弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

童謡「里の秋」

2007-12-31 21:38:36 | 歴史・社会
童謡「里の秋」
1番
 しずかなしずかな里の秋
 お背戸に木の実の落ちる夜は
 ああ母さんとただ二人
 栗の実煮てますいろりばた
2番
 明るい明るい星の夜
 鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
 ああ父さんのあの笑顔
 栗の実食べては想いだす

この歌については、「第二次大戦中の出征兵士の留守家族を描いた歌だ」という話を聞いたことがあり、ずっと気になっていました。
そう言われて聞くと、しみじみとした銃後の家族の生活が浮かび上がってきます。

最近、熟年弁理士さんのブログでこの歌が取り上げられ、歌が生まれた由来が説明されていました。やはりそうだったのか。そこで早速、ネットで調べてみました。

里の秋さよならKumiko Report 10/2/2004 「里の秋」考など、いろいろな情報を入手することができました。

作詞者は斎藤信夫さん、昭和16年当時小学校の先生をしながら詩を作り、童謡誌に投稿していました。作曲者は海沼實さん、東京で「音羽ゆりかご会」という合唱団を立ち上げ、運営に当たっていました。

そして「里の秋」には3番があります。
3番
 さよならさよなら椰子の島
 お船に揺られて帰られる
 ああ父さんよご無事でと
 今夜も母さんと祈ります

この3番は、南方に出征した父親が、復員船で無事に帰還することを願う母と子の気持ちを歌ったものだったのです。昭和20年12月にこの歌は世に出ました。


ところで、童謡「里の秋」は、実は二度生まれているのです。まずは、作詞者の斎藤信夫さんが最初に歌詞を作った昭和16年12月のできごとです。

昭和16年12月、日本は真珠湾攻撃を敢行し、国民はラジオニュースで戦争の勃発と初戦の勝利を知ります。
「軍隊行進曲の勇壮な調べにのって『帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』という臨時ニュースが電撃のように流れた日から、斉藤は『異常な興奮』に『身体全体を』を包まれ『その時の思いを一気に作詞』したのです」(さよならより)

このとき作られた詩は1番から4番まで、そして1番と2番は私たちが知っている「里の秋」と同じですが、3番と4番は全く異なった詩でした。

3番
 きれいなきれいな椰子の島
 しっかり護ってくださいと
 ああ父さんのご武運を
 今夜もひとりで祈ります
4番
 大きく大きくなったなら
 兵隊さんだようれしいな
 ねえ母さんよ僕だって
 かならずお国を護ります

作詞した斎藤さんは、この詩を海沼さんに送りましたが、海沼さんからは何の返事もありませんでした。


しかし戦争は日本の敗北に終わり、昭和20年8月以降、それまでの日本の政治・軍事・教育のすべてに「軍国主義」の烙印が押されます。斎藤さんは、戦争中子ども達に嘘を教えていたことになると悩み、教壇から去ってしまいます。
そんな斎藤さんのところに、20年12月になって突然海沼さんから連絡が入ります。
約1週間後に神奈川県の浦賀港に南方からの復員兵を乗せた船がやってくる。NHKでは復員してくる兵隊さん達を歓迎する番組を放送することになり、そのときに流す歌を作ることを海沼さんのもとへ依頼したのです。
そして海沼さんの目に留まったのが斎藤さんの詩です。しかし3、4番はこのままでは使えない。そこで1、2番はそのまま使い、3、4番は捨てて新たに3番として復員兵を迎える内容の詞を書いてほしいと斎藤に頼んだのです。新しい3番は、放送当日の朝にできあがりました。

「昭和20年12月24日、「外地引揚同胞激励の午後」という番組で

ああ 父さんよ ご無事でと
今夜も 母さんと 祈ります

川田正子が歌い終えたとき、スタジオ内がしーんと静まりかえった。そしてスタッフの誰もが一瞬、心が浄化されるのを感じた。次の一瞬、我にかえるとデスクの電話という電話がけたたましく鳴りだした。さっき放送された歌についての問い合わせがNHKに殺到したのである。さらに翌日以降も問い合わせや感想の手紙が束になって押し寄せた。一つの歌にこれほどの反響があったのはNHKでも初めてのことであった。」(里の秋より)

今ではこの3番は歌われていないのでしょうね。私も知りませんでした。しかし、昭和16年、そして20年に、ごく普通の日本人がどのような気持ちで戦争に接していたかを垣間見ることができたように思います。
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金賢姫拘束の真相(3)

2007-12-28 19:52:35 | 歴史・社会
フジテレビ「金賢姫を捕らえた男たち~封印された3日間~」では、在UAE日本大使館員の矢原純一氏、バーレーンの日本大使館員の砂川昌順氏と塩原順氏の3人が主要な役割を果たします。

