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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

歴史刻む三笘のゴール

2025-02-22 11:15:51 | サッカー
2月14日にプライトンの三笘薫が決めたシュート、見事でした。こんなプレイができるサッカー選手、そうそう誕生するとは思えないしまして日本人がなし遂げるとは。私も動画を何度でも見直してしまいます。下記に動画を示します。
三笘の神トラップ・神タッチ・神シュート(動画)

日経新聞にも下記の記事が掲載されました。
歴史刻む三笘のゴール 
2025年2月21日 日経新聞アナザービュー 武智幸徳
『2月14日のイングランド・プレミアリーグのチェルシー戦でサッカー日本代表の三笘薫(ブライトン)が決めたゴールは、まごうことなき芸術品だった。映像を何度見ても飽きることがない。
GKからのロングパスを背走しながら追い、頭越しに落ちてくるボールを小さく跳躍しながら優しく受け止めた。重力や質量を感じさせない人球一体感で度肝を抜いた刹那、小さく、大きくボールを1回ずつつついてDFを振り切り、フィニッシュに持ち込んだ。
卓越した選手でも生涯に一度あるかないかの会心作。・・・
三笘が見せた繊細なタッチをデニス・ベルカンプになぞらえる意見があるのも頷ける。このオランダ代表のレジェンドが1998年ワールドカップフランス大会のアルゼンチン戦で奪ったゴールも「完璧」で、W杯のたびに紹介される。三笘のゴールもプレミアの歴史に深く刻まれ、事あるごとに引用されるとしたら本当にすごいことだ。
・・・』

オランダのベルカンプが見せたフランスW杯での見事なトラップとシュートについては、2022年に私も記事にしたことがあります。日本代表の浅野がW杯ドイツ戦で見せたトラップとシュートにからめてです。
浅野の超絶トラップ! 2022-11-24
日本対ドイツ戦の日本の2点目です。板倉からロングパスを受けた浅野がボールをトラップし、ドイツディフェンスとキーパーをかわしてゴールに突き刺しました。
私は「浅野の一世一代のトラップだった」とつぶやいていました。
この浅野の見事なプレイから、私は「ベルカンプ」を思い出しました。ベルカンプの絶妙トラップからのゴールを見た記憶がある・・・。そう、フランスW杯でのオランダ対アルゼンチン戦でのオランダ・ベルカンプの見事なトラップとシュートです。

天才FWベルカンプ、誕生日に超絶トラップの伝説ゴール再脚光 「美しい」「最高の実況」
2019.05.11
『公開された映像は、98年フランスW杯準々決勝アルゼンチン戦で生まれた一撃だ。1-1と拮抗した展開で迎えた後半44分、DFフランク・デ・ブールが自陣から対角線上にロングボールを供給。これに反応したのがベルカンプだ。
相手ペナルティーエリアに走り込んだベルカンプは落下地点に右足を伸ばすと、足の甲に吸い付くような超絶トラップを披露。直後に相手DFロベルト・アジャラがボール奪取を狙ったなか、地面にボールが付くと同時に2タッチ目で完璧にボールを制御してアジャラをかわすと、右足アウトサイドで決勝ゴールを決めた。』
上記のサイトで、そのベルカンプのプレイを動画で見ることができます。今回再見したら、三笘の技術レベルとほど同等の技術を発揮したプレイでした。
このとき、ベルカンプはピッチに大の字になって驚喜し、チームメートがベルカンプに折り重なりました。三笘の驚喜はそれに比べるとおとなしいですね。ピッチに大の字になってチームメートが折り重なるパフォーマンスを見たかったです。

いずれにしろ、ベルカンプのあのプレイが今に至るまで伝説ゴールとして語り伝えられているのであれば、今回の三笘のプレイも同じように語り伝えられるべきものです。
同じ日本人として誇りに思います。
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水戸城訪問

2025-02-16 18:29:29 | 趣味・読書
2月15日、水戸城を訪問しました。

⑧二の丸角櫓

水戸城は、下の案内図にあるように、水戸駅の北側に位置し、広大な敷地を有しています。西から、⑱三の丸、⑰二の丸、⑯本丸と並び、⑯本丸の東には下の丸もあります。
⑰二の丸、⑯本丸は、それぞれ全周を高い土塁とその底の空堀で囲まれています。石垣はありません。
土造りの平山城としては国内最大級の規模です。

