弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

「敵機、弾倉を開いた」

2010-08-31 20:58:08 | Weblog
8月22日の「ビッグイシュー日本」とはの記事で、下記ページの絵を題材にして、『今まさに弾倉から爆弾か焼夷弾が投下される直前だと思われますが、下から見上げる人たちが何とノー天気なことか。』とコメントしました。この絵の飛行機がB29と勘違いしてのコメントです。実際にはC130輸送機であることが後でわかりました。

このコメントに対し、井上さんから『頭上はるかな高空を飛んでいるB29から大量の爆弾が投下される瞬間を、大勢の人と目撃したことがありますが、それらの人たちは私を含めてまさに「ノー天気でした」。』『真上で爆弾を投下されても命中するのは自分のいるところからはるかに先のほうで、自分のところには絶対に落ちてきませんから、早く言えば高みの(低みの?)見物、まったくノー天気なものでした。』というご指摘をいただきました。

たしかに井上さんのおっしゃるとおりで、自分の頭上はるか高空で爆弾が投下されたのなら、自分のところには着弾しません。ただし、低空でまだ前方にいてこちらに向かってくる爆撃機だとしたらどうか。
C130の胴体車輪の格納扉を私は弾倉の扉と勘違いしました。そしてこの絵から連想する話を最近読んだばかりだったのです。

近藤道生氏が日経新聞に連載された「私の履歴書」については、私の履歴書・近藤道生氏近藤道生氏と戦争体験近藤道生氏ご逝去で話題にしました。

近藤氏は昭和17年(1942)、東大を繰り上げ卒業し、大蔵省に任官しますが、すぐに海軍短期現役仕官制度の見習士官となり、海軍経理学校で学びます。その後、舞鶴海軍航空隊、旅順、スマトラ島沖合のカーニコバル島と転属し、昭和19年7月にペナンの第八潜水船隊司令部兼第十五根拠地隊司令部の副官として転属します。ペナン島はマラッカ海峡に浮かぶ小さな島です。

『ペナンはシンガポールを爆撃したB24の帰り道にあたるから、現地の視界不良か何かで爆弾が余ると、私たちの頭上にばらまいていく。』
ペナン島では島のあちこちに見張所を配置し、見張所では下士官や兵が双眼鏡で上空を睨み、有線電話で逐次情報を司令部に送ってきます。
『ある日、港の埠頭に建つ鉄塔上の「第一見張」から敵機侵入の知らせが入った。百メートルほど離れた防空壕の司令部は次の連絡を待つ。
「敵機、弾倉を開いた」
爆撃がまもなく始まる。
投下された爆弾の行方を見守っていた第一見張から続報が届いた。
「第一見張に落ちる見込み」
その直後、大音響を伴って防空壕が揺れた。誰かが受話器にかじりついて叫んでいる。
「第一見張! 無事か」
一瞬の沈黙があった。
「第一見張、異常なし。全員無事」
その声はあくまで落ち着いていた。
「ああ」私は詰めていた息を吐いた。
すでに迎撃する味方戦闘機はおらず、高射砲さえなかったのだ。なのになぜ見張所など置いて、生身の人間をむざむざ敵の的にしたのか。
遠い過去から「全員無事」という声が心の耳朶(じだ)に甦るたび、愚かだった自分たちを思って、いまでも私は泣く。』(「不期明日(ミョウニチヲキセズ) 私の履歴書」から)

以上の文章を読んだばかりだったものですから、侵入する敵機の弾倉が開いているととたんに反応してしまったのです。実際には、侵入する敵機ではなく着陸する友軍の輸送機であり、弾倉ではなく車輪格納庫の扉でしたが。

この話には後日談があります。「不期明日(ミョウニチヲキセズ) 私の履歴書」のあとがきから
日経新聞の「私の履歴書」掲載期間中、読者から多くの手紙が寄せられ、それは連載が終わっても続きました。ほとんどが戦争に関するものであり、戦死した肉親や友人を持つ人びとの心の傷がいまだ癒えず、悲しみが消えていないことを改めて知らされました。その中に、近藤氏が落涙しながら何度も読み返した一通があります。
75歳になるその人の父親は昭和20年1月フィリッピンへ向かう輸送船が台湾の膨湖島沖で沈没し、戦わずして戦死します。かぞえ年34歳、妻と2人の子供を残します。
『父の無念さが私の胸の中で今でもうずまいて居ります。軍国少女だった私にとって終戦から昭和24年3月の戦死の公報は受け止められないものでした。』
『本当にありがとうございました。配属先はちがっていても
「全員無事」の声が耳朶に甦るたびに 愚かだった自分達を思って今でも泣く--
初めて上官の方からの肉声をお聞きできたように思えました。英霊の方々そして家族の者にとって初めての終戦が・・・・・有難うございました。』
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小沢一郎に振り回される日本

2010-08-29 00:05:45 | 歴史・社会
小沢一郎が総裁選に立候補し、政権党である民主党を二分する騒動が巻き起こっています。私としては、無名の人が立って小沢傀儡政権ができるよりはよっぽどすっきりはするのですが、管政権はもはや死に体かでも書いたように小沢さんに政権を渡したくありません。

最近小沢さんは以下のような発言をしたようです。
民主・小沢氏「米国人好きだが単細胞」-党代表選は言及避ける
『8月25日(ブルームバーグ):民主党の小沢一郎前幹事長は25日午前、都内での自身が主宰する「小沢一郎政治塾」で講演し、自身の世界観として「僕は米国人は好きだけれども、どうも単細胞なところがあって駄目だ」、「英国人は好きではない」など発言する場面があった。』(東京 広川高史thirokawa@bloomberg.net 2010/08/25 )
これから日本国の首相になろうと立候補している本人が、このような発言をするでしょうか。もし小沢さんの意図するところと違うというのであれば、またまた小沢さんの口べたが表に出たということにもなります。

