弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

テクテクテクテク-5

2019-03-24 13:48:10 | 趣味・読書
その4に引き続き、テクテクテクテクの進捗です。

小田急線の代々木上原駅、あるいは代々木八幡駅から南に歩くと、東京大学の駒場Ⅱキャンパスにぶち当たります。
敷地の北側にある正門から中に入ると、正面にれんが造りの時計塔が見えます(下写真)。

旧東京帝国大学航空研究所本館 国指定登録有形文化財
目黒区駒場 東京大学駒場Ⅱキャンパス内
 
東大駒場Ⅱキャンパスは、こちらのキャンパスマップによると、生産技術研究所と先端科学技術研究センターが混在しているようです。上野写真の時計塔は13号館(先端科学技術研究センター)と呼ばれています。

建物の左側に、下写真の銅像が置かれていました。

「航空」吉田三郎作
目黒区駒場 東京大学駒場Ⅱキャンパス内
 
「この銅像は、航空研究所の駒場での再建と施設の充実に力を尽くした斯波忠三郎所長を記念して、昭和10年に作られている。」

ところで、19972~3年頃、私は修士課程を履修していました。電磁流体力学の数値解析がテーマで、毎日フォートランでプログラムを組んでは計算を行っていました。当時、まだ私が所属する大学には電算機センターが設置されていませんでした。そこで、助手の先生の取り計らいで、駒場の宇宙研の電算機を借り受けて計算を行うことになりました。コンピュータは日立製のHITAC 5020です。
プログラムは、パンチカードに穿孔され、このパンチカードをコンピュータに読み込ませてプログラムをロードします。パンチカードは、1枚が19センチ×8センチ程度の紙製で、1枚のカードにプログラム1行が打ち込まれます。1000行のプログラムであれば1000枚のカードが使われます。
われわれが依頼する計算はオフラインで行われます。電算機センターにパンチカードを持ち込んで申し込むと、翌日の朝までに計算が修了し、計算結果の印刷物を受け取ることができます。私は、ジュラルミン製(多分)のカードケースにパンチカードの束を収納し、駒場の宇宙研に通う日々でした。ケースの大きさは、60センチ×25センチ×10センチ程度だったでしょうか。
井の頭線の駒場東大前の駅を降り、東大の正門前を左に折れ、なだらかな坂道を上がるとそこが宇宙研でした。現在の駒場Ⅱキャンパスに相当するはずです。
しかし、現在の駒場Ⅱキャンパスには宇宙研は存在しません。わずかに、上記の銅像の存在が、航空研→宇宙研の痕跡を残すのみです。

ウィキペディアで調べてみると、
《東京大学宇宙航空研究所の発足》
『1964年に東大生産技術研究所の一部と東大航空研究所[5]が合併し駒場に移転し東京大学宇宙航空研究所が発足した。』とあります。これが宇宙研と駒場の出会いでしょうか。
《文部省宇宙科学研究所の発足》
『東京大学宇宙航空研究所は、1981年に、組織を東京大学から離し文部省宇宙科学研究所(ISAS)に改組した。その際に一部は東京大学に移管され、工学部附属境界領域研究施設(現東京大学先端科学技術研究センター)となった。1989年4月には、キャンパスを駒場から相模原に移転した。』とあります。これが宇宙研と駒場の別れになるのですね。

宇宙研よりももっと前、航空研究所はどうだったのでしょうか。ウィキペディアの航空研究所によると、
『1918年(大正7年)4月1日、東京帝国大学航空学調査委員会が航空研究所となる。同年7月に、深川区越中島の東京工業試験所跡地(現東京海洋大学越中島キャンパスグランドの隣)へ移転。
1923年 (大正12年) 9月1日、関東大震災に被災。応急処置を施したまま研究を続けていたが、 1931年 (昭和6年) 、駒場へ移動。 』
とあります。これが、銅像「航空」の時代の姿だったのですね。
航空研究所(航研)というと、航研機(ウィキ)を思い出します。
1938年(昭和13年)5月13~15日、周回飛行コースを62時間22分49秒で29周し、周回航続距離10,651.011kmと1万kmコース平均速度186.192km/時の2つの世界記録を樹立した、とあります。
航研機については、2011年に「国立科学博物館「空と宇宙展」」という記事にしました。中学の頃、木村秀政著「飛行機のはなし」で読んで知っていました。私の中では、「飛行機の空気抵抗を減らすため、飛行中は操縦席から前方を見る窓を設けなかったが、操縦者に受け入れてもらった」という点が記憶に残っています。
私が昔祖父からもらった切手に「航研機」が描かれています。


