福島原発事故について、12月26日に政府の事故調査・検証委員会が中間報告を発表しました。
東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会のページの「2011.12.26 中間報告」に掲載されています。
内容は以下の《報告書》と《報告書資料編》によって構成され、報告書だけで507ページまであります。
《報告書》
概要
表紙・目次・凡例
Ⅰ はじめに
Ⅱ 福島原子力発電所における事故の概要
Ⅲ 災害発生後の組織的対応状況
Ⅳ 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処
Ⅴ 福島第一原子力発電所における事故に対し主として発電所外でなされた事故対処
Ⅵ 事故の未然防止、被害の拡大防止に関連して検討する必要がある事項
Ⅶ これまでの調査・検証から判明した問題点の考察と提言
《報告書資料編》
表紙・目次
第Ⅱ章資料
第Ⅳ章資料
第Ⅴ章資料
第Ⅵ章資料
参考資料
略語表・英略語表
これらのうち、以下の2編についてまず読み終わりました。
概要(1~16ページ)
Ⅳ 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処(77~246ページ)
1 地震発生後、津波到達までの状況及びこれに対する対処(3月11日14時46分頃から同日15時35分頃までの間)
2 津波到達後、原子力災害対策特別措置法第15 条第1 項の規定に基づく特定事象発生報告までの状況及びこれに対する対応(3月11日15時35分頃から同日17時12分頃までの間)
3 原災法第15 条第1 項の規定に基づく特定事象発生報告後、1 号機R/B 爆発までの状況及びこれに対する対応(3月11日17時12分頃から同月12日15時36分頃までの間)
4 1号機R/B爆発後、3号機R/B爆発まで(3月12日15時36分頃から同月14日11時1分頃までの間)
5 3号機R/B爆発後、2号機S/C圧力低下及び4号機R/B爆発まで(3月14日11時1分頃から同月15日6時10分頃までの間)
6 2号機S/C圧力低下及び4号機R/B爆発後(3月15日6時10分頃以降)
7 R/B(原子炉格納容器外)における水素爆発
事故発生以来現在まで、東電が何回か報告書を発表してきました。
5月24日東電報告書の中の「東北地方太平洋沖地震発生当時の福島第一原子力発電所運転記録及び事故記録の分析と影響評価について」
6月18日東電報告書の中の「福島第一原子力発電所 被災直後の対応状況について」
11月30日発表の「福島第一原子力発電所 1~3 号機の炉心状態について」
上記東電報告書はいずれも、日本語の文章がわかりづらく、論理が不明確であり、きわめて読みづらい文書でした。事実を隠蔽する意図があって読みづらかったのかもしれませんが・・・。
それに対して今回の政府の中間報告は、とてもわかりやすく書かれています。すらすらと読み進めることができます。政府委員会に隠蔽の意図が一部でもあるのかどうかは不明ですが、素直に読めば、今回の原発事故の実態について、現時点で判明している事項をもっとも詳細にかつ明確に説明した資料といえそうです。
全体として言うと、今まで断片的に判明していた事実から、「多分こんな状況だったのだろう」と推定していた事故の推移が、ほぼそのまま「やっばりそうだったのか」と検証される結果となっていました。
3月11日から15日にかけての推移が、その後の原発被害をほぼ決定づける事象でした。そして中間報告も、この期間に何が起こったのか、そして、各時点において、もっと良好な選択があり得たのではないか、ということが検証されています。
この期間、実際に作業や判断に携わった当事者から詳細にヒアリングし、検証がなされています。事後的に検証し判断するわけですから、「何であのとき、このような判断ではなく別の判断ができなかったのか」という話が次から次へと登場します。「別の判断をすればもっと良好な結果になり得た。そして、その別の判断を行うことは当事者にとって不可能ではなかったはずだ」という事実を「ミス」と名付けるのであれば、11日から15日にかけてはミスの連続でした。当時現場で作業や指揮に携わった人たちにしてみれば、
「もう一度3月11日に戻れるのであれば、ああもできた、こうもできた」
という痛恨の記憶であるに違いありません。
