弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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2048-07-08 00:00:00 | Weblog
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知的財産権弁理士歴史・社会趣味・読書サイエンス・パソコンサッカー
杉並世田谷散歩徒然

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久しぶりにアサリ購入

2024-07-07 11:45:42 | Weblog
外国産(韓国産)のアサリを、国産(熊本県産)アサリとして産地偽装している問題が発覚したのが1年半前です。その際、おそらく最後の産地偽装アサリを購入し、そのラベルを示してこのブログの記事にしたのが、「アサリの産地偽装 2022-02-03」でした。

その後ずっと、最寄りのスーパーにおいて、アサリが店頭から消滅しました。
私は、韓国産で良いから、アサリを購入したかったです。それまで、熊本県産と偽装された韓国産を、騙されてはいたもののおいしいと思って購入していたわけです。これからは正々堂々と韓国産として売ってもらえれば、それを購入するつもりでした。もちろん、国産のアサリが店頭に並べばそちらを購入したでしょうが。
しかし、熊本県産以外の国産も、韓国産も、いずれも最寄りのスーパーの店頭に並びません。わが家では、1年以上にわたってアサリを用いた料理が作れませんでした。

先週になってやっと、近所のスーパーでアサリを見かけました。韓国産です。さっそく購入して、私の数少ないレシピの一つである、スパゲッティ・ボンゴレ・ビアンコを作りました。おいしくいただきました。
記念として、下にラベルの写真を載せます。左が1年半前の偽装熊本県産、右が今回の韓国産です。100g当たり単価が全く同じであるのにはびっくりしました。同じ店ではありません。
  
1年半前の偽装熊本県産        今回の韓国産
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根津~日暮里界隈坂めぐり

2023-11-30 17:32:13 | Weblog
以前、弁理士合格同期を中心とした弁理士仲間による、判例研究会に参加していました。月に1回程度、土曜日に開催していたのですが、メンバーの高齢化もあり、判例研究会は休会となっていました。
今般、そのメンバーからお誘いをいただき、根津-谷中-日暮里-根津の界隈を散策する機会がありました。集合場所は地下鉄南北線の東大前駅で、以下のようなコースです。
--------------
東大前駅から本郷通りを南進し、左折して言問通りに入る。弥生坂下り、善光寺坂上りを経て谷中の墓所に至る。
谷中墓所の北端で芋坂を下り、JRの跨線橋を渡った東側で羽二重団子の店で休息する。
芋坂に戻り、牧野富太郎の墓所を訪れ、JR日暮里駅西のもみじ坂を経由し、西進して御殿坂を上り、夕やけだんだんの坂を下って谷中銀座を経由する。
不忍通りに至ったら南進、次いで西進して団子坂を上り、藪下通りを南進、日本医大病院にいたったら西進して解剖坂を上り、近くの夏目漱石旧居跡に立ち寄り、根津裏門坂を下って根津神社を詣でる。
東大前駅で終了。
-----------------
次に、この地域の地形について概説します。
大きく見ると、京浜東北線の東側が荒川の平野、西側が武蔵野台地になっていて、京浜東北線と平行して崖(河岸段丘)になっています。ここでは「武蔵野段丘」と名付けます。
武蔵野台地は台地ですから、川が流れるとそこは削れて谷筋になります。この地域ですと、不忍通りが北から南に向かう谷筋になります。この谷の最上流は王子を流れる石神井川で、大昔は石神井川が王子で直角に曲がって不忍通りの川になっていました。この谷の下流に不忍池があり、さらに南の神田川に至ります。
不忍通りを昔流れていたはずの川の名前がわかりません。私は勝手に、この谷の最上流の地名である「滝野川」と呼んでいます。
京浜東北線(河岸段丘)と不忍通り(谷筋)との間は台地になっています。上野の近くは「上野山」と呼ばれています。ここ谷中の付近も、とりあえず「上野山」と称することとします。
不忍通り(谷筋)の西側も台地です。同じ台地続きの南は「本郷台」と呼ばれているので、この付近も「本郷台」と称することとします。
このような崖や谷筋が走っているため、そこを横切る道が坂になり、即ち“台地には坂が多い”ということになります。

さて、東大前駅から本郷通りを南進し、左折して言問通りに入ります。言問通りは不忍通りと交差します。上で述べたように、不忍通りは本郷台から下る谷筋ですから、言問通りは不忍通りに向かってまず下ります。その坂が「弥生坂地図)」です。そして不忍通りを通過するとその先は上野山の上りとなり、その坂が「善光寺坂地図)」です。