さて、駒場地区の残りエリアについて、別の休日に踏破を完了しました。東大駒場キャンパスの正面にそびえる時計塔を写真に収めました(下写真)。
 

スマホの画面内で、特定の縮尺で表示すると、踏破した地区が黄色着色されて表示されます。しかし、その縮尺では踏破した地区の全体像を表示することができません。そこで、東京都の白地図を購入し、その中に、踏破した地区を赤鉛筆で塗りつぶすこととしました。下の写真です。中央線、井の頭線、京王線と小田急線の一部を記入しました。
踏破した地区

昭文社「23区全図(防災関連情報)1:45,000」に赤塗り
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テクテクテクテク サービス終了

2019-03-14 20:08:00 | 趣味・読書
テクテクテクテクについて、3/13に残念な知らせが舞い込んできました。

『サービス終了のお知らせ
 この度「テクテクテクテク」は、2019年6月17日(月)午前11時59分をもちまして、サービスを終了させていただく事となりました。
-------------
みなさま、こんにちは。「テクテクテクテク」プロデューサーの中村光一です。
 一人でも多くの方に、「歩いて」「塗って」楽しい時間をお過ごしいただこうと、テクテクを作って参りましたが、現在の課金規模では事業として成立せず、今回の決定となりました。』

私は、毎日このゲームでフルに遊んでいます。
杉並区とその周辺を実際に歩いて街区を塗りつぶし、また関東一円をとなりぬりで遠征して塗りつぶしています。そのデータがサーバーに保管されているはずで、維持費が必要なこともわかります。

それにもかかわらず、私は課金していません。現時点で、課金してさらに楽しみたいという動機が発生していないからです。
私が遊んでいるもう一つの地図ゲーム、即ちポケモンGOについては、毎月数千円の単位で課金しています。おもに有料の孵化器です。たまごを孵化することで新しいポケモンをゲットできるチャンスが多いので、どうしても孵化器を購入したくなります。今にして思えば、ポケモンGOについては私がこのように課金していることにより、ゲームの存続に貢献していることになります。

テクテクテクテクについて、特に課金のニーズは感じていないものの、そしてもはや手遅れでしょうが、取りあえず本日、2400円を課金して歩行石を購入しました。私のような篤志家(?)が大勢現れ、結果としてサービスが修了せずに存続すればいいが、と願っているところです。

いったんはサービス終了するにしても、ユーザーの履歴データはぜひ残しておいて欲しいものです。サービス再開時に継続して楽しめるように。
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テクテクテクテク-4

2019-03-12 22:16:40 | 趣味・読書
その3に引き続き、テクテクテクテクの進捗です。

中央線の西荻窪駅を北上した位置に、桃井地区があります。勤務先の荻窪駅からですと、バスで荻窪警察署あたりまで行き、そこから歩き回るような位置関係です。桃井原っぱ公園を訪れたのは2月21日で、園内は花の真っ盛りでした(下写真)。
杉並区桃井原っぱ公園
 

杉並区内を流れる大きな川は、神田川と善福寺川です。それに加えて、妙正寺川の源流が杉並区内に位置しています。3つの川の共通点は、いずれも杉並区とその付近に位置する池を源流としていることです。神田川は井の頭池、善福寺川は善福寺池、そして妙正寺川は妙正寺池です。
井の頭池は、その2で紹介しました。下の写真です。
三鷹市井の頭 井の頭池
 

