弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

特許印紙の売りさばき委託料は合計2.7%

2011-09-29 00:00:40 | 知的財産権
特許庁に手数料や特許料を納付する方法としては、特許印紙による納付と口座振替による納付があります。私は、特許印紙による納付を利用しています。弁理士協同組合を経由しての納付です。私の銀行口座から弁理士協同組合に所定額を振り込みますと、弁理士協同組合はその同じ額の特許印紙を特許庁に納付してくれるという仕組みです。
弁理士協同組合は、私から手数料を取りません。むしろ若干額を還元してくれるくらいです。どのようにして経費をまかなっているのでしょうか。
われわれは街角のたばこ屋で郵便切手を購入することができます。50円切手を50円で購入できるわけですが、たばこ屋さんはその小売りで儲けを出しているはずで、それは50円切手を50円以下の金額で仕入れているからでしょう。弁理士協同組合も、10万円の特許印紙を10万円以下の金額で仕入れているはずです。いったいどの程度のマージンを得ているのでしょうか。

9月28日の朝日新聞夕刊に以下の記事が載りました。
特許料納付、30億円ムダ 印紙販売委託費 検査院指摘特許料などの納付の流れ
アサヒコム 2011年9月28日15時1分
『10年度には全体で約239万8千件(約1217億円)の納付があり、そのうち印紙による納付が約214万4千件(約1088億円)、振替による納付が約23万9千件(約121億円)だった。
特許印紙の場合、郵便局に売りさばき業務の委託料を払う必要があり、同年度は約32億4千万円にのぼった。一方で、振替に対する金融機関への委託料は約250万円だったという。』
特許印紙の場合として、新聞では代行業者に発明協会を用いた例が示されていました。

1217億円の特許印紙の売りさばき委託料として、特許庁は郵便局に32億4千万円支払いました。%であらわすと、
 32億4千万円/1217億円×100≒2.7%
となります。
何と、特許庁は郵便局に2.7%もの委託料を支払っているのです!!
そして記事では、発明協会が代行業者となる場合、郵便局が発明協会に売りさばき業務手数料を支払います。特許庁から受けとった32億4千万円のうちのしかるべき割合が支払われているはずですが、記事では「?円」となっていました。

郵便局と委託業者(発明協会や弁理士協同組合)が委託料をどのように山分けしているかは不明ですが、とにかくいい商売であることは確かです。

むしろ、驚くべきは委託料が2.7%である点です。
たばこ屋が50円切手や1円切手を販売するのと異なり、特許印紙の場合には1枚が10万円だったり1万円だったりしますから、額面に対してかかる手数はきわめてわずかです。2.7%という委託料率はどのようにして決まったのでしょうか。

一方で、新聞記事から口座振替の委託料率を計算してみると、
 250万円/121億円×100=0.02%
という驚くべき低い料率であることがわかります。金融機関はなぜこのような低い委託料率で請け負っているのでしょうか。別のところで旨みがあるのでしょうか。

会計検査院は特許庁に対して、口座振替への切り替えを促進すべきだとの改善要求をするそうです。私としてはその前に、特許印紙の委託料率の低減を推進すべきだと思いますがいかがでしょうか。
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古賀茂明氏に関する予算委員会での枝野大臣発言

2011-09-27 00:14:25 | 歴史・社会
経産省の古賀茂明氏が、9月26日にとうとう退職しました。やめると決まった途端、古賀氏の舌鋒は鋭くなっているようです(霞ヶ関を去る改革派官僚の特別手記・古賀茂明「『改革への新たな一歩』ーー日本再生のため、さらなる戦いに挑みます」「本日、経産省を退職します」)。

本件について、以下のニュースが流れました。
古賀氏への退職勧奨は総合的判断=枝野経産相
ロイター 9月26日(月)15時11分配信
『枝野幸男経産相は26日午後の衆議院予算委員会で、改革派官僚として知られる古賀茂明氏について、「主張には同意する点は少なくない」と指摘した。
ただ、個人の意見とは異なる政治決定に従うのが官僚システムだとして、海江田万里元経産相らの判断を引き継いで総合的な判断から退職勧奨を行い、古賀氏は同日付で退職したと述べた。自民党の塩崎恭久委員の質問に対する答弁。』

さて、枝野大臣は衆議院予算委員会でどのような発言をしたのでしょうか。気になったので、衆議院TVで確認し、26日の衆議院予算委員会における、当該の件に関する塩崎議員と枝野大臣との問答をテープ起こししてみました。
--はじめ-----------------------
塩崎:古賀さんはずっとですね、仕事を与えてくれなければ辞めるしかない、という悲痛な叫びを上げてきました。枝野さんはかまわない、仕事は与えない、ということで結局これを。今日多分正式に退職することになると思います。この、仕事を与えない、ということで退職に追い込んだ責任と、この判断はご自身のものだということでよろしいですか。

枝野:個別の職員について、特に人事について本来申し上げるものではないと思いますが、国会でのことでお答え申し上げますが、当該職員については、海江田大臣・鉢呂大臣のもとにおいて積み重ねられた判断のもと手続が進められており、私としてはこれまでの判断を引き継ぎ、これを了として、のちの手続は事務方に任せることとしたものです。ご指摘の職員については本人から辞職願の手続があり、本日退職しました。

塩崎:海江田・鉢呂両大臣の方針を引き継いでとおっしゃいましたが、海江田さんはこの予算委員会で私が話して、かれは古賀さんに会って、また会おうといって分かれたままです。鉢露さんはメールを打っても何の返答もなかった。だからどういう方針なのかさっぱり分からない。
また会おうといって別れた、海江田さんはまた会おうといった。あなたは会わなかったでしょう。
もうひとつ。これは明らかにパワーハラスメントだと思う。役所によるパワハラ。つまり閑職に追いやって約2年間、ひとつの出張だけ命令して、毎日何もなしできた。虐待でもネグレクトがある。無視している。ほとんどこれと同じ。こういう中で、パワハラである、弁護士であった枝野大臣ですから、これは明らかなパワハラ。政府が率先してこんなことやってていいんですか。

枝野:当該職員については海江田大臣の下で、本来大臣が直接するような仕事ではないと思うが、大臣自らお話しされて、いわゆる退職勧奨を行って、それに本人が一旦応じたと、大臣を就任した折りに引き継ぎを受けています。

