弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

田島優子「女検事ほど面白い仕事はない」(2)

2008-10-30 20:55:12 | 趣味・読書
前回に続き、田島優子著「女検事ほど面白い仕事はない (講談社文庫)」についてです。

検事に任官して1年目の東京地検勤務時代、東京地検の全検事が集まる親睦会が開かれました。この親睦会の二次会で、田島氏は堀田力(当時)特捜検事と知り合います。以後、検事任官中及び退官後も、田島氏は常に堀田氏を師と仰ぐことになり、堀田氏も常に田島氏を目にかけることとなります。

田島氏が「仕事上の満足感は、たとえようもなかった」と述懐する東京地検での1年間が終わり、次の任地は福島地検です。
1年目は少年係、2年目は外事・公害係です。いずれも、簡単な事件しか起こらず、「女性検事に担当させるのに無難なもの」ということで、戦力としてカウントされていないことに憤ります。
一方、無免許運転で女児をはねて業務上過失傷害罪で送検された男の取り調べで、自分で張り込み捜査を行って男の嘘を見破って自白に追い込むなど、元気のいいところを見せました。

田島氏は、もともと「仕事一筋に生きる」つもりであり、結婚するつもりもなく、結婚しても子供を作るつもりもありませんでした。しかし福島地検勤務中にいろいろな意見を聞き、考えが変わっていきます。こちら(顔写真も)でもその気持ちを述べています。そして東京法務局への異動の内示があったとき、子供を産むことに決めました。
そして意図せず、2人目の子供も相次いで授かりました。

子育てしながらの女性検事はまだ少数で、それはそれは苦労したようです。
建設省のキャリア官僚である夫は、結婚時には「家事は五分五分の割合でやる」と言い、子作りのときは「産んでくれれるだけでいい、子育ては自分がする」と約束しましたが、いずれも反古にされました。

妊娠・出産・育児を抱えながらの勤務は、東京法務局訟務部、法務省訟務局、東京地検刑事部と公判部、法務大臣官房、外務省出向領事移住部と、転々とします。行く先々で、田島氏は仕事のおもしろさを見いだし、そこでの仕事ぶりが著書に描かれています。「好奇心の塊で、何でも新しいことに首を突っ込みたい私には、充実した13年間でした。」

そして外務省出向の3年間が過ぎる頃、田島氏は検事を辞める決意をします。
田島氏が検事として務めた13年間のうち、10年間は東京勤務でした。これは家族との同居を配慮してもらったお陰ですが、逆に心苦しく思っていました。
もう一つの理由は、外務省で国際政治や国際経済といったマクロな世界に触れたため、元の刑事事件の捜査に戻ることが耐え難くなるのです。

田島氏は真っ先に、当時法務省の官房長であった堀田力氏に相談に行きます。すると堀田氏は堀田氏から、「僕も辞めるよ」「僕は引き留めませんよ。どうせ辞めて弁護士をするなら、僕と一緒にやりませんか」と言われます。将来の検事総長かと噂された堀田氏は、検察庁を辞めて福祉の仕事をするというのです。

田島氏は1992年に検察庁を辞め、堀田氏が始めたさわやか法律事務所のパートナー弁護士に就任したようです。その後すぐ、講談社から執筆の誘いがあり、この著書となりました。

以上の他、この本を読んで印象に残った事項を箇条書きにしておきます。
○はじめて被疑者(日雇い労務者の喧嘩事件)を取り調べたとき:被疑者が検事の正面に座るように促され、田島さんが検事だとわかったとき、被疑者はポカンと口を開け、呆気にとられたような顔をした。そりゃそうよね。どう見たって、女子大生にしか見えないものね。

○女性検事は女性被疑者に厳しいという噂があるが間違っている。正しくは、男性検事が女性被疑者に特別に甘いのだ。いずれにしろ、女性検事は女性被疑者から歓迎されていない。

○福島地検での状況:「殺人事件など、一件もない年のほうが多いから、稀に起こると、捜査のノウハウを知らない警察は、ほとんどを迷宮入りにしてしまう。私が来てからは、不思議と毎年殺人事件が起こったが、警察はいつも悪戦苦闘していた。」

○東京法務局訟務部勤務:訟務部に配属された検事は、国や地方公共団体の代理人として、民事事件や行政事件を処理する。この仕事に携わることは、捜査検事の道からはずれることを意味する。そのため、以前は不人気な職場だった。
しかし、訟務検事は、被告となった行政側の仕事のシステムや事情を詳しくつかむ立場となる。これら知識は、特捜部を目指している検事にとっては大いに役立つ。

○法務省訟務局付き検事として:訟務検事には裁判官からの転官者が多い。彼等は総じておっとりとしていて、品がよいので、忙しいにもかかわらず、わりあい静かな職場が形成される。
検事は、犯罪者や警察官を相手に仕事をするので、どうしてもガサツになりがちだ。
(裁判官は)検事より、同僚や部下の女性判事の妊娠・出産を見慣れていたせいか、そういう環境にある私に対して寛容な空気が感じられ、仕事もやりやすかった。

○訟務局参事官から聞いた、特捜での取り調べについて
担当する被疑者を割り当てられるときは、ただ「この被疑者を調べろ」と言われるだけで、容疑の内容は教えられない。取り調べ前に情報を与えてしまうと、特捜検事は有能だから、被疑者の供述をそっちに引っ張る恐れがあるからだ。
特捜検事にもいろいろなタイプがあって、穏やかに説得して自白をとる人もいるが、そのためには被疑者と心を通わせることが不可欠で、より高度なテクニックを要する。

○法務大臣官房時代
法務大臣は、たいてい当選回数を重ねた参議院議員の中から選ばれ、官僚出身者と地方の県議会議員からのたたき上げ組に分けられる。


田島氏がこの本を刊行してから10年、検事を辞めてからは16年が経過します。この16年、田島氏はどのような活動をしているのでしょうか。この本の執筆以外にはあまりネットに露出していません。

明治安田生命保険相互会社「社外取締役候補予定者について」2006 年3 月31 日には、田島氏が明治安田生命保険相互会社の社外取締役に就任することが報じられています。併せて、以下のような経歴が紹介されています。
昭和50年3月 東京大学法学部卒
職 歴
昭和54年4月 東京地方検察庁検事
平成 4 年4月 弁護士登録
平成 4 年4月 さわやか法律事務所 現在に至る
平成10年7月 金融庁 金融審議会委員
平成13年10月 金融庁 金融審議会臨時委員
平成16年4月 金融庁 公認会計士・監査審査会委員
平成17年6月 厚生労働省 労働政策審議会臨時委員
平成17年10月 経済産業省 産業構造審議会臨時委員

