弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

陸山会虚偽捜査報告書事件・検察審査会決定

2013-04-28 17:35:51 | 歴史・社会
小沢一郎氏にからんで東京地検特捜部が起こした陸山会事件で、石川知裕氏の取調べ内容に関して東京地検特捜部の田代検事が作成した捜査報告書が、小沢一郎氏の事件を対象とする検察審査会に提出されました。この検察審査会では、「起訴相当」の判断が2回出され、小澤一郎氏は強制起訴されるに至りました。
ところが、この捜査報告書に事実に反する記載があったことが判明し、大問題になりました。さらに、この虚偽記載は田代検事一人の犯罪ではなく、東京地検特捜部の組織犯罪ではないか、という疑いがあります。検察審査会をミスリードして小沢一郎氏を起訴に持ち込むべく、東京地検特捜部が組織として画策したのではないかと。
ところが、この問題についての最高検察庁の捜査及び調査の結果をとりまとめた報告書「最高検報告書」が、昨年6月27日に公表されました。併せて、最高検は田代検事を不起訴処分としましたが、あまりにも身内に甘い処分であるとして激しい非難が巻き起こっていました。

この件に関する検察の動きがあまりにも後ろ向きであることから、ときの法務大臣が指揮権を発動してきちんと捜査させようとしたところ、電撃でその法務大臣が野田総理によって更迭されるという動きがありました。
朝日新聞などは社説で、「指揮権発動で対処するのではなく、検察審査会で対処すればいいのだ」と評論していたと記憶しています。
しかし検察審査会は、検察が提出する証拠に基づいて委員が判断する方式であり、検察に不利な証拠が提出されなければ公正な判断などできるはずがありません。

このブログでは、去年6月25日「陸山会虚偽報告書作成の田代検事は不起訴か」、7月17日「陸山会捜査報告書虚偽記載事件」として記事にしてきました。

その後、八木啓代さんが主宰する団体が検察審査会に申立てを行っていたのですが、検察審査会での決定がやっと最近出されました。
<捜査報告書問題>検察再捜査へ、強制起訴はなし
毎日新聞 4月22日(月)12時16分配信
『「生活の党」代表の小沢一郎衆院議員が強制起訴された陸山会事件を巡る捜査報告書問題で、不起訴不当議決を受けて検察は再捜査に乗り出すが、結論を変えるには新たな証拠を得る必要があり、再び不起訴となる方向が大きく変わることはないだろう。しかし、市民から選ばれた検察審査員は「より謙虚に更なる捜査を遂げるべきだ」と指摘し、捜査への不信をにじませた。再捜査にあたって検察は、議決の指摘を踏まえ、慎重な姿勢が求められる。
一方、検察審査会は、強制起訴に向かう第1段階となる「起訴相当」の議決は回避した。回避の理由は必ずしも明らかではないが、起訴相当には11人の審査員中8人以上の賛成が必要で、そこまでには至らなかったとみられる。
過去の強制起訴は、陸山会事件の小沢一郎代表(無罪確定)や、福知山線脱線事故のJR西日本歴代3社長(1審公判中)など7件あるが、今回は検察の判断を覆して強制的に起訴に持ち込むことはできない。』

今回、「起訴相当」ではなく「不起訴不当」との決定であったため、今後検察が行う再捜査で再び不起訴となれば、強制起訴することはできません。その意味では、検察審査会への申立ては不成功に終わったというべきでしょう。

当の八木啓代氏は「八木啓代のひとりごと」の「田代元検事不起訴不当議決! その裏の大きな疑惑」において、今回の検察審査会審理がかかえている疑惑について論評しています。
また江川 紹子氏は、「検察審査会議決の不透明・補助弁護士はワケあり元検察幹部」で批評を加えています。

第1に検察審査会で補助弁護士として活動した澤 新(さわ あらた)弁護士の疑惑です。この人は、バリバリのヤメ検、それも元検事正、元最高検検事であって、どう見たって、「公正な」補助などできるわけがない検察寄りの人物だったというのです。
さらに澤弁護士自身が、不祥事で処分を受け、検事を辞職をしているのです。原因となったのは、相続税の申告漏れを指摘した税務署に対し、「検事正」の肩書きで抗議文を送るなどした問題です。法務・検察当局は、この抗議文が「(国税当局への)圧力とも受け取られかねないものだった」として、98年6月10日付で最高検に異動させました。法務省はまた、「検事正名で抗議をしたことで、国民から見てその地位を不当に使ったのではないかとの疑いが生じる恐れがあり、不適切な行為」として、同月19日付で「沢検事」を国家公務員法に基づく戒告処分としました。「沢検事」は同日付で辞職。
本人のコメント〈沢検事は同省に対し、「検察全体の名誉にかかわることで、申し訳なかった」と話している。〉

「検察全体の名誉にかかわる」不祥事で処分を受け、検察を辞職した人が、今回のように、まさに検察全体の信用にかかわる事件で、検審の補助弁護士を努め、本当に公正な立場から、もっぱら法律的な助言のみを行い得たのか、ということになります。上記江川 紹子さんがおっしゃるとおりであり、ブラックジョークとしか言いようがありません。

