弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

普天間問題とペリー米国務長官

2010-12-31 17:14:47 | 歴史・社会
だいぶ前になりますが、日経新聞「私の履歴書」12月23日は、1996年当時にペリー(当時)米国防長官が沖縄の普天間問題にどのように取り組んだかが示されています。
橋本龍太郎首相が、日本外務省の反対にもかかわらず普天間返還を米側に言い出したがっている、という情報はペリー国防長官に事前に届いていました。
ペリー長官は当初から、沖縄県内で沸騰する反米軍基地の空気を鎮静化するためには「返還」という劇的な決断が必要だと感じており、クリントン大統領には「適切な状況さえ設定できれば、この(普天間返還)問題を無視するのではなく、推し進めるべきだ」と進言していました。ただし、普天間返還をクリントンに勧めるに際して、ペリー長官は最後まで代替地は沖縄県内であるべきだと思っていました。
『その理由は何といっても沖縄が備えている地理的な特性である。仮に朝鮮半島で有事が発生した場合、北朝鮮から最も近接した場所の一つは沖縄だ。だから、この問題について、私が日本政府と協議する際も「撤退」といった憶えは一度もない。あくまでも沖縄県内の他の場所に「移設」することを条件として、「返還」を決めたのだ。クリントンにもその点は念を押していた。』

沖縄米軍・普天間基地を5~7年以内に日本に全面返還することで正式に合意し、1996年4月12日夜、橋本首相はウォルター・モンデール駐日米大使と首相官邸で共同記者会見しました。

『だが、その後、普天間を巡る緊張が緩み、何年も注意を振り向けなかった結果、普天間問題はまたしても漂流を始めてしまった。その漂流が長引けば長引くほど、この問題は難しさと同時に危険度も増していく。やがてこの問題が極度に深刻化すれば、それはすべての物を失うことにつながっていく。非常に残念なことだが、その懸念は今、現実のものとなっている。』(12月23日記事)

普天間返還の方針を発表した直後、1996年4月17日、国賓として来日したクリントン米大統領は橋本首相と会談し、冷戦終結後の日米安保体制の重要性を再確認した「日米安保共同宣言」に署名しました。
この会談で、両首脳は極東有事の際の日米防衛協力を本格的に検討することでも合意し、橋本首相は「危機が生じた時に日米安保体制が円滑に機能し、効果的に運用するため、日米協力できることとできないことの研究をきちんとしなければならない」と述べ、日米防衛協力の指針の見直しを軸に共同対処研究に取り組んでいく意向を表明しました。(12月24日記事)

橋本首相のこの方針がその後もぶれずに貫かれていたら、今ごろはずいぶんと違った風景になっていたことでしょう。なぜそうならなかったのか・・・。
日本史年表で簡単に調べてみました。
1998年7月に自民党(橋本政権)は参院選挙で惨敗し、小渕恵三内閣が成立しています。
2000年4月に小渕首相が病気入院し、森喜朗内閣が成立します。
2001年4月、自民党総裁選で小泉純一郎氏と橋本龍太郎氏が戦って小泉氏が勝利し、小泉内閣が成立します。

橋本内閣は国民に人気がなかったのですね。
その後、現在まで続く日本の政治を振り返ると、“ポピュリズム”“大衆迎合”でない政治はほとんど不可能となっているようです。

日本が国際社会の中で名誉ある地位を占めることのできる国に成長しようとしても、国民がそのような方向の政府を選択しないということで、現在の日本が国際社会で漂流しているのも日本国民が結果として選んだ道でしかない、といえるようです。

なお、96年以降の普天間返還問題の推移については、小川和久著「普天間問題」を参照してください。

それでは皆さん、良いお年をお迎えください。
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第0次世界大戦~日露戦争

2010-12-29 18:13:04 | 歴史・社会
12月27日午後10時からはNHK『プロジェクトJAPAN「第0次世界大戦~日露戦争・渦巻いた列強の思惑~」』を観ました。
『「戦争と革命の世紀」と言われる20世紀。その最初の戦争であり、以後の大戦に大きな影響を与えた日露戦争を「第0次世界大戦」ととらえる見方が、近年、欧米の歴史学者から提唱されている。軍事技術の発達やかつてない戦闘規模といった軍事史上の意味はもとより、世界秩序の枠組みを変えたという国際関係史のうえでも、日露戦争は画期を成すというのだ。アジアの新興国に過ぎなかった日本が、巨大帝国ロシアとの戦争に踏み切ったのはなぜか。その背景に、東アジアをめぐりイギリス、ドイツ、アメリカなど列強各国の思惑が渦巻いていたことを読み解き、日露戦争が20世紀の世界対立の構造を決定づける発端となったことを見ていく。(松山放送局)』
当時、帝政ロシアはウラジオストックを清から譲り受けた後、さらに満州鉄道、旅順港の軍港化、シベリア鉄道から旅順までの鉄道敷設と進め、このままではロシアが朝鮮半島を支配下に納めるのではないかと危惧されるに至ります。
日本にとってはもちろん、「日本の利益線」といわれていた朝鮮半島をロシアに支配されるのは、その後の日本へのロシアの圧力を含めて是認することはできません。
加えて、イギリスにとっては、揚子江流域に張り巡らしたイギリスの権益が損なわれる危険を生じていました。
また、遅れて中国大陸に進出しようとする米国は、ロシアに満州の門戸開放を要求しますがロシアから一蹴されます。
一方、ドイツ(当時のプロシャ)は、ヨーロッパでのドイツの地歩を固めるため、ロシアに対して日本に圧力をかけるようにけしかけるのでした。

中国大陸をめぐるこのような列強の思惑が奔流となり、日露戦争に至った、というあたりをたどったのが上記NHKの番組でした。

ところで、最近読んだ本の中で、伊藤博文の言葉として『日露戦争は英米の「邏卒番兵の役」』と称したという記述が頭に残っていました。
その言葉があったので、今回のNHKの番組を興味深く観ました。

