童謡「里の秋」
1番
しずかなしずかな里の秋
お背戸に木の実の落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てますいろりばた
2番
明るい明るい星の夜
鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
ああ父さんのあの笑顔
栗の実食べては想いだす
この歌については、「第二次大戦中の出征兵士の留守家族を描いた歌だ」という話を聞いたことがあり、ずっと気になっていました。
そう言われて聞くと、しみじみとした銃後の家族の生活が浮かび上がってきます。
最近、熟年弁理士さんのブログでこの歌が取り上げられ、歌が生まれた由来が説明されていました。やはりそうだったのか。そこで早速、ネットで調べてみました。
里の秋、さよなら、Kumiko Report 10/2/2004 「里の秋」考など、いろいろな情報を入手することができました。
作詞者は斎藤信夫さん、昭和16年当時小学校の先生をしながら詩を作り、童謡誌に投稿していました。作曲者は海沼實さん、東京で「音羽ゆりかご会」という合唱団を立ち上げ、運営に当たっていました。
そして「里の秋」には3番があります。
3番
さよならさよなら椰子の島
お船に揺られて帰られる
ああ父さんよご無事でと
今夜も母さんと祈ります
この3番は、南方に出征した父親が、復員船で無事に帰還することを願う母と子の気持ちを歌ったものだったのです。昭和20年12月にこの歌は世に出ました。
ところで、童謡「里の秋」は、実は二度生まれているのです。まずは、作詞者の斎藤信夫さんが最初に歌詞を作った昭和16年12月のできごとです。
昭和16年12月、日本は真珠湾攻撃を敢行し、国民はラジオニュースで戦争の勃発と初戦の勝利を知ります。
「軍隊行進曲の勇壮な調べにのって『帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』という臨時ニュースが電撃のように流れた日から、斉藤は『異常な興奮』に『身体全体を』を包まれ『その時の思いを一気に作詞』したのです」(さよならより)
このとき作られた詩は1番から4番まで、そして1番と2番は私たちが知っている「里の秋」と同じですが、3番と4番は全く異なった詩でした。
3番
きれいなきれいな椰子の島
しっかり護ってくださいと
ああ父さんのご武運を
今夜もひとりで祈ります
4番
大きく大きくなったなら
兵隊さんだようれしいな
ねえ母さんよ僕だって
かならずお国を護ります
作詞した斎藤さんは、この詩を海沼さんに送りましたが、海沼さんからは何の返事もありませんでした。
しかし戦争は日本の敗北に終わり、昭和20年8月以降、それまでの日本の政治・軍事・教育のすべてに「軍国主義」の烙印が押されます。斎藤さんは、戦争中子ども達に嘘を教えていたことになると悩み、教壇から去ってしまいます。
そんな斎藤さんのところに、20年12月になって突然海沼さんから連絡が入ります。
約1週間後に神奈川県の浦賀港に南方からの復員兵を乗せた船がやってくる。NHKでは復員してくる兵隊さん達を歓迎する番組を放送することになり、そのときに流す歌を作ることを海沼さんのもとへ依頼したのです。
そして海沼さんの目に留まったのが斎藤さんの詩です。しかし3、4番はこのままでは使えない。そこで1、2番はそのまま使い、3、4番は捨てて新たに3番として復員兵を迎える内容の詞を書いてほしいと斎藤に頼んだのです。新しい3番は、放送当日の朝にできあがりました。
「昭和20年12月24日、「外地引揚同胞激励の午後」という番組で
ああ 父さんよ ご無事でと
今夜も 母さんと 祈ります
川田正子が歌い終えたとき、スタジオ内がしーんと静まりかえった。そしてスタッフの誰もが一瞬、心が浄化されるのを感じた。次の一瞬、我にかえるとデスクの電話という電話がけたたましく鳴りだした。さっき放送された歌についての問い合わせがNHKに殺到したのである。さらに翌日以降も問い合わせや感想の手紙が束になって押し寄せた。一つの歌にこれほどの反響があったのはNHKでも初めてのことであった。」(里の秋より)
今ではこの3番は歌われていないのでしょうね。私も知りませんでした。しかし、昭和16年、そして20年に、ごく普通の日本人がどのような気持ちで戦争に接していたかを垣間見ることができたように思います。