最近は、政府の委員会委員を歴任しているということでしょうか。
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田島優子「女検事ほど面白い仕事はない」

2008-10-28 20:59:05 | 趣味・読書
わが家の文庫本本棚がそろそろ満杯になってきたので、保管する価値がないと思われる本を選んで近くのブックマート(古本や)に持っていきました。ページが黄色くなった本は引き取るとしても無料、それ以外はほぼ一律100円で引き取ってくれました。
そのとき50円割引券をもらったので、店内を物色しました。そこで見つけたのが以下の本です。
女検事ほど面白い仕事はない (講談社文庫)
田島 優子
講談社

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アマゾンでも古本でしか入手できないのですね。
読んでみたらおもしろい本でした。このような興味ある書籍が新刊書店で購入できないというのは残念なことです。

著者の田島優子氏は、1952年生まれ。東大法学部卒業の翌年に司法試験に合格。司法修習の後に職業として検事を選択します。新任で東京地検、その後福島地検、東京法務局、東京地検、法務大臣官房、外務省出向を経て92年に退官。さわやか法律事務所で堀田力氏のパートナー弁護士としてスタートした時期にこの本を執筆しました。1998年に刊行。
学生時代からのボーイフレンドで建設省キャリアの男性と司法修習中に結婚し、福島地検時代に二人のお子さんを出産しています。

田島氏が大学生だった1970年代前半、女性が男子学生と平等の条件で採用される就職口はほとんどなかったとのことです。彼女が高校2年のとき、司法試験を受けて弁護士になろうと決意します。

ところが、大学卒業の1年後に司法試験に合格し、仙台で2年間の司法修習を受けているときの実務修習先の法律事務所がひどいところでした。その事務所の所長弁護士は、年配で法律知識を身につける努力をしていなかったためか、裁判の準備などは男性事務員に任せっぱなしにしています。依頼者には法律知識がないから簡単にごまかせます。
この経験ですっかり弁護士に嫌気がさしてしまいます。また依頼者が女性弁護士を嫌うので、弁護士事務所が女性をまともに採用しないというのです。

一方、修習中に検察庁で過ごした4ヶ月間の雰囲気が気に入りました。
しかし田島氏は修習中に結婚しています。検事となり、単身赴任で全国を異動してまわることができるだろうか。
相談した研修所の検察教官も、検察の筆頭教官も、検事志望に反対します。「検事は女性に不向きな職業だと思いますよ。取り調べは女性には大きな負担だろうし、やっているうちに性格もキツくなる。転勤しないわけにいかないのだから、ご主人といつも別居になってしまうというのも、夫婦の関係によくないでしょう。」
唯一実務修習庁の検事正のみが賛成してくれました。
夫も最初は反対しますが、最後は折れます。そして検事に任官したのでした。

検事は新任の1年間、東京地検などの大きな地方検察庁に配属になり、刑事部と公判部を半年ずつ経験します。田島氏は東京地検です。「好奇心いっぱいの私には、捜査はたちまち面白くてたまらない仕事になった。」
事件の割り当ては副部長の仕事です。1年生に対しては、順次簡単な事件から割り当てていきます。まずは暴行・傷害事件、次に無銭飲食事件、その次は窃盗事件、といった具合です。このあたり、1年生検事の見聞録として実におもしろい内容となっています。

しかしやはり検事だなあと思うところもあります。
「私はつくづく、人間は大嘘つきだと思うようになった。・・・検事になるまでは人間が嘘つきだとは思っていなかったのだから、これは驚きだった。」
「私には今、中学生の娘と息子がいる。母親として、子供たちのことで最も気がかりなのが、娘の場合には援助交際、息子の場合には覚醒剤である。」
この辺の感覚はやはりわれわれ一般人とは異なっているようです。

後半へ続く。
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理工系博士課程活性化?

2008-10-26 12:39:57 | 歴史・社会
10月20日日経新聞の「教育」欄で、東京大学教授大垣真一郎氏が「理工系博士課程活性化を 志願者減で大学院に危機感」との記事を寄せています。
冒頭に「日本人のノーベル賞受賞に国中が沸く一方で、理工系大学院博士課程の志願者が減り続け、関係者の間に危機感が広がっている。日本学術会議の若手・人材育成問題検討分科会委員長を務めた大垣真一郎東大教授に寄稿してもらった。」とあります。
《現状認識》
我が国の大学院が送り出す博士号取得者の数は、国際的に見ると少ない。2005年度の取得者は、日本:5826人、米国:18770人、英国:8400人、ドイツ:9056人
さらに我が国では、最近5年間で博士課程進学者が顕著に減少し、理学系は1900人が1100人、工学系は1900人が1100人に減少している。
一方、分野によっては博士学位取得者の就職問題、いわゆるポスドク問題がある。
《提言》
日本学術会議は、「新しい理工系大学院博士後期課程の構築に向けて-科学技術を担うべき若い世代のために-」を公表した。
提言1 大学は、育成すべき人材像を明確に示しつつ、新たな時代に相応しい博士号取得者の育成を構想するべきである。
提言2 国際的な競争力を持つ、多彩で魅力ある大学院教育体制を構築すべきである。
提言3 大学院の学生定員制度の柔軟化を図るべきである。
提言4 将来の理工系博士人材を確保するため、政策の継続性とその投資を堅持するべきである。
提言5 博士課程の大学院生個々人への投資を拡充すべきである。
提言6 博士号取得者の社会的処遇の改善を図るべきである。
提言7 大学院教育に関する統計の整備と若い世代への情報提供を強化すべきである。
(以上)

私の認識では、「大学院博士課程の定員だけ増員したが、肝腎の博士学位取得者の就職ポストは何ら増員していない。就職先が見つからないので、学生が博士課程を見限った」と理解しています。
しかし大垣先生は、学位取得者の就職問題があるのは一部の分野のみ、という理解のようです。本当でしょうか。

そして提言においては、博士課程教育を行う大学院が取り組むべき課題が大部分で、研究者ポストの増強については提言6でちょっと述べているだけです。
そもそも順番が逆です。
「研究の要請から、研究者のポストを増員する必要がある。するとそこで働く研究者を確保する必要があるので、博士課程の定員を増強する」ならわかりますが、研究者ポストを増やさずに博士課程定員だけ増やしたら、就職問題が生じるのは当たり前です。