番組では、以下の話が紹介されています。日露戦争前、在ロシア日本大使がロシア政府に対して「日本は満州でのロシア帝国の権利を認めるから、代わりに朝鮮半島での日本の権利を認めてくれ(満韓交換論)」という提案をしたのに対し、ロシアはそれを拒否しました。ところが、日露戦争開戦直前、ロシアの外務大臣?が皇帝に対して、日露条約の締結を提案し、その中でこの満韓交換論が取り上げられていた、ということを示す文書が番組で紹介されていました。

日露戦争前において、伊藤博文は対ロ開戦反対論だったはずです。そこでWikipediaで調べると『日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らとともに日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシア帝国との不戦を主張した。同時に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した。さらに、自らロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否される。』とありました。

そもそも満韓交換論を唱えたのが伊藤博文だったのですね。
しかしNHK番組では、伊藤博文については一言も紹介されませんでした。今回の番組の趣旨から考えたら、番組後半の主役は伊藤博文かな、と想像していたにもかかわらずです。
番組によると、日露戦争における日本の役割は、中国大陸における英国と米国の利益を増進するためであった、ということになり、まさに伊藤博文がいう『日露戦争は英米の「邏卒番兵の役」』そのものです。

日露戦争後、ロシアはフランスと手を組むようになってドイツが孤立します。その後ヨーロッパは第一次世界大戦へと突き進んでいきました。
日露戦争後、日本は韓国をまず保護国とし、満州へと進出し、アメリカと権益が対立することとなります。太平洋戦争への道が始まっていたのです。

伊藤博文の『日露戦争は英米の「邏卒番兵の役」』について私が読んだ出典がやっと見つかりました。永井陽之助著「平和の代償 (中公叢書)(1967)」(p75)でした。
『いまなら、だれも知っているように、日露戦争は、いまの言葉でいえば、帝政ロシアのアジア進出を警戒し、“封じこめ”ようとするイギリス・アメリカの軍事的、経済的、政治的支援によって辛勝した一種の“代理戦争”であった。当時、伊藤博文などの為政者は、日露戦争が、米英の「邏卒番兵の役」(伊藤の言)であることをシニカルに知っていた。だから、ポーツマスの講和会議に赴く小村寿太郎が、巨大な賠償金と領土獲得を夢想する国民の“幻想”と“期待”に拘束されて苦悩するのを知って、伊藤は「公の帰朝のときには、他人はどうであろうとも、吾輩だけは、かならず、出迎えにゆく」とその耳にささやいたのである。』
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1969年佐藤・ニクソン会談

2010-12-28 18:27:52 | 歴史・社会
沖縄返還交渉でベトナム出撃を容認 公開外交文書に内幕
asahi.com 2010年12月22日10時42分
『沖縄返還に向けて日米両政府が行った交渉の詳細が22日、外務省が公開した外交文書で分かった。1969年11月に開催された、佐藤栄作首相とニクソン大統領による首脳会談の公式記録も公表された。
公開されたのは、主に50~70年代の外交文書約280冊分。
 ・・・・・
11月の首脳会談では、前年の大統領選で日本からの化繊製品輸入の規制を公約に掲げたニクソン大統領が、繊維問題に強い懸念を示していた。佐藤首相は「自分はその場限りの男ではない。誠意を尽くす」と、自主規制を約束したと取れる発言をしている。
外務省は5月、作成から30年以上たった文書は原則として自動的に公開するという新方針を示した。今後、3年間で2万2千冊を集中的に公開する予定だ。(川端俊一、倉重奈苗)』

1970年当時の日米繊維交渉については、4年前に「日米繊維交渉1970」として記事にしました。
1970年当時、日本の安い繊維製品が米国の繊維産業を圧迫しているとして、日本に繊維輸出の自主規制を求める要求が極めて強く、日米間の問題となっていました。日本の通産省の役人も、日本の繊維業界に味方して自主規制には反対の姿勢でした。

問題の佐藤・ニクソン会談は1969年11月の19~21日に3回行われたようです。
鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳 (新潮文庫)」によると、佐藤ニクソン会談は、異文化コミュニケーションの分野ではコミュニケーションの失敗例として名高いそうです。ニクソン大統領が日本の繊維輸出の自主規制を強く求めたのに対し、佐藤首相がどのように答え、どのように通訳されたかについては定説がなく、諸説あるそうです。「訳された外交官の方は秘密を墓場まで持っていかれました」ということになっています。

佐藤総理訪米には、実は当時の石原慎太郎議員が同行しているのですね。石原氏の著書「国家なる幻影〈上〉―わが政治への反回想 (文春文庫)」には、その時のことが記されています。繊維問題が気になった石原氏が佐藤首相に尋ねたところ「ああ、だから、貴方のいうことはわかりますから、ま、努力はしましょうとだけいっておいたよ」ということでした。さらに石原氏が、日本側通訳の赤谷源一氏にどのような通訳をしたか聞いたところ、「赤谷氏はこれまた簡単に答えてくれたが、確か"I understand what you mentioned, so I will make my best effort"とかいったものだった。いずれにせよそれは英語でははっきりYESを意味している印象だった」とのことです。石原氏が佐藤首相に「互いの思惑が行き違って大変なことになるのでは」と進言したところ、佐藤氏は急に不機嫌になったと言うことです。

佐藤ニクソン会談についてニクソン大統領は、米国側は沖縄返還を認めたにもかかわらず、日本側は約束を反故にして繊維で譲歩しなかったと認識します。ニクソンは日本に裏切られたと感じ、後の二度にわたるニクソンショックで日米関係は最悪になった、というのが通説のようです。

このように謎に満ちた佐藤・ニクソン会談の内容ですが、今回の外交文書公開によってはじめて明らかになったということでしょうか。
12月23日の朝日新聞にはもっと詳しく掲載されていました。
69年11月の日米首脳会談において、2回目の会談でニクソン大統領が日米線維問題について切り出しますが、佐藤首相は満足な応答をしません。
そして3回目の21日、佐藤首相は「大統領と自分の話は外部に出すべきではない」と秘密裏に進める考えを強調した上で、大統領の要求に応える形で「12月末までに話を付け、はっきりした形で約束する」「自分はその場限りの男ではない。最善を尽くすことを信頼してほしい」と応じました。米側公文書によると大統領は「申し分ない」と答え、「密約」が成立したと理解しました。