さて、谷中霊園に到着しました。

谷中霊園


谷中霊園案内板


徳川慶喜墓所


徳川慶喜墓所の近くに以下の墓地がありました。
伯爵 勝 精、室 伊代子 墓所

調べて見たら以下のことが分かりました。
勝精は徳川慶喜の息子、伊代子は勝海舟の孫であり、精が伊代子の婿養子となって勝姓を名乗るようになった、とのことです。海舟の息子、伊代子の父が早世したため、勝伯爵家を存続させるためにそのような縁組みがなされた、とあります。海舟が亡くなる直前に縁組みされ、結婚の時、精も伊代子も11歳だったようです。

渋沢栄一墓所前のタブノキ


タブノキの移植説明


渋沢栄一墓所


谷中霊園には南の端から入り、ほぼ北の端の芋坂に至りました。芋坂地図)は東方向に下りで、私が名付けた武蔵野段丘を下っていることになります。


芋坂を下ってJRの跨線橋に至りました。


跨線橋からJRの線路に沿って南東方向を眺めると、下の写真のように、右側の崖が武蔵野段丘の崖で、その崖の左(荒川平野)がJRの線路、そして彼方にスカイツリーが見えます。


芋坂跨線橋を東で降りたところに、羽二重団子の店があります。下の写真は、店の角に立てられた石碑です。

店の前の通りは王子街道なのでしょうか。

羽二重団子説明

「文政2年 小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し 街道の往来の人々に団子を供しておりました」
「こゝ音無川のほとり」とあります。私は、「音無川」とは、王子の近くを西から東に流れる石神井川の別名と思っていました。それが間違いであることが今回分かりました。
音無川とは、石神井用水の別名で、王子の近くで石神井川から南に分水した用水の名前なのでした。ウィキには「石神井用水は、石神井川の水を王子神社と南の飛鳥山の間でせき止め(王子石堰)東へ流した用水。別名王子川、音無川という。」「東京都北区王子から田端、西日暮里、日暮里の現在のJR線に沿って流れ、日暮里駅前から、荒川区と台東区の区界を形作っている。三ノ輪まできたところで流れがいくつかに分かれ、北東方向には石浜川として、南東方向の流れは思川として明治通りに沿い泪橋を抜け白鬚橋付近で隅田川に注ぎ、もう1つは日本堤沿いに山谷堀に通じた。」とあります。
現在は暗渠化され、音無川のせせらぎの音を聞くことはできません。

お店に入り、下記写真の団子をいただきました。
Attribution: 山岡 広幸

団子を食べ終わり、また芋坂を戻って、牧野富太郎墓所に詣でました。


そして北進し、日暮里駅の近くに至ると、もみじ坂地図)です。道路脇の説明では『坂道周辺の紅葉が美しかったので、「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。』と記されています。
もみじ坂を下り、日暮里駅の改札の前で西進すると、御殿坂地図)の上りです。武蔵野段丘の崖を上り、武蔵野台地(上野山)に至ることになります。
御殿坂途中から日暮里駅方向を見たのが下の写真です。


御殿坂を上ると、右手に経王寺の山門があります。


経王寺山門の門扉には、銃弾の痕が残っています(下写真)。

説明によると、「慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。」と記されています。寺が焼けなかったのは幸いでした。

何か、道が賑やかになってきました。道が下っています。この階段は、夕やけだんだん地図)と呼ばれているようです。
夕やけだんだんの上から

確かに、坂は西を向いているので、夕焼けどきには坂の上から夕焼けがきれいに見えることでしょう。われわれが訪れたときはすでに日が落ちていました。
道が下っているのは、上野山の台地から不忍通りの谷筋に降りていく経路だからです。

夕やけだんだんの下から


そしてその先が谷中銀座です。

大変な賑わいですが、外国の人が多いです。外国からの旅行者が、ここ谷中銀座に導かれているのですね。

谷中銀座を抜けると、不忍通りに至ります。不忍通り(谷筋)を南進し、団子坂に至ります。右折して団子坂地図)を上ります。本郷台の台地に至ることになります。

森鴎外記念館に立ち寄りました。



そして南進し、藪下通り地図)に入ります。

道の東側の坂の名前が「しろへび坂」でした。
しろへび坂地図




藪下通りは汐見坂地図)とも呼ばれているようです。
そして、右に日本医大病院が見えてきます。その手前、右手(西方向)に上る坂が解剖坂地図)です。
解剖坂 下から


解剖坂 上から


解剖坂を上がった右手に、夏目漱石旧居跡があります。

猫が2匹見えます。

南進し、次いで根津裏門坂地図)を東進して下ります。右手が根津神社の裏門です。
この頃になると、あたりはすっかり暗くなりました。ライトアップされている建物の写真だけ撮ってきました。
根津神社 乙女稲荷神社