塩崎:それはだいぶ違うんだ。渡辺喜美さんもやられると思うんであまり言いませんが、枝野さん、あなたがやったことは相当重大なことをやった。私たちが聞いている限り、海江田さんは辞めることを勧奨したんじゃない。このような優秀な人に適切な仕事があるはずだとおっしゃった。また会おうと言った。今のような話であるわけがない。
私が重大だと言ったのは、こういうことをやったら、霞が関の論理に反した役人は、末路はこうなるんだよと言う、霞が関流の報復人事を、加担を積極的にやってしまった、ということを、あなたは気づいていますか。
私はこういうことをやっていけば、かれのような改革官僚、今、本はベストセラー。中味がいいからでしょう。ていちょう(傾聴?)に値することが書いてあるからでしょう。みんな同じ金太郎飴じゃなくて、いろんな人がいて、発送電分離の話だって、枝野さんは賛成のはずですよ。一緒に議論する相手のはずだった。
役所の論理でこういう人がいてもらっては困る。辞めることになってしまって、次官や官房長に逆らってまで、日本のためにこうすべきだという改革官僚が出てこなくなっている。

枝野:海江田大臣の下で退職勧奨をしたということは経産大臣の引き継ぎにおいても、私は報告を受けています。当時私は官房長官として、経産省としてそういう対応をするということを報告受けているので事実関係は間違いない。
ご指摘の点については、ある意味で一理あると思っている。私は当該職員の主張の詳細について、存じ上げておりませんが、漏れ伝え聞く報道等で聞くところでは、私は彼の主張している意見は同意見であるところは少なくない。
そのことと、官僚システムというシステムの中で、どういった仕事をしていただくのか、官僚の皆さんにはそれぞれ個人の意見とは異なっていても、政治が決定したことについては、自分の意見と異なったことについても、官僚としてのそのポジションポジションで決められたことに従ってもらわなければならない。内閣官房長官として仕事をしたおりには、私が判断、私を含めて判断をした政府の判断に対して、意見の異なった人も少なからずいたと思うが、決まるまでの間それぞれの司つかさの担当としてご意見は十分に聞いたつもりだが、決めた以上はその判断に従っていただく。それが私はあるべき官僚としての姿だと思う。それに対して、しっかりとして政治として判断できるかどうかが政治に問われていると思っている。そうしたことを総合的に判断して今回の判断は間違っていないと思っている。

塩崎:パワハラにしても明確なことをいってもらえない。今の霞が関流の報復人事についても、結局あなたは、今言ったことは役人の論理に乗っかっていることを私は指摘しておきたい。
---以上--------------------

枝野大臣の「大臣自らお話しされて、いわゆる退職勧奨を行って、それに本人が一旦応じたと、大臣を就任した折りに引き継ぎを受けています。」はわれわれが知らされている事実とは異なります。塩崎議員の発言の方がわれわれの知識と合致しています。(9/27 一部修正)
枝野大臣は正しい引き継ぎを受けたのか、疑問に思うところです。

また、枝野大臣の「官僚の皆さんにはそれぞれ個人の意見とは異なっていても、政治が決定したことについては、自分の意見と異なったことについても、官僚としてのそのポジションポジションで決められたことに従ってもらわなければならない。」「そうしたことを総合的に判断して今回の判断は間違っていないと思っている。」
については、あたかも古賀さんが、政治の決定に従わなかった、それが退職勧奨の理由だ、と言っているようです。
しかし、古賀さんはこの2年間仕事を与えられていないのですから、政治決定と異なった仕事をやりようがありません。何を根拠に言っているのでしょうか。
それとも、古賀さんの著書、古賀さんのマスコミにおける発言を指しているのでしょうか。それが理由だとしたら、古賀さんも覚悟の上でしょう。一方、枝野大臣がそれを「自分の考え」というのだとしたら、枝野さんの政治家としての資質が低いことを暴露したことになります。

さらに、8月5日に経産省首脳人事のドタバタで紹介しましたが、長谷川幸洋氏は「菅首相周辺が「改革派官僚」古賀茂明氏に接触していた「経産省3幹部更迭」の裏事情 海江田大臣がすぐ後任を発表できなかった理由(2011年08月05日(金))」において、
『首相官邸サイドは先週から、改革派官僚として知られた古賀茂明官房付審議官に数回にわたって電話し、事務次官更迭を前提にした経産省人事について相談していた。そこでは次官の後任だけでなく、海江田経産相が辞任した後の後任経産相についても話が出たもようだ。』
と述べています。官邸と言えばその主は総理大臣と官房長官です。少なくとも当時の枝野官房長官の了解の下で話はされたはずです。
人間と人間との関係でいったら、8月の官房長官としての態度から9月の経産大臣としての態度への枝野氏の豹変は、古賀氏に対する裏切りと言っても過言ではありません。

今回のテープ起こしに際し、国会でのご両人の発言は速いので、私のタイピングは当然ながら追いつきません。そこで、一旦ボイスレコーダーに集録し、速度を0.5倍に落として聞いてみました。0.5倍ですとちょうどわたしのタイピング速度にマッチしました。
はじめて0.5倍で聞いたのですが、びっくりしました。ご両人の話し方が、まるで酩酊した人の話っぷりにそっくりなのです。落語家でも、これだけ酔っぱらいになりきる噺ができたら名人級だと思いました。
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瀬谷ルミ子著「職業は武装解除」(2)

2011-09-26 19:12:53 | 歴史・社会
前号に引き続き、瀬谷ルミ子さんの「職業は武装解除」を取り上げます。

《シェラレオネでDDR担当官となる国連ボランティア》
瀬谷さんは2001年4月、何らつてを持たずにシェラレオネに入りました。当地の武装解除は、国連シェラレオネ派遣団(UNAMSIL)が担当し、ホテルを借り上げて事務所を開設していました。瀬谷さんはそのホテルに宿泊する作戦を立てます。そしてそのホテル宿泊を突破口として、事務所訪問のアポを取り付けたのです。自分で武装解除に対する提案を取りまとめて説明し、2週間の滞在中に大統領直属の国家DDR委員長にまで面談できました。
シェラレオネでは子ども兵について調査し、帰国後にレポートをまとめてそれが学術雑誌に掲載されました。その数ヶ月後、日本紛争予防センター(JCCP)から「UNAMSILがDDR担当官となる国連ボランティアを探している。興味があるなら推薦したい」というメールが届きました。採用され、2002年1月にシェラレオネに入りました。
シェラレオネでは、住民と元兵士の和解を進めるための平和構築プロジェクトの責任者も志願して務めました。自分達が正しいと思って行っていたDDRが、現地社会にマイナスの影響を与えるのではないかと感じるようになっていたからです