小沢さんが首相になれば、当然のことながら「政治とカネ」で国会は大紛糾することになるでしょう。
政治資金規正法とのからみでいうと、小沢さんの行為は違法性が薄いのではないかと推定しています。郷原信郎氏の論評などからの印象です。一方で、4億円の土地購入の話等では、なぜそのような土地購入が行われたのか、違法性の話とは別に、小沢さんの意図を聞かないことには納得できない部分があります。
それなのに小沢さんは、検察捜査中は「徹底的に戦う」と言っていながら、不起訴が決まると「検察により無実が立証された」と述べるばかりで、国民の素朴な疑問に応えようとしません。
私としては、事の顛末を洗いざらい国民の前に明らかにすることが、小沢さんのためにもなると思うのですが、どうしてもそのような情報開示をしないですね。小沢さんは。
それが小沢さんの悪いところだと思います。よく言えば「口べた」「口が重い」ということになるのですが、首相候補である限りそのような言い訳は通用しません。

2080年4月には小沢一郎という政治家という記事で同じように嘆息しましたが、小沢さんは日本をどのような方向に導こうとしているのでしょうか。

もう一人。「管支持」から突然「小沢支持」に豹変した鳩山由紀夫です。
「小沢氏に恩返しをすべきだ」 訪露中の鳩山前首相
8月28日8時26分配信 産経新聞
『ロシア訪問中の鳩山由紀夫前首相は27日夜(日本時間28日未明)、党代表選に出馬表明した小沢一郎前幹事長について「民主党に入ってもらい、政権交代が成し遂げられたことは事実。功績は大きなものがある。私を総理に導いてもらった恩返しをすべきだと思っている」と述べ、小沢氏を支援する方針を強調した。』
一国の総理を誰にすべきかというときに、これでは「政治を私している」としか言いようがありません。前総理が口にすることでしょうか。

この1年間の民主党連立政権で分かったことは、「小沢さん以外はシロウト。小沢さんには政権を渡したくない」ということで、一体われわれ国民はどうしたらいいのでしょうか。
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丸の内八重洲ビル

2010-08-26 20:57:11 | Weblog
東京丸の内に、「丸の内八重洲ビル」というビルがありました。こちらの記録によると、
竣工 1928年(昭和3年)3月
所在地 東京都千代田区丸の内2-6-2
設計 三菱合資会社地所部
施工 大林組
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造8階建て、地下1階

私は1997年から2000年にかけて特許事務所に勤務していたのですが、その特許事務所がこのビルの中にあったのです。3年間、このビルに通ったことになります。
しかしこのビルが現存しないのです。すでに取り壊され、丸の内パークビルディングという高層ビルに建て替わってしまいました。

丸の内八重洲ビルは、昭和初期に建築されただけあって、重厚で趣のあるビルでした。正面玄関を入ると、天井の高いホールが待っています。エレベータも古風でしたが、階段を選ぶと、手すりが重厚な木製で磨かれて光っています。ただし古いビルですから、居室の居住性は決してよくありませんでした。
今になって、“取り壊される前に写真を撮っておくのだった”と後悔しているところです。
サイトに紹介されている写真を探してみると、丸の内八重洲ビル丸の内八重洲ビル・玄関丸の内八重洲ビル・内部などがいいですね。玄関ホール、階段の手すり、古風なエレベータなど、ご覧いただくことができます。

最近、丸の内八重洲ビルの跡地に建った丸の内パークビルディングに出かける機会がありました。カメラを持って出かけました。
  
東京駅方面から歩いていくと、高層ビルの隅の下方部分が白い塔のようになっています(上写真2枚)。この塔は、旧丸の内八重洲ビルの隅部分の塔に間違いありません。そしてさらに近くによると、新しいビルの東側正面と北側には、旧丸の内八重洲ビルの1階部分の壁がそのまま残されていました(下写真2枚)。
  
古めかしい石のアーチをくぐると、残した石のアーチと新しいビルとの間はガラス天井の廊下になっているのでした(左下写真)。新しいビルのロビー部分が右下写真です。
  
ところで、新しくできた丸の内パークビルディングの南側に、なにやら赤レンガ造りの建物が見えます。下の写真です。こんなビル、私が丸の内八重洲ビルに通勤していた頃にはありませんでした。
 
調べてみると、昔このあたりに建っていた「三菱一号館」という建物を忠実に復元したのですね。

ところで、丸の内にありながら何で「丸の内八重洲ビル」という名前だったのか、ということですが。Wikipediaによると。明治時代、まだ東京駅がなかった頃ですが、元々の「八重洲」は現在の丸の内に相当する地域のうち、丸ビルと三菱ビルの間に存在する通りの南側を指す地名でした。明治20年地図で確認すると、八重洲町の名称が見え、近衛騎兵、鎮台騎兵の兵営となっていました。ヤン=ヨーステンの屋敷も内堀沿いに存在したようです。そして、現在の東京駅八重洲口の前の外堀通りが本当に外濠で、丸の内の「八重洲」に通じる八重洲橋がかかっていました。呉服橋と鍛冶橋の中間です。
その後東京駅ができ、八重洲橋のあったあたりが「八重洲口」になった、というわけです。
丸の内側の八重洲町も1929年(昭和4年)に丸の内という地名に吸収されました。ちょうど丸の内八重洲ビルが生まれた頃ですね。
ということは、丸の内八重洲ビルが取り壊されたことによって、「このあたりは昔“八重洲町”と呼ばれていた」という証拠が消滅したことになります。
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原英史「官僚のレトリック」

2010-08-24 20:24:30 | 歴史・社会
官僚のレトリック―霞が関改革はなぜ迷走するのか
原 英史
新潮社

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本の表題からは、「霞が関の官僚が国民や国会をけむに巻いて自分たちの権益を保護・拡大しようとするときに用いる、だましのテクニックを教えましょう」といった風に読み取れます。
もちろん、そのような側面も本の中で描かれてはいるのですが、決してそれが主題ではありません。

この本の眼目は、『安倍政権以来、「政治主導(脱官僚依存)」と「公務員制度改革(天下り問題などを含む)」がどのように進展し、そして民主党政権でどのように挫折していったのか』を描く壮大なドラマなのです。

著書の末尾によると、著者の原英史氏は1966年生まれ、89年通産省に入省し、2007年から安倍・福田内閣で渡辺喜美行政改革担当大臣の補佐官を務めました。その後、国家公務員制度改革推進本部事務局を経て、09年7月退官。株式会社政策工房を設立し、政策コンサルティングを営んでいます。