こうしてみると、石原慎太郎氏が通訳から直接聞いたという"I understand what you mentioned, so I will make my best effort"に加え、さらに踏み込んだ約束をしていたことが日本側公文書で明らかになりました。

しかし佐藤首相はこの約束を事実上反故にしました。というか、佐藤首相自身は、のらりくらりとかわしたつもりだったのでしょう。
宮沢喜一氏の「私の履歴書」によると、1970年に通産相に就任した宮沢喜一氏が訪米して米国と交渉したところ、米国側から「総理のところに紙があるからその紙を見てきて欲しい」と言われ、佐藤首相に確認すると「そんなもんはない」と言われます。米国でも宮沢通産相は「そんな紙はない」と突っぱね、結局協議不調に終わりました。
その後の二度にわたるニクソンショックで日米関係は最悪になりました。

今回公表した公文書によれば、日本外務省は佐藤首相がニクソン大統領とした約束を把握していたはずです。それにもかかわらず、なぜ宮沢通産大臣にきちんとその点を伝えなかったのでしょうか。理解に苦しみます。やはり、通産省と外務省の間に壁があったのでしょうか。
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駐ロ大使更迭(2)

2010-12-26 17:54:58 | 歴史・社会
先日の駐ロ大使更迭と「闇権力の執行人」では、最近動きのあった日本外務省のロシア外交当局者と鈴木宗男氏との関係について書いたところです。

<駐露大使更迭>私はロシアに詳しくない…首相、怒り爆発
毎日新聞 12月24日(金)2時30分配信
『北方領土をめぐる日露の主張
関係者の証言をまとめると、政府が河野雅治駐ロシア大使(62)を事実上更迭する背景には、在ロシア大使館側から発信された情報を信じ、ロシアに対して事前に北方領土訪問の中止を求めるなどメッセージを発信できなかった官邸側の強い不信感があるようだ。
メドベージェフ大統領が9月下旬に北方領土を「近く訪問する」と明言、10月下旬に訪問の観測記事が頻繁に流されて以降も、外務省は首相官邸に「訪問はない」と報告し続けた。菅直人首相は、周辺に「本当に行かないのか」と繰り返し確認したが、返ってきたのは「大使館からの情報では『訪問はない』ということです」との答えばかりだった。
だが、大統領は11月1日、北方領土・国後島への訪問に踏み切った。一時帰国を命じられ、同月3日午前に帰国した河野大使は、同日夕、外務省の佐々江賢一郎事務次官、小寺次郎欧州局長らとともに首相公邸に呼び出された。菅首相や仙谷由人官房長官が事情聴取を始めた。
「なぜだ。なぜ訪問しないと判断したのだ」。官邸側から問いただされ、河野大使は「ロシア外務省からそういう報告を受けていましたから」と答えた。これに菅首相はカチンときた。「そんなことは聞いていない。誰が言ったかじゃなく、どうしてそう思ったんだ」口ごもる河野大使を見て、仙谷長官が助け舟を出した。「大統領はプーチン首相との関係など、いろいろあるのじゃないのか。そのあたりの判断は」。だが、河野大使の口は重くなる一方だった。
「要するにどういうことだ」。いら立つ首相ら。最後に、河野大使はこう口走ってしまった。「私はあまりロシアに詳しくないので……」。次の瞬間、首相らの怒りが爆発した。』

11月30日に武田善憲「ロシアの論理」で取り上げた武田善憲著「ロシアの論理―復活した大国は何を目指すか (中公新書)」によると、現在のロシアでの権力中枢においては、いわゆる政府を構成する従来からの官僚組織だけではなく、「大統領府」が大きな力を有しているようです。
大統領の仕事をあらゆる面でサポートする機関が大統領府であり、強大な権限を有しているといいます。そして、ネガティブな意味での官僚機構そのものといった様相を呈していた政府の各機関の非効率を補うべく、日夜圧倒的な仕事の量をこなしていました。
政府が相対的に機能不全である理由は、第一に社会主義時代の「大きな政府」をそのまま引きずり、非効率であること、第二に国家の基本的な方向性を決めるのが大統領や安全保障会議だとして、それを政策に落とし込む作業は政府ではなく大統領府が担当していること、第三にロシアの政治構造において政府は事実上スケープゴートにされてきたこと、だといいます。
このように政府は重要な地位を占めず、大統領府が仕事をしているというロシア政権において、政府の一部である外務省はどれほどの力を有しているのでしょうか。もし、在モスクワ日本国大使館が外務省にしか人脈を持たないのであれば、日本が対ロシアで情報収集能力を有していなくてもおかしくありません。

また、ロシアの重要な政策決定に関しては、大統領府どころか、メドヴェージェフ大統領とプーチン首相の二人しか知らず、その二人がきわめて口が堅いことから、この二人が口を割らない限り、世の誰も知ることができない状況にあるようです。駐ロシア日本大使館がこのようなロシアの状況を知っているのであれば、ロシア外務省筋からしか情報が取れない状況の中で、日本政府に対して「メドヴェージェフ大統領が国後を訪問するかどうか不明」という情勢判断を送るべきでしょう。