ところで、記事の中にある「いわゆるポスドク問題」とは何でしょうか。学術会議の「提言」の中には以下の文章があります。

「理工系大学院改革の必要性の背景の第一は、「大学院重点化」、「ポストドクター1 万人計画」などによって大学院生数、特に博士号取得者数が大幅に増加したことである。現在、理工系での博士号取得者数は年間5500名程度であるが、大学等の教育職や研究職に就ける者の数は年間1500名程度にすぎない。また産業界においては、依然として修士課程修了者に採用の重点があり、博士号取得者の採用数は多くない。一方、大学院博士課程においては狭い領域の研究者育成を主眼とした教育がいまだに続いている分野も多く、博士号取得者自身も研究・教育職に執着する傾向が強い。しかし、狭い専門分野を極めた従来型の研究者への需要が今後急速に増大することは予想しがたく、若手研究者の多くが短期の期限付きの職を続けるという「ポストドクター問題」につながっている。」

「ポスドク問題」というと、「ポストドクター制度に問題がある」かのようですが、そうではないのです。結局、「博士号取得者の数に見合った就職先がない」という問題であり、それであれば古典的な「オーバードクター問題」との言い方をした方が誤解がないでしょう。

「ポスドク」、米国でいう「ポストドクトラルフェロー」は、任期付きの研究職であり、ここで成果を挙げれば輝かしい研究者への道が開ける、というポジティブな職種です。これに対し、日本でいう「ポストドクター」は、安定的就職先がないので腰掛け的に任期付き研究職(ポスドク)に就くが、任期が明けた後の就職先は絶望的である、といった意味合いに変化しています。この辺の事情は当ブログの「日米ポスドク比較」で述べました。


ところで、日経記事を寄稿した大垣先生というのはどういう人でしょうか。こちらで調べると、ちゃんとした理工系のキャリアを積んだ先生ですね。
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幣原喜重郎「外交五十年」(2)

2008-10-23 20:38:30 | 歴史・社会
前回に続き、幣原喜重郎著外交五十年 改版 (中公文庫 B 1-48 BIBLIO20世紀)」を紹介します。

長いこと外務大臣を務めた幣原氏は、満州事変の責任を取る形で第二次若槻内閣が総辞職したとき、外務大臣を辞職します。それ以降、鎌倉に引っ込んでしまい、東京の六義園に住んだりしますが、終戦まで表舞台には出てきませんでした。

日本は1941年に南部仏印に進駐し、太平洋戦争勃発の大きな契機となりました。このとき近衛首相は、船が出帆した翌々日、幣原氏に面会を求めます。南部仏印に向けてすでに船が出たと近衛首相から聞かされた幣原氏は、「この際船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させるということはできませんか」「(それができなければ)私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」と告げました。近衛首相にそれだけの実行力は当然になく、とうとう大戦に突入してしまいました。
終戦間近、近衛氏がソ連と交渉しようとしていたとき、やはり幣原氏に相談を持ちかけます。幣原氏はその行動に絶対反対を唱えました。結局近衛公のソ連行きは実現しませんでしたが。

終戦となり、1945年10月、突然陛下からのお召しがあり、幣原氏に組閣の大命が下されます。大命を受けた幣原氏は、全く予想だにしない組閣であり、準備も何もありません。そんな中で幣原氏は「戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやってきて、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうではない、決して誰からも強いられたのではないのである。」との方針を貫きました。

この本の第二部は、「回想の人物・時代」です。
外務省入省当時のロンドンでの生活、ロンドンでの英語の勉強、イギリス人の厳しい子どものしつけなどの話が出てきます。
日本の外務省顧問として、明治13年から三十数年間も勤続した米人デニソン氏の思い出が語られます。
幣原氏は電信課長の職が長く、その官舎がデニソン氏の官舎に近かったので、毎朝二人で30分以上も散歩で話をしました。日露戦争の前、デニソン氏がときの小村寿太郎外務大臣からの依頼で、ロシアに対する交渉訓電案起草を依頼されたときの話はおもしろいです。

幣原外交について
「幣原外交の実体は何かと、しばしば世間から聞き質されたが、それは1+1=2あるいは二二が四というだけである。それに対して二一天作の六、もしくは二二が八というような、道理が合わないやり方、相手を誤魔化したり、だましたり、無理押しをしたりすることを外交と思ったら、それは大間違いであって、外交の目標は国際間の共存共栄、即ち英語でいわゆるリヴ・エンド・レット・リヴということにあるのだ。」

関東大震災のとき、多くの朝鮮人が日本人に殺害されました。このときの日本人自警団の狂気については想像を絶するものがあったようです。
震災が起きたとき、幣原氏は大阪方面に出張していて、信越線回りで東京まで帰ろうと試みています。それがある駅で、一人の朝鮮人が数名の若衆から喧嘩を売られています。そこに大勢が集まって口々に罵り騒いでいます。幣原氏は汽車から降りてそこへ行き、騒ぐ大勢をたしなめてしまうのです。とにかくそれでだいたい納まって、みな散り散りに立ち去ります。その朝鮮人は「おかげで生命が助かりました。」とわあわあ泣き出したのでした。
このようなことは、普通の男性だったら怖くて絶対にできることではありません。幣原氏が持っている天然の「腹」というものをここでも感じさせられました。
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幣原喜重郎「外交五十年」

2008-10-21 21:15:56 | 歴史・社会
外交五十年 改版 (中公文庫 B 1-48 BIBLIO20世紀)
幣原 喜重郎
中央公論新社

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月刊誌「現代」10月号で、佐藤優氏が「竹島、遙かなり」という記事を記載しており、その中で「外交交渉の基本は、能力と誠実さと腹である」と書かれています。
幣原喜重郎「外交五十年」を読むと、幣原氏は能力と誠実さと腹を兼ね備えた外交官であり、どうもその資質は「天然」に具備していたものであるとの印象を受けました。

幣原喜重郎氏は「幣原外交」の名で有名です。石射猪太郎著「外交官の一生」で紹介したように、幣原氏は1924年から1927年と1929-1931年の2度にわたって外務大臣を務めます。
この頃の中国は乱脈で、軍閥が入り乱れ、国民党政府が蒋介石将軍を総司令として北伐軍を起こし、その過程で南京領事館に避難中の日本居留官民が北伐軍に大略奪を受けるという事件も起きます。石射氏は、「こうした中国の乱脈に対してわが国論が湧き、対華干渉、武力発動が唱えられ、その急先鋒が政友会と右翼であった。これに対して幣原外相の固くとった政策が、絶対不干渉政策であった。」とし、幣原外交の特徴について述べます。

この幣原外交、現在の視点で見ればまさに正しい外交姿勢なのですが、当時の日本人にとっては軟弱外交と映り、結局は日本の対華強硬論に火を付ける上で、火に油を注ぐ役割を果たしただけではないか、という印象を私は持っていました。

