従軍慰安婦問題についての政府の公式見解であるいわゆる「
河野談話」(平成5年8月4日)と、その根拠となった「
いわゆる従軍慰安婦問題について」(平成五年八月四日内閣官房内閣外政審議室)のいずれにも、以下の文言があります。
『慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。』
このうち、『官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。』の意味内容が問題になります。
「官憲等」とは何を指すだろうか。朝鮮半島から連れてこられた慰安婦が対象であれば、「官憲等」として「日本政府、朝鮮総督府、日本帝国陸海軍」が思い浮かびます。
次に「これ」とは何を指すだろうか。前後の文脈からは「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集めること」であると、普通なら考えるでしょう。
そうすると、上記文章は、“日本政府や日本軍が直接、本人たちの意思に反して慰安婦を集めることに加担したこともあったことが明らかになった”と解釈せざるを得ません。
最近、「
従軍慰安婦問題~2007年閣議決定とは」で話題にしたように、大阪維新の会代表の橋下徹・大阪市長が、慰安婦の募集や移送などに強制性があったことを認めた93年の「河野談話」を「日韓関係をこじらせている元凶」と痛烈に批判するとともに、07年に安倍晋三内閣が「強制連行を直接示す資料は見当たらない」と閣議決定をしたことを評価し、「河野談話は見直すべきだ」と述べたそうです。これに呼応し、安倍晋三元総理なども同調する発言をしていると報道され、韓国からはこれら発言に対する強烈な反発が出始めているようです。
ここでいう「閣議決定」とは、当時の社民党の辻元清美衆院議員の質問主意書に対する答弁書に関するもののようです。そこで、当時の質問主意書と答弁書について調べてみました。
衆議院の質問答弁一覧から、
166回国会 質問の一覧を選択し、標題に“慰安婦”という文言が入った質問主意書をピックアップすると以下のものが抽出されました。
110 安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書(
質問本文、
答弁本文)
168 安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する再質問主意書(
質問本文、
答弁本文)
169 安倍首相の「慰安婦」問題についての発言の「真意」に関する質問主意書(
質問本文、
答弁本文)
265 安倍首相の「慰安婦」問題についての発言に関する質問主意書(
質問本文、
答弁本文)
266 バタビア臨時軍法会議の証拠資料と安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書(
質問本文、
答弁本文)
267 極東国際軍事裁判の証拠資料と安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書(
質問本文、
答弁本文)
428 米下院外交委員会で可決された従軍慰安婦問題への決議案に対する日本政府の対応に関する質問主意書(
質問本文、
答弁本文)
この中から、110号(
質問本文、
答弁本文)、168号(
質問本文、
答弁本文)について内容を紐解いてみます。
安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書
平成十九年三月八日提出 質問第一一〇号 提出者 辻元清美
『米国議会下院で、「慰安婦」問題に関して日本政府に謝罪を求める決議案(以下決議案)が準備されている。これに対し安倍首相が総裁を務める自民党内部から「河野官房長官談話」見直しの動きがあり、また首相自ら「米決議があったから、我々が謝罪するということはない。決議案は客観的な事実に基づいていない」「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と述べ、談話見直しの必要性については「定義が変わったということを前提に考えなければならないと思う」と述べたことから、米国内やアジア各国首脳から不快感を示す声があがっている。・・・
従って、以下、質問する。』
とし、
「一 《安倍首相の発言》について」において、
1~3で「強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と安倍首相が発言している点についてただしています。
これに対し、政府が閣議決定した「
答弁書」(平成十九年三月十六日)では以下のように答弁しています。
『一の1から3までについて
お尋ねは、「強制性」の定義に関連するものであるが、慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(以下「
官房長官談話」という。)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。
調査結果の詳細については、「
いわゆる従軍慰安婦問題について」(平成五年八月四日内閣官房内閣外政審議室)において既に公表しているところであるが、調査に関する予算の執行に関する資料については、その保存期間が経過していることから保存されておらず、これについてお答えすることは困難である。』