菅外交、繰り返される「その場しのぎ」ロシア大使更迭へ
産経新聞 12月24日(金)0時18分配信
『メドベージェフ露大統領の北方領土訪問という前代未聞の“日本外交の失態”に対し、菅政権は、河野雅治駐ロシア大使更迭で決着を図ろうとしている。だが、日米同盟にずれがあるかのようにふるまい、ロシアに付け入るすきを与えたのは民主党政権だ。河野大使を一時帰国させた際もあいまいな態度で、13日にはシュワロフ第1副首相の北方領土訪問も許すなど、その後も失態は続く。定まらない菅政権の外交姿勢を放置した「その場しのぎ」が繰り返されている。
対露外交では近年、情報収集能力の低下が指摘されてきた。影響力のある鈴木宗男前衆院議員と、鈴木氏に反発する勢力が外務省内で対立。刑事事件で鈴木前議員の影響力が低下すると、ロシアとの太いパイプを持つ「鈴木派」の官僚が一掃された-との見方だ。
それ以上に問題なのは、政権交代以来、官邸の外交方針がふらつくことで、外交情報が政府内で滞留する混乱が生じていることだ。
河野氏は当初、露大統領の国後島訪問について「具体的計画があるとは承知していない」と指摘。外務省欧州局も同様の判断で、首相官邸は楽観していた。
その後、日本大使館から伝えられた「大統領訪問は確実」という新しい情報は、10月末に東南アジア諸国連合(ASEAN)関連会議出席のためハノイに滞在していた菅直人首相と前原誠司外相には伝わらなかった。露大統領もハノイにおり、情報があれば、訪問阻止の直接交渉もあり得たが、それもできなかった。
情報の軽重と、どこまで首相に報告するかという外交の基本が政府内で壊れていることを示す事案だ。外務省内から「政府全体の問題を放置して、河野氏をスケープゴートにするのか」という声が出るのはこのためだ。
政府は今後、「日露協力関係が新段階へ進むように努力する」(前原外相)との戦略を描く。後任に有力な原田親仁(ちかひと)駐チェコ大使はロシアスクール(ロシア語研修組)だが、鈴木前議員と対立した経緯がある。混乱を抱えたままで政府が一枚岩になれるかどうかは不透明だ。』

鈴木宗男議員を刑務所に送り込み、東郷和彦欧州局長を追放し、佐藤優情報分析官を特捜検察に売り渡したのは外務省です。このとき、佐藤優氏が率いていた「チーム」も崩壊したものと推定されます。これによって日本の対ロ情報収集能力が大きく低下したであろうことは容易に推察できます。そしてその推察通りのことが、実際に日本外務省で起こっている、ということでしょうか。

それに加え、今回の対ロ外交失敗の要因の一つが、官邸にもあったということですね。
尖閣問題の際には、中国人船長の勾留を延長するか否かの段階で官邸、新旧外務大臣が機能しませんでした。そして国後問題では、ハノイに滞在する首相と外務大臣に最新情報が的確に伝わらなかったというのですか。
そうだとしたら、遅ればせながら「大統領訪問は確実」と伝えた駐ロ日本国大使の落ち度は少なく、その情報を首相と外務大臣に伝えなかった官邸の方が責任は重大である、といえます。

私がまったく評価しない小寺次郎氏が欧州局長、同じく評価しない原田親仁氏が駐ロ大使、ロシアの専門家ではない岡野正敬氏がロシア課長という布陣で、日本の対ロ外交は立ちゆくのでしょうか。
せめて、「ロシアの論理―復活した大国は何を目指すか (中公新書)」を執筆した武田善憲氏を、外務省軍縮不拡散・科学部軍備管理軍縮課課長補佐という役職から、駐ロ日本大使館書記官あるいは欧州局ロシア課に転任してもらってはいかがでしょうか。
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駐ロ大使更迭と「闇権力の執行人」

2010-12-25 09:28:13 | 歴史・社会
メドヴェージェフ・ロシア大統領が国後島を訪問した件について、11月9日に北方領土問題と日本外交で取り上げたところです。

駐露大使交代へ、北方領情勢分析不適切で更迭か
読売新聞 12月23日(木)3時10分配信
『政府は22日、河野雅治・駐ロシア大使を退任させ、後任に原田親仁・駐チェコ大使を充てる方針を固めた。
ロシアのメドベージェフ大統領による11月の北方領土訪問について、外務省や在ロシア大使館は当初、「大統領は訪問しない」という見通しを首相官邸に伝えていた。
この点について、菅首相らから事前の情勢分析が不適切だったと指摘された経緯があり、河野大使の退任は事実上の更迭だという見方も出ている。河野氏は2009年に大使に就任し、さらに続投するとみられていた。』

<駐露大使更迭>私はロシアに詳しくない…首相、怒り爆発
毎日新聞 12月24日(金)2時30分配信
『・・・一時帰国を命じられ、11月3日午前に帰国した河野大使は、同日夕、外務省の佐々江賢一郎事務次官、小寺次郎欧州局長らとともに首相公邸に呼び出された。菅首相や仙谷由人官房長官が事情聴取を始めた。
「なぜだ。なぜ訪問しないと判断したのだ」。官邸側から問いただされ、・・・河野大使の口は重くなる一方だった。「要するにどういうことだ」。いら立つ首相ら。最後に、河野大使はこう口走ってしまった。「私はあまりロシアに詳しくないので……」。次の瞬間、首相らの怒りが爆発した。』

今回、メドヴェージェフ大統領の国後訪問を予測できなかった失態の責任は、河野駐ロ大使一人にあるのではなく、外務省の欧州局長やロシア課長にも大きな責任があるはずで、その辺を前原外相がどのようにけじめを付けるのか、今後の課題です。

ところで、後任の原田親仁氏とはどのような外交官なのでしょうか。

鈴木宗男著「闇権力の執行人 (講談社プラスアルファ文庫)」については、このブログの鈴木宗男氏と大西健丞氏で話題にしました。このときは、「闇権力の執行人」の中の大西健丞氏とのいきさつに関する記事に注目したのですが、この本のすごいところは、外務省の現役高級官僚について実名入りで、今までの恥ずかしい行状に関してすっぱ抜いているところです。
鈴木宗男氏は対ソ連外交に深く入り込んでいたので、外務省のロシア関係とは特に繋がりが深かったはずです。そこで、原田親仁氏について何か書いてないか、読み返して見ました。

ありました。
旧ソ連時代の1989年ごろまで、在モスクワ日本国大使館では「ルーブル委員会」という組織が裏金で不正蓄財を行っていたというのです。そのカラクリは今回書籍を再読してもよくわかりませんでしたが、旧ソ連時代にモスクワに在勤していた原田親仁氏もこうした不正蓄財に手を染めていた、と実名で記述されています。
さらに、この不正蓄財のもともとの出所はKGBの工作資金だったとも記され、これら日本の外交官はKGBに尻尾を握られ、泳がされていたというのです。その秘密を握られた原田氏が在ロシア日本大使となって、本当に大使として日本の国益を守ることができるのか、心配になるところです。