しかし、3月11日に戻ったとしても、「6基すべての全交流電源喪失」「直流電源までも喪失」という想定のもとでの訓練や対応はまったくなされていなかったのですから、誰がその場に居合わせたとしても、多分今回の判断以上に良好な判断を下すことはできなかったでしょう。
例えば、1号機の冷却は「非常用復水器(IC)」のみが頼りでした。政府報告書においては、その非常用復水器が、津波来襲時に直流電源を喪失した結果として、計装システムに組み込まれたフェールセーフ機能によってバルブがすべて「閉」となって機能を喪失した、という前提に立っています。それに対し、1号機の中央制御室で指揮していた当直長以下の当直員たちも、免震重要棟で指揮していた吉田所長以下の発電所対策本部も、そして発電所対策本部とテレビ会議システムで常時つながっていた本店対策本部も、一人として「非常用復水器が機能停止しているのではないか」ということに思いが及ばなかったのです。
1号機に消防車で淡水注入を開始したのは翌12日の5時半頃でした。今にして思えば、淡水注入を開始したときにすでに1号機の内部では完全に炉心が溶融し、圧力容器の底部をも溶かして燃料の大部分は格納容器に落下していたのでした。
吉田所長が指揮していた免震重要棟では、1号機から6号機までの情報が錯綜し、各号機との連絡には固定電話とホットラインしか使えず、1号機のみに構っていられる状況ではありませんでした。ですから、あの場に誰が執務していたとしても、今回の対応以上の良好な対応ができた可能性は少ないでしょう。そういう意味では決して特別に職務怠慢だったわけではありませんが、しかし、結果がすべてです。「より良い対応」が執れなかった結果責任は、本人たちが負うしかないのでしょう。
今回の中間報告は、何というか、一つの「悲劇」が叙述されていると感じました。すべてが悪い方に悪い方に推移することを、だれも止めることができず、報告を読み進めるわれわれもただ推移を見守るのみです。
なお、今回の報告書のうち、「概要」についてはこちらのページにSummary of Interim Reportとして英語翻訳文が掲載されています。他の文書については“The full version is now being translated into English”とあり、今後英文が掲載されていくのでしょう。
東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会のページの「2011.12.26 中間報告」に掲載されています。
内容は以下の《報告書》と《報告書資料編》によって構成され、報告書だけで507ページまであります。
《報告書》
概要
表紙・目次・凡例
Ⅰ はじめに
Ⅱ 福島原子力発電所における事故の概要
Ⅲ 災害発生後の組織的対応状況
Ⅳ 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処
Ⅴ 福島第一原子力発電所における事故に対し主として発電所外でなされた事故対処
Ⅵ 事故の未然防止、被害の拡大防止に関連して検討する必要がある事項
Ⅶ これまでの調査・検証から判明した問題点の考察と提言
《報告書資料編》
表紙・目次
第Ⅱ章資料
第Ⅳ章資料
第Ⅴ章資料
第Ⅵ章資料
参考資料
略語表・英略語表
これらのうち、以下の2編についてまず読み終わりました。
概要(1~16ページ)
Ⅳ 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処(77~246ページ)
1 地震発生後、津波到達までの状況及びこれに対する対処(3月11日14時46分頃から同日15時35分頃までの間)
2 津波到達後、原子力災害対策特別措置法第15 条第1 項の規定に基づく特定事象発生報告までの状況及びこれに対する対応(3月11日15時35分頃から同日17時12分頃までの間)
3 原災法第15 条第1 項の規定に基づく特定事象発生報告後、1 号機R/B 爆発までの状況及びこれに対する対応(3月11日17時12分頃から同月12日15時36分頃までの間)
4 1号機R/B爆発後、3号機R/B爆発まで(3月12日15時36分頃から同月14日11時1分頃までの間)
5 3号機R/B爆発後、2号機S/C圧力低下及び4号機R/B爆発まで(3月14日11時1分頃から同月15日6時10分頃までの間)
6 2号機S/C圧力低下及び4号機R/B爆発後(3月15日6時10分頃以降)
7 R/B(原子炉格納容器外)における水素爆発