また、質問主意書では、《「河野官房長官談話」の閣議決定》について、として、「河野官房長官談話」が閣議決定されていないのは事実か。安倍首相は「河野官房長官談話」を閣議決定する意思はあるか。についてただしています。
これに対して答弁書では、
『官房長官談話は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである。
政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない。』
と答弁しています。
答弁書では、『政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった』と述べていますが、だからといって「
河野談話」と「
いわゆる従軍慰安婦問題について」の内容を否定したり解釈を修正したりしてはいません。従って、これらに記載された
『官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。』
はそのまま生きており、ここでいう「官憲等」や「これ」が何を意味しているのかについて全く釈明がなされていません。
ところで、「
従軍慰安婦問題~2007年閣議決定とは」にも書いたように、西岡力東京基督教大学教授が、外政審議室の人に「『河野談話』の官憲等という記述は何なのか」と質したところ、「これはインドネシアにおけるオランダ人を慰安婦にした事例だ」と答えたそうです。インドネシアにおけるオランダ人を慰安婦にした事例は、これはこれでとても痛ましい事件なのですが(白馬事件(
ウィキ)、
米国国会でのオランダ人証言)、朝鮮半島からの募集とは全く異なる事案です。
2007年の質問者である辻元議員は、上記知見をベースにしたのでしょう。次に以下の168号の質問をしています。
安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する再質問主意書
平成十九年四月十日提出 質問第一六八号 提出者 辻元清美
『辻元清美提出の「安倍首相の『慰安婦』問題への認識に関する質問主意書」に対し、政府は二〇〇七年三月一六日、「同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。」と答弁した。
それに対し、韓国政府が遺憾の意を示し、米国内でも主要紙が「九三年の河野官房長官談話を弱めるもの」「民主主義大国の指導者として不名誉」と指摘するなど、波紋が広がっている。
一方、一九九四年一月二四日に公表されたオランダ政府の公文書「旧オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春」と題する報告書には、軍・官憲による暴力的拉致のケースが数多く記録されている。:(A)一九四三年三月にジャワ島ブロラで二〇人のヨーロッパ人女性を日本軍が監禁・レイプしたケース(B)一九四四年一月、抑留所からマゲランの慰安所に女性たちを暴力的に拉致したケース(C)一九四四年二月、抑留所からスマランの慰安所に女性たちを暴力的に拉致したケース(D)一九四四年四月、スマランで女性たちを逮捕し、スラバヤやフローレス島の慰安所に移送したケース
・・・
二 《オランダ政府公文書「旧オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春」》について
・・・
8 河野官房長官談話は「(慰安婦の募集については)官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。」としているが、(A)~(D)それぞれのケースはそれに相当するか。安倍首相の認識を示されたい。』
これに対し、政府の
答弁書(平成十九年四月二十日)では、
『二の1から10までについて
オランダ出身の慰安婦を含め、慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話のとおりである。
御指摘のオランダ政府の報告書の内容は承知しているが、同報告書はオランダ政府が作成したものであり、これに基づいて、お尋ねの個々の事例についてお答えすることは差し控えたい。』
結局、110号の
質問に対する
答弁では、『政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった』と述べているのに対し、168号の
質問で『オランダ人女性の問題は「官憲等による加担」に入るのではないか』と質されると、
答弁では『河野談話どおり』としか答えていません。
政府は、110号の
答弁では
『政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった』
と述べました。次いで168号の
質問で、インドネシアでのオランダ人女性に対する問題を提起されました。これが軍による強制連行とみなされるなら、上記110号の答弁が否定されてしまいます。しかし168号の
答弁では、「110号の答弁を修正する」ともいわず、「オランダ人女性に対する問題は軍による強制連行に当たらない」ともいっていません。そして『河野談話どおり』と答弁しているのです。
結局、2007年の一連の質問主意書に対する答弁書が閣議決定されているとはいっても、それら答弁書では、河野談話の修正は何ら行われていないと言わざるを得ません。