安倍内閣で渡辺喜美大臣の下で公務員制度改革を推進した本人であり、著書でも“インサイダー”であることを明言しています。
『ともかく、私はそうやってプレイヤーとして関わった立場なので、この間の改革について第三者的な客観的評価はできない。その代わり、そこで繰り広げられた議論について、正しく記録し、検証しておくことはできると思う。改革はなぜ必要であり、反対派はどういう論拠で反対したのか。そこにはどんな詭弁や議論のすりかえがあったのか。本書ではそうした「論理」の側面に焦点を当てる。』

原氏が描く「公務員制度改革」の歩みは、大雑把に以下のように説明できそうです。
『安倍政権では、不十分ながら二歩前進を実現した。福田政権でもその歩みを続けた。しかし麻生政権では一歩後退してしまった。これら自民党政権時代、野党だった民主党は、「二歩前進でも全く不適切。もっと先を行くべき」といった論拠でこれら自民党の政策に反対し続けた。
そして政権交代が実現した後、民主党政権は、合計で一歩前進であった最近の成果をすべて否定し去り、その代わりに素晴らしい公務員制度改革を実現するどころか、改革は完全に後退し、元の木阿弥に戻ってしまった。』
その全体の流れを、わかりやすく明確に説明してくれるのがこの本です。

『小泉内閣は、道路や郵政などの局地戦では、霞が関と既得権益の秩序に風穴を開けたものの、霞が関の本丸の改革に踏み込むことはなかった。道路公団の天下りOBとは対峙しても、「天下り利権」や「各省縦割り」などを根治する公務員制度改革には、結局手をつけずに終わったのだ。』
『そうした中、最初に霞が関改革、あるいは公務員制度改革に本気で取り組み、突破口を開いたのが、小泉内閣をついだ安倍晋三内閣だった。ターゲットとして挑んだのは、最大の難関というべき「天下りの根絶」。霞が関と自民党内の守旧勢力の抵抗を振り切って、処方箋(「官民人材交流センター」への斡旋一元化)を法案としてまとめ上げ、成立にこぎつけた。これは、歴史的な第一歩だったと評価してよい。
安倍内閣はわずか1年で幕を閉じるが、幸いにしてというべきか、一度動き始めた改革の歯車は止まらなかった。次の福田康夫内閣では、安倍内閣での第一歩を起点に、さらに制度全体の再構築を目指し「国家公務員制度改革基本法」を提出、与野党協議を経て成立に至った。
のちに民主党の「脱官僚」アジェンダ(論点)の目玉となる「天下りの根絶」「政治主導への転換」「国家戦略局の創設」は、いずれも当時、政府・自民党の側から提示されたものだ(「国家戦略局」は、基本法における「国家戦略スタッフ」が下敷きとなっている)。
その後の麻生太郎内閣は、改革に極めて後ろ向きと一般に認識されていたが、それでも、基本法の定めるスケジュールに従い、「内閣人事局」の設置のための法案を提出するところまではいった。この法案は結局、国会で実質的に議論されることなく、廃案となりはしたが。』

以上、自民党政権下での改革の詳細については、また稿を改めようと思います。

民主党政権となってからのこの1年はどのように推移したのでしょうか。
《躓きの始まりは「天下り人事」》
日本郵政社長に斉藤次郎・元大蔵事務次官を充てる人事、さらに日本郵政副社長として坂篤郎前官房副長官補と足立盛二郎元郵政事業庁長官を起用、人事院総裁に江利川毅前厚生労働事務次官が任命されます。さらに日本損害保険協会副会長に元国税庁長官の牧野治郎氏が就任します。これら人事について、民主党政権は「天下りには当たらない」と言い訳し、その結果として、もはや「世の中に天下りなど存在しない」といっているような状況となりました。
『政権発足からわずか2ヶ月弱。あっという間に「天下りの全面容認」への路線変更になってしまった。民主党の面々にとって、「天下り根絶」とは、選挙向けのキャッチフレーズに過ぎなかったのだろうか。鳩山氏の発言や姿勢の「ぶれ」というレベルの問題ではなく、国民にとって「裏切り」に他ならない変身ぶりだった。』

《小沢主導は「ニセモノの政治主導」》
ガソリン暫定税率維持が決まったプロセスでは、小沢一郎民主党幹事長が党の要望として持ち出し、流れが決まりました。この小沢主導について原氏は問題点を挙げています。
第1に、「内閣主導の政策決定」を真っ向から否定し、「陰の権力者による政策決定になってしまったこと。第2に、政策決定が密室で行われたこと。第3に、その最高権力者が、選挙戦術優先の立場で物事を判断しているらしきこと。

《司令塔不在》
マニフェストでは「国の総予算207兆円を全面組み替え」「官邸機能を強化し、総理直属の『国家戦略局』を設置し、・・・政治主導で予算の骨格を策定する」とあります。
『やろうと思えば、10月からの臨時国会の最初に、「国家戦略局」関連法案を提出し、成立させることは可能だったはずだ。なぜ鳩山内閣がこれに手を付けようとしなかったのかは、全くもって謎だ。』『最初の予算編成で「全面組み替え」を断行しそこなったことは、もはや取り返しがつかない』
《各大臣らが、幹部官僚らの手綱を握れず、官僚機構を掌握できなかった》
『政権発足後、次官や局長ら幹部官僚は、結局、全員自動的に留任となった。』『官邸の事務の官僚副長官、官僚副長官補3名などについても、前政権で当該ポストに就いていた人たちをそのまま留任させた。』
『そんな状況だから、「政務三役が、部下の官僚たちを信頼できないのは、ある意味当然かもしれない。だから、電卓を自分で叩く光景に象徴されるように、霞が関の中の“ゲリラ部隊”として孤立してしまったのだ。』『まず、幹部の中で誰が使えるのか、改革の意欲と能力をともに備えているのかを見極めることから着手すべきだったはずだ。』

《2010年2月、鳩山政権は霞が関改革に関わる2つの法案、「国家公務員法等改正案」と「政治主導確立法案」を閣議決定》
「幹部の人事制度(降格制度)」については「次官・局長・部長を同一の職制上の段階とみなす」という最終案となりました。年収が次官2300万円、部長1500万円と異なるのになぜ同一の段階としたのか。『背景としてささやかれるのは、公務員労組の意向ではないかとの憶測だ。』幹部に限っての話とはいえ、「身分保障」に風穴が開くことは避けたいので、このようなトリッキーなプランができあがったのでは、と推測しています。