特に、1927年2月、蒋介石の北伐軍が南京に乱入し、南京の日本大使館に避難した日本人居留民が徹底した略奪暴行を受けた際にも、幣原外交の無抵抗主義が原因であると激しく非難されました。


今回、幣原氏執筆の「外交五十年」を読んでみると、幣原氏の姿勢というのは一生の間常に終始一貫しているようです。本人としては、気負って「幣原外交」を演出したような気配は全くありません。また、自ら進んで国政に参画しようとした気配もありません。外務大臣就任を要請されたときにはそれを受け、大臣就任中は自分が信ずるままに任務を遂行し、その役を外れれば淡々と浪人生活を送る、といった人生だったようです。

幣原氏は、例えばアメリカ大使を務めていた頃、在ワシントン日本大使館の書記官室に現れては、書記官たちをからかうのを日課にしていました(石射氏著作)。そのような幣原氏の「腹」とは何か、という点ですが、特に腹が据わっているということではなく、自分が受けるかもしれない危害に無頓着であった、という方が当たっているかもしれません。
幣原外交が「軟弱外交」として日本国民からやり玉に挙げられても、自分の身を案ずることに無頓着で、別に勇気を振り絞ることなく自分の思い通りに政務をこなしていたのではないかと。


幣原氏の著書「外交五十年」は、読売新聞社の希望に応じて口述したものを紙上に連載したのがはじめだそうで、そのためか、話があっちへ飛びこっちへ飛び、理解しづらい構成となっています。ですから、ある程度幣原外交時代の歴史を頭に入れた上で、その歴史の細部を肉付けする意味でこの著書を用いるのが好適でしょう。


幣原氏が1919年に駐米大使としてワシントンに着いた頃、カリフォルニア州で排日土地法が問題になり、とうとう州議会で可決してしまいます。この頃のアメリカにおける日本からの移民に対する差別待遇が、日本人のアメリカ嫌いを形成する大きな要因となりました。その意味では後に日米戦争の起因のひとつです。

幣原氏が大使館参事官としてワシントンにいた頃、1912年にパナマ運河が開通し、アメリカはイギリス船を含め外国船に通行税をかけることにしました。イギリスは米英間の条約違反であると抗議します。しかし米国議会はこの法案を可決してしまいます。
当時の在米イギリス大使はブライス氏です。ある日、幣原氏はブライス氏を訪ねます。幣原氏はパナマ運河問題についてブライス氏に「抗議を続けられるでしょう」と訊くと、「いいえ、もう抗議は一切しません」との答えです。幣原氏が突っ込むと、ブライス氏は昂然として、「どんな場合でも、イギリスはアメリカと戦争をしないという国是になっている。抗議を続ければそれは結局戦争にまで発展するほかない。戦争をする腹がなくて、抗議を続けても意味がない。」と答えます。
逆にブライス氏がカリフォルニアの排日問題に転じます。幣原氏が「抗議を続けます」と答えるとブライス氏は、「一体あなたはアメリカと戦争する覚悟があるのですか。もし覚悟があるなら、それは大変な間違いです。これだけの問題でアメリカと戦争をして、日本の存亡興廃をかけるような問題じゃないでしょう。」とし、こう付け加えます。「アメリカ人の歴史を見ると、外国に対して相当不正と思われるような行為をおかした例はあります。しかしその不正は、外国からの抗議とか請求とかによらず、アメリカ人自身の発意でそれを矯正しております。これはアメリカの歴史が証明するところです。われわれは黙ってその時期の来るのを待つべきです。加州の問題についても、あなた方が私と同じような立場をとられることを、私はあなたに忠告します。」

アメリカの排日問題が、日本人のアメリカ嫌いを助長し、対米開戦にまで到達してしまったのですが、日本にイギリスの智恵があったらと惜しまれるところです。

またブライス氏が予測したとおり、1931年頃、アメリカは排日法を撤廃する気運になりました。ところがその後まもなく満州事変が勃発して日本の評判が再び険悪となったので、排日立法撤廃の発案は立ち消えになってしまいました。
この点からも、「満州事変がなければ、太平洋戦争には至らなかったのでは」という繋がりを感じます。

ワシントン軍縮会議で、幣原氏は加藤友三郎、徳川家達とともに全権を務めました。この会議で、アメリカに中立の立場をとらせ、また中国からの妨害を排除した背景で、幣原氏のした活動がこの著書に描かれています。

長くなったので以下は次回に。
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Windowsを2000からXPへ

2008-10-19 11:40:34 | サイエンス・パソコン
私が事務所を開設したのは2000年3月、当時のパソコンOSはWindows98でしたから、事務所に導入したパソコンもOSはWindows98でした。自宅はまだWindows95を使っていました。
その後、Windows2000Proが発売になり、私が使っているハード・ソフトの対応を確認した上で、2000年末頃に事務所・自宅ともにWindows2000Proに変更しました。95、98の時代にはパソコンのフリーズが日常茶飯事でしたが、2000に変えたとたんにフリーズが激減し、その安定ぶりには感激したものです。
その後、WindowsXPが発売になりましたが、2000と比較したときのXPのメリットも特に感じられません。パソコンハードは何度か買い直しましたが、OSとしては現在まで2000を使い続けてきました。

ところが、こちらで紹介したとおり、私が使っているウィルスバスターが、昨年秋にリリースされた2008から、Windows2000での使用ができなくなってしまったのです。ウィルスバスター2007はいろいろ問題を抱えているので、事務所のパソコンでは未だに2006を使っています。その2006もこの12月でサポートが終了すると予測されるので、問題の多い2007をスキップして2008を使おうと思ったら、ウィンドウズを2000からXPに変更することが必須となります。

なお、ウィンドウズをビスタに変更する可能性はゼロです。私の使っている親指シフトキーボード(Rboard Pro for PC)が、すでにサポート終了でビスタに対応していないためです。

そこでとうとう、ウィンドウズを2000からXPに変更することにしました。2000プロからアップグレードしようとすると、XPホームではなくXPプロが必須です。そのため、「XPプロアップグレード」を購入しました。

まず自宅のパソコンからです。
従来の環境をそのまま引き継ぎ、アプリケーションソフト群の再インストールも不要ということで、「クイックアップグレード」を選択しました。ウィンドウズ2000で立ち上がったパソコンにCDを入れ、指示に従って作業すればXPに変わるというものです。過去に1台のパソコンで経験済みなので、安心して作業を開始しました。
順調に作業が進んでいるかに見えました。ファイルのコピーが完了してパソコンが自動で再起動となり、黒い背景に「WindowsXP」のロゴが表示された画面に切り替わって少しすると、突然またパソコンが再起動となりました。一瞬不安がよぎります。そしてその不安は的中し、パソコンは「WindowsXP」ロゴ画面表示と再起動とを繰り返し、無限ループに入ってしまったのです。
自分でできることとして、周辺機器をできるだけ取り外してトライしてみましたが、症状は同じです。サウンドもネットワークもオンボードであって取り外し不可であり、ビデオカードは必須ですから取り外すことができません。