《アフガニスタンでDDR担当日本国二等書記官》
アフガニスタン戦争が終わった後、アフガニスタンでのDDRを日本と国連が担当することになっていました。日本がノウハウが何もないDDRを担当することになったのはボタンの掛け違いからだと瀬谷さんは言います。DDRのうちRであれば、職業訓練を通じて貢献可能ではないかと考えてDDR担当国となることを決めたものの、日本人の専門家自体がほとんどいなかったのです。
瀬谷さんは、シェラレオネ赴任1年後の休暇時に日本でのDDR国際会議に飛び込みで参加し、そこで外務省からDDRを担当できないかと要請がありました。アフガニスタンに行くかどうか、瀬谷さんがこれまでで一番悩んだ選択でした。最後は、大変でもより実力が付く選択肢を選ぼうということで、アフガニスタン行きを決めました。駐カブール日本大使館の二等書記官としてです。
赴任して10ヶ月経過後、それまで武装解除の枠組みをつくっていた伊勢崎賢治氏が日本に帰国しましたそのため、DDRの本格段階が始まった2年後の2004年4月からは、DDR運営委員会の委員長をしていた日本大使の特別補佐官として、瀬谷さんは政策協議や司令官との交渉も任されることになりました。
このとき、日本側で武装解除の交渉や方針づくりに関わっていたのは、上司の駒野欽一対支と瀬谷さんの二人だけでした。こんな大事なことを27歳の瀬谷さんが一人で提案して決めていいのかというプレッシャが半端ではなかったといいます。
各国はエース級の人材を投入しています。かれらと単身で交渉する過程で、さまざまな思惑が錯綜するなか、交渉の際に相手の意図を深く考える癖がつきました。

ある休日、カルザイ大統領から急遽会いに来るようにとの連絡が入りました。アメリカ、イギリス、国連は責任者が一人だけ、そして日本は大使と瀬谷さんです。どこも側近を同行せず極秘事項が話し合われるというのに、日本のみは側近として瀬谷さんの出席が要請されたのです。会議では、ファヒーム国防大臣を解任すべきか意見を求められました。
『日本側は、「・・・武装解除を進めたるためには、彼が障害になっているのは事実だ」との意見を伝えた。そして、カルザイ大統領は、国防大臣を交代させることを決定した。・・・このとき、だれも口火を切らなかったので最初に日本が発言したが・・・』
『これをひとつのきっかけに、プロセスは一気に加速することになる。それから1年後には、63380人が武装解除された。』
アフガン復興で日本がやってきたこと(2)で書いたように、2003年9月、国防参謀総長、国防次官以下主要ポストの総入れ替えが行われました。彼らはファヒム国防大臣の派閥所属でした。伊勢崎賢治氏が中心となり、国防省の首脳人事改革が行われない限り、日本の血税はびた一文使わせない、と脅迫に近いロビー活動を行った結果です。
それに加え、その後に国防大臣までもが罷免され、それが瀬谷さんら日本外交団の後押しによるものであることがわかりました。

イスラム教国のアフガニスタンの文化では、女性が前面に出ることを良しとしないので、必要な交渉内容は、要点を事前に大使に伝え、大使が話します。会議の最中に補足が必要になるとメモを大使に渡していました。瀬谷さんは「しょっちゅうメモを差し出していたDDR担当の女性」ということで目立っていたようです。
ファヒーム国防大臣罷免を実現した「日本側の発言」も、瀬谷さんのメモに基づいて駒野大使が発言したのでしょうか。

日本が担当する武装解除は進行するのに、アメリカが担当するアフガニスタン国軍の建設はなかなか進みません。一方でタリバーン復活が勢いを増していました。武装解除された地域に代わりの治安部隊がいない「治安の空白地帯」ができていきました。しかし瀬谷さんには、その流れを変える力がありません。
『私は、アフガニスタンでこれ以上ない経験を積んだ。けれど、大いなる挫折も同時に味わったのだった。』

《国連コートジボワール活動(UNOCI)国連職員》
2005年5月、アフガニスタンでの2年間の勤務を終え、28歳の瀬谷さんは今までの人生で唯一休むことを決めました。
この休みにフランス語を勉強しようと、シェラレオネ時代の元同僚フランス人に相談したところ、コートジボワールに来るようにと勧められました。しかしコートジボワールは治安が悪化し、外国人生徒がみな逃げてしまったために語学学校は開いていなかったのです。一方でコートジボワールはDDRを始める段階にあり、専門家がいない国連から相談を受けるようになりました。その揚げ句、勧められてコートジボワールで国連職員として赴任することになったのです。2006年6月、瀬谷さん29歳です。
国連コートジボワール活動(UNOCI)には1年間だけ勤務しました。国連での仕事のやり方に問題を感じたためでした。

《日本紛争予防センター(JCCP)事務局長就任》
次の仕事として、瀬谷さんはフリーランスの国際コンサルタントを最初に考えました。一方で、日本を基盤とした活動が一向に進展せず、専門家も育っていないという現状からも目を背けられなくなっていました。そんなとき、日本紛争予防センター(JCCP)から事務局長への就任の打診があったのです。当時のJCCPは組織が分裂し閉鎖の危機にありました。知り合いのほとんどが否定的だった中、瀬谷さんは就任しました。2007年4月、瀬谷さん30歳です。
『それから4年あまりが経った今。JCCPは、東京本部のほかに、ソマリア、ケニア、南スーダン、マケドニアに現地事務所を置くようになり、15ヶ国でプロジェクトを実施してきた。スタッフの数は、日本人16人を含む40人ほどに増えた。』
『JCCPの活動分野は、現地にニーズがあるのに、やり手がいないために問題が解決されないままになっているものに特化している。』

ソマリアでの活動は、2009年に国連開発計画(UNDP)からやってきた要請で始めました。
ケニアでは、大規模な暴動で国内難民となった人びとの生活支援を手がけています。ケニアでのプロジェクト責任者は高井史代氏です。
南スーダンでは、ストレートチルドレンや若者に対して啓発と職業訓練を始めました(2009年)。2年間で200人を訓練し、その半数が無事に就職しました。南スーダン代表は日野愛子氏です。
世界の紛争地で、JCCPに所属する女性が活躍しているのですね。

今回瀬谷さんの著書を読むことにより、
・瀬谷さんをここまで突き動かしてきた動機付けとエネルギーの源泉はどこにあるのか
・瀬谷さんはどのようにして、紛争解決プロフェッショナルとしてのスキルを身につけてきたのか
・そのプロフェッショナルスキルの実態はどのようなものか
という疑問の多くが解決したように思います。
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瀬谷ルミ子著「職業は武装解除」