根津神社 舞殿


根津神社 楼門


こうして、上野の北に広がる地域について、坂めぐり、お墓めぐりの旅が終わりました。
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高尾山訪問3

2022-07-02 09:44:41 | Weblog
6月30日(木)、今年になって3回目になりますが、高尾山を訪問しました。

上のルート図で説明します。この地図、左下に京王線の高尾山口駅、右端の上から1/3付近に高尾山山頂が位置しています。
6月7日(1回目)は、麓から1号路(赤色)を歩き、ケーブルカーの高尾山駅まで歩いて、ケーブルカーで帰ってきました。歩きの高低差は270m程度です。
6月17日(2回目)はまずケーブルカーで高尾山駅まで登り、そこから4号路(青色)、途中からいろはの森コース(灰色)、1号路(赤色)と経由して高尾山山頂まで登り、徒歩でケーブルカー高尾山駅まで下り、そこからケーブルカーで降りてきました。
3回目である6月30日は、紫色の6号路を徒歩で登りました。高尾山山頂までは行かず、6号路が3号路と合流したところで、3号路経由で下ってきました。ケーブルカーの下りも利用しました。高尾山口駅から高尾山山頂の直下までを歩いたので、徒歩の高度差は今回が最も多くなりました。

この日は、梅雨明け直後の酷暑が予測されています。午前中には歩き終わる予定で、登り始めました。

ケーブルカーの麓側の駅(清滝駅)

上の写真にあるように、真っ青な青空です。

6号路を歩き始めます。下3枚の写真のように、陽光に映える森の中、木漏れ日がこぼれる森の中を歩きます。






琵琶滝らしき滝


下のルート図で、6号路の途中に琵琶滝と大山橋が記されています。上の写真が(たぶん)琵琶滝、そしてルート図の下の写真が大山橋です。


大山橋


さらに進みます(下2枚)。




6号路も終点に近くなると、恐怖の階段が待っています(下2枚)。




そして、階段が尽きたところが、6号路の上側終点です(下写真)。


下の写真は、6号路側からその先を見たところです。四つ辻になっています。一つは6号路です。左へ行く道路が5号路(時計回り)、まっすぐが5号路(反時計回り)、そして右へ下る道が3号路です。ここから上の高尾山山頂には前回到達しているので、今回は無理をせず、ここから3号路を下ることにします。


そして、薬王院の門に至りました。


今回は、門の四方を固める四天王(?)も写真に収めました。




こうして、ケーブルカーなどを使わずに高尾山頂上直下までを徒歩で登るトライを果たしました。あとは、今回の6号路とほぼ並行して走っている稲荷山コース、高尾山のさらに先の城山に至るコース、などが残っています。

今回の6月30日を含め、今は盛夏です。今回の6号路は森の中で、直射日光を浴びる箇所は少なかったのですが、それでも、帰宅したあとはぐったりして、何もできませんでした。直射日光を浴びる尾根道(城山に至るコース)などは特に避けるべきでしょう。次のトライは秋まで待った方がよさそうです。
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私の履歴書・矢野龍さん

2022-07-01 21:41:31 | Weblog
日経新聞の「私の履歴書」はいつも楽しみにしています。ただし、大企業でサラリーマン社長・会長を歴任した人のお話については、普通はさほど印象に残らないものです。しかし、この6月に連載している、住友林業の社長・会長を歴任して現在は最高顧問を勤めておられる、矢野龍さんについては、普通のラサリーマン社長経歴の人とは異なる、おもしろいお話しでした。
私の履歴書・矢野龍
『住友林業で社長、会長を歴任し、最高顧問を務める矢野龍さんは1940年、旧満州(現中国東北部)で生まれました。敗戦で山口県に引き揚げ、自由気ままに育った自然児で、高校も大学の入試も合格点すれすれだったといいます。縁あって公立の北九州大学外国語学部に入学し、実用英語を学んだことで住友林業が初めて募集した海外駐在員枠で採用されました。入社4年目、矢野さんは米シアトルの駐在員として北米大陸の森林地帯をヘリに乗り、水を得た魚のように飛び回ります。もっとも米国住友林業の責任者として2度目のシアトル駐在時には、現地で訴訟の当事者となり、辛酸をなめる経験もしました。大企業の経営者としては異色の道を歩み、人間味あふれる矢野さんが住友林業の未来までをつづった読みどころ十分の連載です。』