第2に、診察審査会の審理に8ヶ月もかかったことです。
検察審査会のメンバーは、3ヶ月に半分が入れ代わるそうです。6ヶ月後には全員が入れ代わってしまいます。従って、効率的に審理を行うためには、審査会のメンバーが入れ代わらないうちに審理を行う必要があり、3ヶ月以内で結論を出すことが良いに決まっています。それがなぜ、今回は8ヶ月もかかったのか。
『このメンバーでは「起訴相当」の議決がされてしまう』と検察が恐れた場合に、決定を先延ばしし、「不起訴不当」の決定を出してくれそうなメンバーに入れ代わるのを待ったのではないか、という疑惑がわき起こるのです。

しかし大手マスコミは、この件に関して掘り下げた報道はまったくしていないようです。

陸山会事件については、今年3月13日、石川知裕衆議院議員など小沢一郎氏の秘書3人に対する政治資金規正法違反事件について、東京高裁(飯田喜信裁判長)は、弁護人の控訴を棄却し、一審の執行猶予付懲役刑の有罪判決を維持する判決を言い渡しました。この件については陸山会事件・秘書3人に対する控訴審判決で記事にしたとおりです。この件については、水谷建設の新証言「5000万円の授受はなかった」!?――新証拠申請を却下した高裁(1/2)(2/2)などの発言もされています。

さらに今回、田代検事の捜査報告書(小沢氏を被告とする事件の検察審査会「起訴相当」決定に影響を与えた)に虚偽記載がなされていた事件について、今度は検察審査会で「起訴相当」との決定がなされない事態に至りました。
今後、ジャーナリズムはこの件に関して真相にどれだけ迫ることができるのでしょうか。
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黒田日銀の動向

2013-04-24 20:06:56 | 歴史・社会
日銀の金融市場局長に山岡審議役、青木局長は決済機構局長=5月1日付人事
2013年 04月 17日 14:18 JST ロイター
『日銀は17日、金融機構局の山岡浩巳審議役が5月1日付で金融市場局長に、青木周平・金融市場局長が決済機構局長にそれぞれ就任するなどの人事を公表した。』
とのニュースが流れました。
このニュースについて長谷川幸洋氏は4月19日、『突然の金融市場局長更迭は「自爆テロ封殺作戦」!? 乱高下繰り返す長期金利と黒田日銀に何が起きているのか』との論評をされました。

4月4日の黒田日銀の金融緩和方針を発表以降、本来なら、長期金利は上がるどころか下がらなければならないはずです。ところが、実際の動きがどうなったかといえば、緩和発表の翌日4月5日には10年もの国債利回りが一時、0.315%という史上最低金利まで下げたものの、午後は一転して0.62%にまで上昇するという、乱高下する異常事態でした。
この乱高下についてマーケットでは、日銀の金融市場局のやり方がおかしいとの評価だったようです。
そのためか、(17日から見て)先週あたりから「局長を更迭すべきだ」という声が出ていたのです。まさしく、その通りになりましたた。黒田日銀は5月1日付で青木周平金融市場局長を決済機構局長に異動させ、代わりに山岡浩巳金融機構局審議役兼金融市場局審議役を後任の金融市場局長に任命したのです。
『決済機構局長は同じ局長とはいえ、金融市場局長に比べればあきらかに格下である。事実上の更迭とみていい。例年の人事より時期が早いうえ、黒田が20ヵ国・地域の財務相・中央銀行総裁会議(G20)のためワシントンに出発する直前というタイミングも「これ以上、自分の留守中に下手なマネはさせない」という意思の表れではないか。
市場の一部には、今回の乱高下を単なる日銀のオペレーション技術のまずさではなく、黒田体制に対する日銀守旧派によるクーデター、ないし意図的なサボタージュとみる向きもある。
つまり「黒田緩和は国債市場を破壊する。このままでは日銀が事実上、財務省の財布代わりになってしまう。だから体を張って阻止する。そのために、あえて無茶なオペレーションをして市場を意図的に混乱させる」というのだ。いわば日銀による「自爆テロ」である。』(長谷川氏)

今回の金融市場局長の人事異動について、上記のような見立てをしているのは現在のところ長谷川幸洋氏のみのようです。実際のところはどうなのでしょうか。

4月23日の日経新聞朝刊3面には、
『日銀大転換1 1ヶ月がすべてだ』
との特集記事が掲載されています。
大阪支店長だった理事の雨宮正佳氏(57)を企画担当に呼び寄せた人事。発令は3月18日付けであり、当時の報道では白川前総裁の決めた人事だということでした。ところがこの人事、黒田氏が副総裁に内定していた理事の中曽宏氏を通じて要望した結果だそうです。
『2001年の量的緩和、10年の包括緩和--。日銀の政策転換には常に雨宮の存在があった。白川との間に微妙な距離が生まれ、昨年5月に企画担当から大阪に転じていた。白川体制からの転換にはうってつけだった。』
早々とチーム黒田の要となったそうです。
企画局長の内田真一氏(50)、同局政策企画課長の神山一成氏(46)らもチームに加わっています。

4月3、4日の最初の金融政策決定会合の2週間前、黒田氏がチームに出した宿題は「どれだけマネーを増やせば、2%の物価上昇をできるか」。チームは国会対応の合間をぬって計量経済モデルで推計を重ね、「マネーを2年で1.8倍程度に増やせば可能性はある」との答を出しました。ここから、「マネーの良を2年で2倍に」という有名な黒田フレーズが生まれました。
その後は6人の審議委員の意向聴取に駆け回り財務省や内閣府にも根回しを急ぎました。
1ヶ月前の白川一色の議決から、今回の黒田一色の議決への変化、「オセロゲーム」の裏にはこのような黒田総裁の采配があったのですね。