しかし、⑱三の丸は③弘道館と、その西の県庁庁舎、警察署、図書館、三の丸小学校などが占め、城跡の景色はありません。⑰二の丸についても、その北側は第二中学校、南側は西に筑波大学附属小学校・幼稚園、東に水戸第三高校が位置し、⑯本丸には水戸第一高校が位置しており、城跡の痕跡は随所に点在し、全体としての城跡を俯瞰することができません。水戸市民にとって、水戸城はさほど大事な存在ではないような印象を受けました。

案内図

われわれは、①地点で昼食を済まし(後述)、⑱三の丸に向かいました。まずは、②の地点で三の丸小学校の冠木門が出迎えてくれます。

②水戸市立三の丸小学校 冠木門
②冠木門から右折、左折して、③弘道館に向かいます。

旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進し、1857年に開設されました。弘道館では藩士とその師弟が学び、学問と武芸の両方が重視されました。正門、正庁および至善堂は、戦火を免れ、1964年に国の重要文化財に指定されました。

③弘道館 正門
正門(上写真)を横に見て、通用門(下写真)から中に入ります。
正門は、藩主が来館する時など正式の場合のみ開門されました。国の重要文化財に指定されています。

③弘道館 通用門
弘道館の入場券売り場に、100名城のスタンプが置いてあり、まずはスタンプをゲットしました。


③弘道館 正庁・至善堂

諸役会所は来館者控えの間です。「尊攘」の掛け軸がかかっています。徳川斉昭の命により、1856年に書かれました。

③弘道館 正庁諸役会所


③弘道館 正庁 廊下

③弘道館の見学を終わり、東にまっすぐ進むと、まずは⑱三の丸と⑰二の丸の間の⑥堀をまたぐ④大手橋を渡り、⑤大手門に至ります。

④大手橋(復元)と⑤大手門(復元)

水戸城の特徴は、この深い空堀とその両側にそそり立つ土塁が特徴になっています。石垣は全くもって見ることができません。下写真は、⑱三の丸と⑰二の丸の間に造られた土塁と堀です。左側が⑰二の丸です。

⑥土塁と堀

水戸光圀の命により、水戸藩が「大日本史」を編纂するために置いた局が彰考館です。彰考館そのものは残っておらず、碑が建っているだけのようです。

⑦旧水戸彰考館跡

⑰二の丸は、⑤大手門と⑨杉山門の間の道路を中央通路として、その北側は第二中学校、南側は茨城大附属小学校・幼稚園と水戸第三高校の敷地が占めており、城を訪れた観光客は中央通路を通行するしかありません。⑤大手門から⑦旧水戸彰考館跡を過ぎると、⑲地点で右へ入る横道があります。「二の丸角櫓方面」とあります。狭い横道の両側は高い塀で囲まれ、横道の外側は見ることができません。この⑧二の丸角櫓については、最後にまとめて記載します。

中央の道路を⑨まで進むと杉山門です。⑫那珂川方面から二の丸に上がる坂が杉山坂で、杉山坂の頂点にあるのが杉山門です。

⑨杉山門(再生整備)

⑰二の丸と⑯本丸の間は、深い堀とその両側にそそり立つ⑩土塁が構築されています。⑰二の丸と⑯本丸の間は橋で連絡されています。その橋のたもとから⑩土塁と堀を見たのが下写真です。写真の左が⑯本丸、右が⑰二の丸です。

⑩土塁と堀

橋を渡った⑯本丸側に⑪薬医門が建っています。昭和20年の水戸大空襲の際、この門は郊外に移設されていたので消失を免れました。建築様式から佐竹氏が水戸城を整備した16世紀末に建てられたものとされています。現在は水戸一高の正門になっています。

⑪薬医門(現存)

⑰二の丸の北のはしに、⑳見晴台があります。ここからは、水戸城の北を流れる⑫那珂川を望むことができます。

⑫那珂川 ⑳見晴台から

⑬坂下門は、二の丸の南側虎口にあたる坂の下に設けられていたものが、坂の途中に移築されたようです。

⑬柵町坂下門(再生整備)