パソコン内の重要なデータについては日々ネットワークハードディスクにバックアップを行っています。しかし、日々のバックアップから漏れているデータというのが通常は必ずあります。
今回、安易な気持ちでアップグレードを開始しているので、必要なすべてのデータがバックアップされているかどうか確認せずに来ています。従って、安直に「新規インストール」に方針を変更することができません。

こうなると、こちらでは手の施しようがありません。XPソフトに同梱された薄っぺらい説明書には、詳しいトラブル対処法は何も記載されていません。時間は夜です。調べると電話サポートは9時半~19時、翌日は土曜であり10時~17時です。翌朝まで待つことにしました。

サポートに電話をかけると、そこそこの時間で電話はつながりました。
まず指示されたのは、「パソコンを起動し、その最初からF8キーを連打してください」ということでした。そしてその指示に従うと、「拡張起動」という画面が表示されました。実はソフトに同梱された薄っぺらい説明書にも、拡張起動によるトラブルシューティングが書かれています。しかしその説明は、立ち上がったウィンドウズから拡張起動に進む説明であり、私のようにウィンドウズが立ち上がらない状況では役に立ちません。電話サポートではじめて可能となりました。

拡張起動画面にはいつくかの選択肢がありますが、その中で「システム障害時の自動的な再起動を無効にする」を選択するように指示されました。なるほど、これでエラー原因が特定できるわけですか。最初から「障害時の自動的な再起動」を止めてほしいですね。
進行させると、エラー表示画面が現れました。最後の行にエラーコードが表示されています。「0x***(0x***,0x***,0x***,0x***)」(*には英数字)といった具合です。そのコードを電話で伝えました。しかし残念なことに、これだけでは原因が特定できないことがわかりました。
次に同じ「拡張起動」から「セーフモード」を選択して立ち上げましたが、これでも立ち上がりません。

次に指示されたのはXPのCDからの立ち上げです。
途中画面での選択肢から「ウィンドウズのインストールを継続」を選択すると、ファイルのコピーから始まりました。そして自動で再起動となりましたが、結局は同じエラーに陥りました。

電話サポートで次に指示されたのは、「メモリーが2枚刺さっているのを1枚のみとし、USBを含めて必須でないすべての周辺機器を取り外し、再度CDで立ち上げる」ということでした。そして途中の選択画面で今度は「新しいウィンドウズをインストール」を選択しました。
すると、今まで気付かなかったのですが、容量320GBのハードディスクのうち、Cドライブとして使っているのは半分弱であり、残りが未使用であることが判明しました。ウィンドウズ2000で認識できる容量に限界があったためのようです。
それではと、未使用の領域を新しいパーティションとし、そこにXPをインストールすることにしました。割り当てられたのはEドライブでした。

Eドライブのフォーマットから始まり、インストールが進行します。すると幸いなことに、XPのインストールが無事に終了したのです。調べてみると、従来使っていたCドライブも普通に見ることができます。ただし新規インストールですから、アプリケーション類は一からインストールし直す必要があります。

翌日の日曜、再度サポートに電話を入れました。今後の方針についてです。
Cドライブで頓挫しているXPのクイックアップグレードを再開する可能性はないようです。選択肢としては、
(1) 今回インストールしたEドライブのXPを使い続ける。
(2) EドライブのXPを用いて、従来使ってきたファイル類をバックアップし、Cドライブでもう1回新規インストールを行う。
というものです。EドライブのXPを使い続けると、若干不安定要素が増す、という説明です。OSはまずCドライブにアクセスし、そこからEドライブのXPの起動が指示されるということで、その寄り道の分だけ追加不安定要素となる、ということです。

しかし、今から再度新規インストールを行うのは億劫です。EドライブのXPを使い続けることにしましょう。


今回のトラブルにおいて、電話サポートから最初に質問されたのは「以前使っていたウィルスバスターをアンインストールしてからアップグレードを開始しましたか? CD焼き付けソフトを使っていましたか?」というものでした。
ウィルスバスター2007については、常駐から立ち下げはしましたが、アンインストールまではしていません。CD焼き付けソフトもインストールしていたと思います。そしてこれらソフトがインストールされていると、今回私が経験したようなトラブルが発生しやすいようです。
しかしそんなことは、パッケージ添付の薄っぺらい説明書には何も記載されていません。これは不親切すぎます。クイックアップグレードのページの最初に「これこれのソフトがインストールされている場合は、それらをアンインストールしてからアップグレードを開始するように」と明確に記載しておくべきでしょう。
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ラーライン号と龍田丸

2008-10-16 20:22:18 | 歴史・社会
前述のとおり、トーランドは「真珠湾攻撃 (1982年)」において、ラーライン号を紹介しています。
12月1日、アメリカの客船ラーライン号がハワイに近づきつつあります。この船の通信士グローガンは、無線機に低周波帯の不思議な電波を捉えます。日本の暗号文であり、方向は西北西であることが明らかです。日本からの通信を復唱している電波のようです。12月2日、電波の方向は北西となります。ラーライン号がハワイに到着し、グローガンはこの情報を海軍に通報しました。

また前述のように、スティネットは「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」において、ラーライン号(ルアライン号)の無線日誌の紛失にまつわる詳細も探り出しました。真珠湾攻撃後の12月10日、ラーライン号がサンフランシスコに戻ったとき、第12海軍区情報部のアレン少佐がやってきて無線日誌を押収します。それ以降、無線日誌の行方が判りません。スティネットの調査の結果、押収された無線日誌は、第212海軍区港務長の記録に綴じ込まれ、1958年にサンブルノ連邦政府記録センターに移管されていました。ところがだれかが1970年代に、ルアライン号の無線日誌を国立公文書館から持ち出し、そのあとには持ち出し伝票が残されていたのです。持ち出し伝票にはルアライン号無線記録と記入されているものの、その持ち出し日時も持ち出し人の氏名も書かれていません。公文書館の係員は、「アクセスできるのは海軍当局者だけです」と説明しました。

米海軍は、なぜこのようにラーライン号の無線日誌を隠蔽する努力を続けているのでしょうか。この点は謎のままです。

ところで、ブランクさんが指摘されたとおり、秦郁彦編「検証・真珠湾の謎と真実―ルーズベルトは知っていたか」において今野勉氏は以下のように書いています。
「グローガンという無線士が12月1日の未明から2日夜までハワイの北西に日本の艦船らしき怪電波を傍受し、入港後に第14海軍区へ出頭して無線記録を届けたが、相手にしてもらえなかったという話だ。グローガンが捕らえたというJCSというコールサインは銚子(千葉)無線局の、JOSは落石(北海道)無線局のもので、いずれも商船用である。当時米本土から日本へ帰航しつつあった竜田丸との交信ではないかと思われる。」