黒田新総裁による日銀人事の動向、政策立案の動向など、取り敢えず新聞記事をメモしておきます。
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志賀櫻著「タックス・ヘイブン」

2013-04-21 20:19:18 | 趣味・読書
タックス・ヘイブン――逃げていく税金 (岩波新書)
志賀櫻
岩波書店

私は今まで「タックス・ヘイブン(haven)」(租税回避地)を「タックス・ヘブン(heaven)」(税金天国)と間違っていたくらいで、この分野には全くの素人です。
本題のタックス・ヘイブンについて、どのような実態なのか、タックス・ヘイブンを利用できる富裕層と利用できない一般国民の間にどのような不平等が生じているのか、タックス・ヘイブンを利用したマネーの暴走が世界経済にどのような災厄をもたらしているのか、といった論点に関しては、“なんとなくわかった”程度の理解に留まっています。

この本でとにかく興味深かったのは、著者の志賀櫻氏の痛快な来し方です。
著書の扉に書かれている経歴はというと・・・
1970年司法試験合格、1971年東京大学法学部卒業、大蔵省入省、宮崎税務署長、在連合王国日本国大使館参事官、主税局国際租税課長兼OECD租税委員会日本国メンバー、主計局主計官を経て、1993年岐阜県警本部長、1998年金融監督庁国際担当参事官兼FSF日本国メンバー、特定金融情報管理官兼FATF日本国メンバー、2000年東京税関長、2002年財務省退官、2002-12年政府税制調査会納税環境整備小委員会特別委員
現在-弁護士
ということで、大蔵省-財務省で、税の分野、国際分野でトップをひた走った優秀な官僚、というイメージが湧いてきます。
そしてそれはもちろんなのですが、それ以外に、志賀氏が遭遇し、切り抜けてきたさまざまなアクシデントには目を見はるものがあります。

1989年、ロンドン大使館在勤中に、北アイルランドのベルファストに出かけていく用務があったそうです。IRAの爆弾テロ華やかな頃で、宿泊していたホテルが2日違いで爆破されました。英国人にベルファストに行ったというと皆びっくりするそうです。
第1次湾岸戦争のときには、ロンドンから観戦武官としてイラク=クウェート国境に出張したって・・、志賀さんは武官ではなくて財務官僚又は出向した日本大使館員ですよね。劣化ウラン弾の微少粉末が空中に充満していたことは当時まだ誰も知らず、志賀氏はおかげで以後は毎年検査をしているそうです。
その後はそのままイスラエルに行って、日イスラエル租税条約交渉に当たり、エルサレムに長期にわたって滞在しました。会議の合間に、(防弾車ではない)普通車に(武装警護を付けずに)一人でのってベール・シュバへ行ったのですが、帰りにインティファーダの町ヘブロンに迷い込んでしまったというのです。町に入ったほとんどその瞬間に銃撃を受け、車のリアウインドウが吹き飛びました。このあと、よくも無事でヘブロンから脱出できたものです。

この話から、篠田節子氏の小説「インコは戻ってきたか (集英社文庫)」を思い出します。
先日、キプロス発のユーロ金融危機が勃発しました。キプロスは小さな島ですが、南北に別れ、南側がギリシャ系住民中心のキプロス共和国、北側はトルコ系住民による独立国になっています。1974年頃に勃発したキプロス紛争からの継続です。「インコは戻ってきたか」では、南のキプロスを観光取材に訪れた主人公の女性とカメラマン男性(ともに日本人)が、自動車で南北の国境から北側に迷い込み、北側の軍に拘束されるという物語です。カメラマン男性は爆撃に巻き込まれて死亡しました。
「インコは戻ってきたか」は小説の世界ですが、志賀氏は現実に同じような経験をして生還したわけです。

志賀氏の経験談に戻ります。
1993年には、センデル・ルミノッソによるテロの真っ最中に、フジモリ大統領の弟に会いにペルーの首都リマに行かされました。空港到着直後から、重装備の防弾車と武装護衛付きで終始しました。日本大使館と大使公邸は、要塞のように防御されていました。そのとき宿泊した大使公邸は、後日テロ集団に占拠されたあの公邸です。
アル・カイーダのテロでナイロビのアメリカ大使館が爆破されたときも、志賀氏はその直後に現地に入り、完全に崩落した大使館の建物を目撃しました。

なぜこのような危険な任務が多かったのか。
ヘブロンに迷い込んだ頃から、危険な任務があると「志賀君、行ってくれないかね」と言われるようになりました。「なんでいつも俺なんですか?」と聞くと、「だってキミ、そういうの好きじゃないか」と言われて終わりだったとのことです。

志賀氏は財務省退官後、弁護士として活躍しています。税務に関して裁判で手腕を発揮しているとして著名です。
この本の中から業績をたどってみると・・・
「ガーンジー島タックス・ヘイブン事件」では、課税当局はガーンジーが無税国として損保会社にタックス・ヘイブン課税をしましたが、志賀氏がガーンジーの税制を調べて鑑定意見書を書いたら、最高裁で大逆転の納税者勝訴となりました。国側も下級審も一貫してガーンジーは連合王国領であると述べているが、それは全くの誤りで、ガーンジーは王室属領であり、英国政府作成資料にそのように書いてあって、それが証拠として提出されているのに、原告の納税者側も被告の国側も裁判所も誰もその証拠を読んでいなかったということなのです。

岐阜県警本部長時代の逸話として語られているのですが、志賀氏は、小火器の名手、剣道五段、騎兵並みの馬乗りだそうです。一体いつの間にそのような技を身につけたのでしょうか。中学も高校も剣道部ではなかったはずですが。