⑰二の丸南西の隅には、⑧二の丸角櫓が復元されています。⑰二の丸の城内から⑧二の丸角櫓へ行くには、⑰二の丸の中央道路から⑲地点で横道に入り、両側が塀で囲まれた通路を延々と歩いてたどり着く必要があります。

⑧二の丸角櫓(復元)
上の写真が⑧二の丸角櫓を城内側から見た写真です。⑧二の丸角櫓から東方向の土塁の上には⑭土塀が復元され、北方向の土塁の上には⑮土塀が復元されています。東側の⑭土塀を城内側から見たのが下写真です。北側の⑮土塀は城内側から見ることができません。

二の丸角櫓東の⑭土塀(復元)

⑧二の丸角櫓は、城外から仰ぎ見た方が絵になっているはずです。そこで、⑬地点を経由して水戸駅まで向かう帰り道、⑧二の丸角櫓を城外から観望できる地点を探しました。
自動車道路沿いに、⑧二の丸角櫓の南側を仰ぎ見る地点を見つけました(下写真)。⑧二の丸角櫓から東側(下写真の右側)には⑭土塀が伸びているのですが、残念ながら地上からは見ることができませんでした。

⑧二の丸角櫓(復元)

水戸駅近くの歩道橋の上から、⑧二の丸角櫓の東側を観察できる場所を見つけました。

⑧二の丸角櫓(復元)
下写真のように、⑧二の丸角櫓と北側の⑮土塀(復元)および⑥土塁を見ることができるのですが、残念なことに道路脇の三階建ての家々が景観の邪魔をしています。この家々が無ければ、水戸城⑰二の丸の立派な⑥土塁と、その土塁の上に建つ⑧二の丸角櫓と、土塁の上に設けられて北方向に延々と続く⑮土塀の景色を楽しむことができたでしょう。

⑧二の丸角櫓と北側の⑮土塀(復元)および⑥土塁

以上で、水戸城の訪問を終了しました。

ところで、水戸といえば偕楽園です。偕楽園は水戸駅から西の方角に位置し、通常ですと路線バスで移動することになります。
今回、特急で水戸を目指したところ、車内放送で偕楽園駅に停車することが告げられました。
JRに偕楽園駅が存在するのは確かなのですが、普段は電車が停車しません。そのため、移動は路線バスになるわけです。一方、特定の期間、それも下りのみ、偕楽園駅に電車が停車する、との話は聞いていました。まさにわれわれが乗った特急がそれに該当していたのです。梅の季節に入っているからでしょう。
当初の予定では、水戸城を訪問した後に偕楽園に向かうことにしていましたが、せっかくですので偕楽園駅で下車し、偕楽園を先に訪問することにしました。
偕楽園は梅で有名ですが、われわれが訪問したときは、大部分の木々はまだ開花にも至っていませんでした(下写真)。

偕楽園

何本か、開花している梅もありました。下写真がそれです。



こうして偕楽園を一巡りし、水戸への移動については、JRを利用しました。

水戸駅に到着するとちょうどお昼です。まずは駅の観光案内所を訪ねました。水戸城の情報と、この近くのおいしい店の情報をいただきました。てんまさを紹介されました。水戸駅すぐ近くの①地点です。予約なしでしたがすぐに席に着くことができました。私はねばり丼を注文しました(下写真)。

①てんまさ ねばり丼

《水戸城の来歴》
水戸城は、鎌倉時代に馬場氏が築いた館を佐竹義宣が大改修し、さらに徳川頼房(家康の十一男)が入城して御三家ふさわしい城に改修した城です。
台地の最高所に本丸を築き、二の丸、三の丸を連郭式に配しており、石垣を用いず、土塁と堀のみで守りを固めています。

水戸城には天守閣がありませんでした。⑭地点付近に三階櫓が建てられ、これが天守閣の役割を果たしたといいます。その三階櫓、下写真にあるように、天守閣の代わりというにはちょっと寂しい造りです。なぜ寂しいかというと、破風が設けられていないせいです(下写真)。
水戸城三階櫓
徳川御三家の城は、尾張名古屋の名古屋城、紀州の和歌山城のいずれも、立派な天守閣を有していました。同じ御三家なのに、水戸城の天守閣相当がなぜ寂しいことになったのか、不思議です。