真珠湾攻撃当時、太平洋上を龍田丸が航行していることは知っていましたが、竜田丸については知りません。当時、龍田丸と竜田丸という別の2隻の船が太平洋上を航行していたのかどうか、ネット上で調べましたが情報はありません。今野氏がいう竜田丸は、多分龍田丸のことだと思います。

半藤一利著「“真珠湾”の日 (文春文庫)」によると、龍田丸は、12月2日午後2時に横浜を出港しています。ロサンゼルス経由バルボア(パナマ)までの予定です。
そして、真珠湾攻撃が終わった8日午前7時(日本時間)、龍田丸は船長の判断でUターンし、日本に向かうのです。ミッドウェイ島北方、米軍哨戒圏のわずかに外の領域でした。こちらにも記事があります。
即ち、ラーライン号が怪電波をキャッチした12月1~2日、龍田丸はまだ横浜を出港していない、あるいは出港した直後なのです。
今野氏が何を根拠に「当時米本土から日本へ帰航しつつあった竜田丸との交信ではないかと思われる。」と書いたのか、全く理解できません。


JCSが商用のコールサインであることはスティネットも認めています。その上でスティネット著には「日本が軍艦あてに打電する時は、無線局「JCS」は手続きを切り換えて、「ハフ6」という呼出符号を用いた。」と記述しています。この記述が意味するところはよくわかりませんが。
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4MHz帯電波の伝搬特性

2008-10-14 20:23:45 | 歴史・社会
前報記載のように、サンフランシスコ第12海軍区情報部で特別捜査官を務めていたオグが方位解析を行った電波は、周波数が4MHz帯でした。ここで、4MHz帯の電波がどのように伝搬するのかについて検討します。

参考図書として私の手元にある本は、大塚政量著「上級ハムになる本」、CQ誌別冊「DX HANDBOOK」の2冊で、いずれもCQ出版社刊行の古い本です。

電波は基本的に直進します。地球は球形をしているので、直進する電波を遠隔地で直接とらえることはできません。周波数30MHz以上の超短波、極超短波はこれに該当します(地上波)。
電波の伝搬は、上記地上波以外に、地表波と電離層波があります。

周波数3MHz以下の中波、0.3MHz以下の長波は、地表に沿って伝搬する地表波として伝搬します。ただし距離とともに減衰し、中波については100km程度しか届かないようです。

地球の大気圏上空では、太陽からの紫外線や微粒子などによって大気が電離し、「電離層」を形成しています。電離層の強度は太陽の影響を受けるので、夜よりも昼、冬よりも夏の方が強度が上がります。また、太陽の黒点活動の影響を受け、11年周期で、電離層が強くなったり弱くなったりします。
電離層に到達した電波は、①電離層を突き抜ける、②電離層で反射する、③電離層に吸収される、の3種類の運命をたどります。
周波数毎に電離層での挙動が異なり、周波数が高いほど、電波の打ち上げ角度が高いほど、電離層強度が弱いほど、電離層で反射せずに突き抜けやすくなります。

以上のとおりですから、遠距離間で通信を行うためには、地上波と地表波を使うことはできず、電離層波に頼ることになります。もちろん衛星通信が存在しなかった頃の話です。

電離層は地表からの高度に応じて大きく3種類存在します。地表に近いD層(約70km)、その上のE層(100km)、さらに上のF層(250~400km)です。D層は昼間のみ発生し、夜間は消滅します。各層ごとに、電波の突き抜け・反射・吸収状況が異なります。

遠距離通信をする上で一番安定しているのは、10~30MHz帯程度の短波です。この周波数帯では、D層、E層は突き抜け、F層で反射します。F層と地表との間で反射を繰り返し、地球の裏側まで電波が届きます。私も、以前こちらこちらで紹介したように、アマチュア無線の21MHz帯で全世界と無線通信を行ったことがあります。ただし、いつでも地球の裏側と交信できるわけではなく、太陽黒点活動が活発な時期でかつ、春と秋の季節が良好なタイミングです。電波伝搬経路が昼か夜かによっても違います。

さて問題の4MHz帯です。
この周波数帯、D層で吸収されてしまいます。従って、D層が存在する昼間は、電離層波として遠距離に届けることができません。
夜間はD層が消滅するので吸収されず、E層で反射し、E層と地表との間の反射を繰り返して遠距離に届きます。
従ってこの周波数帯は、夜間に遠距離通信をすることのできる周波数帯です。

電離層反射を利用しない地表波は、せいぜい100km程度しか届かないということですから、ハワイとサンフランシスコの間についても、当然ながら届くとしたら電離層波です。

秦郁彦編「検証・真珠湾の謎と真実―ルーズベルトは知っていたか」で、今野勉氏はオグに直接インタビューした結果について以下のように述べています。
「『ハワイの北西』『日付変更線の東』というオッグの割り出した位置は、船橋とサンフランシスコを結んだ直線上にあるとも言った。
オッグが発信位置をそのように特定したのは、無線会社の方向探知の精度が悪かったためか、電波の電離層への反射、海面への反射をキャッチしたためではないか、と私が推論を述べると、氏は一瞬、顔をこわばらせ、『私はもうこれ以上、何も言いたくありません。反論もしたくありません。』と言って、口を閉ざしてしまった。」

「電波の電離層への反射、海面への反射をキャッチしたためではないか」との問いかけが意味不明です。ハワイからサンフランシスコまでだったら電離層反射を利用しないとでもいうのでしょうか。
サンフランシスコから太平洋上の船舶の位置を無線方位で測定しようとしたら、100kmを超える沖合いであれば、電離層波を用いる以外にありません。ですから、無線方位測定を行う際に「電波の電離層への反射、海面への反射をキャッチ」するのは当たり前です。電離層波では方位測定ができないというのであれば、そもそも100kmを超える距離の無線方位測定はあり得ない、ということになってしまいます。

もう1点、重要なことに気づきました。今野氏は「『ハワイの北西』『日付変更線の東』というオッグの割り出した位置は、船橋とサンフランシスコを結んだ直線上にある」と述べています。
機動部隊は北緯40度よりちょっと北を通過しました。『ハワイの北西』『日付変更線の東』もそのあたりです。
ところが、地球儀の上で船橋とサンフランシスコを最短距離で結ぶと、日付変更線の東では北緯45度程度となるのです。決して機動部隊の進路と重なりません。
今野氏が言う「船橋とサンフランシスコを結んだ直線上にある」というのは、ちょっとずれが大きいように思います。
電波方位測定を行う際には、地図として大圏図の上に作図します。スティネットの著書に引用された地図もそうです。決してメルカトール図などは用いません。
コメント