事故発生以来現在まで、東電が何回か報告書を発表してきました。
5月24日東電報告書の中の「東北地方太平洋沖地震発生当時の福島第一原子力発電所運転記録及び事故記録の分析と影響評価について」
6月18日東電報告書の中の「福島第一原子力発電所 被災直後の対応状況について」
11月30日発表の「福島第一原子力発電所 1~3 号機の炉心状態について」
上記東電報告書はいずれも、日本語の文章がわかりづらく、論理が不明確であり、きわめて読みづらい文書でした。事実を隠蔽する意図があって読みづらかったのかもしれませんが・・・。
それに対して今回の政府の中間報告は、とてもわかりやすく書かれています。すらすらと読み進めることができます。政府委員会に隠蔽の意図が一部でもあるのかどうかは不明ですが、素直に読めば、今回の原発事故の実態について、現時点で判明している事項をもっとも詳細にかつ明確に説明した資料といえそうです。
全体として言うと、今まで断片的に判明していた事実から、「多分こんな状況だったのだろう」と推定していた事故の推移が、ほぼそのまま「やっばりそうだったのか」と検証される結果となっていました。
3月11日から15日にかけての推移が、その後の原発被害をほぼ決定づける事象でした。そして中間報告も、この期間に何が起こったのか、そして、各時点において、もっと良好な選択があり得たのではないか、ということが検証されています。
この期間、実際に作業や判断に携わった当事者から詳細にヒアリングし、検証がなされています。事後的に検証し判断するわけですから、「何であのとき、このような判断ではなく別の判断ができなかったのか」という話が次から次へと登場します。「別の判断をすればもっと良好な結果になり得た。そして、その別の判断を行うことは当事者にとって不可能ではなかったはずだ」という事実を「ミス」と名付けるのであれば、11日から15日にかけてはミスの連続でした。当時現場で作業や指揮に携わった人たちにしてみれば、
「もう一度3月11日に戻れるのであれば、ああもできた、こうもできた」
という痛恨の記憶であるに違いありません。
しかし、3月11日に戻ったとしても、「6基すべての全交流電源喪失」「直流電源までも喪失」という想定のもとでの訓練や対応はまったくなされていなかったのですから、誰がその場に居合わせたとしても、多分今回の判断以上に良好な判断を下すことはできなかったでしょう。
例えば、1号機の冷却は「非常用復水器(IC)」のみが頼りでした。政府報告書においては、その非常用復水器が、津波来襲時に直流電源を喪失した結果として、計装システムに組み込まれたフェールセーフ機能によってバルブがすべて「閉」となって機能を喪失した、という前提に立っています。それに対し、1号機の中央制御室で指揮していた当直長以下の当直員たちも、免震重要棟で指揮していた吉田所長以下の発電所対策本部も、そして発電所対策本部とテレビ会議システムで常時つながっていた本店対策本部も、一人として「非常用復水器が機能停止しているのではないか」ということに思いが及ばなかったのです。
1号機に消防車で淡水注入を開始したのは翌12日の5時半頃でした。今にして思えば、淡水注入を開始したときにすでに1号機の内部では完全に炉心が溶融し、圧力容器の底部をも溶かして燃料の大部分は格納容器に落下していたのでした。
吉田所長が指揮していた免震重要棟では、1号機から6号機までの情報が錯綜し、各号機との連絡には固定電話とホットラインしか使えず、1号機のみに構っていられる状況ではありませんでした。ですから、あの場に誰が執務していたとしても、今回の対応以上の良好な対応ができた可能性は少ないでしょう。そういう意味では決して特別に職務怠慢だったわけではありませんが、しかし、結果がすべてです。「より良い対応」が執れなかった結果責任は、本人たちが負うしかないのでしょう。
今回の中間報告は、何というか、一つの「悲劇」が叙述されていると感じました。すべてが悪い方に悪い方に推移することを、だれも止めることができず、報告を読み進めるわれわれもただ推移を見守るのみです。
なお、今回の報告書のうち、「概要」についてはこちらのページにSummary of Interim Reportとして英語翻訳文が掲載されています。他の文書については“The full version is now being translated into English”とあり、今後英文が掲載されていくのでしょう。