番組の紹介によると、在アラブ首長国連邦日本国大使館・治安警備担当書記官の矢原純一氏は、自衛隊でヘリコプターのパイロットを務め、機長や教官として飛行訓練や任務を実施してきた経歴を持つ叩き上げの自衛官でした。
また、当時、開設準備中だったバーレーンの日本大使館に勤務する二人は以下のとおりです。
石垣島出身の砂川昌順氏は、在外公館員募集の広告を見て試験を受け、現地採用されます。アフリカ・ガーナに配属されると、ほどなく正式職員として採用された砂川は、第二の赴任地としてバーレーン行きを命じられ、大使公邸の物件探し、電話回線や家具などの準備に追われていました。
一方、塩原順氏は、通信会社から3年間の期限付きでバーレーンに派遣されてきた男であり、ビザの発給など、在留日本人への行政サービスを一手に任されていました。

砂川氏については、ノンキャリヤ外交官が日本を救ったに紹介されています。
「砂川さんは私のよく知る人だからです。彼は私の父の元部下でした。
1984年、親父が西アフリカのガーナの日本大使館にいた時、外務省の外郭団体から派遣されて来たのが砂川さんでした。2年間の契約が切れると帰国し、新たな職を探さねばならない立場にありました。
優秀だった砂川さんを親父は可愛がり、時には厳しい指導をして外交官としての基本を教え込んだのだそうです。そして人事課に推薦状を書き、砂川さんは外務省職員として本採用されました。これはあまりないケースでした。正規職員となった彼はアクラ(ガーナ)からバーレーンに赴任します。そこで1986年の大韓機事件に遭遇することになります。」


3人とも、外交官としては異例の経歴の持ち主のように思われます。
普通にノンキャリアとして新規採用された外交官ではないし、矢原氏は防衛庁からの出向でもないようです。このような経歴だからこそ、外務省本省や上司の指示がなくても、あるいは上司の制止を振り切ってまでも、あのような活動が可能だったのでしょう。
矢原氏は自衛隊のパイロット出身だからこそ、大韓航空機の行方不明を「爆破の可能性が高い」と推理し、乗客名簿を精査する気になったのです。


事件終結後、3人の働きは顕彰されるどころか、闇に葬られたようです。そうとすると、それだからなおさら、功労があったノンキャリアの3人はキャリア官僚から嫉妬され、出世が妨げられたのではないかと危惧します。

ノンキャリヤ外交官が日本を救ったでは以下のように紹介されています。
「その後砂川氏は、日本人拉致問題を解決しようと単身でウィーンの北朝鮮大使館に飛び込むというスタンドプレーをやってしまったのです。キャリアでもなければ、私の親父の推薦状一枚で入省した砂川さんを庇う上司もいなかったようです。砂川さんは笑って、決して答えようとしませんが、キャリアたちの嫉妬などもあっただろうと私(星野さん)は想像します。
これが元で砂川さんは、外務省を辞めざるを得なくなってしまいました。」

外務省を辞めた後、砂川氏は何故か監視される身となり、住所を転々とします。監視されなくなったのは、北朝鮮が日本人拉致を認めたときでした。

矢原純一氏は、こちらの記事によると、「元在UAE日本大使館領事」とあり、大韓航空機事故当時在籍していた同じ大使館で領事まで出世したようですね。

ps 矢原さんのお名前を訂正いたしました。2008/4/26

ps2 その後の矢原さんのご発言を中心に、金賢姫拘束の真相(5)金賢姫拘束の真相(6)を記事にしました。議論は継続中です。 2008/8/10
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金賢姫拘束の真相(2)

2007-12-26 22:32:06 | 歴史・社会
フジテレビ「金賢姫を捕らえた男たち~封印された3日間~」について、12月16日に記事にしました。
番組では、金賢姫拘束に至る捜索劇で、UAEとバーレーンの日本大使館に勤務する3人のノンキャリア外交官が決定的な役割を果たしています。一方、前報にも紹介したように、世の中では「韓国官憲が金賢姫らを突き止めた」ことになっています。例えば大韓航空、空中爆発事件(キム・ヒョンヒ事件)については前回書きました。

そこで、ネットで調べられる範囲で調査してみました。

ノンキャリヤ外交官が日本を救ったという記事を見つけました。2007年12月11日・流山の星野さん発信です。
「砂川さんは・・・バーレーンに赴任します。そこで大韓機事件に遭遇することになります。
事件発生から丸1日以上が経過して、ようやく在アブダビの日本大使館から「大至急電」が飛び込んで来るという有り様でした。「親子連れの日本人らしき男女2人が最後の寄港地、アブダビで降機した模様。貴国に入国していないか、至急、確認願う」といった内容が、中東各国の日本大使館に配信されて来ました。
しかし、現地で様々な人脈を得ていた砂川さんは、事件発生直後から多くの情報を掴んでいました。当時の中東各国の状況、航空事情などから、「高飛びするならバーレーンに入国している可能性が高い」と直感。交際のあった空港職員、スチュワーデス、ホテルマンなどからの情報を元に、様々な困難を乗り越えて、ハチヤシンイチ、マユミが泊まっているホテルを突き止めたのです。」