「内閣人事局」については麻生内閣時の案よりも後退してしまいました。
人事院の機能は一切移管せず、麻生内閣では不発に終わった“内閣人事局の空洞化”という試みが、ここに来て実現してしまいました。『ここでもまた、公務員労組の意向を疑わざるを得ない。』

「天下り根絶」について、法案を見ると、そんな意思は始めから全くなかったとしか思えない内容です。
野党時代の民主党は、「早期退職勧奨の禁止」などの抜本策を盛り込む必要があると主張し、「再就職等監視委員会」の同意人事にも反対してきました。ところが今回法案では、「早期退職勧奨の禁止」にも全く触れられていません。

『結局、「財務省は敵に回せない」などと言って自民党守旧派同様の“官僚への配慮”を続け、加えて“公務員労組への配慮”まで行い始めた結果、自民党政権時代よりも、状況ははるかに悪化してしまったように見える。
「脱官僚」は、残念ながら、もはや、風化しつつある。』

1年前の衆議院選挙で民主党が掲げた「脱官僚」「天下りの根絶」は一体何だったのでしょうか。この1年の民主党政権の施策は、「国民への裏切り」といって過言ではありません。

続く
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「ビッグイシュー日本」とは

2010-08-22 13:18:50 | 歴史・社会
瀬谷ルミ子さんのブログ8月4日記事は、「ビッグイシュー日本版 8月1日号掲載(追記あり)」です。
『雑誌「ビッグイシュー日本版 」の8月1日号(148号)の特集「戦争を知らない大人たちへ 」に、2ページにわたりインタビュー記事を載せて頂きました!』

ビッグイシューという雑誌ははじめて聞きます。瀬谷さんの記事によると、「ビッグイシューの販売員は、全てホームレスの方たちです。価格300円のうち、160円がホームレスの販売員の方の収入になります。
東京や大都市(?)の比較的大きな駅前で、販売員の方々が、ビッグイシューを掲げて販売している姿を見かけたことがある方もいると思います。」ということです。

私の家の最寄り駅は京王線の明大前ですが、そういえば駅改札口の近くで、雑誌らしきものを右手にかざして本を販売しているらしい人を、最近何回か見かけます。手に持っている雑誌名が、そうそう「THE BIG ISSUE」だったようです。
そうか、あそこで売っていたのが今回話題の本だったのか。

がぜん興味が湧きました。
しかし、いざ自分が購入しようとすると、なかなか販売員の人に巡り会いません。通勤には自宅から2駅先の笹塚駅を利用しているということもあります。

今月15日(日)にやっと、明大前の駅前で販売員の人を見つけました。すでに次の号が最新号になっていました。「8月1日号はありますか」とたずねると、バッグの中から当該号を出してくれました。こうして希望の号をなんとかゲットできた次第です。
  
表紙               瀬谷さんの記事
ビッグイシュー日本版サイトの「戦争を知らない大人たちへ」にこの号の案内が載っています。

表紙の裏に、ビッグイシューの考え方が記載されていました。
《ホームレスの仕事をつくり自立を応援する》
「ビッグイシューは、ホームレスの人々に収入を得る機会を提供する事業として、1991年に英国ロンドンではじまりました。ビッグイシューを創設し、その基礎をつくったのはジョン・バードです。
雑誌販売者は、現在ホームレスか、あるいは自分の住まいを持たない人々です。住まいを得ることは単にホームレスの状態から抜け出す第一歩に過ぎません。そのため、住まいを得たホームレスの人でも、必要な場合にはビッグイシューの販売を認めています。最初、販売者は、この雑誌10冊を無料で受けとり、その売り上げ3000円を元手に、以後は140円で仕入れ、300円で販売し、160円を彼らの収入とします。販売者全員が行動規範に同意し、顔写真入りの販売者番号の入った身分証明書を身につけて雑誌を販売しています。」

瀬谷さんは8月4日記事で「ビッグイシューを見ていて思ったのは、チャリティーではなく自立の応援をするスタンスが、あくまで選択肢を提示し、あとは本人に進んでもらうという紛争地での私たちの活動と通じるところがあるなというところでした。」とおっしゃっています。

日本版は2003年9月が創刊で、私が購入したのがすでに148号です。しかし今回の瀬谷さんのブログで知るまで、全く気付きませんでした。明大前の販売員が目に止まったのも今年に入ってからです。現在がちょうど拡大時期に入ったところなのでしょうか。

ところで、今まで私が明大前で見かけた販売員の方は、確か中年のようだったと記憶します。それに対し15日の販売員の方は若い方でした。たまたま雑誌に入っていた手書きの資料にブログアドレスが記載されていましたので確認しました。
ビッグイシュー本郷3丁目交差点販売員の気まぐれ日記ということで、普段は本郷3丁目で販売されている方です。6月まで自由が丘で販売されていたこちらの正彦さんですね。8月16日記事に「15日~17日だけ明大前で販売です」とありましたから、たしかにこの人から購入したようです。「15日12冊」のうちの1冊が私というわけです。

ビッグイシュー日本版サイトに販売場所というページがあるのですが、こちらには明大前駅が載っておらず、そもそも京王線が一切載っていません。一方、購入した雑誌中の「販売場所」ページには、【京王線】として府中駅けやき並木、明大前駅、笹塚駅三菱東京UFJ前の3ヶ所が掲載されています。
明大前駅の扱いについては、今回私が購入した販売員の方も臨時で来られたわけですし、どういうことになっているのか良くわかりません。