なお、志賀櫻氏は、私の中学・高校時代のクラスメートなのでした。
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ザカリー著「闘うプログラマー」

2013-04-16 22:37:08 | サイエンス・パソコン
先日、パソコンOSの変遷として、私が今まで使ってきたパソコンOSと、それぞれについての印象を記しました。なぜこのような記事を書いたかというと、以下の書籍を読んだからです。
闘うプログラマー[新装版] ビル・ゲイツの野望を担った男達
クリエーター情報なし
日経BP社

闘うプログラマー〈上〉〈下〉―ビル・ゲイツの野望を担った男達」という書籍があり、Windows NTの開発物語であることは、以前から知っていました。1994年出版とあります。
最近になって、アマゾンから私にお勧めとして「闘うプログラマー」が紹介されました。そこで試しに買ってみたのが上の本です。2009年に発売された[新装版]だったのですね。

主人公のデビット・カトラーは、1988年にDECを退社してマイクロソフトに入社しました。DECでの郎党を引き連れてです。
当時、マイクロソフトが提供するパソコンOSはMS-DOSでした。次世代のOSとしては、IBMと共同でOS/2を開発していましたが、ビル・ゲイツはこれを大失敗と考えるに至っていました。そんなとき、カトラーがDECを辞めたがっているという噂を聞きつけ、マイクロソフト入社を勧めたのです。
カトラーがリーダーとなって開発を進めたのが、Windows NTです。1998年に開発が開始され、発売されたのが1993年7月です。「闘うプログラマー」は、この期間にWindows NT開発に携わったメンバーに丹念なインタビューを行い、その結果を紡ぎ上げた物語です。

この5年間のプログラマー達の仕事ぶりは、壮絶の一語に尽きます。そしてそれは、リーダーのカトラーが激烈な人だったことによります。詳しくは本を読んでください。
本の末尾には、取材した人の名前が挙がっています。130人ぐらいの名前です。本の中では、これら直接話を聞いた人たちの活動の様子が活き活きと描かれています。私生活を顧みずに仕事に打ち込むことが要求されたので、家庭を顧みず、離婚にいたり、恋人と別れた人たちもいました。
マイクロソフトはそもそも、優秀な若者達が集まっていたはずですが、リーダーのカトラーは、そのなかでも優秀な頭脳と献身的な仕事とを要求したのです。

この本は、1994年に出版されていますから、初代のNTが発売された以降については当然ふれられていません。
当時、Windows 3.1がすでに発売されてパソコンOSはWindowsの時代に入っていました。そのため、NTも開発の途中でWindowsと互換性を有するOSになっており、名前もWindows NTと付けられました。しかし、このソフトが個人用パソコンのOSにはなりませんでした。
1995年にはWindows 95が発売されましたが、これはNTとは全く別のOSです。
さらにそれから5年、2000年になってWindows 2000が発売になりました。このWindows 2000が、WindowsNTをベースとした初めての個人パソコン用OSです。NTの発売からは実に7年の歳月が経過しています。この7年にどのような経緯があったのかについては、もちろん「闘うプログラマー」には記述されていません。

パソコンOSの変遷にも書いたように、Windows98からWindows2000に変化したときの使い勝手の向上が大きく印象に残っています。何しろ、毎日のようにパソコンがフリーズしていたのに対し、ほんとどフリーズしなくなったのですから。
私としては、Windows2000によってWindowsOSが完成したと思っています。その後のXPも7も、Windows2000の延長線上にあります。そのWindows2000が、NTをベースとしているのですから、ベースとなったWindowsNTは、現在のウィンドウズOSの元祖であるといっていいでしょう。それだけの影響力を発揮するNTの開発経緯が、「闘うプログラマー」に記述されています。ここまで優秀な大勢のメンバーが、ここまで仕事一筋に打ち込んではじめて完成したのです。普通の人の普通の集団にはできない仕事です。激烈で優秀なリーダーであるカトラー、彼を取り巻く優秀なプログラマー達、そしてカトラーらを雇ったゲイツ、これらの人たちがたまたま存在したことに基づく作品でしょう。
日本でも、同じように優秀な人たちが集い、これに匹敵するような優秀な製品が創出されるとうれしいです。しかし、一筋縄でないだろうこともわかります。
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笹子トンネル事故の調査状況(3)