2011-09-25 14:11:34 | 歴史・社会
瀬谷ルミ子さんについてはじめて知ったのは、伊勢崎賢治「武装解除」で紹介した伊勢崎賢治著「武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)」のあとがきです。「瀬谷さんは、シエラレオネで国連スタッフとして僕の下で働いてくれて以来の付き合いであるが、まだ二十台の若さですでに二つのDDRを現場で経験した、これからの日本にとって逸材中の逸材である。」「日本の平和貢献の将来は、女性が担う予感がする。」

瀬谷さんについてテレビでは、2009年4月にNHK(NHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さんNHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さん(2))で、2010年10月にテレビ東京(テレ東「この日本人がスゴイらしい」に瀬谷ルミ子さん)でそれぞれ取り上げられました。

瀬谷ルミ子さんは現在34歳。日本紛争予防センター事務局長の肩書ですが、実態は紛争解決のプロフェッショナルとして世界の紛争最前線で常に活躍されています。
テレビ番組でのナレーションや伊勢崎著書あとがきなどから推察すると、瀬谷さんというのは、世界のどこかで紛争が勃発したときに紛争解決専門家として国連や外務省からお呼びがかかり、紛争地で世界から集まってきた紛争専門家から信頼を集めているのだそうです。紛争解決のプロフェッショナルとして凄い能力を有しているように思われます。
しかし、テレビの映像では、瀬谷さんのそのような凄さは見えてきません。テレビ局のプロデューサーやカメラマンには十分に捉えきれない能力かもしれません。ご自身のブログを拝見しても、普通の30代日本人女性の姿しか見えてきません。

瀬谷さんの能力の実態に何とか迫れないものかと思っていましたが、今回、ご本人の初めての書き下ろし著書が刊行されました。
職業は武装解除
クリエーター情報なし
朝日新聞出版

瀬谷さんが生まれ育ったのは群馬県新里村(当時)。両親と姉、弟の5人家族でした。
瀬谷さんが小学6年生のとき、当時小学3年生だった弟さんが脳内出血に襲われました。1ヶ月後に奇跡的に意識を回復しますが、左半身麻痺が残ったのです。ご両親は、治療費のために夜遅くまで働き、また病院に寝泊まりする生活です。小学生だった瀬谷さんの面倒を見てくれたのは3歳上のお姉さんでした。「この時期に私自身が不自由した記憶はほとんどない。」

瀬谷さんが紛争解決の仕事をしたいと思ったきっかけは、高校3年生の春でした。
『ひねくれ者精神の延長だったのか、小学校の頃から、みんなが知らないようなこと、興味を持たないような「未知のもの」に目が向かう子供だった。』『中学生になった頃から、自分は苦手なことを克服するより、得意なことを伸ばす方がやる気がでるタイプだと感じるようになっていった。』こうしてアフリカなどに興味を持ち、英語の勉強に集中しました。
新聞をめくっていた瀬谷さんの目に飛び込んできたのは、ルワンダの難民キャンプの親子の写真でした。死にかけている母親を、3歳ぐらいの子どもが泣きながら起こそうとしている姿です。
この写真を発端として、瀬谷さんの目標は決まりました。すぐに紛争解決について勉強できる大学を調べましたがありません。その中から中央大学の総合政策学部を選びました。

脳内出血に襲われた弟さんは、家族に支えられながらリハビリを続け、現在は自力で職場まで通っています。
『私は、紛争地で仕事に取り組む上で、「やらない言い訳をしない」ことをポリシーにしている。その原点は、私のもっとも身近な家族が困難な人生に立ち向かう姿勢を見てきたことにあると思う。』

大学には紛争問題が専門の教授はいなかったので、図書館で英文の専門書を読みあさりました。瀬谷さんは大学在学中に「ルワンダに行く」ことを目標としており、そのためアルバイトでお金を貯めては休みに海外に出かけて英語を磨きました。
大学3年の夏にホームステイでルワンダを訪れました。しかしすぐに気づいたのは「自分は役に立たない」ということでした。
『「肩書も所属も関係なく、身一つで現場に放り込まれても、変化を生める人間になる」ルワンダを訪れた20歳の時に強く感じたこの思いが、私の仕事の目標になった。』

大学卒業後は、イギリスのブラッドフォード大学平和学部大学院に進学しました。お母さんはこのときも、瀬谷さんのやりたいことを全力で支えてくれたそうです。
大学院に進学するに際し、紛争解決の分野でさらに自分の専門分野を絞り込む必要がありました。瀬谷さんは「ニーズがあるのにやり手がいない分野」にこだわりました。そしてある日、ニュースに「紛争地では、元兵士や子ども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」を目にして、「これだ!」と声を出していました。「武装解除(DDR)」に取り組むことにこのときに決めていたのです。

大学院では、年8本ほど提出する論文で成績が決まります。瀬谷さんはその中で関心があるいくつかの科目に集中しました。そして学生寮の自室にこもって論文に集中し、学部最高点を獲得するに至りました。
1年で修了する修士課程の最後の3ヶ月は修士論文の執筆に費やします。瀬谷さんは紛争後の和解問題について書くことにしました。そのため、秋野豊賞に応募し、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアに現地調査に行く助成金を獲得しました。ネットの検索エンジンで見つかる限りの関係先にメールを送り、必要なインタビュー先と連絡を取りました。
和解のための調査で現地入りした瀬谷さんは、現地の住民の話を聞くほどに、後ろめたさの感情が大きくなっていきました。家族を虐殺された被害者が、ある日フラッとやってきた外国人から、加害者と和解しない理由を問い詰められたら、それは被害者の心の傷を深めることにしかならない、と気づいたのです。
『この時の経験から、平和をつくるプロセスとは、当事者が望んでからはじめて行われるべきであること、部外者が興味本位でかき乱すことがあってはならないことを痛感した。』

大学院を修了する直前、学生時代にインターンをしていた日本のNGO組織のアフリカ平和再建委員会からルワンダに新しく立ち上げる現地事務所の駐在員に誘いを受け、行くことになりました。2000年10月、23歳のときです。
現地では、事務所探しから備品購入まですべてを一人でこなしました。そして、虐殺で夫を失った女性に洋裁の職業訓練をするプロジェクトを担当します。地元の小学校へ机や椅子を寄付する支援も行いました。
担当プロジェクトが終了する頃、西アフリカのシェラレオネで武装解除が始まっていました。瀬谷さんは駐在の仕事を延長しないことに決めます。次の仕事のあてはありません。2001年4月、自費でシェラレオネに調査に行くことにしました。

