弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

高校の体質の変遷

2006-11-30 21:27:28 | 歴史・社会
今、学校がどのように変質してきたのかが話題になっています。文藝春秋12月号でも特集されています。文藝春秋は小中学校が話題の中心ですが、日経新聞11月27日朝刊にも教育についての寄稿文が掲載されています。興味深い記事だったので、忘れないように挙げておきます。
河合塾河合文化教育研究所主任研究員の丹羽健夫氏によるものです。予備校から生徒を見ていると、学校で起こっていることが手に取るようにわかるのだそうです。
ここでの論点は、第二次ベビーブームの影響による高校の変質です。

第二次ベビーブームの前、
「それまでの高校は大学入試問題の解法などあまり気にすることなく、教科の本質を教えていた。『なぜこの教科はこの世に存在するのか』『どんな人がこの教科の構築に寄与したか』『私(先生)はなぜこの教科に惚れたのか』『ほら、この教科はこんなに美しいじゃないか、面白いじゃないか』・・・
 当時の予備校はこのような教育を受け、受験的には無垢で、それでいて教科の本質に触れ、教科に畏敬の念さえ抱き学習意欲満々の生徒達に、入試問題の解法を教えることができる、という醍醐味を味わっていたのであった。」

第二次ベビーブーム
「18歳人口が増加すると大学入学率は下がり始める。80年には71%であった入学率は、90年には62%までダウンする。この事実は高校を直撃する。」
PTAや教育委員会から突き上げられます。
「教室は意味が分かろうが分かるまいが、正解ひねり出しのための記憶ドリルの作業場に変化を始める。」
予備校でも、安直に受験勉強に役立つ授業のみを生徒が要求するようになります。
「一般論ではあるが第二次ベビーブームが高校の教育が受験合理主義に走ることを決定付けた。」

92年を境に18歳人口は急減を始めます。
生徒数が減り始めれば、高校の教育も元に戻るだろうと予測していたのに対し、高校の受験合理主義は相変わらず続いていました。なぜだろうか。
知り合いの高校の先生に聞いてみたところ、『人間いったん易きについてしまうとなかなか抜け出せないものなのだ。それに指導体制も一人でも多くの大学合格者獲得というはっきりした目標があった方がまとまりやすい。だから授業もカリキュラムも受験合理主義から抜け出せないのだ』という返事でした。
「2002年から始まった学校完全週五日制、およびそれに続く総合的学習の時間の導入による教科の授業時間の減少は、受験合理主義を窮地に追い込む。」
必修科目の履修漏れは、必然だったというわけです。
「高校よ、道は険しいけれど、かつてのように生徒を教科の授業の中で感動させ、学習のおもしろさに魂を揺さぶられる授業を取り戻してほしい。受験的に無垢で、教科の教養を身にまとった生徒を、予備校に送ってほしい。」
---以上---

これがすべてではないだろうけれど、観察結果に基づく一つの考察ですね。
ただし現在の高校教育の姿は、第二次ベビーブームを経由してきた影響のみならず、小学校中学校の教育の変遷に起因する生徒の変質の影響をも色濃く受けていると思います。高校の先生が元の教育に戻そうと努力しても、生徒自身が以前の生徒とは変質してしまっていますから。
その点については、文藝春秋の記事から拾っていきたいと思います。
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本郷の秋

2006-11-28 22:24:57 | Weblog
先日の土曜(11月25日)、東大本郷キャンパスを散策してきました。正門から安田講堂までの銀杏並木はやっと色づいた程度で、黄葉のさかりはまだ先のようです。
構内には、われわれと同年代のおじさんたちが、カメラを抱えて見て回っています。安田講堂前のベンチに座っていたら、おじさん達が「・・・激戦の跡・・・」と喋りながら通り過ぎ、安田講堂の前で写真を撮っていました。
そう言えば1969年の安田講堂攻防戦を、私は自宅のテレビにかじりついて見ていましたっけ。ノンポリであったことがばれてしまいますね。