ところで、下の写真は今回購入したビッグイシューの特集「戦争を知らない大人たちへ」の扉ページです。このページの絵が気になって仕方ありません。

飛んでいる飛行機、プロペラの4発で、機体の形からいったら多分ボーイングB29爆撃機です。そして、胴体の腹の真ん中へんの左右に突起があり、これは弾倉の扉が開いたところだと考えられます。
① 今まさに弾倉から爆弾か焼夷弾が投下される直前だと思われますが、下から見上げる人たちが何とノー天気なことか。
② 本物のB29の弾倉は前後に分かれて2つあります。こちらのサイトこの写真からも明らかです。しかしビッグイシューの絵では弾倉が1つしかありません。
③ ビッグイシューの絵では、主翼のフラップが思いっきり後方に突き出ています。B29のフラップがわかる写真を探しました。こちらのサイトこの記事が見つかりました。たしかにB29のフラップは後方に後退しますが、主翼との間に空間ができるほどには後退していないようです。そもそも爆撃時にフラップを後退させるのかどうかも不明です。
まあ、記事とは関係ない話ですが。

p.s. 8/24 上の4発プロペラ機の正体が分かりました。私はB29と思い込んでいたのですが、第二次大戦時の軍用機ではなく、現代の軍用機でした。C-130輸送機ですね。こちらの写真がそっくりでした。私が弾倉の扉と思っていたのは、車輪格納庫の扉でした。C-130が着陸しようとしているところです。
「戦争を知らない大人たちへ」の表題から、「戦争」を「第二次大戦」と思い込んでいたところからの迷走でした。
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「ドレスデン逍遙」~聖母教会

2010-08-19 21:16:48 | Weblog
第2回に引き続き、「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」(川口マーン惠美著)の第3回です。
 
フラウエン教会(聖母教会)

ドレスデンの旧市街を代表する建物の多くは、暗く重厚な建物です。ドレスデン城、旧宮廷教会、ゼンパーオペラのいずれも、黒っぽく変色しています。そんな中で、聖母教会だけはクリーム色の明るい系統で、ひときわ高くそびえ立っています。

ザクセン王であったアウグスト強王が、ポーランド王になりたいがために新教からカトリックに改宗したことは以前アウグスト強王の時代で述べました。そのくらいですから、当時のドレスデンに新教徒が大勢いてもおしかくありません。
この聖母教会は、プロテスタントの教会として1743年に完成しました。権力者アウグスト強王とその息子は、ローマ法王の不興を買ってまでも、このプロテスタント教会の建設を黙認し続けたとのことです。ただし資金援助は一切しませんでしたが。

教会を設計しその工事を監督したのはベーアという建築家です。ドレスデン市の大工長でした。当時のドレスデンは、ザクセン王国の首都です。従ってドレスデンには行政組織として、王国の宮廷と市の行政府が共存していたのですね。聖母教会を建設したのは市でした。
1725年、それまで存在していた新教の教会が老朽化したため、市議会は大工長のベーアに新教会の設計を依頼します。紆余曲折の末にベーアの設計案が採択されますが、その後資金難が続き、完成までに17年を要しました。
教会の丸屋根について当初計画では、当時のドイツにおける教会建築の主流と同じ、すべて木組みでその上を銅板で覆うことになっていました。しかしベーアは密かに石積みの丸屋根を計画します。資金難で何度も工事が中断される中、ベーアの「銅板よりも石組みの方が安価である」との主張が認められ、最終的に現在われわれが見る形で1743年に完成しました。ベーアはその5年前に亡くなっていました。

1945年2月13日、ドレスデンは連合軍の空襲によって焼き尽くされます。聖母教会も内部に火が回り、2日間燃え続けます。そして15日朝、丸屋根はついにゆっくり崩れ始めます。後にはひときわ高い瓦礫の山と、その瓦礫の山から、崩れ残った壁の残骸が二箇所、天空に向かって突き出しています。
聖母教会の廃墟、1991年
東ドイツは最初から最後までSED(ドイツ社会主義統一党)の一党独裁の国でした。聖母教会を元通りに復元しようとする市民の考えに対し、SEDは逆に聖母教会の跡を更地にして大文化ホールを建設しようとします。1962年には、やはりドレスデンに廃墟となって残っていたソフィア教会が爆破され、本当に更地になってしまいます。
しかし、お金がないことが幸いして、瓦礫は片付けられずに放置されました。やがて東西ドイツ統一のあと、聖母教会の復元は市民運動から派生して力強い大波へと成長します。
1993年、瓦礫の山の調査が再開されます。
5メートル高さの石のレリーフは、二千余りの破片が集められ、これらオリジナルの破片でレリーフを修復しようということになりました。
18ヶ月の調査の末、目に触れる場所に使うことのできる石が8390個、目に触れない場所に組み込まれる石が93500個集められました。一番上の写真で、ベージュの建物のところどころに黒っぽい石が組み込まれていますが、これがオリジナルの石でしょうか。そして、左端にわずかに、一画の全体が黒っぽい壁がありますが、ここは崩れずに残ったオリジナルの壁だと思われます。
コンピュータで強度計算した結果、ベーアが考え出した、丸屋根の重量を8本の柱を通じて逃がす公報は現在でもそのまま通用することが確認されました。
工事は1994年に開始されます。丸屋根のてっぺんに取り付けられる十字架はイギリスのケント公爵から贈与されました。落成の大式典が行われたのは2005年でした。
   
教会前のルター像            フラウエン教会の屋根残骸    石のレリーフ
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経済財政政策担当相

2010-08-17 21:35:55 | 歴史・社会
景気が踊り場入りしているとの表現あたらない=経済財政相
8月16日11時49分配信 ロイター
『津村啓介内閣府政務官は同日のGDPの説明で「景気は踊り場入りしているかもしれない」と発言したが、荒井担当相は異なった見解を示し「景気のファンダメンタルズである設備投資や個人投資は、依然として改善傾向がみられる」と説明した。
荒井担当相は今回のGDPについて「(同四半期も)景気の着実な持ち直しが続いていたことを示す」としたうえで「景気は自律的回復に向かうと期待している」と述べた。そのうえで、1─3月期よりも伸びが鈍化した理由について「エコポイント関連で、液晶テレビの駆け込みの反動があった」ためと説明した。』

私は、「経済財政相」即ち「経済財政政策担当大臣」というのは、「経済財政諮問会議」と関連して設けられた役職とである理解しています。ところで民主党政権では、「経済財政諮問会議」を廃止してその機能を国家戦略局に集約するのではなかったでしょうか。その通りであれば、経済財政担当大臣という役職も意味を失い、民衆党政権によって廃止されるべき役職の筈です。それが上記のように、景気問題が発生したときの政府のスポークスマンとして経済財政相が出てくるというのはどういうことなのでしょうか。