検証・真珠湾の謎と真実

2008-10-12 10:35:04 | 歴史・社会
このブログの記事「ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたか」()でブランクさんからコメントをいただき、下記の書籍を入手して読んでみました。
検証・真珠湾の謎と真実―ルーズベルトは知っていたか

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第1章 真珠湾陰謀説の系譜・ルーズベルトの対日政策と修正主義・須藤眞志
第2章 真珠湾を「予知」した男たち・今野勉
第3章 通信情報戦から見た真珠湾攻撃・左近允尚敏
第4章 スティネット『欺瞞の日』の欺瞞・秦郁彦

第1章冒頭でいきなり、「修正主義(リビジョニズム)」が取り上げられます。「修正主義とは正統派に対して使われる用語であって、これをもって歴史の事実であると一般的に認められている、いわゆる正史だと考えられていることに対して異論を唱えて歴史を修正しようとすることである」と説明されます。

この本は、真珠湾攻撃とルーズベルト大統領との関わり合いについての論争で、「ルーズベルトは事前に知っていたのではないか」という主張を「修正主義」として糾弾しようとする姿勢です。これではイデオロギー闘争ではないですか。論敵に対して悪意を感じる書き方です。冒頭から不快感に陥りました。当方は本当のことを知りたい、ただそれだけです。冷静に歴史の事実を解き明かしていこうとするのに対し、このイデオロギー的悪意は何でしょうか。

サンフランシスコ第12海軍区情報部で特別捜査官を務めていたロバート・オグによる無線方位測定について検討します。
スティネット「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」の記載・・
オグによると、民間の無線通信会社から入手した無線方位測定結果(12月初め頃)は、4MHz帯の低周波帯域でした。日本海軍独特の仮名暗号を使用していたので、日本海軍の電報であると判断しました。
無線方位測定はサンフランシスコの南北2つの地点で実施されました。2本の位置の線をオグが海図に記入すると、2本の線はハワイ北方の北太平洋上で交叉しました。

上記のオグの推定が正しいことの証拠について、スティネットが初めて発見しました。ダッチハーバーにKINGと呼ばれる海軍無線方位測定局があり、ここはシアトルの管轄なので、スティネットが国立公文書館で探したところ、1985年に記録を発見したのです。「これらの記録は、傍受に関するオグの詳細な証言を、反論の余地なく確認させるものであった。」

これに対し、秦郁彦編著の上記著書「検証・真珠湾の謎と真実」では、今野勉氏が以下のように記述しています。
今野氏の調査によると、日本海軍は航行中の機動部隊に向けて情報を無線発信していました。その無線周波数のひとつが4.175MHzでした。真珠湾攻撃前の12月1日から7日にかけて、ハワイの米艦隊関連の動静を「A情報」として送信していました。今野氏は、「オグが受信し、ハワイ北西方の日本艦船から発信した無線電波と認識した電波は、実は日本の船橋から発信した電波であった」と結論づけます。
今野氏は1990年にオッグ(オグ)を訪ねます。
「私は、周波数が4メガサイクル台だったことと、機動部隊の受信記録から推して、オッグ氏が受け取った無線電波の記録は、日本の船橋送信所から発信されたものだと思われる、と説明した。
『ハワイの北西』『日付変更線の東』というオッグの割り出した位置は、船橋とサンフランシスコを結んだ直線上にあるとも言った。
オッグが発信位置をそのように特定したのは、無線会社の方向探知の精度が悪かったためか、電波の電離層への反射、海面への反射をキャッチしたためではないか、と私が推論を述べると、氏は一瞬、顔をこわばらせ、『私はもうこれ以上、何も言いたくありません。反論もしたくありません。』と言って、口を閉ざしてしまった。」


オグの電波傍受については以下のような経過をたどっています。

1982 トーランド著「真珠湾攻撃 (1982年)」ではじめて紹介される
この頃、オグは「証拠がダッチハーバーの記録の中から発見されるはずだ」と述べる
1985 スティネットがダッチハーバー無線方位測定局KING局の傍受記録を発見する
1990 今野氏がオグを訪問する
1999 スティネットの原著が刊行される
2001 秦郁彦編著の「検証・真珠湾の謎と真実」が刊行される


オグは自分でダッチハーバーの傍受記録が参考になると言っていたのですから、スティネットがダッチハーバーKING局の記録を見つけ出したとき、当然に見せてもらっていると思っていました。今野氏から質問されたとき、なぜオグはそのことを述べなかったのか。その点が不可解です。
また今野氏が「検証・真珠湾の謎と真実」を執筆したときにはスティネット著は刊行されているのですから、KING局傍受記録について何らかのコメントをすべきなのに、全く沈黙している点も気にかかります。


KING局の傍受記録については、今のところスティネット以外に目にした人はいないのでしょうか。この記録が実はどのようなものなのか、以下のような場合が考えられます。
(1) 記録は存在しない
(2) 4MHz傍受データは存在するが、方位データ測定記録ではなかった
(3) 方位は船橋方向を指していた
(4) 方位はハワイ北西方を指していた

上記(4) であれば、ダッチハーバーはアリューシャン列島に位置しますから、船橋からの送信を見誤ったものでないことが確定します。
記録を見たのがスティネットただ一人だとすると、彼は無線傍受の専門家ではありませんから、上記(2) (3) であることを見抜けなかった可能性があります。

今野氏が発見した「当時、船橋から4MHz電波が発信されていた」という情報は、オグがこの電波を見誤ったのではないか、という推論を行う上で有力な証拠になると思います。船橋と機動部隊がそれぞれ4MHz帯の発信をしたならば、オグはその両方をキャッチしているのが自然であるのに、発信源についてはオグは1種類しか言及していません。

オグ情報の真否を確認する上で、スティネットが見つけたKING局記録は決定的であると思われますが、秦郁彦編著「検証・真珠湾の謎と真実」ではこの点に全く触れていないので、疑問は疑問のままで残ってしまいました。

無線電波の伝搬特質ラーライン号の傍受記録の意味については、別の機会に。
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石射猪太郎「外交官の一生」(2)

2008-10-10 20:12:10 | 歴史・社会
前回に引き続き、石射猪太郎著「外交官の一生 改版 (中公文庫 B 1-49 BIBLIO20世紀)」を読んでいきます。