もう一人。現在の欧州局長です。調べたら小寺次郎氏でした。小寺氏というと、佐藤優著「国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)」に出てくる名前です。
宗男事件当時、小寺氏はロシア課長でした。上司の欧州局長は東郷和彦氏です。この東郷局長が極端な能力主義者だったのですが、「小寺は使えない」との評価で、ロシア関係の大事な仕事を小寺ロシア課長を通さずに佐藤氏のチームに直接指示していたというのです。
田中真紀子外務大臣のとき、ロシア課長からイギリス公使に転出が決まった小寺氏を、大臣命令で呼び戻した、ということでも有名になりました。
あの小寺氏が現在の欧州局長でしたか。

ロシア課長の岡野正敬氏と今回更迭されるロシア大使の河野雅治氏は、ともにロシアの専門家ではなさそうです。ロシア外交の中心にいるべき、欧州局長、ロシア課長、駐ロ大使の3人のうち、一人は宗男事件で知られたあの小寺次郎氏、残り二人はロシア専門外の人でしたか。
そして新任の駐ロ大使が、在モスクワ大使館での裏金作りでKGBに尻尾を握られた人物とは。残念なことです。

闇権力の執行人 (講談社プラスアルファ文庫)」で明かされた、もう一人の恥ずかしい行状の外交官が最近ニュースになっていました。

6者協議主席代表の斎木局長、大使転出へ 後任は杉山氏
2010年12月12日3時1分
『前原誠司外相は、斎木昭隆アジア大洋州局長を大使に転出させ、後任に杉山晋輔地球規模課題審議官を起用する人事を固めた。斎木氏は2008年1月に局長に就任し、3年近く北朝鮮の核問題をめぐる6者協議の日本側首席代表を務めている。
  ・・・・・・
いずれも来年1月に発令する予定。』

この杉山氏について「闇権力の執行人」では、平成2年に週刊誌で報じられた「外務省高官の『二億円』着服疑惑」の疑惑本人であった、と記されています。外交機密費から二億円を着服し、料亭などの飲み食いに浪費していたというのです。ある料亭では「ろうそく遊び」なる下劣な座敷遊びに興じていたともいいます。
杉山氏が条約課長のとき、佐藤優氏を有罪に陥れたイスラエルの教授招致事件が起きました。教授を招致するのにロシア支援委員会の予算を用いようとして条約局の担当者と揉めた際、条約課長だった杉山氏が頼まれもせずに宗男氏に詫び状を提出したのです。この詫び状が、その後佐藤氏の有罪を立証するための証拠として外務省から検察に提出されました。あの詫び状の課長が杉山氏でしたか。
その後杉山氏は駐韓国公使となり、宗男氏がロシアからの帰路トランジットでソウルに立ち寄るたびに接待にやって来ましたが、韓国人を貶める発言をしたり、あるいは「女性家庭教師と昼も夜も」とニヤけていたと記されています。

一つ気をつけるべきは、鈴木宗男氏と大西健丞氏にも書いたように「闇権力の執行人」の内容を鵜呑みにはできないという点です。
しかし、ロシア外務省は鈴木宗男氏の「闇権力の執行人」を当然フォローしているでしょうから、これら日本外務省の高官たちがロシア政府から見くびられることは必定です。何ともやりきれません。
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北朝鮮核疑惑危機とペリー米国防長官

2010-12-23 18:12:20 | 歴史・社会
日経新聞「私の履歴書」ウィリアム・J・ペリー氏の執筆が続いています。12月21~22日は、1994年の北朝鮮核疑惑危機についてでした。

当時、ペリー氏はクリントン政権における米国防長官です。
1994年諸島、北朝鮮は寧辺の実験用の原子炉から8千本の使用済み核燃料棒を抽出しようとしていました。これは、北朝鮮が核爆弾にして最低でも5、6発分のプルトニウムを手中に収めることを意味します。
クリントン政権は、これを何としてでも阻止すべく、外交交渉を進めると同時に、軍事的なオプションについても検討を行っていました。そのオプションの中には、北朝鮮の核施設を空爆する計画も含まれていました。海洋から発射する巡航ミサイルを使うというものです。
『北朝鮮があのまま核燃料棒の再処理に突入し、プルトニウムの抽出に移行する事態になっていたら、我々は寧辺への空爆に踏み切っていたかもしれない。』
『私は「ありとあらゆる外交手段が尽きるまで、このオプションに手を出すべきではない」と心に決めていた。』ペリー国防長官がクリントン大統領に進言したこともありませんでした。
『このオプションを水面下で検討していた当時、我々は極度に緊張した状況にあった。それは第一次世界大戦勃発前、戦争参加当事国が次第に相互不信を強めた結果、大規模な戦争へとのめり込んでいったプロセスに告示していた。当時の様子を描いた歴史家、バーバラ・タックマンの言葉をなぞって私はガルーチら周辺に思わずこう漏らしている。
「8月の砲声」が聞こえてくるようだ・・・。』(12月20日記事)

バーバラ・タックマンの「8月の砲声」・・・

一昨日、このブログでキューバ危機に関連してとして、ロバート・ケネディ著「13日間―キューバ危機回顧録 (中公文庫BIBLIO20世紀)」から1962年のキューバ危機最中におけるケネディ大統領とケネディ司法長官の会話を紹介しました。ケネディ大統領は直前にバーバラ・タックマンの「8月の大砲」を読んでおり、キューバ危機を第一次大戦勃発時のような事態にしてはならない、と肝に銘じていたのです。

そして今回の北朝鮮核疑惑時のペリー国防長官の対応、バーバラ・タックマンの「8月の砲声」を肝に銘じていたのですね。原題「The Guns of August」ですから、邦題「8月の砲声」と「8月の大砲」は同じ著書を指しているようです。