1番
しずかなしずかな里の秋
お背戸に木の実の落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てますいろりばた
2番
明るい明るい星の夜
鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
ああ父さんのあの笑顔
栗の実食べては想いだす
この歌については、「第二次大戦中の出征兵士の留守家族を描いた歌だ」という話を聞いたことがあり、ずっと気になっていました。
そう言われて聞くと、しみじみとした銃後の家族の生活が浮かび上がってきます。
最近、熟年弁理士さんのブログでこの歌が取り上げられ、歌が生まれた由来が説明されていました。やはりそうだったのか。そこで早速、ネットで調べてみました。
里の秋、さよなら、Kumiko Report 10/2/2004 「里の秋」考など、いろいろな情報を入手することができました。
作詞者は斎藤信夫さん、昭和16年当時小学校の先生をしながら詩を作り、童謡誌に投稿していました。作曲者は海沼實さん、東京で「音羽ゆりかご会」という合唱団を立ち上げ、運営に当たっていました。
そして「里の秋」には3番があります。
3番
さよならさよなら椰子の島
お船に揺られて帰られる
ああ父さんよご無事でと
今夜も母さんと祈ります
この3番は、南方に出征した父親が、復員船で無事に帰還することを願う母と子の気持ちを歌ったものだったのです。昭和20年12月にこの歌は世に出ました。
ところで、童謡「里の秋」は、実は二度生まれているのです。まずは、作詞者の斎藤信夫さんが最初に歌詞を作った昭和16年12月のできごとです。
昭和16年12月、日本は真珠湾攻撃を敢行し、国民はラジオニュースで戦争の勃発と初戦の勝利を知ります。
「軍隊行進曲の勇壮な調べにのって『帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』という臨時ニュースが電撃のように流れた日から、斉藤は『異常な興奮』に『身体全体を』を包まれ『その時の思いを一気に作詞』したのです」(さよならより)
このとき作られた詩は1番から4番まで、そして1番と2番は私たちが知っている「里の秋」と同じですが、3番と4番は全く異なった詩でした。
3番
きれいなきれいな椰子の島
しっかり護ってくださいと
ああ父さんのご武運を
今夜もひとりで祈ります
4番
大きく大きくなったなら
兵隊さんだようれしいな
ねえ母さんよ僕だって
かならずお国を護ります
作詞した斎藤さんは、この詩を海沼さんに送りましたが、海沼さんからは何の返事もありませんでした。
しかし戦争は日本の敗北に終わり、昭和20年8月以降、それまでの日本の政治・軍事・教育のすべてに「軍国主義」の烙印が押されます。斎藤さんは、戦争中子ども達に嘘を教えていたことになると悩み、教壇から去ってしまいます。
そんな斎藤さんのところに、20年12月になって突然海沼さんから連絡が入ります。
約1週間後に神奈川県の浦賀港に南方からの復員兵を乗せた船がやってくる。NHKでは復員してくる兵隊さん達を歓迎する番組を放送することになり、そのときに流す歌を作ることを海沼さんのもとへ依頼したのです。
そして海沼さんの目に留まったのが斎藤さんの詩です。しかし3、4番はこのままでは使えない。そこで1、2番はそのまま使い、3、4番は捨てて新たに3番として復員兵を迎える内容の詞を書いてほしいと斎藤に頼んだのです。新しい3番は、放送当日の朝にできあがりました。
「昭和20年12月24日、「外地引揚同胞激励の午後」という番組で
ああ 父さんよ ご無事でと
今夜も 母さんと 祈ります
川田正子が歌い終えたとき、スタジオ内がしーんと静まりかえった。そしてスタッフの誰もが一瞬、心が浄化されるのを感じた。次の一瞬、我にかえるとデスクの電話という電話がけたたましく鳴りだした。さっき放送された歌についての問い合わせがNHKに殺到したのである。さらに翌日以降も問い合わせや感想の手紙が束になって押し寄せた。一つの歌にこれほどの反響があったのはNHKでも初めてのことであった。」(里の秋より)
今ではこの3番は歌われていないのでしょうね。私も知りませんでした。しかし、昭和16年、そして20年に、ごく普通の日本人がどのような気持ちで戦争に接していたかを垣間見ることができたように思います。