以下次号
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平成23年度弁理士論文試験合格発表

2011-09-23 11:21:54 | 弁理士
《弁理士論文試験合格発表》
9月22日に弁理士試験の論文式試験合格発表がありました。本年の合格者は715人でした。
合格したみなさん、おめでとうございます。
例年のように、論文試験合格者の推移を記録します。

     受験者数 論文 最終
            合格 合格
平成03年度 3217     96
平成07年度 4177    116
平成10年度 4362    146
平成11年度 4700 223 211
平成12年度 5166 250 255
平成13年度 5599 306 315
平成14年度 6714 470 466
平成15年度 7953 551 550
平成16年度 8883 634 633
平成17年度 9115 738 711
平成18年度 9298 655 635
平成19年度 9077 589 613
平成20年度 9679 601 574
平成21年度 7354 944 813
平成22年度 6582 822 756
平成23年度 6377 715
     (短答受験者)

最近の試験では、短答免除者は短答試験を受験しませんから、上記の「受験者数(短答受験者数)」の数値は論文試験の難易を計る上では参考になりません。また、論文合格率を算出するには論文受験者数を知る必要があります。そこで、種々の数値を推定することとします。
特許庁の平成23年度弁理士試験統計からは以下の数値を読み取ることができます。カッコ内の数値は昨年のデータです。また「一般」とは、今年短答試験に合格して論文試験を受験した人の意味です。

短答合格者数    1934(899)
論文必須受験者数 2988(3093)
  内選択免除者 2164(2268)
論文選択受験者数 927(897)
論文合格者数    715(822)

以上の数値を元に、解析を試みます。
まず、
論文受験者数合計=論文必須受験の選択免除者数+論文選択受験者数
  =2164+1934=4098(3165)

この結果から、論文試験合格率を計算できます。
論文試験合格率(=論文合格者数/論文受験者数合計×100)
  合計        715/4098*100=17.4%(26.0%)

何と、合格率が昨年の26.0%から17.4%まで落ち込んでいるではないですか。論文受験者数が3165人から4098人に増えているのに、論文合格者数が822人から715人に減っているからです。なぜ論文合格率が突然こんなに落ち込んだのか。この原因は今後解析しなければなりません。
すぐに分かることは、本年に短答合格して即論文受験した人数が本年は増大しているので、それが論文合格率を押し下げている可能性はあります。

次に、短答免除者数を推定します。今年短答合格した全員の1934名が論文受験したと仮定します。そうすると、
論文受験者数
  一般        1934(899)
  短答免除 4098-1934=2164(2266)
この数値から、本年の短答受験者数と短答免除者数の合計は、
  6377+2164=8541(8848)
となります。
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米国改正特許法は先公開主義か?

2011-09-20 19:24:56 | 知的財産権
9月9日に「米国特許法が先願主義に!?」で記事にしたように、米国特許法改正案が9月8日に上院で可決していましたが、16日にオバマ大統領の署名がなされ、成立しました。
「これで米国特許法は先発明主義から先願主義に移行することになった」と言われていますが、細かいところではどうなっているのか。改正法案については、例えば米国特許庁のLeahy-Smith America Invents Act Implementationページの「pdf」から見ることができます。この文書から102条の(a)と(b)を抽出した改正後の条文をこの記事の末尾に掲載しておきます。

このうち、(a)(1)とその例外を記述した(b)(1)(A)についてはだいたいわかります。日本特許法でいえば、新規性(29条1項各号)とその例外(30条)に対応するものであり、ただし例外期間が日本の6ヶ月に対して米国は1年、日本は出願時に提出が必要であるのに対して米国は不要、という相違点があります。

(a)(1)の例外のうち(b)(1)(B)については、JETROの報告に『自身の発明開示後であって、自身の出願前に第三者が同一発明を開示した場合であっても、自身の出願は第三者の開示による影響は受けない(いわゆる「先発表主義」)』とあり、この文章から理解できました。

しかし、下記102条の(a)(2)とその例外を記述した(b)(2)の意味合いが良くわかりません。どこかに解説記事が載らないものかと探していました。
松本直樹弁護士による「米国特許法研究室」で解説記事を見つけることができました。「2011米国特許法改正は先願主義なのか?
松本弁護士による上記解説を読みつつ改正102条を読んでみました。

102条の(a)(2)では、「その出願よりも前に出願された他の出願(発明者は別人)が公開されたら、当該他の出願に記載された発明と同一の発明については、特許されない」という規定です。日本法の29条の2に該当するものでしょう。「その出願」が審査対象の出願、「他の出願」は別の先願を意味します。
そして、その例外を記述した(b)(2)についてです。
「以下の場合、(a)(2)の開示はprior artとならない。(B)「他の出願」の出願前に、「その出願」の発明者によって公開されたとき。」

こういうことです。「その出願」の発明者をA、「他の出願」の発明者をBとします。
(a)(2)の原則では、「Aによる出願前にBによる他の出願がなされ、そこに同一発明が記述されている場合、当該他の出願が公開されたら、Aは特許を受けることができない」というものです。
ところが(b)(2)(B)によると、「Aがまず公開し、その後Bによる他の出願がなされ、さらにその後にAによる出願がなされた場合、Aは特許を受けることができる」という例外が認められるのです。
BはAによる公開があるので当然特許を受けることができません。

102条の(b)(1)(B)にしろ(b)(2)にしろ、改正米国特許法は「先願主義」といいながら、むしろ「先公開」が優先しているようです。
今回の米国特許法改正におけるこのような規定が、はたしてどんな意味を有しているのか、まだ私の頭は整理できていません。松本弁護士による「2011米国特許法改正は先願主義なのか? 」を参照してください。