明治以降、まず明治時代に、二の丸に茨城尋常師範学校(現茨城大付属小)が移転、本丸と下の丸に茨城中学校(現水戸一高)が移転しました。そして戦後、二の丸に第二中学校と水戸三高が移転してきています。本丸はいいとして、せめて二の丸について、3つの学校を移転してくるのではなく、「水戸城公園」として整備していたら、水戸城の現在はずいぶん違っていたのではないか、と残念です。二の丸にあり、天守閣の代わりをしていた御三階櫓もとっくに再建されていたことでしょう。
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和歌山城訪問

2025-02-09 17:43:29 | 趣味・読書
前報の大阪城に続き、和歌山城訪問記です。
大阪城訪問の後、電車で和歌山市に移動し、和歌山駅前のホテルで一泊しました。
天気予報では、この土日の2日間は雨の予報でした。大阪城も和歌山城も雨の中の訪問を覚悟していました。しかし実際は、土曜は大阪城の訪問と和歌山市への移動が完了してから雨が降り出し、日曜は朝起きたときには雨が止んでいました。なんというラッキーでしょう。
和歌山駅前のバス乗り場の2番、3番乗り場からのバスが、和歌山城を経由します。バスの和歌山城前停留所は、城の北東端に位置しています。

③天守閣 ⑧大天守と右に⑪小天守 ⑫本丸跡から


案内図

城の北東端で、お堀を①一の橋で渡り、②大手門に至ります。

①一の橋と②大手門

①一の橋から西の⑰北堀を見たのが下写真です。

①一の橋から⑰北堀

②大手門を城内側から見たのが下写真です。高麗門形式ですね。門の向こうに①一の橋が見えます。

②大手門

大手口の枡形は、北端の②大手門から南端(⑯)まで細長い長方形です。

②大手門からの枡形(⑯)(A:花崗斑岩の切り込み接ぎ)

⑯の位置から西に進みます。⑰裏坂登り口から南方向に③天守閣を見ることができます(下写真)。⑰裏坂登り口から③天守閣までは大きな標高差であることがわかります。

③天守閣 ⑰裏坂登り口から

⑤御橋廊下付近から③天守閣を見上げると、下写真のように、③天守閣が単純構造ではないことがわかります。③天守閣は、⑧大天守、⑪小天守、⑩乾櫓、⑨二の門櫓を四隅に備えた回廊形式なのです。⑤御橋廊下付近から見た下写真では、左に⑧大天守と⑪小天守、右に⑩乾櫓を確認できます。

③天守閣 左に⑧大天守と⑪小天守、右に⑩乾櫓 ⑤御橋廊下付近から

④二の丸跡とその西の西の丸跡の間の西堀に、⑤御橋廊下がかかっています。

⑤御橋廊下 左は西の丸跡、右は二の丸跡
⑤御橋廊下は、藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋です。藩主が移動するのを気づかれないために、壁付になっていました。
二の丸から御橋廊下を渡ると、そこは西の丸で、⑥紅葉渓公園があります。

⑥紅葉渓公園

⑱裏坂登り口から裏坂の石段を登り、③天守閣に至ります。
③天守閣は、案内図にあるように、⑧大天守、⑪小天守、⑩乾櫓、⑨二の門櫓を四隅に備え、それらを多門櫓によってつなげた連立式天守となっています。1935年に国宝に指定されましたが戦火で焼失し、1958年に再建されました。

⑦天守二の門とその左に二の門櫓(B:結晶片岩の野面済みの石垣)
⑦天守二の門から入ると、中庭を経由して、⑧大天守に至ります。
⑧大天守の展望台から西の天守閣の全体を見たのが下の写真です。左は⑦天守二の門と⑨二の門櫓、右は⑩乾櫓で、それぞれが多門櫓で結ばれています。