念のため、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)についてウィキで調べると、「鳩山由紀夫内閣、菅内閣においては経済財政諮問会議を廃止して、国家戦略局へ機能を引き継ぐ方針であり、会議の廃止に伴い、担当大臣も廃止される。」と書かれています。

そして、経済財政諮問会議については、同じくウィキで「2009年9月に誕生した鳩山由紀夫内閣が政権の経済政策の中核として国家戦略室を設置したため、機能を停止した。
2010年2月5日に政府は内閣官房に国家戦略局を設置し、内閣府の経済財政諮問会議を行政刷新会議に改める政治主導確立法案を提出したが、第174回国会で廃案となった。」とあります。

以下のような理解でよろしいのでしょうか。
○ 経済財政諮問会議の根拠法は現在でも生きている。ただし、民主党政権によって有名無実の状態に置かれている。

経済財政諮問会議が有名無実であっても根拠法が生きている場合、経済財政政策担当大臣(以下「経済財政大臣」)というのを必ず任命しなければならないのかどうか。その点もわかりません。それにしても、経済財政大臣が政策を実現しシンクタンクとして活用する場が経済財政諮問会議だとしたら、たとえ任命されたとしても経済財政大臣は手足を持たないわけで、何も実行できないように思います。それならなぜ、上記記事にあるような発言を政府代表のような顔をして行うことができるのでしょうか。

取り敢えず、法律を調べてみました。
内閣府設置法(平成十一年七月十六日法律第八十九号)

上記法律の18条で経済財政諮問会議が定義され、19条でその役割が規定されています。そしてその19条2項に「経済財政政策担当大臣」の名が出てきます。それによると、当該大臣は9条1項の規定による特命担当大臣で、4条1~3号の事務を掌理するものとあります。
9条1項は『内閣総理大臣は、・・・「特命担当大臣」を置くことができる。』という規定で、「経済財政政策担当」は置かなくても良いようです。一方、「沖縄及び北方対策担当」、「金融担当」、「消費者及び食品安全担当」は、10条、11条、12条の2で「第九条第一項の規定により特命担当大臣を置き、当該事務を掌理させるものとする。」と規定され、必置とされているようですから、明らかに方の規定が異なります。

これら条文から、経済財政大臣を必ず任命すべきと読めるのかどうかよくわかりません。そして、たとえ任命されたとしても、重要事項について経済財政諮問会議に諮問するように規定されているので、経済財政諮問会議が有名無実化していたら職務は遂行できないことになります。
それに、民主党政権の方針として経済財政諮問会議を廃止すべきと決めているのであれば、同じく経済財政大臣についても、経済財政問題で政府代表のように振る舞うのは不自然です。

一方で、ウィキで経済企画庁について調べてみると、『2001年(平成13年)1月6日、中央省庁再編の実施に伴い総理府本府、沖縄開発庁などと統合され内閣府が発足、経済企画庁の業務は内閣府政策統括官(経済財政運営担当・経済社会システム担当・経済財政分析担当)、内閣府国民生活局などに承継。 』とあります。内閣府には経済企画庁に相当する長期経済計画の策定、経済動向に関する調査・分析を担う役人が揃っているのかもしれません。そうとすると、経済財政大臣は昔の経済企画庁長官の役割を担っている可能性が出てきます。

結局、よくわからない、という状況に変化はありませんでした。

以下に内閣府設置法の関係条文をコピーしておきます。
第四条  内閣府は、前条第一項の任務を達成するため、行政各部の施策の統一を図るために必要となる次に掲げる事項の企画及び立案並びに総合調整に関する事務()をつかさどる。
一  短期及び中長期の経済の運営に関する事項
二  財政運営の基本及び予算編成の基本方針の企画及び立案のために必要となる事項
三  経済に関する重要な政策()に関する事項

第九条  内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関して行政各部の施策の統一を図るために特に必要がある場合においては、内閣府に、内閣総理大臣を助け、命を受けて第四条第一項及び第二項に規定する事務並びにこれに関連する同条第三項に規定する事務()を掌理する職(「特命担当大臣」)を置くことができる。

第十八条  本府に、内閣の重要政策に関して行政各部の施策の統一を図るために必要となる企画及び立案並びに総合調整に資するため、内閣総理大臣又は内閣官房長官をその長とし、関係大臣及び学識経験を有する者等の合議により処理することが適当な事務をつかさどらせるための機関(「重要政策に関する会議」)として、次の機関を置く。
   経済財政諮問会議
   総合科学技術会議
(所掌事務等)
第十九条  経済財政諮問会議(「会議」)は、次に掲げる事務をつかさどる。
一  内閣総理大臣の諮問に応じて経済全般の運営の基本方針、財政運営の基本、予算編成の基本方針その他の経済財政政策(第四条第一項第一号から第三号までに掲げる事項について講じられる政策をいう。以下同じ。)に関する重要事項について調査審議すること。
二  内閣総理大臣又は関係各大臣の諮問に応じて国土形成計画法()第六条第二項に規定する全国計画その他の経済財政政策に関連する重要事項について、経済全般の見地から政策の一貫性及び整合性を確保するため調査審議すること。
三  前二号に規定する重要事項に関し、それぞれ当該各号に規定する大臣に意見を述べること。
2  第九条第一項の規定により置かれた特命担当大臣で第四条第一項第一号から第三号までに掲げる事務を掌理するもの(「経済財政政策担当大臣」)は、その掌理する事務に係る前項第一号に規定する重要事項について、会議に諮問することができる。
3  前項の諮問に応じて会議が行う答申は、経済財政政策担当大臣に対し行うものとし、経済財政政策担当大臣が置かれていないときは、内閣総理大臣に対し行うものとする。
4  会議は、経済財政政策担当大臣が掌理する事務に係る第一項第一号に規定する重要事項に関し、経済財政政策担当大臣に意見を述べることができる。
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「戦陣訓」の果たした役割

2010-08-16 10:13:42 | 歴史・社会
先日報告したNHKスペシャル「玉砕 隠された真実 」では、アッツ島の守備隊が最後に意味のない突撃で全滅していった経緯を説明する上で、「戦陣訓」を何回か説明していました。