§102. Conditions for patentability; novelty
(a) NOVELTY; PRIOR ART.--A person shall be entitled to a patent unless--
(1) the claimed invention was patented, described in a printed publication, or in public use, on sale, or otherwise available to the public before the effective filing date of the claimed invention; or
(2) the claimed invention was described in a patent issued under section 151, or in an application for patent published or deemed published under section 122(b), in which the patent or application, as the case may be, names another inventor and was effectively filed before the effective filing date of the claimed invention.
(b) EXCEPTIONS.--
(1) DISCLOSURES MADE 1 YEAR OR LESS BEFORE THE EFFECTIVE FILING DATE OF THE CLAIMED INVENTION.--A disclosure made 1 year or less before the effective filing date of a claimed invention shall not be prior art to the claimed invention under subsection (a)(1) if--
(A) the disclosure was made by the inventor or joint inventor or by another who obtained the subject matter disclosed directly or indirectly from the inventor or a joint inventor; or
(B) the subject matter disclosed had, before such disclosure, been publicly disclosed by the inventor or a joint inventor or another who obtained the subject matter disclosed directly or indirectly from the inventor or a joint inventor.
(2) DISCLOSURES APPEARING IN APPLICATIONS AND PATENTS.-- A disclosure shall not be prior art to a claimed invention under sbsection (a)(2) if--
(A) the subject matter disclosed was obtained directly or indirectly from the inventor or a joint inventor;
(B) the subject matter disclosed had, before such subject matter was effectively filed under subsection (a)(2), been publicly disclosed by the inventor or a joint inventor or another who obtained the subject matter disclosed directly or indirectly from the inventor or a joint inventor; or
(C) the subject matter disclosed and the claimed invention, not later than the effective filing date of the claimed invention, were owned by the same person or subject to an obligation of assignment to the same person.
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復興支援地図で見る津波の広がり

2011-09-19 10:58:31 | 歴史・社会
ダイヤモンドオンラインの『この夏は東北へ行こう! 百聞は一見に如かず。「被災地を自分の目で確かめる」本当の意味』で竹井善昭氏は、「観光でもいいから被災地に行って現場を見てきてほしい」と訴えています。
私も7月末に釜石を訪問し、ほんの3時間ほど市内を歩いたのみですが、その様子は脳裏に刻まれています(釜石訪問(1)釜石訪問(2))。実際に自分の目で見ない限り、書物や写真による見聞の印象は時々刻々と薄れていきます。「実際に自分の目で見て、記憶を確かなものにしてほしい」という竹山氏の勧めは良く分かります。

竹井氏の記事の中で勧められている被災地の地図が、以下の地図です。
東日本大震災 復興支援地図
クリエーター情報なし
昭文社

北は青森県八戸市から、南は千葉県銚子市まで、太平洋沿岸が41枚の5万分の一地図で網羅されています。津波浸水地域が黄土色に着色されており、一目で分かります。

私が7月末に訪問した釜石市について、私が歩いてまわった地域は下記の地図の領域です。


この釜石市は、復興支援地図の5万分の一地形図によると以下のように示されます。

釜石市の場合、海からすぐに山が迫っているため、津波浸水地域(黄土色着色部分)が海岸から山裾までの領域であってさほど広くありません。
一方で、石巻市は、5万分の1地図で下のように表現されています。

釜石市と比較して、津波浸水地域(黄土色着色部分)の圧倒的な広さに驚かされます。この広大な被災地の様子は、おそらく現場に自分が立たないと実感できないでしょう。
釜石市を見ただけでは十分とはいえない、石巻市もぜひ訪れて自分の目で見たい、と思いつつ、その機会は訪れそうもありません。

竹井氏の上記記事によると、1泊2日で被災地を訪問する場合、石巻市を中心に回るコースを推奨しています。新幹線で仙台に到着してレンタカーを借り、石巻市へ向かいます。
『カーナビの設定を「石巻市門脇町5丁目」あたりに設定しておくと、ほとんど全てが流された町が現れる。初めて被災地を訪れた人は、その光景を見るだけで津波被害がどれほどのものだったかを実感できるだろう。』
石巻市から女川町に向かいます。
『女川町にたどり着く。町の全てが流された光景に愕然とする。
石巻市は人口15万人ほどの大きな都市なので津波の被害も甚大だったが、被害を免れた地区は普通に機能しているように見える。女川町のように小さいけれど町のほとんどが流された光景は、津波の恐ろしさをより強く感じさせると思う。被害は数字だけでは語れないのだ。』
この日は石巻市に宿泊し、翌日は南三陸町を訪れます。
『南三陸町も町全体を流された地区だが、ほとんど何もない光景の中心部あたりに鉄骨だけが残された2階建ての建物が見つかる。ここが24歳の南三陸町職員・遠藤未希さんが、最後まで防災無線で町民に避難を呼びかけ殉職した防災対策庁舎だ。』

被災地の一日も早い復興を願ってやみません。
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大阪地検特捜部のFD改竄犯人隠避事件

2011-09-16 20:56:06 | 歴史・社会
大阪地検特捜部の証拠改ざん・隠蔽事件で、犯人隠避罪に問われた元部長大坪弘道被告と元副部長佐賀元明被告の公判が始まっています。
裁かれるのが元検事、検事時代の犯行を裁かれています。告発するのはもちろん検事(最高検)であり、法廷で証言する証人がまた検事(大阪地検特捜部)ときています。これで弁護人がヤメ検(元検事弁護士)だったら、まさに検察内の内ゲバになるところでした。
かろうじて弁護人にはヤメ検を使わなかったようです。
元特捜部長ら大弁護団を編成、最高検と全面対決 初公判で無罪主張
産経新聞 9月12日(月)11時29分配信
『大坪、佐賀両被告は弁護人に検察OBの「ヤメ検」弁護士を起用せず、それぞれ司法修習の同期生を中心とした大規模な弁護団を編成。法廷の弁護人席に計16人が着いたほか、傍聴席からも審理の行方を見守った。
大坪被告の弁護団は、司法修習同期の弁護士ら約20人。団長は修習時代の恩師にあたる田宮甫(はじめ)弁護士(第2東京弁護士会)が務める。
一方、佐賀被告の弁護団は大学の先輩の伊藤裕志弁護士(大阪弁護士会)が団長で、約120人の大所帯。』

15日に第2回公判が開かれ、元部下の白井智之検事が証人尋問で「昨年1月、佐賀元副部長が電話で改ざんの告白を受けた」などと証言しました。
「元副部長が改ざん告白受けた」=改ざん隠蔽で元部下証言―大阪地裁
時事通信 9月15日(木)11時3分配信
『白井検事は事件当時、郵便不正事件の公判担当主任だった。現在は同地検特捜部に所属している。
検察側の主尋問で白井検事は「1月30日夜、同僚検事から改ざんの話を聞いた佐賀元副部長が、自分の目の前で東京出張中だった前田恒彦元検事(44)=証拠隠滅罪で実刑=と電話で話した。『(改ざんを)認めたんですよね』と聞くと、うなずいて『認めた』と言った」と述べた。
白井検事によると、佐賀元副部長は改ざん後の「6月8日」という日付も確認。電話の後、がっくりとうなだれて涙を流し「おれの責任や。前田が辞めるならおれも(辞職を)考える」と話したという。
白井検事は「2月1日、元副部長が大坪元部長に報告した際、特捜部長室から机を激しくたたく音と元部長の『何やっとるんや!』という怒鳴り声がした」と証言。「同じ日、元副部長から『こちらでやる。これで終わりにするから、これ以上騒ぐな』と言われ、このままごまかされるのかと非常に不安になった」とも述べた。』