1994年の北朝鮮核疑惑においては、元米大統領のジミー・カーター氏が単身で平壌に乗り込み、6月16日に当時の北朝鮮最高指導者、金日成主席とサシで会談を行いました。その会談でも、北朝鮮が使用済み核燃料棒の再処理を中断することは受け入れていません。電話連絡を受けたクリントンは、(核開発関連の)行動をやめるのであれば我々は(話し合い解決に)応じる、とカーターに伝えます。
こうしたやりとりを経て、カーターは金日成と再会談し、最終的には金日成がこのクリントンの要求をのむことで決着しました。
カーターからクリントンへの電話連絡があったとき、ペリー国防長官はクリントン大統領に、北朝鮮による使用済み核燃料棒の再処理をやめさせるため、5万人規模の在韓米軍への追加派兵を進言するところでした。
『今、振り返ってみて、私はあの瞬間、カーターからの電話によって救われた気持ちになった。防衛のためとはいえ、数万人規模の兵力を朝鮮半島に増派すれば、それが引き金となって北朝鮮による電撃的な侵攻作戦が始まる恐れは十分にあったからだ。そして、米朝間で話し合い解決に向けた空気が醸成されていなかったら、我々は恐らく(疑惑施設への)空爆作戦へと傾斜していったことだろう。』(12月21日記事)

1994年春といえば、私が1回目の弁理士試験を受けていた頃です。何も知らずに受験勉強に邁進していましたが、米朝間ではこのような緊張関係に揺れていたのですね。
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キューバ危機に関連して

2010-12-21 20:34:37 | 歴史・社会
日経新聞の「私の履歴書」で現在連載しているウィリアム・J・ペリー氏(元米国防長官)の記事から、先日「ミサイルギャップとキューバ危機」としてここで取り上げました。

キューバ危機について私は、ロバート・ケネディ著「13日間―キューバ危機回顧録 (中公文庫BIBLIO20世紀)」から知識を得ています。ロバート・ケネディはキューバ危機のとき、司法長官として兄のジョン・F・ケネディ大統領を支えていました。そしてキューバ危機が米ソの全面戦争までエスカレートしなかった陰には、ロバート・ケネディの働きがあった、と言われています。

今回、あらためてロバート・ケネディの「13日間」をパラパラとめくってみたら、印象的な文章がありました。
1962年10月23日のことです。22日に全米に向けてテレビ演説し、米国民に危機の全容を公表した、その次の日ですね。会議を終えた後、大統領、テッド・ソレンセン(大統領顧問)、ケニー・オドンネル(大統領特別補佐官)、それにロバート・ケネディ司法長官が大統領の執務室に入り、すわって話し合っていました。
『なによりも大きな危険は誤算-判断を誤ることだ』
大統領は、第一次大戦の勃発が、ドイツ人、オーストリア人、フランス人、イギリス人たちが犯した誤算に基づき、戦争にはまり込んでいったように思われると述懐しました。大統領が直前に読んだばかりの「8月の大砲」(バーバラ・タックマン著)からです。
『米ソともキューバで戦争を賭けようとは望んでいないという点でわれわれの意見は一致していた。しかしなおかつ、どちらかの側が打った手段が“安全”“誇り”“メンツ”などの理由で相手方の反発を引き起こし、それがまた同じような安全、誇り、メンツなどの理由で再反発を招く、そして揚げ句の果てには武力衝突にまでエスカレートしてしまうこともあり得るのだ。大統領が避けようと望んでいるのはまさにこの点である。』『われわれは判断を間違えたり、読みを誤ったり、不必要にけんかを吹きかけたり、あるいは相手方を意図も予想もしていなかった行動路線に突然追い込むようなことをしようとしているのではなかった。』

このとき、ケネディ大統領を中心とする米政府の中枢は、「全能の幻想」にとらわれていなかった、ということがわかります。NHKスペシャル「日米安保50年」にも書いたように、
『「全能の幻想」とは、自国だけの「一方的行為」で、国際問題や紛争が、すべて片づくと考える妄想である。国際政治はつねに、対他的行動であって、相手方の出方に依存していること、を無視することである。』
永井陽之助著「平和の代償 (中公叢書)」(p73)に出てきます。

こういう文章を読むと、どうしても尖閣問題を思い出してしまいます。
日本政府が無為のまま、那覇地裁が中国人船長の勾留を延長することに政治的判断を行わず、その結果として“安全”“誇り”“メンツ”などの理由で中国の反発を引き起こしてしまいました。
あの当時、尖閣問題~初動のいきさつにも書いたとおり、管内閣は内閣改造の真っ最中であり、「岡田氏も幹事長就任が決まってからは『それは次の大臣がやること』と仕事に手をつけなかった。前原氏も、直後に控えた国連総会の準備しか頭になかった」という状況だったようです。
一番大事なときに、『判断を間違えたり、読みを誤ったり、不必要にけんかを吹きかけたり、あるいは相手方を意図も予想もしていなかった行動路線に突然追い込むようなことをしようとしていないか』の判断を放棄していたと言えるでしょう。

今の民主党政権はとにかく「外交オンチ」なのですから、当面は外交に関して「政治主導」を諦め、とにかく外務省の言うことに耳を傾けて外交方針を立てるべきでしょう。
外交の何たるかがわかってから、外交についての「政治主導」に着手すべきでしょう。
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特許権侵害訴訟と無効審判の関係

2010-12-19 16:02:06 | 知的財産権
特許権の侵害に関する紛争において、現在の特許制度では以下の点で特許権者に酷なのではないか、という観点で議論があります。
(1)特許の有効性について、無効審判での争いと侵害訴訟の中での無効の主張の両方が可能であり(ダブルトラック)、特許権者の負担となっている。
(2)無効審判は、証拠さえ同じでなければ同一人が何回でも提起することができる。そのうちの1回で特許無効が確定したらそれで特許権は消滅してしまう。
(3)特許権侵害訴訟で侵害を認める判決が確定した後、無効審判で特許無効が確定すると、侵害訴訟の確定判決が再審により取り消される。一度確定して支払われた損害賠償金の返還が発生することは紛争の蒸し返しであり、問題がある。