7年以上も前に計画されていた『大韓航空機爆破事件』は以下のように記しています。
「このとき(事件発生直後)、韓国当局は、日本国旅券を所持する怪しい男女二人の存在をつかんでいた。
二人の身元確認電話が日韓両国当局からホテルに入り、在バーレーン韓国大使館副領事金正奇がホテルを訪れ二人を尋問。
12月1日8時頃迄に「蜂谷真由美」の旅券が偽造であることが判明。日本政府が現地の日本大使館員と地元警察官をホテルに差し向けたところ「蜂谷真一」名義の旅券も偽造と判明。.. 二人を連行しようとすると、二人は青酸カリのアンプルを口中で噛み砕き、金勝一は即死、金賢姫は重体で病院に搬送され、なんとか一命をとりとめた。」
この記事は、李鍾植著「朝鮮半島最後の陰謀」(幻冬舎)がネタ本になっているようで、こちらは古書で購入して上記のとおりの内容であること確認しました。


これらの情報から浮かんでくる状況として、どうも《在中東日本大使館ルート》と《韓国官憲ルート》がそれぞれ独立で、事件の核心に迫っていった事実があるように思います。
今回入手した各種情報のうち、相互に矛盾しない部分はいずれも真実とします。相互に矛盾する部分についてはフジテレビ番組内容を正としました。
バーレーン日本大使館の砂川氏らが金賢姫らと接触したいきさつは、日本政府からの指令ではなく彼らの独断であり、地元警察官と共にではなく空港入管当局と共にであり、ホテルで拘束ではなく空港で拘束とします。また、日本外務省は、バーレーン日本大使館に対して韓国ルートの存在を全く通知していないとします。

《在中東日本大使館ルート(日本外務省を含む)》
(1) 在UAE日本大使館員の矢原純一氏の機転により、アブダビで降りた乗客の中にSHINICHI, MAYUMIという日本人らしい名前があることを発見。直ちに、中東各地の日本大使館に、それら日本人が滞在していないか、照会する。
(2) バーレーンの日本大使館員の砂川昌順氏と塩原順氏は、空港で2人の入国カードを発見し、さらに滞在ホテルを探し出して電話での接触にまで成功する。日本外務省の調べでMAYUMI(蜂谷真由美)のパスポートが偽造であることがわかったが、大使館員には捜査権がないので手を出せない。大使館の参事官は、バーレーン警察の協力を得ることも許可しない。
(3) 金賢姫らがホテルをチェックアウトするとき、砂川氏もホテルに詰めており、ホテルの協力でパスポートのコピーまでは取ったが、そこで金賢姫らを見失う。
(4) 砂川氏らは空港に急ぐ。蜂谷らがバーレーン空港から出国しようとするそのとき、砂川氏は意を決して入管当局者に頼み、蜂谷らのパスポートを確保する。さらに事情聴取をしようとしたとき、蜂谷真一は服毒自殺して果てた。

《韓国官憲ルート(日本外務省を含む)》
(1) 韓国当局は、大韓航空機が消息を絶った段階から北朝鮮の関与を示唆していた。
(2) 翌30日午後、韓国政府は日本外務省に《アブダビで降りバーレーンに入国した「蜂谷真一」と「真由美」という日本人親子のパスポート照会》を依頼してきた。
(3) 更に、同日夜には在バーレーン韓国大使館の副領事金正奇がホテルに宿泊している蜂谷親子に接触し渡航目的などを確認した。

こうして、日本大使館ルートと韓国ルートはそれぞれ独立に、奇しくも同じ30日夜に蜂谷親子との接触に成功します。
そのあと、日本大使館ルートは独断で空港での出国阻止行動を取りました。それが事件解決の直接のきっかけになりました。一方、韓国官憲ルートは出国阻止を企画したのか否か、そこは不明のままです。少なくともバーレーン日本大使館の砂川氏らは、日本外務省を通じての韓国からの要請を受け取っていません。
日本外務省は、韓国ルートと日本大使館ルートの両方が事件の核心に迫っていることを知りながら、そのことを日本大使館に通告していません。このことが、日本大使館員3人のお手柄につながったわけですが、なぜ日本外務省は主導的に動かなかったのか、そこは不明のままです。

また、韓国当局は、ホテルで蜂谷親子に実際に面会までしていながら、バーレーンからの出国を阻止する行動を取っていません。二人を泳がせるつもりだったのでしょうか。

フジテレビ番組には砂川昌順著「極秘指令~金賢姫拘束の真相」という種本があるようです。アマゾンに購入手配をかけました。この本から何かわかったら、またアップします。


この事件でお手柄だった3人の日本大使館員は、そもそもどのような経歴の人たちだったのか。またその後どのような人生を歩んだのか、とても興味があります。
長くなったので別の機会に。
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弁理士試験科目免除

2007-12-24 09:03:28 | 弁理士
弁理士法改正により、平成20年度弁理士試験以降は、論文必須科目が合格した日から2年間、論文式試験(必須科目)が免除されることになりました。
ここで、必須科目の免除は、「特・実・意・商」の全科目がひとまとまりなのか、それとも特実、意、商のそれぞれが別の科目なのかが不明確でした。
もし全科目ひとまとまりだったら(①)、特実、商で合格点に達しても、意匠法試験が合格レベルに達していなかったら全体として不合格であり、翌年に全体を受験しなければなりません。
しかし、特実、意、商がそれぞれ別科目なら(②)、特実、商で合格点、意匠法のみ不合格点だった場合、翌年は意匠法のみを受験すればいいことになります。