矢野さん一家は、終戦を満州で迎えました。お父上はシベリアへ抑留されて結局は現地で病死されました。矢野さんは当時5歳、姉と妹の3人きょうだいでした。
『1945年に日本が戦争に負け、僕たち家族の生活は暗転した。ソ連兵がなだれ込んできて略奪や暴行におびえるようになった。家のカギなど関係なくこじ開けて入って来るからと、母や姉は、物音がしたら裏口から鶏小屋のほうに逃げる練習をした。
手伝いの中国人につらく当たっていた家では、日本人が仕返しをされたという話を聞いた。ソ連兵は僕や妹ら、小さい子供には優しかった記憶があるが、母や当時8歳の姉は、男に見えるように丸坊主にしていた。』
引き揚げ船に乗って博多港にたどりつくと、まずは父の故郷である愛媛県の宇和島に親戚を頼っていきました。しかしそこも貧窮した暮らしです。次は、母親の東京の実家の疎開先だった山口県の厚保(あつ)に、弟を頼って移りました。
母は役場の事務員の仕事を得て、最終的には小川の横にある水車小屋に住むことになりました。(第3回
お母さんはその後、学校の先生、そして小学校の分校の校長先生になりました。実家の貧乏生活はずっと続き、矢野さんは大学に行かせてもらえましたが、お姉さんは優秀だったのに行かせてもらえませんでした。

矢野さんは、小倉市立の北九州大学外国語学部に進みました。実用英語を体当たりで学ぶとともに、しっかり者の奥様とも出会うことになりました。

北九州大学の厚生課に住友林業から求人票が来ました。「海外駐在員枠」という特別の枠だといいます。厚生課の人が「よく分からないけど、せっかく住友グループの会社から求人が来たのだから、おまえ受けろ」と言われて受けたのだそうです。

『3年の勉強期間はあっという間に過ぎ、1966年から米シアトルでの駐在員生活が始まった。近くにエバレットやオリンピアという積み出し港がある西海岸の木材貿易の拠点だ。住友林業の米材輸入の開拓期。すべてを一から始める仕事だった。
26歳だった僕は水を得た魚のようにあちこちを飛び回った。森林の買い付けのためヘリコプターに乗って文字通り飛び回るのだ。』(第11回

この後矢野さんは、アメリカの仕事で大成功をおさめ、日本に帰り、3代目社長の山崎完(ひろし)さんの海外出張の通訳としてしごかれました。
さらにその後、『僕が専務時代の1998年、住宅の業界誌に販売が低迷を続ける住友林業の体たらくを手ひどく批判されたことがあった。僕は担当外だったがこれを読んで怒りに体が震えるようであった。業界の「負け犬」呼ばわりなのだ。
僕は業界誌を3月の取締役会に持っていって「こんなことを書かれて悔しくないんですか。低迷の理由として1番目に、リーダーシップ不足と書いてある。』
「それならおまえやれ」ということで、住宅本部長を拝命しまた。住友林業の住宅部門は、おそらくこのときに大躍進を遂げたのだと思います。(第20回

そして、社長、会長と歴任することとなりました。

さて、本日のメインテーマです。(第28回
『2月からピアノを習い始めた。音楽家の小椋佳さんとひょんなことからご縁があり、小椋さんを紹介してくれたヤマハの岸田勝彦さん(元会長)と3人で、2年後にピアノの発表会を開く約束をしているからだ。
週に2回、30分のレッスンを受け、家でもたまに練習する。ショパンを弾きたいと言ったら無理だと言われたので曲目を絞った弾き語りに切りかえ、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」、ブラザーズフォーの「グリーンフィールズ」、あと「ダニー・ボーイ」の3曲をマスターするのが目標だ。手始めに今は「四季の歌」を練習している。
1小節ずつ練習していくと、ゆっくりだが、だんだんできるようになる。82歳になっても進歩があるのは、まだ生命の力が健在であるようで励まされることだ。』

私もピアノのレッスンをしていますが、始めたのは2010年、62歳のときです。それも、小学校時代にバイエルの途中まで弾けた、という経験もあります。何の経験もなく、82歳でレッスンを始めたというのは驚きです。
私は、レッスンは2,3週間に1回で、そのほかに自宅で毎日20~30分程度の練習をしています。矢野さんは、週に2回のレッスンでピアノを弾き、それ以外にはほとんど練習していないのですね。それでも進歩があるということで、とても立派です。