妙正寺池は、杉並区の清水地区にあります。清水地区は、荻窪の北方、環八を隔てて桃井地区の東隣に位置します。
杉並区清水 妙正寺池
 

妙正寺池の南には、池の名前の由来である妙正寺を見つけることができました(下写真)。
杉並区清水 妙正寺
 

善福寺池は、吉祥寺駅の北方、桃井地区の西隣に位置しています。善福寺池を含む善福寺地区については、現在挑戦中です。
杉並区善福寺3-18 善福寺池
 

善福寺池の北東に、やはり善福寺池の名前の由来である善福寺を見つけることができました(下写真)。
杉並区善福寺4-3 善福寺
 

善福寺池を源とする善福寺川は、杉並区の北西から南東にかけて、杉並区を縦断しています。途中、成田から堀之内にかけては、川が大きく蛇行しています。成田地区の杉並税務署の南では、川が北東方向に流れ、鋭角に蛇行して南方向に流れを変えています。その鋭角の内側が川に囲まれた台地を形成しており、そこに尾崎熊野神社があります(下写真)。
杉並区成田西 尾崎熊野神社
 
神社入り口の説明板によると、『地名の「尾崎」は、尾崎=小さな崎の意で、崎とは舌状にのびた台地突端部を表し、このあたりの地形に由来したものと考えられています。』とあります。
説明板には『なお、境内にそびえるクロマツの大木は、当社の御神木で、樹齢約400年と言われ、くないでも有数の樹木の一つです。』とあります。上写真の左に幹が伸びている大木がそれでしょうか。

杉並区成田東2-7 善福寺川
 
上の写真は、善福寺川公園付近を流れる善福寺川です。

吉祥寺駅の周辺の土地は、道路が極めて整然と配置されています。碁盤の目、というか、長方形の土地を整然と並べたようです。従って、そのような地区では、道路が直線で遙か彼方まで見通すことができます。例えば下の写真。
武蔵野市吉祥寺東町
 
私の推定では、このような整然とした区割りは、最近の区画整理の結果ではなく、江戸時代までさかのぼるのではないか、と考えています。
私は、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を持っています。図面中の青い線は、川の部分を私がなぞったものです。
 
古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組」から
現在の吉祥寺駅の周辺は、玉川上水と千川上水で挟まれた地区で、さらに神田川と善福寺川の間の地区において、田んぼのあぜ道が極めて整然と配置されていることが判ります。
なお、私が「あぜ道」と言っているのは、上の地図で北北東から南南西に向かう実線の道路です。地図であぜ道のように見える破線は、おそらく実際の道路ではなく、「ここは水田だ」ということを示す記号のようなものではないでしょうか。
東京の西部は武蔵野台地に位置しています。自然の水源である神田川や善福寺川は、武蔵野台地を浸食してできた低地を流れているので、武蔵野台地の水源とはなり得ません。そのため、江戸時代以前は、この台地は雑木林と畑しかなかったはずです。わずかに神田川や善福寺川の河川敷のみが、水田好適地でした。
江戸時代初期に玉川上水、さらにその支流の千川上水が作られました。これらの水路は、自然の川とは異なり、台地と同じ標高を流れていますから、周辺の台地への用水となります。そしてこれら上水ができあがった結果として、江戸時代にこの地区に新田が生まれました。この新田のあぜ道を、整然と配置したものと考えられます。
江戸時代から存在した新田のあぜ道が、現在の整然とした道路に受け継がれた、そのよう考えるのが自然と思われます。

さて、善福寺池と善福寺川については上に説明の通りです。一方、善福寺池を含めた地区である善福寺地区については、先日やっと制覇完了したところです。残ったのは、善福寺地区の東側の端と、南東の領域でした。西荻窪駅からバスに乗り、善福寺の停留所で降車しました。そこから南東方向に歩いて行くと、途中に大きな神社の鳥居がありました。井草八幡宮でした。まずは神社の北に位置する鳥居と参道(左下写真)、それを横に見て南下すると、神社の東に位置する鳥居と参道(右下写真)です。今回は素通りでしたが、この大鳥居からすると、立派な八幡宮なのでしょうね。
井草八幡宮
  