2013-04-11 22:58:57 | 歴史・社会
笹子トンネル事故の調査状況については、笹子トンネル事故の調査状況笹子トンネル事故の調査状況(2)で、第4回トンネル天井板の落下事故に関する調査・検討委員会の配布資料を中心に中身を見てきました。
これら資料を基に3月27日の第4回トンネル天井板の落下事故に関する調査・検討委員会で討議がされているわけですが、議事要旨には以下のように記されています。
『○天井板落下の原因について
<事故原因の着目箇所について>
・ 覆工コンクリート、ボルト鋼材、地山変位は問題ないと考える。
・ 事故原因の着目箇所は、ボルト孔の設計・施工も含めた接着部まわりに絞り込んで良い。
・ CT鋼が介在することによる設計・構造も含めた影響(ボルトに作用する荷重への影響など)について、さらに検討すべき。
<ボルト接着部まわりについて>
・ ボルト孔の設計・施工も含めた接着部まわりの課題については、製品カタログの内容、特記仕様書や設計報告書など、複数要因を総合的に捉えて整理すべきではないのか。
・ まず、マクロとして設計・施工段階から、事故に繋がる要因が内在していた可能性がある。
<接着部まわりの経年影響について>
・ 不飽和ポリエステル樹脂に加水分解(≒劣化)は確認されており、付着力低下に一定の影響を及ぼしたと考えられる。
・ 疲労という観点からは、空気力の変動(換気施設の稼働や大型車通行による影響)による繰り返し荷重が影響を及ぼした可能性がある。
<中日本高速道路株式会社の点検体制について>
・ 点検計画を変更した経緯など、個々に見れば理由はあったが、結果として補修履歴の保存体制の不備や、近接点検をL断面天頂部ボルトに対し、12年間未実施であったという事実は、不十分と言わざるを得ない。
○再発防止策について
<既存の吊り天井板>
・ 常時引張り力を受ける接着系ボルトで固定された既存の吊り天井板については、換気方式の変更の可否、周辺交通への影響等を考慮し、可能ならば、撤去することが望ましい。
・ 存置する場合は、第三者被害を防止するための措置として、バックアップ構造・部材を設置すべき。
・ 上記2点の対策が完了するまでは、点検頻度を増やすなどのモニタリングを強化すべき。
・ 点検にあたっては、全ての常時引張り力を受ける接着系ボルトに対して近接点検(近接目視、打音及び触診)を行うとともに、少なくともいくつかのサンプルで適切な荷重レベルでの引張載荷試験を実施すべき。
<その他の吊り構造物>
・ 常時引張り力を受ける接着系ボルトで固定されたその他の吊り重量構造物については、第三者被害を防止するための措置として、暴露環境を考慮し点検頻度を増すなどのモニタリングの強化について検討するとともに、バックアップ構造・部材の設置などを検討すべき。』
--------以上--------

落下事故の直接原因をボルト接着部周りに絞り込むまではなされていますが、さらにその先については検討課題として認識されているようです。しかし、具体的な検討方向は見えてきません。上記議事要旨を読む限り、接着剤の専門家の発言はなさそうです。委員の中に接着剤の専門家はいないということでしょう。今後の検討も、あくまで「製品カタログの内容、特記仕様書や設計報告書など」とされているのみであり、専門家的検討は計画されていません。

前報笹子トンネル事故の調査状況(2)で述べたように、ボルト引き抜きテストによって引き抜き抵抗力が極めて低いボルト多発が明らかになり、そのような引き抜き抵抗力が極めて低いボルトが、落下事故現場付近に集中していることも明らかになりました。
しかし、引き抜き抵抗力低下は、接着剤の単位面積付着力の低下によるのか、それとも施工不良によって付着面積が少なかったのか、その両方なのか、という点については明らかにされていません。この部分は、ケミカルアンカーボルトの専門家を委員に加え、専門的にアプローチすることが不可欠と思われます。
また、低抵抗力ボルトが事故現場付近に集中していた件に関しては、施工実績について丹念にたどる必要があります。議事要旨の「まず、マクロとして設計・施工段階から、事故に繋がる要因が内在していた可能性がある。」から、今後の調査方向がどのように示されたのか、その点は不明のままです。

本件については、山梨県警が2月14日、ワゴン車に乗っていて死亡した5人の遺族10人が提出した中日本高速道路会社の金子剛一社長ら4人に対する業務上過失致死容疑での告訴状を受理しているし、県警は昨年12月2日の事故後、業務上過失致死傷容疑で同社本社などを捜索。関係者らから任意で事情を聴くなどし、既に捜査を進めているようです。今後、刑事裁判がどのように進展するのかはわかりませんが、結局は、刑事裁判でしか事故の真相追求が進展しない可能性もあります。
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笹子トンネル事故の調査状況(2)

2013-04-09 20:20:51 | 知的財産権
笹子トンネル天井落下事故に関し、第一報では、以下の点について論じました。
(1) 第4回(2013年3月27日)資料5-1 引抜き抵抗力試験結果によると、合計185箇所のボルト引き抜き抵抗力を評価し、測定された引き抜き抵抗力を3ランクに分けています。
Aランク:引き抜き抵抗力40kN以上 → 全体の38%
Bランク:引き抜き抵抗力12~40kN → 全体の53%
Cランク:引き抜き抵抗力12kN未満 → 全体の9%

(2) ここで、引き抜き抵抗力12kNで区切った理由は、重さ3.5トンの天井板を引っ張り上げるためのボルト1本あたりの荷重が、12kNに相当するらしいことを検証しました。
(3) 本来、接着剤による引き抜き抵抗力の設計値は52.2kN/本(安全率4.27)とされており、この数値は、「接着剤の設計付着強度×ボルトの有効長さ×コンクリート穴径に基づく有効周長」から計算される値に一致することを確認しました。
なお、その後参考資料1「吊り天井板の構造」を確認したところ、上記(2) (3) について算出根拠が記載されていることに気づきました。

(4) 引き抜き抵抗力の測定結果から、特に抵抗力が低かったボルトは、天井板崩落事故の発生箇所に近接する付近に集中して多く発生していることがわかりました。
そして、引き抜き抵抗力が低いボルトがこれだけ集中していたら、どこか1箇所で天井板を支えきれなくなることは十分にあり得、そしてボルト抜け落ち現象はその箇所から連鎖的に周辺に広がっていくことも明らかにしました。

次にここでは、「本来52.2kN/本の引き抜き抵抗力が期待されていたのに、なぜ、12kN未満というようなボルトが、それも天井板崩落事故発生箇所付近に、多発したのだろうか」という点を解明する必要があります。