矢野さんはショパンをご希望とのことでした。私が現在練習しているのは、はじめてのショパンです。ショパンのピアノ曲というと、とても速いピアノタッチの曲を連想します。練習しているのは「ラルゴ変ホ長調『神よ、ポーランドをお守りください』」という曲で、私でもなんとかなりそうな曲です。『もともとポーランド人でさえほとんど知らないと言われた曲ですが、2021年のショパン国際ピアノコンクールの3次予選で反田恭平氏が演奏したことから一躍有名になり、脚光を浴びています。』ということだそうです。

『料理学校にも通いたい。僕は料理が好きで「生きることは食べること、食べることは生きること」が信条だ。家でもしゃぶしゃぶなどを作ったりするのだが、妻も娘も、僕が作ったのがあるのに外に食べに行く。上手になったら食べてくれるだろうか。』

つい先日、料理の上手下手問題/井上荒野さん 2022-06-27を記事にしたばかりです。
矢野さんは料理がお好きだとのことで、私の味オンチの反対で、味の善し悪しが分かる舌をお持ちと思います。「上手になったら」とおっしゃいますが、料理が下手である理由が思いつきません。ご家族が食べてくれないのは、「上手/下手」「おいしい/不味い」以外の別の理由があるのではないでしょうか。
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料理の上手下手問題/井上荒野さん

2022-06-27 18:00:48 | Weblog
料理の上手下手問題 作家 井上荒野 あすへの話題
2022年6月21日 日本経済新聞
『既述したが、週に3日、夫が夕食作りを担当している。』・・・
『でも実際のところ、夫の料理の腕前はプロやシェフのそれとは違う。オリジナルの料理は作れないし、応用力もない。これも既述だが、プロのレシピを見て、プラモデルのように作っているので、パーツ(材料)がひとつでも欠けるとできない。レシピの選択眼もなく、まれにネットから妙なレシピを拾ってきて、正確にすごく妙なものを作ってしまったりもする。』

これ、井上さんの夫さんは、私とそっくりなのでびっくりしてしまいました。
ただし、私が夕食づくりを担当しているのはせいぜい週に1、2回でしかなく、その点では夫さんに負けていますが・・・。

私も、レシピ通りに調理することしかできません。以前、お料理教室(こちらの記事)で習った肉じゃがを家で作ろうとしたところ、レシピにあるショウガが冷蔵庫の中に見当たらず、調理の途中で近所の“まいばすけっと”に買いに走ったことがあります。
レシピに「しょうゆ大さじ2杯」と書いてあればその通りに計量して配合します。「適当に」配合することはできないです。
調理の途中で味見をすることがありません。私は「味オンチ」であることを自覚しており、味見しても善し悪しが判定できないからです。

できあがった私の料理のでき映えについては、「味がいまいち」と言われたことはありませんし、「(同じ料理であれば)いつも同じ味で安定している」と言われたことはあります。

記事『それが悪いとは思わない。おいしいものが食べられる確率は高いのはたしかだから。ここで私が考えるのは、「料理が上手」「料理が下手」とはどういうことか、という問題である。
夫は料理が上手なのか。よほど凝った料理でないかぎり、レシピ通りに作ればおいしいものができあがるなら「料理が下手」とはどのような状態を指すのか。』

この問題は、「料理が上手/下手」で評価する問題ではなさそうです。
「料理が上手」について考えてみると、
○ 冷蔵庫の在庫を確認して、その範囲内でおいしい料理を作ることができる。
○ レシピを見ずに、とびきりおいしい料理を作ることができる。
などが該当しそうです。この基準で見ると、私は「料理が上手とはいえない」には該当しますが、「料理が下手」とまでは言えなさそうです。レシピ通りにしか作れませんが、できた料理が不味いわけではないのですから。

「料理が得意/不得意」「料理が好き/そうでもない」ではどうでしょうか。
私は、レシピを見ながら調理をするのですが、まだ「調理が楽しい」という心境にはなれません。料理をすると疲れます。職場の同僚(既婚の男性)に「料理が楽しい」という人がいますが、うらやましい限りです。
夕食当番を始めた当初は、料理教室で習ったレシピを使っていたのですが、最近はもっぱら「クックドゥー」派です。料理教室レシピでは「砂糖:大さじ1,しょうゆ:大さじ21/2、みりん:大さじ2、酒:大さじ2」などとあり、この作業に神経を使って疲れてしまいます。これがクックドゥーであれば、できあがって袋に入っているので、ぜんぜん楽です。