11月に「弁理士法施行規則の一部を改正する省令案」が公表されました。この省令案を読んで、私は上記①ではなく、②であると読みました。11月1日に弁理士試験免除科目で紹介したとおりです。

12月21日に、平成20年度弁理士試験のご案内弁理士法施行規則の一部を改正する省令 (平成19年12月21日経済産業省令第76号)が同時に公表されました。省令の方は、11月に公表された省令案から変わっていないようです。
ところが、「弁理士試験のご案内」に掲載されたパンフレットを読むと、省令案から私が推測した結論とは逆の結論でした。上記①であることが明示されているのです。
パンフレット抜粋
「次のいずれかに該当する場合は、論文式試験(必須科目)が免除されます。 
■前年度の弁理士試験の筆記試験合格者(ただし、前年度の筆記試験免除者を除く)
 ※この免除制度の適用は、平成20年度弁理士試験を最後に廃止されます。
■特許庁において審判、審査の事務に5年以上従事した者
★論文式試験(必須科目)合格者(平成20年度合格者から適用)
平成20年度弁理士試験以降の論文式試験の合格発表の日から2年間、論文式試験(必須科目)が免除されます。
※論文式試験(必須科目)の合否は、「特許・実用新案」、「意匠」、「商標」3科目一括で判定します。」

そういうことですか。
弁理士法と弁理士法施行規則の構造は以下のようになっています。

弁理士法(平成20年4月施行)
第十条2項  論文式による試験は、短答式による試験に合格した者につき、次に掲げる科目について行う。
一号  工業所有権に関する法令

第十一条 次の各号のいずれかに該当する者に対しては、その申請により、それぞれ当該各号に掲げる試験を免除する。
二号 論文式による試験において、前条第二項第一号に掲げる科目について「審議会」が相当と認める成績を得た者 当該論文式による試験に係る合格発表の日から起算して二年を経過する日までに当該科目について行う論文式による試験

弁理士法施行規則
(試験科目の内容等)
第三条の二 弁理士試験の科目のうち、法第十条第二項第一号及び同条第三項の科目については、次の各号に掲げる法令に分けて行う。
一号 特許及び実用新案に関する法令
二号 意匠に関する法令
三号 商標に関する法令

上記弁理士法11条2号で免除「科目」について規定し、施行規則3条の2でその「科目」を1号~3号に分割した意味合いは、「免除の判断を特実・意匠・商標の各科目ごとに行う」ということだと理解したのですが、その理解が正しくなかったということになります。
施行規則の最終版と弁理士試験案内とを同じ日に公表したということは、両者の整合性をとった上で発表されていると考えるべきでしょう。
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高橋洋一氏と埋蔵金

2007-12-22 11:19:32 | 歴史・社会
「週刊ポスト」1月11日号の広告に、「内閣参事官『埋蔵金50兆円はここにある』!」の表題で高橋洋一氏が出てきています。これは買わないわけにいきません。

高橋洋一氏が雑誌「諸君!」で語った内容については、11月27日29日12月3日に記事にしました。また、永田町の埋蔵金騒動について12月7日に書きました。
埋蔵金騒動と高橋洋一氏の関係に興味があったのですが、ポスト誌記事によると、まさに埋蔵金騒動の震源地に高橋氏がいるようです。
というか、自民党与謝野馨氏と高橋洋一氏との間の壮絶なバトルの結果であるようです。
「『財務省の守護神』といわれる与謝野馨・前官房長官が会長を務める自民党財政改革研究会が11月21日、『霞が関に埋蔵金はない』という報告書を提出。それに対し、中川秀直・元幹事長が、国家予算の余剰金を示して自民党内で埋蔵金論争が勃発したのだ。
 結果は意外なものだった。埋蔵金の存在を否定してきた財務省が、突然、“やっぱりありました”と、特別会計から約10兆円もの剰余金を差し出したのである。
 実は、中川氏に『埋蔵金のありか』を献策した人物こそ、今回登場する高橋洋一氏なのである。」

高橋氏は、小泉政権では竹中平蔵氏とのコンビで存分に力を発揮しました。安倍政権に代わっても安倍さんから声をかけられ、内閣参事官として参画していたことまでは、諸君!の記事にありました。
今回のポスト誌によると、安倍政権時代、内閣改造で与謝野氏が官房長官になると、経済社会総合研究所に出向を命じられます。辞令には退職期限まで来年3月末と切られており、霞が関の露骨な見せしめだったとのことです。
高橋氏と与謝野氏との対立のきっかけは、05年の政府系金融機関統廃合問題のときです。経済財政諮問会議で高橋氏が廃止を主張すると、与謝野氏から「財務省の了解を得ているか」聞かれ、高橋氏が「当然していません。これから戦うんです」といったら、「それじゃ、だめだね」と。
高橋氏の今の職場は、研究所の倉庫だったところに机を置かれ、財務省の“社史編纂”のようなことをやらされているそうです。