元部下の検事らの証言に対し、被告は「これら検事の証言は信憑性がない」と主張する模様です。
押収資料改竄 犯人性の認識、1本の電話が焦点に
産経新聞:2011/09/13 01:46更新
『両被告の弁護側はこれらの証人(国井弘樹検事や白井智之検事)について「検察に都合のいい『身内』に過ぎない」と信用性に疑問を投げかける。
弁護側は初公判での証拠調べで、国井検事が同僚らに送ったメールを提出。供述調書に手を加えることが「よくある」と前置きしたうえで、「前田を糾弾できるほどキレイなことばかりしてきたのかと考えると分からなくなる」と言及していた国井検事の資質に揺さぶりをかけた。反対尋問を通じ、検事らの証言の信用性をどれだけ低下させられるかが弁護側のカギとなる。』

被告側のこの主張って、どう見てもブラックジョークです。
被告は「証人の検事は信用できない」と主張しているのでしょうが、われわれからは「検事は一般に信用できない」を立証しているようにしか見えません。結局、被告も検事時代の犯罪を裁かれているのですから、非難は自分に返ってくるだけではないですか。

押収資料改竄 元部下の検事が次々証言、攻防 きょうから証人尋問
産経新聞 9月15日(木)9時42分配信
『続いて26日の第3回公判では、同様に公判担当で、電話を終えた佐賀被告から「前田受刑者が故意の改竄を認めた」と伝えられたとされる塚部貴子検事(42)が証言。この日は大坪被告から報告を受けた小林敬(たかし)・元地検検事正(60)も証言台に立つ。
その後はロングランの証人出廷が続く。前田受刑者から改竄を直後に打ち明けられ、電話の際も同席していたとされる国井弘樹検事(36)の証人尋問は、第4~7回公判に実施。最後に、第8~10回公判で前田受刑者が出廷する。』

15日の公判での白井検事の証言は、もしうそデタラメでないとしたら、両被告が前田元検事の改ざんを知っていた可能性を有力に立証しているようです。両被告は無罪に自信を持っているようですが、どのようにして白井証言を突き崩すつもりでしょうか。
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鉢呂大臣発言事件

2011-09-14 21:54:41 | 歴史・社会
鉢呂経産大臣は、放射能つけちゃうぞ発言が元で辞任に追い込まれました。
最初に報道に接したときには、「これはとても持たない」と感じましたが、その通りになりました。
一方で、今になって、「鉢呂大臣はマスコミにはめられたのではないか」という疑惑がわき起こっています。

高橋洋一氏の『あえて「失言辞任」に異論を唱える。なぜ新聞、テレビは自分たちが知っているはずの「鉢呂発言」の事実を報じないのか』で紹介されているように、新聞毎に鉢呂大臣の発言が異なっています。
「放射能をうつしてやる」(産経新聞 9月9日 23時51分)
「放射能をうつしてやる」(共同通信 9月10日 00時07分)
「放射能をつけちゃうぞ」(朝日新聞 9月10日 01時30分)
「放射能をつけたぞ」(毎日新聞 9月10日 02時59分)
「ほら、放射能」(読売新聞 9月10日 03時03分)
「放射能をつけてやろうか」(日経新聞 9月10日 13時34分)
「放射能を分けてやるよ」(FNN 9月10日 15時05分)
発言の現場は記者たちによる囲み取材です。記者自身が直接に発言を聞いているのに、何で報道がこんなに異なるのか。さらに鉢呂氏自身は発言を「記憶にない」と言っています。

この問題について、長谷川幸洋氏がおそらくはじめて、鉢呂議員本人に単独インタビューしました。
長谷川幸洋「ニュースの深層」9月14日『当事者が初めて語った「放射能失言」の裏側!鉢呂経産大臣は原発村を揺るがす~「原発エネルギー政策見直し人事」の発表寸前だった
問題となった8日夜の記者懇談について、
「あの夜、視察から赤坂の議員宿舎に戻ってくると、記者さんが5,6人待っていた。みんな経済部の記者さんだと思うが、私はそれまで経済部と付き合いがなかったので、顔見知りはだれもいなかった。後ろのほうに政治部の記者さんが2人いたと思う。こちらは知っている」
フジテレビの記者(女性)は鉢呂議員が記者の顔と名前を知っているのですが、その場にはいなかったとの認識です。

今回、放射能発言を最初に報道したのはフジテレビです。そのフジテレビが、問題発言の現場に居合わせていないのです。伝聞事実を第一報として報道したわけですが、普通はよっぽど自信がない限り、このような報道はしないと言います。

エネルギー政策について、経産省の『総合資源エネルギー調査会』で検討する段取りとなっていました。この調査会は法律に基づく会議です。この調査会の委員は鉢呂氏が着任する前に内定しており、全部で15人のうち3人が原発反対派で残り12人が賛成派でした。鉢呂氏は、せめて賛成派と批判派が半数ずつでないと、国民の理解は得られないと思ったことから、あと9人から10人は反対派を加えて、反対派を合計12、3人にするつもりでした。
役所は『分かりました』という返事であり、鉢呂氏が出した委員候補リストを基に人選を終えて、後は記者発表するばかりのところだったというのです。

『以上の点を踏まえたうえで、フジの第一報に戻ろう。
もし鉢呂の話が真実だとしたら、フジはなぜ自分が直接取材していないのに、伝聞情報として「放射能を分けてやる」などという話を報じられたのか。』
『経産省は鉢呂が原発エネルギー政策を中立的な立場から見直す考えでいることを承知していた。具体的に調査会の人選もやり直して、発表寸前だった。そういう大臣が失言で失脚するなら当然、歓迎しただろう。』

現段階(14日22時)に長谷川氏の記事を読み直したら、末尾に「追記」がありました。フジテレビ広報から抗議があり、「鉢呂氏との懇談にフジテレビの記者は出席していた」ということです。そこで長谷川氏が鉢呂氏に追加取材したところ、女性記者はいなかった。顔を知らない男性記者もいなかったと思う、という返答だったそうです。

ps 9/15 11:00 長谷川幸洋氏の上記評論の「いいね!」カウント
昨日この記事をアップするときの「いいね!」カウントは4000に達していました。それもすごいと思ったのですが、15日11時段階で「いいね!」カウントは1万になっていました。この評論の評判は凄いことになっています。私は4000の段階で「いいね!」クリックしました。
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プライムニュース-陸前高田市長