記事『料理は日常のことだから、毎日レシピを見て作ってられるか、という意見もあるだろう(私もそうだ)。』
私は週に1,2回です。それに対して(従来からの)家庭の主婦は、毎日調理することが仕事になっています。得意・不得意にかかわらず、さほど苦痛とは思わずに、毎回レシピを見ることもせずに、調理を行うスキルを習得するのでしょう(否応なく)。それにくらべれば私などは、「料理が苦手」などとただ逃げているだけです。

記事の結論『結局、家庭料理は、上手下手というより、やる気があるかないか、ということだろうか。やる気がないことを責める気はない(べつの分野でやる気を発揮すれば良い)。ただ、「料理はまったくできないんですよね(だからパートナーに任せきり)」とドヤ顔で言うような人には、「できない……とは……?」と最近は心の中で問いかけている。』
ごもっともです。
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高尾山訪問2

2022-06-17 21:45:32 | Weblog
6月7日に引き続き、6月17日に高尾山に行ってきました。
登山道の途中の看板を写真に撮ってきましたので(下の2枚)、この地図で説明します。

上の「広域図」で、前回は、京王線終点の高尾山口駅から歩き始め、赤線の「1号路」を歩き、ケーブルカーの上の駅(高尾山駅)まで歩きました。帰りはケーブルカーで下りてきました。
今回は、まずはケーブルカーで高尾山駅まで上がり、そこから浄心門まで歩きます。浄心門から先は、下の「近辺図」が詳しいです。今回は、浄心門から先は、青色の「4号路」をたどりました。4号路のみやま橋の先で、グレーの「いろはの森コース」と交差します。ここから先はグレーのいろはの森コースに移りました。その先は赤色の「1号路」に合流し、高尾山山頂へ到着します。
下りは紺色の「3号路」を下り始めました。途中、下の図で「現在地」とある地点(この看板が立っていた地点)で、2つの道に分かれます。ここで3号路と離れ、看板のグレーの道を下りました。そして赤色の1号路に合流し、そのまま1号路を下り、ケーブルカーを利用して下山しました。


下の写真は、高尾山口の駅から進み、ケーブルカーの麓駅前広場にあるモニュメントです。


ケーブルカーで上まで上がり、4号路を歩き始めます。本日は曇り空ですが、山の緑が映えています(下の3枚の写真)。平日であり、4号路を歩く人はわずかです。






下写真は4号路途中の吊り橋(みやま橋)です。


4号路を進むと、Y字路に到達します。右の4号路はいきなり下り道です。左のいろはの森ルートは下っていないので、今回はこちらに変針することとしました。下の2枚は、4号路あるいはいろはの森の途中です。




いろはの森コースの最後、下写真のように、1号路に合流します。
ここから先の1号路は、さすがに大勢の人が歩いています。


1号路をさらに登ると、高尾山の山頂(599m)に到着します。
時刻は12時ちょっと前です。予定では、コンビニでおむすびを購入してお昼にするつもりだったのですが、うっかり忘れていました。そこで、山頂からちょっと下ったところにある食堂に入りました。冷やしおろしそばを注文し、いただきました。

帰りは3号路を下り始めます。しばらく下ると下の看板に至りました。最初の地図の看板です。


看板で「現在地」とあるところで、右(右下の写真)に行けば3号路、左(左下の写真)にいけば看板のグレーの道です。それぞれの写真から明らかなように、右の道はここから急に細くなる一方、左の道は車も通行している道です。本日はできるだけ無理をしたくないので、楽そうな左の道を選ぶこととしました。



程なくして、薬王院の境内に着きました(下写真)。



そしてさらに行くと、正面の山門(上写真)、そしてその脇に天狗とからす天狗が迎えてくれます(上写真、下写真)。


薬王院からさらに1号路を下ります。下り道は、右の男坂と左の女坂に分かれます。男坂は急な階段なので、ゆるやかな下り坂で終始する女坂を選びました。
ケーブルカーの高尾山駅からは、前回と同様、ケーブルカーを利用して下山しました。

今回も前回同様、軽登山靴を履いて歩きました。4号路は土の道路が前日までの雨で滑りやすく、軽登山靴を利用して正解でした。1回も滑ることなく歩くことができました。
連続して高尾山に出かけ、登山の高低差はわずかでしたが、弱っていた脚力が徐々に回復していると思われます。
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高尾山訪問