冒頭の自民党財政改革研究会報告書に“特別会計の余剰金の話をしている人がいるが、埋蔵金伝説のようなものだ”と書かれており、高橋氏は“この報告書は自分たち(中川氏、竹中氏、高橋氏)への挑戦状だな”と感じます。高橋氏にとっても沽券にかかわるはなしだし、それなら伝説かどうか調べてやろう、と埋蔵金探しをはじめ、夜な夜な資料を見て、いわば趣味でやったそうです。
埋蔵金はありました。
「財政融資資金」と「外国為替」の2つの特別会計に合わせて約40兆円、ほかにも「国有林野」「労働保険」「空港整備」などの特別会計を加えれば、総額50兆円近い金が眠っているのです。

「私、財務官僚とサシで議論すると、かなりの確率で勝っちゃうわけです。だから、財務省は黙って10兆円を出した。」
この問題を財務省が今回放置して通常国会の予算審議の最中に野党から追及されたら、予算案が吹き飛んでしまう、だから財務省はそうなる前に、10兆円を認めざるを得なかったとの見立てです。その結果、財務省は与謝野氏に恥をかかせる結果となりました。


高橋氏の埋蔵金発掘は、05年、小泉政権の経済財政諮問会議で、各省庁に指示して全ての特別会計の「資産負債差額」つまり、余剰金をいくら持っているかを試算させたのが最初です。高橋氏の“レーダー探査”によって明らかにすることができました。その結果、財務省はその年、財政融資特会からの12兆円をはじめ、5年間で20兆円を出すことを決めます。この時、財務省は「これで全て。もう埋蔵金はない。」といっていたのに、今回、また10兆円出てきた。
05年のレーダー調査で唯一、資産負債差額の公表を拒否したのが国土交通省の道路特別会計でした。高橋氏の予想では、何兆円かわからないけれども、財政融資、外国為替特会に次いで3番目に埋蔵金を持っている可能性があるとのことです。

「諮問会議はそういうもの(埋蔵金)を探すのが仕事だし、スタッフも予算もあるんだから毎年やればいいのに、何もしていない。不思議ですよね。レーダー探査の仕組みを作るのは難しいけれど、それは私が役所からボコボコにやられながらやっていたんだから、あとは表計算ソフトに数字を入れて、ボタンを押せばパーッと出てくるんですよ、埋蔵金が。どの特別会計にいくらあるか、3日もあれば計算できる。大田(弘子・経済財政担当)大臣もそのやり方を知っているはずですが、面倒くさいんでしょうかね。」

高橋洋一氏、今は懲罰人事のような扱いを受けているようです。しかしこれをバネにして、さらに官僚機構の病巣にメスを入れてくれる予感はします。期待しています。
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本郷界隈'07初冬

2007-12-20 21:11:23 | Weblog
先日報告したとおり、12月15日に東京大学(本郷)にある総合研究博物館の展示を見てきました。

総合研究博物館は、本郷キャンパスの懐徳門という入り口が最寄りです。本郷三丁目で地下鉄を降ります。懐徳門は、本郷通りからひとつ路地を入ったところに面しています。内側には赤煉瓦ブロック遺跡が見られます。ローマの遺跡を見るようです。
  
                懐徳門
総合研究博物館の展示を見た後、本郷キャンパス構内をぐるっと一回りしてきました。
赤門から、教育学部の脇を通って三四郎池へ向かいます。
  
  赤門                 教育学部そば
黄葉は盛りをほんの僅か過ぎたところでしょうか。三四郎池をめぐり、安田講堂から正門へと抜けました。
  
  三四郎池               安田講堂
12月も半ばとなり、気温も下がって季節は冬なのに、まわりの風景はまだ秋のままです。今年はおかしな年です。

東大の正門から出て、春日方面に向かいます。
本郷通りからひとつ本郷の住宅街に入ると、ビルは見あたらず、ところどころに古い家が残っています。

さらに歩き、春日に向かって下り坂が始まるところに、太栄館という古い旅館が見えてきます。玄関脇には石川啄木の歌を刻んだ石碑があります。説明によると、石川啄木が赤貧のとき、金田一京助の世話で、この旅館の前身である蓋平館に啄木が逗留したとのことです。太栄館前の急坂が新坂です。新坂を下ると、春日に出ます。
  
  太栄館                 新坂
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東京大学「異星の踏査」展

2007-12-18 21:13:13 | サイエンス・パソコン
東京大学総合研究博物館「異星の踏査~アポロからはやぶさへ」

12月26日までの期間で、東京大学(本郷)にある総合研究博物館で、標記展示が行われています。入場無料です。
私は12月15日に見てきました。

展示スペースとしてはごくささやかな展示です。
目玉展示品は、アメリカのアポロ宇宙船(有人月面踏査)で月から宇宙飛行士が持ち帰った「月の石」と、「ビルト第二彗星のダスト」で、NASAのスターダスト計画によって昨年取得されたものです。もっとも、月の石は3センチ角程度の大きさで、ピラミッド型の透明アクリル樹脂に埋め込まれて展示されています。また彗星のダストも、顕微鏡でなければ見えないようなわずかな塵に過ぎません。