戦陣訓についてウィキにもとづいて整理しておきます。
『「戦陣訓」(せんじんくん)は、1941年1月8日に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が軍人・民間人の多量の無駄な討ち死・自殺(特攻・集団自決)の原因となったか否かが議論の中心となっている。』
全体がどのくらいの字数なのかわからないのですが、本訓(其の一)が第一~第七、本訓(其の二)が第一~第十まであり、問題となっている「生きて虜囚の辱を受けず」は其の二・第八「名を惜しむ」の一節に過ぎません。「名を惜しむ」の全体は
「恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」です。

「日本兵は投降してはいけない、捕虜になってはいけない」という掟が、いつから強くなったのか、「戦陣訓」が果たした役割がどのくらい大きかったのか、という点は、疑問でもあり、実態を知りたいとも思っています。「『戦陣訓』が発行される前からこのような傾向にあったのではないか」との疑問がついて回ります。
ノモンハン事件は1939年に起こっていますが、事件終了後の捕虜交換で、ソ連軍の捕虜となった日本兵が日本に帰されたときの様子を、私はノモンハンの戦いに書きました。ノモンハンの戦い (岩波現代文庫)に集録されたシーモノフ著「ハルハ河の回想」です。日本兵捕虜は全員が重傷で担架に乗せられています。また日本兵捕虜を受け取った後、彼らの世話をする日本の衛生兵は、仲間である負傷兵に対してわざと乱暴にふるまいます。著者のシーモノフは、上官の目にそう映るようにふるまわなければならないのだろうと推測します。そして日本兵捕虜は頭に紙製の袋を目深にかぶせられます。シーシキンが日本人大佐に理由を問うと、「これは、連中が帝国陸軍の将兵たちに顔を見られてはずかしい思いをすることがないように、本人のためにしているのです。」と答えました。半藤一利著「ノモンハンの夏」によると、捕虜交換で戻ってきた日本兵捕虜のうち将校は、拳銃を与えられて自決を強要されたということです。
従って、戦陣訓が発行される前から、捕虜となることが禁じられていたことは確かでしょう。

一方、最近私は近藤道生氏の「国を誤りたもうことなかれ (角川oneテーマ21)」を読みました。近藤道生氏ご逝去を偲んでの読書です。
近藤氏が東条英機に関して述べています。
「昭和16年(1941年)1月、東条陸軍大臣の名で布達された戦陣訓は、生きて敵の捕虜になってはいけないと書いた。このためどれだけ多くの軍人や民間人が無益な死を遂げたか。また敵の捕虜の扱いも悪くなったため、結果としてどれだけ多くの哀れな日本兵がBC級戦犯にされてしまったか。後にその都度戦陣訓による無用な犠牲に触れることとするが・・・」

確かに、「生きて捕虜となってはいけない」という掟は1941年戦陣訓発行前から日本軍にあったのでしょうが、戦陣訓の発行によってそれが確固たる原則となり、さらに国民全体に浸透するに至ったかもしれません。特に、1943年アッツ島玉砕を国民に知らしめた報道により、国民への浸透が加速した可能性が考えられます。

ウィキによると、戦陣訓の作成には『当時の陸軍大臣であった畑俊六が発案し、教育総監部が作成を推進した。当時の教育総監であった山田乙三や、本部長の今村均も関わっている。国体観・死生観については井上哲次郎・山田孝雄・和辻哲郎・紀平正美らが参画し、文体については島崎藤村・佐藤惣之助・土井晩翠らが参画している。』とあります。
私は今村均を尊敬している人間なので、戦陣訓の作成に今村均が関わっていたことについては複雑な心境です。
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NHKスペシャル「玉砕 隠された真実 」

2010-08-14 14:46:28 | 歴史・社会
8月12日にNHKスペシャル「玉砕 隠された真実 」を見ました。昭和18年5月のアッツ島玉砕をテーマにした番組です。

現在アッツ島は一般立ち入り禁止になっているらしいですが、NHKは米国当局の許可を得て島に入り、取材しました。雪をいただく山々に囲まれた島でした。戦跡としては、米軍の砲撃でできた直径10mぐらいのクレーターや、米軍の薬莢が多量に放置された場所などが撮されました。
アッツ島の戦いで、日本軍は捕虜27名を除いて2,638名全員が戦死しました(ウィキ)。
5月29日の最後の突撃のとき、有効な武器はほとんど所持していません。米軍兵士として目撃した人は、「自分が死ぬための突撃であった」と述べています。
番組は、生存して捕虜となり、戦後日本に帰国して現在も存命である方々を取材しました。自分だけ生き残ってしまったことを負い目として生きてこられた様子が見て取れました。

日本の大本営はそれまで、日本の敗北を国民に隠してきました。アッツ玉砕の前に、ニューギニアのブナでも2千名以上が全滅する戦いがあったのですが、隠していたのです。アッツ島全滅の後、同じような戦いは今後続くであろうと考えた軍部は方針を転換し、アッツ島の全滅を「玉砕」と称して大々的に報じました。

“アッツ島玉砕”の報を日本人一般がどのように受け止めたか、私は山田風太郎の日記「戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)」が正直な証言として価値があると思っています。山田風太郎は当時21~2歳で、東京医専受験の浪人をしていました。
《昭和18年5月30日》
「アッツ島守備隊全滅す。吹雪氷濤の中にアッツ島二千の神兵ことごとく戦死す。自分も戦争にゆきたくなった。
海軍は一体何をしているのか。・・氷獄のごときアッツ島に冬を越した将兵をみすみす見殺しにして、どこに日本軍の真髄がある。・・・
神州不敗の信念は国民の熱涙の中にかがやいている。が、キスカ島の安否が気づかわれるのはいかんともしがたい。」

《同年8月21日》
『アッツに全滅した山崎部隊に感状下り、部隊長以下二階級特進の栄光に浴す。
(山崎部隊の全員が全滅したとの報道に対し)が、もし--もし不幸、重傷を受けたが死に至らず、人事不省のまま捕虜になった者があったとしたら如何。一人でもいい、数人でもいい、瀕死の夢から醒めて、アメリカ軍の幕屋に敵軍医の看護を受けつつあるのに気がついたとしたら、彼らの心理果たして如何。これらは敵の厳重な監視下に自決の器具なく、やむなく恥じて、舌をかんで続々死ぬ。その中に、例えば--山崎部隊長その人がいたとしたら如何。』