⑧大天守から 左は⑦天守二の門と⑨二の門櫓 右は⑩乾櫓
上の写真、遠方に紀ノ川とその先の海を見ることができます。また、写真の右上の端に工場が見えます。製鉄会社出身の私には、これが製鉄所であることがわかります。右端の2つの高い構築物が2基の高炉です。高炉の左にある茶色っぽく高くて横広の建物は転炉工場です。遠方の煙突は焼結工場の煙突でしょう。日本製鉄(旧住金)の和歌山製鉄所であることがわかります。

⑧大天守展望台から北方を見ると、すぐ近くに⑪小天守の屋根、その先に⑤御橋廊下を見ることができます。

⑧大天守から ⑪小天守と⑤御橋廊下


⑧大天守から ⑫本丸跡
⑧大天守の東方には⑫本丸跡が見えます(上写真)。この⑫本丸跡から③天守閣を見たのが下写真です。⑧大天守とその右に⑪小天守です。

③天守閣 ⑧大天守と右に⑪小天守 ⑫本丸跡から

⑧大天守への入城は、天守閣回廊の中庭を経由して入りました。大天守からの退出は、天守閣回廊の内部を回って退出します。

③天守閣から麓への下りは表坂経由としました。⑬高石垣の下を経て、⑭岡口門に至ります。

⑬高石垣

⑭岡口門は、門の上に白壁の櫓を載せている江戸時代初期に建てられた門で、国の重要文化財に指定されています。

⑭岡口門

⑭岡口門を出て振り返ると、⑭岡口門の後方に③天守閣を見ることができます。

⑭岡口門と③天守閣

⑭岡口門からは、⑮東堀の東側に沿って北に向かいます。途中、③天守閣を見上げることができます(下写真)。

③天守閣 東 ⑮東堀の外から

こうして、和歌山城訪問を終了しました。バスで和歌山駅に戻り、和歌山駅から新大阪まではJR特急、そして新幹線に乗り継ぎ、東京に戻りました。

《和歌山城来歴》
以上紹介したように、和歌山城は立派なお城でした。それというのも、徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城であったことが大きいでしょう。
1585年、羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じて築城させたのが始まりです。築城を担当した家臣の1人がのちに築城の名人といわれた藤堂高虎です。
関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が入城すると、黒板張りの連立式天守を建てました。
1619年、徳川家康の10男頼宣が入城し、55万5千石の御三家の1つの紀州徳川家が成立、ほぼ現在の和歌山城の姿となりました。
城のシンボルである連立式天守は、1798年に黒板張りから白壁に外観が一新されますが、1846年に落雷で焼失。再建された2代目天守も1945年に空襲で再び消失。現在の天守は1958年に鉄筋コンクリート造りで再建された3代目です。

1585年築城以降、石垣は、城主が変わるごとに石材や工法が変遷しています。「結晶片岩による野面済み」の天守台石垣が最も古く、「砂岩の打ち込み接ぎ」、「花崗斑岩の切り込み接ぎ」を見ることができます。
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大阪城訪問

2025-02-08 13:47:18 | 趣味・読書
2月1-2日にかけて、一泊二日で大阪城と和歌山城を訪問しました。まずは大阪城訪問記です。

⑫天守閣 南から


案内図

JR電車を森ノ宮駅で降ります。ここは大阪城の南東の端です。東外堀の南端で長い階段を上ると、玉造口に至る石垣の上端です(下写真)。

①玉造口手前石垣

ここからは、南外堀を隔てて②一番櫓が見えます(下写真)。

②一番櫓
元々、二ノ丸(現在の豊国神社付近)南側の石垣には、一番櫓から七番櫓までありましたが、戊辰戦争(明治維新)と1945年(昭和20年)の空襲により大部分が焼失しています。残ったのが、上の一番櫓と下の六番櫓です。

南外堀沿いに南に進み、遥か遠くの⑮六番櫓も確認しました(下写真)。

⑮六番櫓

さて、玉造口から城内の二の丸地区に至ります。ここ(南外堀の北端)から南外堀方向を見たのが下写真です。写真の左が南外堀の北端の⑤玉造口石垣で、てっぺんには狭間が形成されています。写真の右は南外堀の東端の石垣です。