2022-06-07 20:54:03 | Weblog
年休が貯まっており、消化しないと秋には何日か流れてしまいます。年度末までは忙しかったのですが、5月になって暇ができてきたので、できるだけ休みを取ることを計画しています。
先日千川上水1 2022-05-29で記事にしたように、まずは5月25日に休暇を取り、千川上水の起点である境橋から、環八との交差点までの約8kmを歩いてきました。6月に入り、まずは1日に休暇を取って旧交を温める機会がありました。
そして今週です。毎週一日は休暇を取ろうと計画していたのですが、何と東京は梅雨に入ってしまいました。週間天気予報を見ても行楽日和は皆無です。

6月7日(火)も、天気予報では雨模様だったのですが、雨戸を開けたら青空が広がっています。急遽休暇を取ることにしました。
行き先としては、千川上水の第2弾もあるのですが、今回は高尾山に出かけることにしました。
私は2月末に帯状疱疹が右足に発症し、3月4月の2カ月間はその治癒に努め、痛みに耐える期間でした。免疫力の不足を補うために安静にするように言われており、あっという間に体力が落ちた実感があります。
今回高尾山に出かけるのは、登り道を歩くことにより、弱った足腰を回復しようとの意図があります。しかし体力が弱っているので、歩くのは麓からケーブルカー山上駅までとし、そこから先には上らず、帰りはケーブルカーに乗って帰ってくることにしました。登りの標高差は270mちょっとです。なお、ケーブルカー山上駅から高尾山山頂までは、まだ標高差130mほど登らなければなりません。

朝の東京は快晴でしたが、京王線で西に進むと空は曇りに変わりました。しかし雨には降られず、歩くことができました。

登山ルートは「1号路」と呼ばれるルートで、ケーブルカーの麓駅付近から歩き始めます。
下の写真の寺社を横に見ながら登り始めます。


今回のルートは、最初から最後まで舗装された道路です。念のためハイキングシューズを履いてきたのですが、結果的には不要でした。




病み上がりで心配しましたが、何とか登り切ることができました。
ケーブルカー山上駅付近からは、東京の町並みが展望できます(下写真)。


今まで何回も高尾山を訪れていますが、いずれも週末でした。ケーブルカーやリフトを利用しようとすると、長時間待たされてやっと利用する状況でした。登山道も人で一杯でした。
それに対して今回初めて平日に訪れたところ、ガラガラでした。登山道も人はまばらですし、下りで利用したケーブルカーは、定員の1/3程度の乗客でした。もちろん待ち行列は皆無です。
これからも、年休消化で平日に高尾山を訪問し、徐々に体力を増強して、足で稼ぐ高低差を増やしていこうと思います。
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カルビー常務 武田雅子さん

2022-06-02 17:13:16 | Weblog
日経新聞夕刊2面の1週間連載記事、5月23日の週は「カルビー常務執行役員 武田雅子さん 人事部は魔法使い」でした。5回の連載記事です。
まずは、武田さんの略歴をまとめてみます。
1968年東京生まれ。
 青山学院の中等部・高等部
 青山学院女子短大に進学
 学校を休学し、アルバイトをかけ持ち
 短大中退
89年にクレディセゾン中途入社(21歳)。吉祥寺パルコ内のセゾンカウンター配属。
 2年経たずにショップマスターに。
 吉祥寺で3年半過ごした後、近隣店や大阪・梅田、栃木の宇都宮のセゾンカウンターで店舗責任者を経験
 営業推進部に所属し、2年目には課長に就任。トレーニング課にて、現場の教育指導を手がける。その後、人事部の課長も兼任。戦略人事部において人材開発などに関わる。
2004年36歳の時、乳がんの告知を受ける。
2014年人事担当取締役に就任(46歳)。
2016年には営業推進事業部トップとして、大幅な組織改革を推進する(48歳)。
2018年5月に初めての転職で、カルビー株式会社に入社(50歳)。

青山学院には当然4年制もある中、武田さんは短大を選びました。
『4年制か短大か。「早く社会に出たい」との思いから短大を選びました。短大卒の社員は数年だ結婚退職することが多いと知ったのは入学後。長く働きたいという私の望みとは異なりました。とにかく社会を自分の目で見ようと学校を休学し、アルバイトをいくつもかけ持ちしました。』
武田さんの勘違いで短大を選んでしまったのですね。
新聞記事のタイトル部には『当時の日本は、女子学生の就職では「4年制大学より短期大学が有利」といわれていた。』と記載されていますが、これは違和感があります。武田さんより20年前の私の世代、あるいは山口県の80年代では、確かにそのような風潮が感じられましたが、80年代後半の首都圏、それも青山学院の高等部クラスでそのような認識があったとは思えません。新聞記者の勘違いでしょう。