現在、産業構造審議会知的財産政策部会で特許法改正の方向が議論され、11月30日に第33回特許制度小委員会で報告書「特許制度に関する法制的な課題について」(案)(pdf)が承認されました。
その結論部分についてはこのブログの特許制度小委員会報告書の結論を抽出で紹介したとおりです。

この中で、特許権侵害訴訟と無効審判の関係についての前記問題点についてはどのような法改正の方針が示されたのでしょうか。
(1)ダブルトラック問題
『現行どおり両ルート(無効審判と、侵害訴訟での無効の主張)の利用を許容することとすべきである。』
(2)同一人による複数の無効審判請求の禁止
『現時点の結論としては、現行制度を維持すべきである。』
(3)侵害訴訟の判決確定後の無効審判等による再審の取扱い
『再審の制限について制度的な手当てをすべきである。』
『再審を制限する方法としては、先に確定している特許権侵害訴訟判決との関係で、確定審決の遡及効又は遡及効に係る主張(遡及効等)を制限する方法による方が適切である。』

結局、再審の制限のみが改正の方向として取り上げられ、「ダブルトラック」と「同一人による複数の無効審判請求」は現行のままで改正しない、という結論が出されました。

さて、このような制度改正の方向は妥当でしょうか。
私は、1点だけ懸念があります。

ひとつの特許権に対して、主証拠を変更すれば何回でも無効審判を提起することができます。
無効審判の審決に不服があれば、知財高裁に審決取消訴訟を提起します。そこでの判決に不服があったらその上は最高裁です。しかし最高裁への上告、上告受理申立ては理由がきわめて限定されており、実質的に知財高裁が最終審に等しい性格を有しています。
裁判所は知財高裁が第一審ですから、実質的には特許無効を審理する裁判は「三審制ではなく一審制である」といえる実体があります。

審決取消訴訟の判決について検討すると、「これは『不意打ち判決』ではないか」と懸念される判決に遭遇することがあります。「不意打ち判決」とは、訴訟の過程で原告被告がいずれも攻撃防御の弁論を行っていないにもかかわらず、判決において突然出現したロジックに基づいて特許無効の判決がなされてしまうような判決を言います。

裁判官が提出された書証を読ん結果として、「原告である審判請求人は何ら主張していないが、書証のこの記載から判断したら特許は無効になるのではないか」との心証を抱くに至り、その心証に基づいて判決を構成することが実際にあるようです。原告が主張していないのですから、被告である特許権者も当然反論していません。被告は判決を見てびっくり、「こんなロジックでこの特許が無効になる理由はない。当然ながら反論できる」と思います。しかし、最高裁はそのような反論を取り上げてくれる可能性が非常に低い、ときています。

同一の特許権に対して、証拠を取っ替え引っ替えしながら3~4回も無効審判を提起し、その都度審決取消訴訟を提起したら、そのうちに1回ぐらいは知財高裁の裁判官が上記のような「不意打ち判決」で特許が無効である旨の判決を出してくれると期待できます。そして1回でもそのような判決が出されたら、相当の確率でその判決は確定し、再度の審決で特許は無効とされ、それが確定してしまいます。二度と特許権が生き返ることはありません。

そのような現状を考えると、同一人が主証拠を変更して何回も無効審判を提起できる現在の制度は、特許権者にとって酷に過ぎる、というのが私の意見です。

せめて、「訴訟の場で十分に弁論が尽くされていない理由で判決が出され、それが確定することのないように、制度改正、あるいは訴訟運用の改善を図る」ことはして欲しいです。
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ドレスデンのポスターが

2010-12-16 20:54:34 | Weblog
買い物帰り、京王線笹塚駅の近くを歩いていたとき、旅行代理店の中に飾られているポスターに目がいきました。「見覚えのある景色だ」
 
近づいてよく見ると「ドレスデン」とあります。間違いありません。
ドレスデンの観光の中心は、ドレスデン城、旧宮廷教会、ツヴィンガー宮殿、聖母教会、ゼンパーオペラなどが集中する狭い地域です。
しかしこのポスターの写真は、その有名なドレスデンの観光名所ではありません。
観光名所集中地帯から少し南に歩いたところに、アルトマルクト広場という広場があり、そこから東に見えるのが聖十字架教会、そしてその向こうに市庁舎の塔が建っています。上のポスターはまさに、アルトマルクト広場から聖十字架教会と市庁舎の塔を見た写真だったのです。
私がなぜこの写真にピンと来たかというと、ほんの半年前にそこを訪れていたからです。下の写真です。


私の写真は5月の昼間ですが、ポスターの写真はおそらくクリスマスイルミネーションに飾られた夕刻の時間帯でしょうね。ガイドブックで調べてみたら、ドレスデンのクリスマスマーケットはドイツ最古の歴史を誇るらしいです。メイン会場はアルトマルクト広場ということで、まさに上のポスターがドレスデンのクリスマスマーケットを表しているのでしょう。

もう一つ、ポスター写真と私が撮った写真を見比べると、聖十字架教会の見え方が違います。私の写真では右側のビルに隠れている教会前面が、ポスター写真では見えているではないですか。私が教会近くで撮った下の写真で確認すると、ポスター写真に見えている前景が教会の前面であることは間違いなさそうです。そしてガイドブックの写真でも、聖十字架教会の前景を遠くから撮った写真が載っています。つまり正面の大きなビルは存在していないということです。
もう一度この教会正面のビルを眺めてみました。右下は、聖十字架教会の塔の上から撮った写真です。真正面に見えるのがアルトマルクト広場、そして左下の手前が教会正面のビルです。なにやら工事中のようです。そして、もう一度上の写真を確認すると、ビルの窓ガラスには工事中であることを示す紙が貼ってあるではないですか。
つまり、教会正面のビルはまさに現在建設中であることが分かりました。こんな無粋な建物の建設がよくも許可になったものです。
 