まず、第4回(2013年3月27日)配布資料中の「資料5-2 引抜き抵抗力試験の分析」について見てみます。この資料には、
「【目的】引抜き抵抗力と,覆工外観,環境要因等との関係を分析したもの」
とのサブタイトルがついています。
内容は、
[アンカーボルト近傍覆工コンクリート外観観察]
(1) ひび割れの有無
(2) 漏水の有無
(3) 遊離石灰の有無
[引抜き抵抗力試験後観察]
(4) ボルト偏心傾斜有無
(5) ボルト錆有無(引抜いたボルトを対象)
(6) 引抜きボルト孔内錆有無
(7) 引抜きボルト孔内水分有無
[CCDカメラ観察]
(8) 引抜きボルト孔内錆有無(CCDカメラ観察)

つまりこの分析資料は、接着剤以外の要因について調べています。
そして、(1) から(8) までいずれも、引き抜き抵抗力との相関は見られないか、あってもごくわずかで、引き抜き抵抗力低下の主原因とはなり得ないようです。

そうするとやはり、引き抜き抵抗力低下の主要因は、接着剤に注目することとなります。
今のところ、そのような観点では、第4回(2013年3月27日)配布資料中の「資料5-1 引抜き抵抗力試験結果」しかなさそうです。

接着剤による引き抜き抵抗力については、以下の式で表されます。
 引き抜き抵抗力(N/本)=付着強度(N/mm2)×接着面積(mm2)
そして、引き抜き抵抗力が12kN以下のように大幅に低下していた原因について、
①施行不良によって接着面積が少なかった
②接着剤の劣化によって付着強度が低下した
が考えられます。

今回、引き抜き試験によって引き抜き抵抗力が測定されました。従って、接着面積が実測できれば、上の式から、付着強度が低かったのか、接着面積が小さかったのかを分別することが可能になります。
まずは、接着面積が正確に評価できるかどうか。
資料5-1 引抜き抵抗力試験結果の8ページには、引き抜き試験後のボルトの絵があります。引き抜いたボルトには接着剤が付着してくるのですが(ボルト図の緑色部分)、そこだけで接着していたとは断定できません。緑色部分よりもボルト先端側には「擦り切れ区間長」の部分があり、ボルトの頭側には「ススなし区間長」があります。それより頭側の「黒ずみ」部分が接着に寄与しなかったことは明白です。それでは、擦り切れ区間やススなし区間はどうでしょうか。資料5-1では、擦り切れ区間と緑色部分(残存接着剤付着区間)については接着効果があったものとし、ススなし区間については接着効果が有るとする場合(定着長=接着剤付着推定長)とないとする場合(定着長=残存接着剤付着長)に分けて考えています。

次に付着強度について。
参考資料2「接着系アンカーボルトの強度発現原理等に関する既往の知見」には、接着剤の特性について若干の記載があります。その4ページによると、付着強度の(実験値/計算値)が表示され、1.0から2.0の間に分布しています。計算値の計算に用いられたτaが、「最小付着強度」を意味しているのでしょうか。「一般に接着剤の付着強度は、最小付着強度からその2倍までの範囲の強度を実現する」といえるのかもしれません。そうすると、今回の事例でいえば、最小付着強度が6N/mm2ですから、正常に施工された初期の段階で、実績付着強度が6~12N/mm2を実現していたはずだ、ということになります。

資料5-1の13ページと14ページに、横軸を定着長とし、縦軸を引き抜き抵抗率としてプロットがされています。もしも接着剤の付着強度が6~12N/mm2の範囲にあるとしたら、定着長100mmにおいて、付着強度が6N/mm2なら30kN、付着強度が12N/mm2なら60kNであり、どちらのグラフにおいても、プロットは原点とこれらの点を通る範囲内に集まるはずです。
13ページの図では、原点と定着長100mmで30kNの点を結ぶ直線よりも下にたくさんのプロットがあり、定着長を13ページのようにとるのであれば、付着強度が劣化していたとの結論に至ります。
14ページの図では、原点と定着長100mmで30kN、40kNの点とを結ぶ範囲にたくさんのプロットがあり、接着剤の劣化はさほどでもない、との結論が出るかも知れません。そして、引き抜き抵抗力が特に低かったプロットについては、付着強度が低かったことと定着長が40mm前後しかなかったが重なり、このような結果になったと結論づけられます。

定着長について、ススなし区間について定着長に入れる場合が13ページ、入れない場合が14ページの図になります。この部分を定着長に入れるか入れないかによって、結論が大きく変わることがわかります。しかし、資料を読んだ限りでは、どちらを定着長として採用すべきかが判然としません。

資料5-1の31ページ(まとめ)には、
「定着長を残存接着剤付着区間長とした場合(ススなし区間を入れない)、付着強度がカタログ値の6N/mm2よりも低い箇所はL断面(東京側)に集中しており、接着剤の撹拌不足や経年劣化などによる強度低下の可能性が考えられる。」
と記載されていました。これが結論です。
(a)接着剤の撹拌不足や経年劣化などにより、付着強度がここまで落ちることは従来知見の範囲内なのか。
(b)なぜL断面(東京側)に集中しているのか。
(c)「定着長を残存接着剤付着区間長とした場合」、定着長が40mm前後と極めて短いものがある。その原因を追及すべきである。
(d)「定着長を残存接着剤付着区間長とした場合」に議論を限定していいのか。
という点については不明のままです。