外務省本省東亜局長
1937年5月、シャム公使だった石射氏は東亜局長に任命されます。着任時は林内閣、佐藤外務大臣でしたが、着任後1ヶ月で近衛内閣に替わり、外務大臣は広田弘毅が務めることとなります。
広田外相に対しては「ワシントン在勤時代からこの人に対して持った私の崇拝と期待は、この数年来急にさめつつあった。先年広田内閣組閣の際、軍部から付けられた注文に唯々として聴従したり、軍部大臣現役制を復活したりなどした弱体ぶりに幻滅を感じたのだ。この人が心から平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった。」

7月8日、盧溝橋事件勃発でたたき起こされます。11日、緊急閣議で陸軍から三個師団動員案が出されます。石射氏は広田大臣に「閣議で動員案を食い止めていただきたい」と進言し、大臣は頷きますが、閣議では動員案をあっけなく可決します。
20日、実際の動員を決める閣議が開かれ、三個師団の動員が大した議論なしに閣議決定されます。石射局長が広田大臣に辞表を提出したのはこのときです。
中国現地では停戦協定が結ばれそうになりますが、日中両軍の撃ち合いが偶発的に発生するともう手がつけられません。全面的な戦闘が開始されます。
この間のいきさつが、まずは広田弘毅が東京裁判で絞首刑とされる主要因となった事件であり、また石射猪太郎が歴史に最も顔を出していた瞬間でした。

船津工作
石射局長は、陸軍の柴山軍務課長から、停戦を中国側から言い出させる工夫はあるまいかと相談を持ちかけられます。これに対し石射局長は以下のような腹案を提案します。
材華紡績同業界理事長船津辰一郎に停戦案と全面的国交調整案を授け、上海に急行してもらい、密かに高宗武亜州局長に伝え、その受諾の可能性を見極めた上で、外交交渉の糸口を開くという計画です。
この着想は陸海両課長の賛成するところとなり、陸海外の三省で合意が成立します。
上海総領事が高宗武氏と船津氏との会見をセットしているところに、川越中国大使が介入し、「高宗武には俺が会って話すから」と船津氏を遮ってしまうのです。そして川越大使は、本省が計画した国交調整案をきちんと相手に伝えませんでした。出先機関の訓令違反は陸軍だけではなかったのです。前後のいきさつから思うに、川越大使は陸軍の方針に与しており、この交渉を不成功に終わらせようとしていたきらいがあります。
いずれにしろ、上海では陸戦隊の大山中尉が惨殺される事件を契機として日中両軍が全面戦闘に入り、船津工作は流産します。

日本側の和平交渉の加重と「国民政府を相手とせず」声明
日本軍が上海を手中にし、さらに南京に兵を進める過程で、支那に対する日本の態度はどんどん変化していきます。
12月14日、大本営政府連絡会議が開かれ、和平条約案について討議します。石射局長も呼び込まれました。提出された条約案は、石射局長と陸海軍務局長で構成する三省事務当局が作成したものでしたが、会議の席上、多田参謀次長、末次内相、杉山陸相、賀屋蔵相から出された異論によって条件が加重されていきます。広田外相は一言も発言しません。石射局長は我慢がならず「このように条件が加重されるのでは、中国側はとうてい和平に応じないだろう」と争いますが、冷たく無視されました。
当然ながら、蒋介石はこの和平案に応じません。その結果として、近衛政権は「蒋介石を対手とせず」という声明を発し、支那事変の解決を困難とします。

南京アトロシティーズ
南京は12月13日に陥落します。その直後から、南京に帰復した福井良二、上海総領事から南京の状況が報告されます。翌1月6日の石射氏の日記には「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。本国民民心の退廃であろう。大きな社会問題だ。」とあります。

広田外相の辞任-宇垣新外相の登場
1938年5月、広田外務大臣が退けられ、外相として宇垣一成大将が入閣します。石射氏は宇垣外相に当初は不安を感じますが、就任早々に石射局長から説明を行うと、宇垣外相が石射局長と同じ考え方であることがわかります。そこで石射局長は「今後の事変対策に付いての考案」と題する長文の意見書を草して大臣に提出しました。宇垣大臣は「五相会議ではあの意見書に異論が出て、何もまとまらなかったが、自分はこれで行くと言い切っておいた」といわれます。

対華中央機関-宇垣外相の辞任
陸海軍を中心とする機関は、中国を所管する官庁を、外務省から切り離して総理直属の機関とすることを画策します。宇垣外相はこの動きに徹底反対しますが、とうとう内閣は興亜院の設立を決定し、宇垣外相は辞表を提出します。石射東亜局長も、これに伴って辞表を提出しました。

東亜局長辞任後、石射氏は、オランダ公使、ブラジル大使、待命大使、ビルマ大使を歴任します。この間に第二次世界大戦が勃発し、ビルマ大使のときに終戦を迎えます。
オランダ大使のときには、日独伊三国軍事同盟問題、ドイツのオランダ侵入と占領を経験しました。
ビルマ大使との辞令を受けたとき、周囲は「その辞令を受けずに外務省を辞めろ」と忠告しますが、常日頃の自分の官吏道に反してはならないと、その辞令を受けます。
ビルマ大使のときには、連合軍のビルマ侵入に伴って軍とともに逃避行を余儀なくされ、困難な目に会いました。

抑留生活を続けた後、日本に帰国したのは1946年6月でした。
石射氏は外務省に辞表を提出しますが、同時に公職追放を受けることとなってしまいました。ビルマ大使を務めたのが公職追放の理由でした。


石射氏はこの回想録を1950年に刊行したすぐ後、1954年に逝去されています。

著書の冒頭に
「1925年の夏のある昼食時、外務省食堂で時の外務大臣幣原(喜重郎)さんと、通商第三課長であった私との間に、こんな会話が交わされた。
『私は外務省に入って以来日記をつけていますが、首になったらそいつを種本にして本を書いて、大いに外務省を曝露してやろうと思っています。』
『よし、では君をすぐに首にしてやる』。
『まだ少し早すぎます』。」と紹介されています。
しかしその日記の大部分は、戦災で家宅とともに運命をともにし、郷里に疎開した数冊が残存するに過ぎない、とのことです。
そうとしたら、今回の著書のどの部分が日記に依り、どの部分は記憶のみを頼りに執筆したのか、その点は気になります。
また、自伝ですから、自分にとって都合の良くない事項については沈黙している可能性があります。従って、石射氏を客観的に評価しようとしたら、評伝作者によるきちんとした評伝に依るべきでしょう。
しかし、その点を差し引くとしても、この本はおもしろい本でした。

ps 2008.12.10. 石射猪太郎日記についてこちらに記事を書きました。
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