さらに南に下ると、女子大通りに到達します。正門から見える正面を写真に収め(下写真)、すぐ近くのバス停でバスに乗って吉祥寺に至りました。

東京女子大学
 
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テクテクテクテク-3

2019-03-10 00:37:19 | 趣味・読書
テクテクテクテクでの地図塗りつぶしについて、その1その2で報告しましたが、さらに続きます。

職場は荻窪駅近くにあり、最寄りは中央線と地下鉄丸ノ内線です。
高円寺南地区は、北端が中央線の高円寺駅、南端が丸ノ内線の新高円寺駅と東高円寺駅です。
職場からの帰途、丸ノ内線新高円寺駅で降りて徒歩でジグザグに地図を塗りつぶしながら北上し、中央線高円寺駅で電車に乗ったり、あるいは丸ノ内線の東高円寺駅で降りて中央線中野駅まで歩いたりしながら、塗りつぶし地区を増やします。職場の昼休みも活用しました。下の6枚の写真は、いずれも高円寺南地区です。昼間撮った写真は昼休みであり、夜撮った写真は通勤の帰途に撮ったものです

杉並区高円寺南3-56 日王山長仙寺
 

杉並区高円寺南1-22 天祖神社                 杉並区高円寺南2-29 西照寺
  

杉並区高円寺南2-31 宗泰院                  杉並区高円寺南2-31 長龍寺
  

杉並区高円寺南4-18 高圓寺
 

2月はじめ、中央線の東寄りについて、上記の高円寺南地区をまず制覇です。
中央線の西寄りについては、三鷹駅の北側に位置する中町地区と西久保地区を制覇しました。この辺は、道路が碁盤目になっているので塗りつぶしのためのコースを選びやすく、どちらの地区も帰宅時のほぼ1回で塗りつぶしが完了しました。

京王線と井の頭線の東よりについては、北沢地区と幡ヶ谷地区が制覇です。
北沢地区については、井の頭線の下北側駅、あるいは池ノ上駅をスタート地点とし、ジグザグに北上して京王線笹塚駅に至る、というルートを何回か歩いて制覇しました。

明大前駅-吉祥寺駅-荻窪駅を結ぶ三角形の中心に、宮前地区があります。この地区は、鉄道の最寄り駅がないため、なかなか大変です。そこで、荻窪駅から高井戸駅を経由するバス路線を活用することにしました。まずは、西荻窪駅から南東方向に歩き、バスに乗って高井戸駅に到達するルートを1回行いました。次は、西荻窪駅からすぎ丸のバスで南下し、同じく南東方向のコースを歩いて、宮前地区をクリアしました。

その後、2月中旬には、京王線幡ヶ谷駅と小田急線代々木上原駅の間にある地区(大山町地区、西原地区、初台地区)をまず狙い、西荻窪駅の北に位置する上荻地区と西荻北地区を次々と塗りつぶしました。

宮前地区の東側に位置する、成田東地区と成田西地区も難関です。中央線の阿佐ヶ谷駅と井の頭線の浜田山駅を結ぶ杉並区コミュニティーバスとして、杉まるが運行しています。そこで、職場の荻窪駅からの帰途、中央線の阿佐ヶ谷駅で降りて杉まるに乗り、杉並税務署前で降りて歩き回り、また杉まるに乗車して浜田山駅まで、あるいは柳窪で都バスに乗車して高井戸駅までバス移動、というルートを何回か繰り返し、成田東と成田西を制覇しました。

昼休みの時間を利用し、成田東の一角、地下鉄丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅近くを歩いていたら、下の写真のお寺を見つけました。案内板などを撮影したところ、たまたま近くを歩いておられたご婦人から声をかけられました。このお寺の境内に、初代貴乃花のお墓があるとのことです。今回はお昼休みの残り時間の関係で残念ながら境内に入ることはできませんでした。ウィキペディアにコモン写真がありましたので下記に掲載します。

杉並区成田東4-17 天桂寺
 

花田家の墓(初代 貴乃花・花田満)
Author gn0747  
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