さらに別の資料「天井板落下の原因に関する論点整理」には、
3.接着剤の経年による影響について
・赤外線分光分析の結果、接着剤は不飽和ポリエステル樹脂であることを確認。
(←米国がBig Dig事故を踏まえ使用を禁止した速硬型エポキシ樹脂とは異なる)
・接着剤が、部分的に加水分解によって成分変化していることを確認。
・一般的知見から、経年による影響要因としては劣化、疲労、クリープ等が考えられる。
との記載がありました。

なお、資料5-1の22ページ右の図には誤りがあるようです。
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日銀の新金融政策が決定会合で可決された

2013-04-06 08:44:50 | 歴史・社会
今回の、黒田新総裁の下での金融政策決定会合では、市場の予想をも上回る金融緩和策を発表し、円相場、株式市場、債券市場を大きく動かす結果となりました。市場の予想との対比、黒田総裁の類まれなる「市場との対話能力」などについては、黒田日銀新総裁の鮮烈なデビュー~サプライズに満ちた「異次元の金融政策」――大和総研チーフエコノミスト 熊谷亮丸を参照しました。

その内容が鮮烈なことはさておき、私がびっくりしたのは、決定会合での多数決でよくこの案が賛同を得られた、ということです。白川総裁時代の決定会合では、金融緩和に後ろ向きの政策が多数決で賛同を得てきました。今回、入れ代わったのは正副総裁3人のみで、残りの審議委員6人は従来のままです。下手をすると、黒田総裁案は多数決で否決されるのではないか、という懸念さえありました。

ところが、蓋を開けてみると市場もびっくりするような政策が多数決で賛同されていました。それもほとんど全会一致と言うことです。
<日銀新緩和策>一枚岩を演出 決定会合「全員一致」 
毎日新聞 4月4日(木)22時12分配信
『黒田日銀初の金融政策決定会合は、新たな金融緩和策を、一部を除き全員一致で決めた。金融政策は政策委員9人(正副総裁3人、審議委員6人)の多数決で決まる。ほとんどの審議委員は3月まで、追加の緩和策に慎重だったが、黒田東彦(はるひこ)総裁主導の提案を一枚岩で支持し、新総裁の指導力を演出した。
白川方明(まさあき)前総裁下の3月会合では、白井さゆり審議委員が提案した「無期限緩和の前倒し」に他の審議委員全員が反対していた。白川氏が1月、2%の物価目標を提案した際にも、佐藤健裕、木内登英両委員が「いきなり2%は無理がある」などと反対していた。今回の会合では、より大胆な緩和策が複数提案されたが、木内委員が金融緩和の継続期間に反対しただけだった。
全会一致は日銀の緩和姿勢を強く印象付けたが、「政府が金融緩和策を支持し、市場の期待も高まっているだけに反対しづらい状況だった」(エコノミスト)との声もある。』

これら最近の一連の事実だけを見ると、他からは独立であるはずの審議委員が、実は総裁に対するイエスマンなのではないか、という懸念が生まれます。こちらの方がむしろ心配です。

この点については、元日銀審議委員の中原伸之氏も懸念を示していました。
インタビュー:急激な円安や金利上昇心配=中原元日銀審議委員
ロイター 2013/4/5 07:13
『4月4日、元日銀審議委員の中原伸之氏は、ロイターのインタビューに応じ、日銀が打ち出したマネタリーベース(資金供給量)を2年で倍増させる量的緩和について、あまりに急激・巨額な金融緩和と指摘。』

この中で中原氏は、日銀が打ち出したマネタリーベース(資金供給量)を2年で倍増させる量的緩和について、あまりに急激・巨額な金融緩和であり、「急激な円安や長期金利上昇などが起きないか私も心配」と懸念を示しました。
「市場と駆け引きしながら政策を出していくのが資本主義経済での中央銀行だが、今後2年間の政策の手の内を見せてしまった。リーマン・ショックのような危機が起きた際に追加手段が残されていないのでは」ともいわれています。
そして、「従来政策からの大幅な方向転換にもかかわらず、審議委員が全員一致で決めたのには驚いた」と述べ、委員らの有識者としての見識が問われると指摘しました。

日銀審議委員の皆さんには、決してイエスマンにはならず、自らの専門知識に裏付けられた議論と議決行動によって、日本の金融政策を健全に保ってほしいと思います。
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パソコンOSの変遷

2013-04-05 21:33:20 | サイエンス・パソコン
わが家ではじめてパソコンを導入したのは、確か1980年代の最後の方だったと思います。NECのPC-9801RA、OSはMS-DOS 3.Xでした。
その後、私が扱うパソコンOSは以下のように変遷してきました。
        CPU
①MS-DOS 3.X  80386
②MS-DOS 4.X  同上
③Windows 3.0  486DX 33MHz
④Windows 3.1  同上
⑤Windows 95  Pentium 120MHz~AMD K6-III 400MHz
⑥Windows 98  Pentium III 550MHz
⑦Windows 2000 Pentium III 1000MHz
⑧Windows XP  Pentium4 2.6GHz、Core2Duo 2.13GHz、Core2Quad 3.00GHz
⑨Windows 7  Core i7-2600