⑤玉造口石垣

①玉造口から⑦桜門に向かいます。途中、⑥内堀の横を通ります(下写真)。写真の左が本丸地区、右が二の丸地区です。

⑥内堀 ⑤玉造口から

南に見える鳥居は⑧豊国神社(ほうこくじんじゃ)です。同じ名前(漢字)の神社は全国にたくさんあるようです。この豊国神社は1879年創建ですね。歴史上に有名なのは京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)でしょうか。
ちょっとだけ中に入ると、豊臣秀吉の銅像が建っています(下写真)。

⑧豊国神社

そして、⑦桜門(下写真)を抜けると本丸地区です。

⑦桜門


⑦桜門 枡形の中から

桜門枡形は、徳川幕府時代に備前岡山藩の担当で築かれ、石材は花崗岩が用いられています。正面の石は蛸石(たこいし)と呼ばれる城内第1位の巨石で、108トンと推定されています。

桜門枡形の巨石

⑫天守閣に向かう前に、西進して⑪大手門に向かいました。⑪大手門の前に、⑨多門櫓を抜けます。⑨多門櫓と⑪大手門とで大手口の枡形が形成されています。

⑨多門櫓

⑪大手門を抜けたところが下写真です。右端が⑪大手門、その左に見えるのが⑪多門櫓の屋根、そして左端が⑩千貫櫓です。

⑪大手門 左は⑩千貫櫓と⑨多門櫓

⑩千貫櫓は、下写真で⑩千貫櫓の右側に位置する石垣を敵がよじ登ろうとしたとき、その敵を射すくめるための施設です。千貫櫓の名称は、かつて大阪の地にあった本願寺を織田信長軍が攻めた時、本願寺の中の 一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「銭千貫文出しても取りたい櫓だ」と兵士たちの間でささやかれたことに由来すると伝えられているそうです。

中央に⑩千貫櫓 右端は⑨多門櫓

そして⑦桜門前に戻り、⑫天守閣に向かいます。チケット売り場には待ち行列ができていました。30分待ちの標識があり、実際にその程度の待ち時間だったと思います。

⑫天守閣 南から
大阪城天守閣は、豊臣時代・徳川時代に続く3代目のもので、昭和6年(1931)市民の寄付金によって復興されました。

⑫天守閣最上階の展望台に至りました。下の写真は⑫天守閣から南方向を見ており、写真中央の鯱は、上写真の正面(天守閣の南側)に上下2段に配置された破風のうちの上の破風てっぺんに設けられた鯱ですね。下写真正面は本丸の広場で、左のビルはミライザ大阪城、右前方の門は⑦桜門です。さらにその向こうに⑧豊国神社が見えます。

⑫天守閣から南方向

⑫天守閣を降り、北に向かいます。本丸の北端地域は山里丸と呼ばれています。この近くに、秀頼・淀君ら自刃の地碑があるようですが、今回はパスしました。⑬山里丸から北に向ける枡形を通過します。

⑬山里丸

枡形の先は⑭極楽橋です。⑭極楽橋を渡って振り返ると⑫天守閣です(下写真)。

⑭極楽橋と⑫天守閣

ここから西へ向かいます。内堀を隔てて、⑫天守閣を北から見たのが下写真です。

⑫天守閣 北から

京極口で北外堀と西外堀の境界の土橋を渡ります。そこから西外堀沿いにさらに西に歩きます。⑰乾櫓を写真に収めるのが目的です。下写真は、西外堀を隔てて見た乾櫓(いぬいやぐら)です。大阪城の乾(戌亥)(北西)方向に位置しているということで、実際には西の丸庭園の西の端に位置しています。

⑰乾櫓
乾櫓の工事責任者は茶人でも有名は小堀遠州(こぼりえんしゅう)だそうです。徳川幕府が大坂城の再築を始めた元和6年(1620)に創建された、城内最古の建造物のひとつです。

さて、目的とした⑰乾櫓の写真も撮れたので、元来た道を戻ります。京極口から、極楽橋近くを経由し、⑯青屋門に至ります。青屋口は二の丸の北に位置する出入り口で、⑯青屋門はその枡形の内側に建ちます。

⑯青屋門

こうして、大阪城の探索を終了しました。
以下次号
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