見たところは何の変哲もない石ころと塵ですから、これだけ見ても胸が高鳴ると言うことはありませんが。
月の石周辺のセキュリティーが厳重であることは印象的です。

展示として、いくつかの映像を見ることができます。
入り口の近くで映していた映像は、先日の月周回衛星「かぐや」打ち上げ風景、あるいは1970年代のアポロ有人宇宙船打ち上げ風景などでした。
「かぐや」打ち上げについては、私もネット配信映像をライブで観ました。打ち上げから程なくして、ロケット先端が綿帽子をかぶったように広がったことをそのときも報告しました。その綿帽子が消える瞬間、ロケットの先端付近がピカッと光ったようにそのとき思いました。今回、大きな画面で打ち上げ状況を再度見た結果、確かにロケット先端がピカッと光り、その直後に綿帽子が消えたことを確認しました。

次の映像は、アメリカによる火星探査の紹介です。火星到着から科学探査までを再現映像で紹介しています。
火星の大気圏に突入した探査機は、まずパラシュートで減速し、最後は探査機のまわりのたくさんのゴム風船を膨らまして着地します。次いで探査機を保護する外壁が外側に開き、探査機が現れます。探査機が火星の大地を走り回り、岩石表面を削って科学解析を行う状況までが紹介されます。なかなか印象的な映像でした。

唯一日本が行っている探査である「はやぶさ」については、おとなしい展示があるのみでした。はやぶさ物語の中から、「はやぶさ」の冒険を描いた「祈り」の映像を常時流すようにしたら視覚的に「はやぶさ」を捉えられるだろうに、と残念ではありました。


ところで同じ総合研究博物館の半分以上のスペースは、常設展示である「標本は語る。」展を行っています。
主に動物の骨格標本を見て回りました。
入り口正面に、約350万年前の化石人骨「ルーシー」の骨格標本が飾られています。レプリカだと思うのですが、説明はありませんでした。ルーシーは、身長1.1m、体重29kgと文献では読んでいたのですが、「こんなに小さかったんだ」というのはやはり実物を見て実感しました。
たまたま、犬塚則久著「「退化」の進化学」を読んだところだったので、そちらの内容との対比ができ、興味深かったです。
ニホンザルやオランウータンなどの類人猿の骨格とルーシーの骨格とを対比して、「やはり骨盤の形状がすっかり変わっているな」「足の5本指が、ルーシーではまとまっているけれど類人猿では親指が確かに離れているな」という点をこの目で確認することができ、有意義でした。
「退化」の進化学」についてはまた別に紹介します。
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金賢姫拘束の真相

2007-12-16 20:46:22 | 歴史・社会
フジテレビ12月15日放送 土曜プレミアム特別企画『大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち~封印された3日間~』

たまたま自転車こぎ30分をやる間の退屈しのぎとして、テレビ番組を選んだところ、上の番組が目に付きました。何気なく途中から見始めたのですが、その内容に引き込まれてしまいました。

昭和62年11月29日に大韓航空機が飛行中に爆破されました。その犯人が日本人になりすました北朝鮮工作員の男女であり、逮捕されるときに男性は服毒自殺、女性は逮捕されて韓国に移送されます。その女性が金賢姫でした。韓国についた飛行機のタラップから、両脇を抱きかかえられて下りてくる金賢姫の姿が目に焼き付いています。
私の知識はその程度です。

ところがテレビ番組によると、金賢姫らの存在を割り出して追い詰めるまでの舞台裏で、UAEとバーレーンの日本大使館に勤務する3人のノンキャリア外交官が決定的な役割を果たしたというのです。そんな話、聞いたことがありませんでした。
在UAE日本大使館員の矢原純一氏は、日本の連合赤軍が中東で活動していることもあり、日本人が関与しているのではないかと危惧します。自分で搭乗者名簿を取り寄せ、アブダビで降りた乗客の中にSHINICHI, MAYUMIという日本人らしい名前があることを発見します。直ちに、中東各地の日本大使館に、それら日本人が滞在していないか、照会します。
バーレーンの日本大使館員の砂川昌順氏と塩原順氏は、空港で2人の入国カードを発見し、さらに滞在ホテルを探し出して電話での接触にまで成功します。日本外務省の調べでMAYUMI(蜂谷真由美)のパスポートが偽造であることがわかりましたが、大使館員には捜査権がないので手を出せません。大使館の参事官は、バーレーン警察の協力を得ることも許可しません。
蜂谷らがバーレーン空港から出国しようとするそのとき、砂川は意を決して空港関係者に頼み、蜂谷らのパスポートを確保します。さらに事情聴取をしようとしたとき、蜂谷真一は服毒自殺して果てるのでした。

この捜索劇で、主役は日本大使館員3名のみです。韓国官憲はまったく登場しません。こんな話は聞いたことがなかったので、さっそくネット検索してみました。

ところがこの放送の直前まで、この事件は以下のように捉えられていたらしいのです。

Wikipediaでは
「事件直後、韓国警察はバグダッドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した不審な男女2名を特定した。この2名は日本の旅券を持っており、バーレーンの空港で別の飛行機に乗り換えようとしていた。そのため韓国警察および大使館員より偽造パスポートの鑑定の依頼を受けた日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、その場で旅券を確認したところ、偽造であると判明したため警察官が連行しようとした。しかし、男性はその場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺を図り死亡した。同伴の女性も自殺を図ったが一命を取りとめた。」