①MS-DOS 3.X  80386
MS-DOSは16ビットOSであり、メモリーアドレスを20ビットで扱っており、メモリー空間1MBまでしか認識できません。一方、パソコンのCPUの方は80386であって32ビットマシンであり、メモリーを32ビット(4GM)まで認識できます。
この時期、MS-DOS上で動く「Memory Pro 386」というソフトがありました。CPUの32ビット機能を引き出し、1MBよりも上のメモリー空間まで使ってしまおうというソフトでして、私はこのソフトで386マシンを遊び倒しました。

③Windows 3.0  486DX 33MHz
④Windows 3.1  同上
マイクロソフトのウィンドウズOSのうち、実用化された最初がWindows 3.0です。
ところが、世界ではWindows 3.0が猛烈に普及するのに、日本では普及が遅れました。当時パソコンユーザーの間では「ウィンドウズにしても対応するソフトがないから」などと言われていましたが、実態は違います。実態は「ウィンドウズがさくさく動くパソコンがなかったから」なのです。
当時、日本では「パソコンといえばNECのPC-9801」という時代でした。これ以外のパソコンを選択することはまずありません。NECは、この状態にあぐらをかいていたのですね。ウィンドウズをさくさく動かすためのCPUとして、既に486DXが発売されていたのですが、このCPUを最大限に活用できるPC-9801マシンが存在しなかったのです。PC-9801FAが486を積んでいましたが、スピードは遅く、ウィンドウズ搭載には非力でした。
パソコンヘビーユーザーからさんざん非難された揚げ句、NECが重い腰を上げて世に出した486マシン、それがPC-9821(98Mate)でした。1993年1月です。私は職場でこのマシンを導入してもらい、最初はWindows 3.0、同年4月からはWindows 3.1を導入して1年ほど使いました。このパソコンの出現で、やっと日本でもウィンドウズがまともに動くようになったのです。世界の潮流から1年は遅れていたと思います。

世の中では、「Windows 3.1が発売されてはじめて、ウィンドウズが実用化された」という発言もありますが間違いです。私は3.0と3.1を同じパソコン上で経験していますので確かです。両方を使った印象では、「3.1は3.0のバグフィックス版」程度の差しか実感できませんでした。

⑤Windows 95  Pentium 120MHz~AMD K6-III 400MHz
Windows 95以降、搭載パソコンは、NECのPC-9800シリーズからIBM PC/AT互換機(DOS/Vマシン)に取って代わられます。わが家では、Windows 95初代機が富士通のFM-Vマシン(Pentium 120MHz → AMD K6 233MHz)、2代目が自作マシン(Pentium 200MHz → AMD K6-III 400MHz)、その後はずっとショップブランドとなっています。
Windows 3.1とWindows 95の使い勝手を比較すると、それほどの差は実感しませんでした。実態はおそらく、Windows 3.X系が抱えていたさまざまな制約から開放されたことが大きいのでしょう。
しかし、Windows 9x系は、不安定なOSでした。しょっちゅうフリーズします。1日に1回フリーズするといったら大げさでしょうか。ウィキペディアでは『Windows 9x系のOSは内部的にMS-DOSを大幅に拡張したものに過ぎず、OSコアの部分には16ビットによる処理も多く残されていた。これは過去のソフトウェアとの互換性や処理負荷の軽減といったメリットをもたらしたが、同時に動作の不安定性を増し、多くのユーザーに理不尽なブルースクリーンを体験させることとなった。』と解説されています。

⑦Windows 2000 Pentium III 1000MHz
私が2000年はじめに事務所を開設したときは、まだWindows 98の時代であり、私が購入したパソコンもWindows 98ME搭載だったと思います。その年の春にWindows 2000がリリースされました。周辺機器やソフトが対応するのを待ち、2000年秋にOSを98から2000にバージョンアップしました。
OSをWindows 2000に変更して何が嬉しかったといって、とにかくフリーズしなくなったのです。アプリケーション単体でフリーズすることはありますが、OSもろともフリーズすることはほとんど皆無に近くなりました。
Windows 2000をもって、パソコン用OSとしてのウィンドウズが完成の域に達した、そのような印象を持ちました。

⑧Windows XP  Pentium4 2.6GHz、Core2Duo 2.13GHz、Core2Quad 3.00GHz
私としては、Windows 2000をWindows XPに乗り換えるニーズは何も感じていませんでした。しかし、2008年の時点で、私が使っているウイルスバスターがWindows 2000に対応しなくなってしまいました。それが理由で、パソコンのOSをWindows XPに変更せざるを得なかったのです。

⑨Windows 7  Core i7-2600
私が長年使い続けているキーボード(親指シフト)は、すでにサポートを終了しており、そのドライバーはWindows XPまでしか対応していません。そのため、私が常に使用するパソコンは、職場も自宅もWindows XPです。
一方、1年半前に職場のもう1台のパソコンが突然不調になり、急遽買い換えることとなりました。そのときにやむを得ず、Windows 7プリインストールパソコンを購入したのです。


私のパソコンOS変遷は以上のとおりです。
MS-DOSからWindowsに移ったときはもちろん大きな変化でした。
私にとっては、Windows98からWindows2000に変化したときの使い勝手の向上が大きく印象に残っています。何しろ、毎日のようにパソコンがフリーズしていたのに対し、ほんとどフリーズしなくなったのですから。
Windows2000マシンを立ち上げると、立ち上げの途中画面に「Windows2000はWindowsNTをベースに作られた」趣旨の英語表記があったように記憶しています。
そうです。Windows2000の優秀さは、WindowsNTの優秀さを引き継いだものだったのです。

そのWindowsNTを開発したプログラマー達の群像を描いた書物があります。次回は、その書物について書きたいと思います。
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