのですが、最近になって思い立ち、ヤフオクを調べてみると、出品されているではないですか。
さっそく、希望落札価格で応札したところ、すぐに落札しました。送料込みで1360円でゲットすることができました。さっそく入手した本を手に取ってみました。
  
1976年当時、日本の乗用車は、外からの見てくれとアクセサリーの豪華さばかりを競い合い、クルマの基本性能がなおざりにされる状況でした。徳大寺氏はこの本の中で、そのような現状をめった切りにし、国産の主立った乗用車を個別に徹底的に批評したのです。

この本が出るずっと前、富士重工は「スバル1000」という優秀なクルマを販売していました。当時は画期的なFF(FWD)車でした。ヨーロッパのアルファロメオがこのクルマを下敷きに新車を開発したとのことです。日本のファミリーカーがこぞってFF化するのは、1976年よりまだ後のことです。
ところがこのスバル1000が、トヨタの凡庸なカローラ(当時は当然にFR)に完敗してしまうのです。

1970年頃、日産のブルーバードは510型の時代で、SSSというタイプを出しており、クルマ好きの間では名車と言われていました。FRですが4輪独立懸架です。ところがこのブルーバードが、トヨタの凡庸なコロナに負けてしまうのです。コロナは後輪がリジッドアスクル・リーフスプリングでした。
その後、ブルーバードも後輪独立懸架を止めてしまいます。そして、その610型はブルーバードUと呼ばれ、外観は流線型ですが内部空間の狭いクルマに変身しました。

日本の自動車産業は大いに発展していましたが、その内実は、チャラチャラしたつまらない方向に向かっていました。
ヨーロッパではすでにフォルクスワーゲンのゴルフが登場しており、実用車というのは、外観は小さく、内部空間は広いことが必要であり、FFとすることでその要件を実現していました。
日本はというと、見てくれは大きくかつ格好良く、逆に内部空間は決して広くなく、ドライバーからの視界は最悪であり、くだらないアクセサリーだけが満載です。ラジアルタイヤは装着されておらず、オートマも普及していません。

そのような時代に徳大寺氏のこの本が発売されました。一大センセーションを巻き起こしたと私は理解しています。
私自身は、その後の自分のクルマ選びにおいて、常にその時点で発売されている最新の「間違いだらけ・・・」を購入し、徳大寺氏が及第点をつけた車種を選ぶように心がけました。

そして日本の乗用車の開発動向はその後大きく転換します。ファミリーカーはFFが当たり前、ラジアルタイヤ標準装備、外観は小さく内部空間は広くドライバー視界も広く、4輪独立懸架と、徳大寺氏が指し示した方向に収斂していくのです。
私は、日本自動車業界のこの方向転換は、徳大寺氏の影響が極めて大きかったと推理しています。まさに「社会現象」です。

ところがその影響で、日本のクルマはどれを見ても(私には)同じクルマに見えるようになってしまいました。私から見れば没個性ですね。
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日本少年サッカーの現実(2)

2008-04-08 21:46:44 | サッカー
日本サッカーと「世界基準」 (祥伝社新書 (046))
セルジオ越後
祥伝社

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この本は1年前にも取り上げました
セルジオは1972年に日本にやってきて、藤和不動産で2年間プレーしたあと、1974年頃から日本全国で「セルジオ越後さわやかサッカー教室」の開催を始めたそうです。セルジオがサッカー教室で出合った子どもたちの数は50万人を超えているということです。

セルジオ氏は、サッカー教室の前夜には町に入ります。そこでサッカー好きの大人たちが懇親会を開いてくれるのです。そこで地元の人たちが「せめて大会でもあれば、子どもも球蹴りすると思うけど」と発言すると、セルジオ氏は「ここに集まっている30人はお酒を飲むために1万円払っているじゃないですか。2万円出せば60万円集められる。これでちょっとした大会を開くことは可能ですよ」と提言します。日本人は自分が飲むお酒にはお金を出しますが、スポーツをするためにお金を払う感覚がないというのです。
この提言に乗り、あちこちの大人たちが自分たちの手でサッカー大会を作り始めます。草の根から生まれた「セルジオ越後杯」が、いまでも各地で続いているそうです。

補欠という名の人材損失
「日本サッカー界最大の課題とは何か。わたしは迷わず補欠の撤廃を挙げます。」
1972年にセルジオ氏がはじめて日本に来たとき、強豪といわれる高校の練習では、ボールを使って練習している生徒より、ゴール裏で大声を張り上げたり球拾いに勤しむ生徒の方が圧倒的に多かったことに唖然とします。
ブラジルには補欠が存在しません。自分の実力に適したところで、自由にプレーすることができます。
ところが日本では、大会に出られるのは1校につき1チームだけ。2005年の高校選手権に出場した高校は平均で77人も部員を抱えています。
一番の問題は日本サッカー協会の登録制度です。選手はふたつ以上のチームに重複登録することは許されないのです。
日本の選手登録数は、05年度に89万人近くになるそうです。

ブラジルのように、子ども達はいくつものクラブに所属し、自分の力に見合ったクラブで試合経験を積むようにすべき、との提言です。


このように、先日紹介した日本はバルサを超えられるサイトで村松尚登さんが掲げる日本サッカーの問題について、セルジオ氏も共通した問題意識を持たれていることがわかります。

ところで、日本の登録選手数89万人が、松村さんが唱えるように1チーム18人のチームに所属するとすると、チーム数は5万チーム(=89万/18)となります。これらのチームのすべてが、16チーム一組でリーグ戦を組み、毎週末にホーム&アウェイで試合を行うというわけです。グラウンドの数はチーム数の半分だけ必要ですから、2万5千のグラウンドが必要と言うことです。この辺がネックになるでしょうね。また、大会を世話する大人の人数を確保することも大変です。

一方、グラウンドなどは人から与えられるものではなく、子ども達自らが作り出せるものかもしれません。セルジオ氏が子どもの頃、自分たちで近所の空き地を開墾し、自分たちのサッカーグラウンドを作ったということです。空き地がない都会では無理ですが、地方の子ども達であればこのような方法でグラウンドを作り出すことも可能かもしれません。

セルジオ氏の著書の中に、日本の子ども達の特質が書かれています。
「マイボールを持つ日本の多くの子どもたちは、いつでも個人練習ができるのでリフティングなどはとても上手い。日本に教えに来る外国のコーチも驚くほどです。しかし、リフティングを見て目を丸くした外国人は、試合を見るとたいてい首を傾げます。“あんなに技術があるのに、試合になるとまるでダメじゃないか”」
セルジオ氏のこの指摘も、村松さんの指摘と通じるところがあります。
コメント (2)
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