ところが、放送の翌日12月16日にはWikipedia記事が以下のように書き換えられていました。
「事件直後、バグダッドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した不審な男女2名がいた。この2名は日本の旅券を持っており、バーレーンの空港で別の飛行機に乗り換えようとしていた。そのため日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、その場で旅券を確認したところ、偽造であると判明したため警察官が連行しようとした。しかし、男性はその場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺を図り死亡した。同伴の女性も自殺を図ったが一命を取りとめた。」

その他、以下のように記載したサイトもありました。
大韓航空、空中爆発事件(キム・ヒョンヒ事件)
「韓国当局は、(昭和62年11月29日に大韓航空機が消息を絶った)この段階から北朝鮮の関与を示唆していた。翌30日午後、韓国政府は日本外務省に《バクダットで858便に搭乗し、途中アブダビで降りてガルフ航空に乗り換え、バーレーンに入国した「蜂谷真一」と「真由美」という日本人親子のパスポート照会》を依頼してきた。更に、同日夜には在バーレーン韓国大使館の代理大使がホテルに宿泊している蜂谷親子に接触し渡航目的などを確認した。
12月1日、現地の日本大使館員が同ホテルに出向きチェックアウト直前に蜂谷親子に接触し、パスポートは実在する別人のものであることを確認した。日本大使館側には身柄拘束権が無いことからバーレーン国際空港の入管当局にパスポート偽造の事実を連絡し空港内で改めて2人に事情聴取した。ところが、取調室で2人は突然、毒入りのアンプルを飲み「真一」は死亡、「真由美」は一命をとりとめた。
この2人は日本人親子を装った北朝鮮の秘密工作員で「真一=金勝一」と「真由美=金賢姫(キムヒョンヒ)」であることが判明。韓国政府の強い要求により12月15日、金賢姫はバーレーンから韓国に引き渡された。」

さてさて、真相はどうだったのでしょうか。

続きはまた別に
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映画「加藤隼戦闘隊」

2007-12-13 21:58:40 | 趣味・読書
映画「加藤隼戦闘隊」1944年


先日、トラックバックでこの映画の紹介がありました。私もこの夏にこの映画を観ていたので、記事にします。

太平洋戦争劈頭時の日本軍の主力戦闘機は、海軍が零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、陸軍が一式戦闘機(隼)でした。
大東亜戦争初期に南方戦線で活躍した日本陸軍飛行第六十四戦隊は、1941年4月に加藤建夫が隊長として着任し、1942年5月22日に戦死するまで隊長を勤めます。戦闘機のみの部隊で、隼を配備しています。

1944年に、加藤隊長を主人公に映画「加藤隼戦闘隊」が製作され、加藤隼戦闘隊の名称が有名になりました。
また、われわれの世代であれば軍歌「加藤隼戦闘隊」を知っています。
「エンジンの音轟々と
隼は征(ゆ)く雲の果て
翼(よく)に輝く日の丸と
胸に描きし赤鷲の
印は我等が戦闘機」

この歌はもともと、加藤隊長が着任する以前、戦闘機「隼」が配備される以前から、64戦隊の隊歌として作られていたものだそうです。映画のなかでも歌われ、映画の主題歌のような扱いになっています。

ということで、ツタヤでDVDを借りて映画「加藤隼戦闘隊」を見ました。見たのは8月末で、このブログ記事は完成しているものと思い込んでいたのですが、記事はここまでしかできていませんでした。ここから先は思い出しながら書きます。
1944年 日本映画
監督: 山本嘉次郎
出演: 大河内傳次郎 藤田進 高田稔 中村彰 志村喬 灰田勝彦 黒川弥太郎

この映画、9月に紹介した「ハワイ・マレー沖海戦」と、監督や主演俳優がほとんどいっしょです。特撮を円谷英二氏が手がけた点も一緒のようです。

主役の加藤健夫隊長は、藤田進という俳優が演じています。崇高な英雄という描き方ではなく、笑った顔が思いっきり親しみやすい、ちょっとバカっぽいキャラで描かれています。もちろん戦闘機隼を操縦する腕前は一級であり、部下思い、任務重視の優れた指揮官としても描かれています。

戦時中の映画ですから、戦闘機隼は実機だし、米国機も捕捉した実機が使われているようです。それと、円谷氏の特撮が加味されるというわけです。

映画は加藤隊長の着任から始まり、加藤隊長の戦死で幕を閉じます。
戦闘機隊ですから、隊員は的戦闘機を撃墜することに闘志を燃やします。あるとき、爆撃機を援護する任務を遂行します。途中で敵戦闘機に遭遇し、見方の爆撃機が損害を受けます。帰隊した加藤隊長は怒っています。味方爆撃機の援護を徹底せず、敵戦闘機を深追いした隊員がこっぴどく叱られていました。
加藤隼戦闘隊の物語は、生き残った隊員が書いた手記が元になっています。後で調べると、このときに叱られた隊員が、手記を書いた本人のようでした。
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知財コンサルの今後