2011-09-13 20:18:01 | 歴史・社会
津波で町全体が流されてしまった被災地。被災からとうとう半年が経過しました。しかし、ニュースで見ても、流された町の瓦礫は撤去されていますが、町そのものが再建される様子はまったく見受けられません。新聞によると、町に期限付きで再建禁止令が出ているのですが、その期限が延長されているというのです。一体何が起きているのでしょうか。
私は、「国が行うべきことが滞っており、それがために現地の復興が進まないのではないか」という懸念を抱いていました。しかしその実態がなかなかつかめません。

9月5日の「BSフジ プライムニュース」は、陸前高田市長 戸羽太氏、ワタミ株式会社 渡邉美樹氏、前総務大臣 片山善博氏がゲストとして出演し、まさに私が知りたいと思っていた内容について議論がされました。

例えば、陸前高田市において、町の中心部の復興計画を立てるに際し、どこを非居住の緑地とするか、どこを居住地とするか、という区割りを行うためには、何メートル高さの防潮堤が建設されるかが決まっている必要があります。防潮堤は自治体の予算だけでの建設は困難で、国の補助が必要です。従って、国が「何メートル高さの防潮堤建設に補助金を出します」と決めてくれない限り、市の復興青写真作成を開始できないのです。
また、震災前まで住宅地であった地域について、非居住の緑地としあるいは新産業地区とするためには、その地域の多数の地権者から土地を買い上げる必要がありますが、平時の法律でそんなことをやろうとしても途方もない時間がかかってしまいます。ここは特別法を立法して迅速に対応しなければ不可能です。どんな特別法ができるかわからない限り、やはり青写真は作成できません。法律を作るのは国会の仕事です。

ところが、国の基本的スタンスは「現地の自治体から復興計画を出させ、それから法律を作っていく」ということで、順序が逆です。これでは自治体としては復興計画を作ることができないのです。

片山前総務大臣によると、第三次補正予算を審議する政府部内においては、「増税の枠組みができないかぎり復興予算を実現できない」という考え方が多数だったようです。片山氏は「復興は待ったなしだから、増税の枠組みが決まる前でも予算を成立させよう」と主張しましたが、少数意見であって取り上げられることはなかったといいます。

やはり、私が推定していたとおり、被災地で半年経っても復興建設が始まらないのは、国に問題があったのですね。
霞が関は、現行法の枠内でしか行動しません。今回のような大災害に迅速に対応するためには、必要とされる法律を早急に整備し、それによって霞が関を動かすことが必須です。そしてそれができるのが政府であり国会議員です。やはり管内閣はその点で十分に機能できなかったのでしょうね。

さて、野田内閣はどうでしょうか。
プライムニュースを見た直後のテレビで、安住財務大臣が報道ステーションに出ていました。「現地自治体から復興計画を出してもらって、それに対して予算をつける」という主旨の発言をしていました。まさにプライムニュースで「それじゃだめだよ」とクレームが付いた姿勢そのものですね。やはり野田内閣にも期待することはできないのでしょうか。

なお、9月5日のプライムニュースについてはネットで見ることもできます(前編後編)。ただし、2時間の番組を前後編合わせて30分に編集していますから、残念ながら番組を再現したことにはなりません。

今回、ネットで再度見ながらメモした内容を以下に残しておきます。

戸羽氏:管内閣時代は(復興が)ストップしていた。政局の具にされてしまった。なさけない。
渡邉氏:復興のためには2つ必要→法律の特区、前提を与えて予算を与える。
 これを与えないと市はなにもできない。
片山氏:増税プランを作らなければ予算を作らないという考えが政府の多数意見だった。片山氏は4月の段階でも予算を決めましょうと主張したが、勝てなかった。
渡邉氏:被災地には、「もう1回商売したい」という人がいる。陸前高田市で100近い商店が出店してイベントを行った。第2次補正予算で「土地さえ見つければプレハブの仮設店舗を建ててあげる」というのがあるので、今土地を見つけている。
渡邉氏:企業にできることは被災地で雇用を生み出すこと。ワタミが進出しようとしたら、中小企業整備機構は「大企業だからだめ」と(補助金適用を)拒否した。ワタミもボランティアではできない。
戸羽氏:雇用は県・国・市で生み出すことはできない。民間企業にお願いしなければいけない。これから特区ということで税金など面倒見ることが必要。早く特区を実現してほしい。ただし、特区実現以前から始めている人が割を食うような制度では、特区できるまでだれも進出しない。
片山氏:自治体レベルで復興の青写真を描くに際して「こういう支援がある、土地の買い上げもこうする」という方策を国で決めた上で青写真を自由に作ってくれ、という方法がある。別の考え方では、まず青写真を地元で作ってもらってから予算化しよう、というもの。政府内は後者が強く、前者はいたって少数派。その中で市は板挟みとなる。
戸羽氏:「陸前高田市 復興プラン」地図
 「基礎自治体でプランを作りなさい」ということで内々には作っているが、実現可能性が見えないので市民には公表していない。半年かけてプランを作って出しても、政府にバッテンを出されたら(国の予算をつけないと判断されたら)振り出しに戻る。国から担当者が陸前高田市に来ていただいて議論した方が先へ進む。何メートル高さの防潮堤で国から予算をもらえるかが決まらなければ、市街の復興プランを作ることができない。
戸羽氏:被災地には商店主が多い。自宅も商店も流されてしまった。そのような事業主にお金を貸してくれるところはない。
渡邉氏:種々のファンドに対して「被災地への支援とは商売を応援することだ」と声をかけている。
戸羽氏:国のファンドで支援してもらえることはありがたい。ただし、手続が面倒だと被災者には困難がある。
渡邉氏:国の対応として一番良いのは信用保証だと思う。
片山氏:鳥取県知事時代、被災した自宅については300万円の支援を決めた。それが今では国の支援として成立している。問題は事業主だ。ただし、損をした人だけが支援を受けるのでは、無借金で事業をしていた人が支援を受けられないこととなり、不公平になる、という問題がある。

片山善博氏は、管政権の総務大臣としては常に閣内の少数派で意見が採用されなかったようです。むしろ閣外に去ったこれから、マスコミで発言することによって政府を動かすことができるかもしれません。
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