21歳でクレディセゾンに中途入社しました。配属先は吉祥寺パルコ内のセゾンカウンターで、通路の一部にカウンターを設けたような職場です。「また間違えた」と思いましたが、仕事にのめり込みました。
「人は修羅場では早く育つもの。2年たたないうちにショップマスターになると、もう現場に上司はいません。」
武田さんが苦手な細かい事務作業や保険の勧誘について、職場にはそうした仕事が得意な人がいます。会社のマニュアルからは外れるものの仕事を任せることにすると、8人のチームで20人分くらいの仕事ができるようになりました。
『初任地のあった西東京地区では「武田チルドレン」が10人はいたはず。』
ショップマスター次第で店のムードや業績が「違う会社みたい」といわれるほど変わります。「これでいいのか」と疑問を感じ、会社に提言を行いました。「それなら、自分で仕組みを作れ」と言われ、東京・池袋の本社へ異動することになりました。
全国の支店を支援する営業推進部に所属し2年目には課長に就任。
人事部の動きが遅く感じられ、上司に文句を言ったら今度も「じゃあ、おまえがやれ」。人事部の課長を兼任することになります。

36歳で乳がんの告知を受けました。仕事の休みは3週間でした。薬の副作用もあったのか、うつ症状に苦しみました。
ご自身のがんとうつの経験から得たものを、勤務先の人事制度にも生かすことにしました。結果として世の中の動きを先取りすることになりました。

2018年、クレディセゾン取締役からカルビーに転職し、人事担当として、これまでの経験を生かし組織の活性化に取り組むことになりました。
『数年たち、はっきり実績を上げる部署が出てきました。いいリーダーにはスポットライトをあて、工夫を共有していく。うまくいっていないリーダーには人事がこっそり相談にのります。』

21年2月、専門性を持った外部の人が副業としてカルビーで「ちょびっと」働く仕組みを始めました。同年12月にはカルビー全社員対象に副業を解禁しました。前職のクレジットカード販売の経験から、外の人と一緒に仕事をする癖がついていたのです。

また1人、優秀でかつ魅力的な女性を知ることができました。
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私の履歴書・里中満智子さん

2022-05-22 13:05:50 | Weblog
日経新聞の5月の「私の履歴書」は、マンガ家の里中満智子さんです。
5月21日の「(20)国際交流 ソウルで深めた相互理解 アジア各地で毎年サミット」2022年5月21日 日経新聞
に、おもしろい記事が掲載されていました。
95年、韓国のマンガ家から、「ソウルに来て大臣に会ってもらいたい」と頼まれました。日本の漫画の海賊版が多くて困っているのだが、改善されないので、日本の作家から直接、政府に働きかけてほしい、ということでした。里中さん1人では力不足と思い、ちばてつやさんと一緒に行きました。そこでのエピソードです。

『歓迎会で聞いた韓国のマンガ家の話も興味深かった。彼らの多くは日本の漫画に親しんで育ってきたが、それが日本人の作品だと知ったときは「ショックで一週間くらい落ち込んだ」という。
「日本人は鬼だと聞かされて育ったから、これほど感動的な漫画を描けるとしたら日本にいる同胞だろうと思った。でもマンガ家が全員、同胞というのもあり得ない。悩むうちに気づいた。自分は人から聞いた日本人像に囚われて、リアルな日本人を知らないのだと。そこで思い切って日本に行って、日本人と話をするうち、日本人イコール鬼ではなく、当たり前の人間なのだと分かった」と言われた。』

韓国における反日教育がいかに徹底しているかがこれでわかります。このエピソードは95年に聞いた話ですが、現在でも反日教育が同じように続いているのだとしたら、韓国人の過半が、「日本人は鬼だ」と心から信じていることになります。
大統領が反日の人から親日の人に代わったとしても、韓国という国が親日に変わることはできないでしょう。国民が許しません。

今回の「私の履歴書」にはもう一つ、おもしろい話題が掲載されていました。
上記、韓国のマンガ家との交流がベースとなって、「アジアMANGAサミット」がスタートしました。
『台湾の漫画研究者にこう言われた。「日本の漫画のヒーローに世界が感動するのは、自分と関係のない人のために命を懸けるからだ。他の国のヒーローは、国家や友人や家族など自分と関わりのある人のために頑張る。」漫画から国際的な相互理解が深まることは大いにある。』
ヒーローが命を懸ける動機には、日本と諸外国の間にこのような相違があったのですか。これは新しい気付きでした。
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