ついでにもう一つ、ドレスデンといえば避けて通れない「ドレスデン大空襲の直後の同じ場所」の写真をあげておきます。聖十字架教会の中に展示されていました。この写真から判断すると、大空襲前には聖十字架教会前にビルが建っていたようですね。
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ミサイルギャップとキューバ危機

2010-12-14 21:35:29 | 歴史・社会
日経新聞の私の履歴書、現在はウィリアム・J・ペリー氏(元米国防長官)が連載しています。
Wikipediaで確認したら、まさに「私の履歴書」の記事をフォローする内容が書かれていました。

さて、ペリー氏の来歴ですが、1947年に二十歳前後で軍隊に入隊して東京と沖縄で進駐軍兵士として働いた後、スタンフォード大で博士(数学)を取得、その後は防衛産業に身を投じます。まずは防衛産業のシルベニア社系列のエレクトロニック・ディフェンス・ラホラトリーズ社(EDL、現在のGTE)に入社してトップまで上り詰め、その後スピンアウトしてエレクトロマグネティック・システムズ・ラボラトリーズ社(ESL)を創設しました。

《ミサイル・ギャップ》
「ミサイル・ギャップ」という言葉は聞いたことがあります。今回の記事によると、これは1960年の大統領選挙で、共和党のニクソン候補と戦うにあたって民主党のケネディ候補が主張した内容だったのですね。つまり、共和党のアイゼンハワー政権時代に米国が核弾道ミサイルの質量においてソ連に後れを取ったという主張で、これがミサイル・ギャップ論争だというわけです。
史上まれに見る僅差でニクソンを退けたケネディの勝利には少なからず、このミサイル・ギャップ論争が追い風になっていました。そして恐怖心にかられた米国では一気に「ミサイル・ギャップ」論が世論を席巻し、1959年末にモスクワを射程に収める中距離弾道ミサイル「ジュピター」をNATOに加盟するイタリアとトルコに配備したのです。
この頃、ペリー氏はEDL、そしてESLの会社での仕事を通じ、米政府中枢の人間とも近くなっていました。そして、CIAなどが先導した政府の特別委員会に加わってミサイル・ギャップの実態を調査するよう要請を受けたのです。
このころ利用が始まった衛星写真などを調査したところ、それまでソ連のミサイル基地だと考えられていた場所はいずれもそうではなく、実際には米国の方が質量両面でソ連を2、3倍の規模で圧倒していたことが判明しました。
しかし、「(委員会の)結論もすでに広がりつつあったケネディ主導によるミサイル・ギャップ論の流れを逆行させることはできず、それが最後には全世界を、あの終末的危機へと導いていくことになる。」(12月7日記事から)

《キューバ危機》
1962年10月14日、ペリー氏は突然CIAから呼び出しを受けます。
米空軍のU2偵察機がキューバ国内で撮影した航空写真の解析を依頼されたのです。その写真には、弾道ミサイルの姿がはっきり写し出されていました。その後この危機が解決するまで、ペリー氏は最新のインテリジェンスを分析する仕事に没頭しました。
『毎日、目がさめるたびに「ああ、今日で自分の一生は終わるのだ」という思いで胸がいっぱいになった。実際、統合参謀本部の一部には米軍によるキューバ侵攻を進言する声もあった。もし、ケネディ大統領がそれに従っていたなら、我々は間違いなくソ連との核戦争に突入していたことだろう。』(12月8日記事から)

《緊迫の13日間》
1962年10月18日、ケネディ大統領はソ連のグロムイコ外相をホワイトハウスに呼び、ソ連にキューバ国内での核弾道ミサイル撤去を迫りました。その4日後の22日には全米に向けてテレビ演説し、米国民に危機の全容を公表しました。ソ連のフルシチョフ首相は当初、全面対決の姿勢を崩しませんでした。米国はミサイル搬入を阻止するための海上封鎖に踏み切ります。「この時、米ソ両国は文字通り、全面核戦争の瀬戸際に立っていた。」
U2が撮影した航空写真を解析するために、ペリー氏のような民間のエキスパートの智恵を結集して、写真が持つ意味合いを翻訳する必要があったのです。

『米東部時間、10月28日午前9時、フルシチョフ首相はモスクワ放送を通じて、キューバからミサイルを撤去すると発表した。ソ連は米国の要求を全面的に受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体。ケネディ政権もキューバへの武力侵攻を否定し、翌63年4月にはトルコに設置していたジュピター・ミサイルも撤去した。
世界が固唾をのんだ緊迫の「13日間」はこうして幕を閉じた。この時の経験はもちろん、私の人生観に決定的な影響を与えた。そして、それが後に私を「核なき世界」の実現という壮大な目標へと導いていくのである。』(12月9日記事から)

1962年というと、私は中学2年でした。しかし私の記憶には、「この時、米ソ両国は文字通り、全面核戦争の瀬戸際に立っていた。」などという印象は全くありません。おそらく当時の日本は、そんな事態に立ち至っていたなどとは夢にも思わず、平和を享受していたのでしょう。

前回もご紹介したとおり、永井陽之助著「平和の代償 (中公叢書)(1967年発行)」を読んでいるところです。
永井陽之助先生は、政治意識や政治行動の研究に従事する研究者でしたが、たまたまアメリカ在留時にキューバ危機に直面しました。1962年10月22日のあのケネディ大統領のテレビ演説を見たことからです。そこから駆り立てられ、永井先生は国際政治の評論へと自らの針路を変針し、「平和の代償」執筆に至りました(あとがきから)。この件についてはまた別の機会に。

なお、ベリー氏「私の履歴書」の続編がまたおもしろいです。
1977年にカーター政権で請われて国防次官に就任します。研究・工学担当次官というポストでした。ここでベリー氏がまず手がけたプロジェクトから、GPSとインターネットが誕生したというのです(12月10日記事)。また、F117ステルス戦闘機が登場したのも、ベリー国防次官のリーダーシップによるものでした(12月11日記事)。F117が湾岸戦争に間に合って大活躍したのは、ベリー次官が開発を急がせたお陰だ、と記載されています。
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