2007-12-11 21:58:37 | 知的財産権
最近、弁理士による知財コンサルティングが話題になっているような気がします。なぜ今なのか。
どうも、弁理士試験合格者数の増大による弁理士数の急増、実務未経験新規合格者の就職難と一緒に語られることが多いように思います。そうとすると、知財コンサルは以下のような命題(願望)とともにあるということでしょうか。

①ごく平均的な能力を有する弁理士が、しかるべき勉強や研修を行ったら、知財コンサルの仕事を始めることができるか
②まだ特許でメシを食えない新人実務未経験弁理士が、しかるべき勉強や研修を行ったら、知財コンサルの仕事を始めることができるか
③上記①②で始められる知財コンサルの仕事は、ある程度の人数の弁理士のメシの種になるほどの規模を有しているのか

私の直感としては、知財コンサルという事業が存在するとしても、それでメシを食っていけるような人はごく僅かで、コンサルタントに向く資質を有している、豊富な実務経験をもとにコンサルティングを行うことができる、といった人に限られるのではと思っています。
平均的な弁理士というと、いかにも技術屋で、他人を魅了することが得意というわけではありません。それに対してコンサルタントには、人が好き、人に好かれる、人を引き込む話術を持っている、などの資質が必要とされ、一般に弁理士が得意とする資質とは異なります。


11月30日、弁理士会主催でパネルディスカッション「弁理士による知財コンサルティング事業とその展望」が開催されました。そこで、知財コンサルについてどのような議論がされているかを確認すべく、出席しました。

パネリストは、澤井敬史(NTTアドバンステクノロジ取締役)、佐原雅史(知財コンサル会社社長)、渡部温(研修所副所長)、井上純一(野村総研知財部長)、土生哲也(知財コンサル検討委員会副委員長)、遠山勉(知財コンサル検討委員会委員長)の各氏です。井上氏以外が弁理士です。

全体の印象としては、知財コンサルに対する考え方、展望などは各人各様であり、まだ統一した考え方は確立されていないようです。
そして、「ごく平均的な弁理士、あるいは新人実務未経験の弁理士が、ちょっと勉強や研修を行ったからといって、メシの種になるほどの知財コンサルの仕事があるようには思えない」という私の当初の印象は、やはりパネリストの皆さんの印象と合致しているように思います。

唯一弁理士ではない井上氏の発言がおもしろかったですね。弁理士による知財コンサルに対して否定的な考え方です。
○コンサルをうたう弁理士はいるが、そのうちの半分は何も準備していない。
○一般に弁理士は、人の顔を見るより案件を見る。
○弁理士におけるコア事業のマインドとコンサルのマインドとはまったく違う。
○著作権が語れる弁理士がどれだけいるか。著作権はビジネスと直結している。
○日本の弁理士と話をしても楽しくない。
○弁理士は製造業に偏重している。今や製造業はGDPの3割に過ぎない。
○野村総研の知財部員の半分が今や弁理士である。外部弁理士は、これら自社弁理士と何が違うか(何が売りになるか)。

澤井弁理士は、大企業知財事業本部長の立場で観察しています。
○顧客が発注しようとする気持ちにさせることが必要。人の2歩先を行ったらダメ、0.7歩ぐらい先がいい。
○弁理士は一人で解決しようとする。みんなで議論することが必要。
○本当のいい弁理士にはコンサル能力がある。

佐原弁理士と土生弁理士は、ご自分で知財コンサルを仕事としてやられています。
○企業の社長は何をやっていいかわからない。社長の方針がない。まず課題を再整理し、方針を決定するところからスタートする。
○次いで、活動計画を策定する。予算、人事、実行項目など。
○経営者と実行部隊では視点が違う。トップダウンがよい。
○知財コンサルは、社長の懐刀となるべき。(何が要求されているか)感じ取る能力が必要。
○大企業相手のコンサルでは、出願業務は受けない方向で切り離した方が良いだろう。
○中小企業相手のコンサルでは、コンサルから出願まで一貫で引き受ける方がよい。
○(コンサルタントとして語る話が)本当の知識かどうか、見たらすぐわかる。日経新聞を読んで弁理士以外と議論することが必要。
○一般に経営コンサルタントは、1件で500万円~1千万円の顧問料を要求する。弁理士知財コンサルではなかなかそのような要求ができない。

パネルディスカッションでの議論の内容は、「まあそんなものだろう」という私の印象とそれほど乖離していませんでした。


そうこうするうちに、弁理士会から来た書類の中に「知財ビジネスアカデミー」のチラシが入っていました。こちらにも案内があります。
「知財コンサルタント基盤育成コース」が準備されているのですね。
「知財評価研究会」「産学連携と技術移転研究会」「特許事務所のマーケティング戦略実線」「授業法」の4つのコースです。
なるほど、そのような切り口で知財コンサルが捉えられているということですね。
(12月12日一部修正)
コメント (2)
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