まずは、アッツ島玉砕の報に接した日本人の心理はこんなものだったのだろう、という状況が理解できます。
さらに山田風太郎はその後小説家になる人ですから、このときも小説家らしい想像力を働かせます。“もし山崎部隊長が生きて米軍の捕虜になっていたとしたら、どんなことになったのか。”捕虜になった山崎部隊長は、日本に送還される直前に捕虜収容所を脱走し、密かに日本に戻ります。
『昭和三十□年、--
「昭和18年5月29日、アッツに玉砕した山崎部隊長の墓」の前に、茫然としてたたずむ一老人があった。香煙たえず、その日もまた墓前に泣く少女あり。瞳をかがやかせる少年あり。児童らにその殉忠を訓す老教師あり。ああ、彼はすでに日本の師表となり、英雄となり、神となり、讃仰の的となっているである。』
山田風太郎の想像では、山崎部隊長本人は自分の墓の前で自決するのです。『殉忠山崎中将は、昭和18年5月29日より永遠に日本国民の胸に生きている。その幻影をみずから砕くに忍びない。みずからを嘲りたいが、日本人の幻をみずから消し、みずからの幻をみずから消すに忍びない。』

アッツ島玉砕の報に接した当時の日本人が、この報道をどのように受け止めたか、その実態が山田風太郎の日記から読み取れるように思います。

実は、もっとすごいのは、昭和19年7月のサイパン玉砕のときの山田風太郎の日記です。
《昭和19年7月5日》
『サイパン! ああ、また玉砕ではないのか。将兵はとにかくとして、万余の在留邦人はどうなるのか。
--いうに忍びず、血涙の思いではあるが、しかし在留の老若男女は、やはりことごとく将兵とともに玉砕してもらいたい。外敵に侵された日本国土の最初の雛形として、虜囚となるより死をえらぶ日本人の教訓を、敵アメリカに示してもらいたい。』

「一億玉砕の考え方がここまで国民に浸透していたとは!」という思いにかられます。

なお、「生きて虜囚の辱めを受けず」戦陣訓については稿を改めます。
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円高はどこまで行くのか

2010-08-12 21:11:13 | 歴史・社会
このところずっと円が上昇する基調でしたが、本日はさらに円高が加速しました。
今まで何ら対策を打たずにいた政府・日銀でしたが、本日の午後になってやっと動きが見え、それによって円の上昇にやや戻りが見えましたが、この数時間はまた円上昇の基調に戻っています。
取り敢えず、本日の政府・日銀の動きをメモしておきます。

市場動向注視、適切に対応=円高進行で緊急協議―政府・日銀
8月12日18時15分配信 時事通信
『長野県軽井沢町で静養中の菅直人首相は12日、外国為替市場で一時1ドル=84円台まで円高が進行したことを受け、仙谷由人官房長官、野田佳彦財務相と緊急の電話協議を行った。菅首相は為替相場について「動きが激しい」と懸念を示し、市場動向を注視するよう指示。これを受けて記者会見した野田財務相は、「景気動向を注意深く見守りながら適切な対応をしていく」と述べた。』

日銀総裁「注意深くみていく」…円高進行で談話
8月12日18時5分配信 読売新聞
『日銀の白川方明総裁は12日、欧米市場に続き東京外国為替市場でも一時、1ドル=84円台まで円高が進んだことを受け、総裁談話を発表した。
談話では、「米国経済の先行き不透明感の高まりなどを背景に、為替市場や株式市場では、大きな変動がみられている」としたうえで、「日銀としては、こうした動きやその国内経済に与える影響について、注意深くみていく」としている。』

円反落、85円台後半=首相の円高懸念発言などで―東京市場
8月12日19時0分配信 時事通信
『12日の東京外国為替市場は、菅直人首相の円高の進行を懸念した発言などを材料に円が売られ、円相場は反落した。午後5時現在は1ドル=85円69~72銭と前日比61銭の円安・ドル高。
この日は朝方から85円台前半でもみ合いが続き、東京市場では昨年11月以来となる84円台に上昇する場面もあった。しかし、午後に菅首相が仙谷由人官房長官に円高について「動きが激しい」と伝えたことが報じられると、円売りが活発化した。ほかにも玉木林太郎財務官が日銀の中曽宏理事(国際担当)と意見交換したことや、為替介入の前段階とされ、金融機関に為替水準を問い合わせる「レートチェック」を日銀が行ったとする一部報道などで、「介入警戒感が高まった」(邦銀)という。』

8月1日にこのブログの円高が止まらないで、「世界中の投資家が、日本の民主党政権の無策を当て込み、円買いを仕掛けているのではないか」という長谷川幸洋氏の仮説を紹介しました。その仮説が実証されているような今日この頃です。

日銀はどうなのでしょうか。高橋洋一氏は無策の日銀「金融政策決定会合」直後に始まる「強烈円高」の可能性~政治家も日銀も動かない日本の為替が狙われる(2ページ)で、
『9日と10日に日銀の金融政策決定会合が開かれる。
しかし、日銀は、9月の民主党代表選の様子見で、今の時点で行うべき金融政策をやらないだろう。この時点で何か行っても、民主党代表が誰かによってさらに追加策を求められるかもしれないので、その時に備えて「弾」をとっておくというスタンスだ。マーケット関係者やマスコミもそうみている。』
と述べています。これが本当だとしたら何とも情けないですね。

ところで、ここ1両日の円高について、ニュースは例えば
東京外為 一時84円台 長期金利7年ぶり低水準
8月12日12時1分配信 毎日新聞
『12日の東京外国為替市場の円相場は、米国など世界経済の先行き不安を背景に、比較的安全とされる円が買われる海外市場の流れを引き継ぎ、一時1ドル=84円台まで上昇した。』
と述べるなど、円高の原因を主に米国の経済不安に求めています。しかし、1両日の各国通貨の動きを比較してみると、ドルはむしろ(円を除く)各国通貨に対して上がっているのです。
「円とドルが2人高でその他通貨が全体安。円とドルでは円の方が上昇。」というのが全体像であるように思います。主要通貨のみで見れば「ユーロ1人安」となりますが。

「円ドル」ばかりに目を奪われず、世界全体の経済を眺めた上で円高の原因と対策を講じてほしいものです。
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