三四郎池は、いい具合に色づいていました。曇天だったのでいまいち色が映えませんが。

三四郎池を抜け、御殿下グラウンドの方に進むと、瓦屋根の由緒正しげな建物が見えます。下の写真です。

後から地図で確かめると七徳堂という建物で、ネットで調べると剣道場であるということでした。

安田講堂の周辺にある校舎は、いずれも樹木に囲まれた低層の煉瓦舎屋です。それに三四郎池と七徳堂、都心に位置していながら何という優雅さでしょう。霞ヶ関の官庁街も古い庁舎が取り壊され、高層ビルに生まれ変わろうとしています。それに引き替え、まさに別天地です。このまま遺して欲しいようなもったいないような、複雑な気分でした。
もっとも、春日から本郷に抜ける界隈は、木造の住宅と古い木造旅館のみが立ち並ぶ地域でしたから、本郷そのものがまだ再開発の対象になっていないということのようです。
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審決取消訴訟での応答

2006-11-26 23:17:53 | 知的財産権
被告訴訟代理人として審決取消訴訟に関わっている案件がありました。
弁論準備手続期日が2回開かれ、ここで弁論準備手続が終結し、口頭弁論を経て判決の予定となりました。

第1回弁論準備手続期日の後、原告、被告双方が準備書面を提出する機会があり、双方が準備書面を提出した2週間後が第2回弁論準備手続期日でした。当方に送付された相手方の準備書面を読むと、新しい証拠に基づいて新しい主張がされています。これは是非とも当方も証拠に基づいた反論をしておくべきです。
裁判所書記官に相談したところ、新たな準備書面を提出したいのであれば、裁判所としては第2回弁論準備手続期日の2日前には提出して欲しい意向でした。もう1週間もありません。
当方で相談した結果、やはり裁判所の意向に沿って応対した方がベターであろうとの結論に達し、特急で準備書面を書き上げ、相手方に直送すると同時に裁判所に提出しました。

当方提出の2日後に開かれた第2回弁論準備手続期日において、相手方からは再反論したい旨の申し出がありました。しかし裁判官は弁論準備手続をその日で終結する旨を告げ、反論は許しましたが新たな主張は受け付けないと宣言しました。

やはり無理をして特急で準備書面を作成し、提出しておいて正解でした。第2回弁論準備手続期日以降に提出したとしたら、裁判官がまともに読んでくれなかった可能性もあります。
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彦根城

2006-11-25 23:25:54 | Weblog
11月3日文化の日、日帰りで彦根を訪問しました。
何の予備知識もなしに訪問し、彦根城とその周辺のみを散策したのですが、彦根城は立派なお城でした。「彦根市の相当の部分が城郭で占められているのではないか」と錯覚したほどです。

彦根の北東方向すぐちかくに、石田三成の居城だった佐和山があります。関ヶ原で三成が敗れた後、家康の家臣である井伊直政がこの地を拝領して彦根城を造営しました。当初は、豊臣秀頼に備えて南西方向の大手門が正門であったものが、大阪冬の陣以降、主家である徳川家に向かう南東方向の表門が正門になったようです。

まずは外堀と内堀がしっかりと現存し、満々と水をたたえています。
  
   外堀                    内堀にかかる大手橋
大手橋をわたり、急な大手坂を上がると、廊下橋が見えます。非常時には落とし橋となるそうです。廊下橋の先が天秤櫓、さらに登ると太鼓門櫓です。太鼓門櫓をくぐると、天守に至ります。姫路、松本、犬山城とともに国宝に指定されているとのことです。
  
   廊下橋                  太鼓門櫓   

     天守

偶然ですが、この日は彦根城のお城祭りの日でした。大名行列が出るということで、見物してきました。
  
  彦根藩主                    白拍子
馬上の人は、確か初代藩主の井伊直政か二代直孝ということで、俳優が演じていました。武者が持っている兜は、二代直孝の兜のようです。

歴史書によると、井伊藩の武士は全員が朱塗りの具足を身につけ、「井伊の赤備え」と称されていたそうです。彦根城博物館にも、歴代の彦根城主が用いた朱塗りの甲冑(初代直政二代直孝)が展示されています。その伝統は今も残り、お城祭りのスタッフが着ている上着も赤一色でした。

お昼は、夢京橋キャッスルロードにある近江牛の千成亭伽羅で近江牛フィレステーキ重をいただきました。
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東電OLが遺したもの

2006-11-24 00:02:27 | 歴史・社会
文藝春秋2001年6月号で、フリーライターの椎名玲さんが東電OL殺人事件の被害者について書いています。
今回、桐野夏生著「グロテスク」を読んだ後、スクラップを探したら出てきました。
「エリートOLの売春稼業に共感を覚える女たち」という副題で、この事件が社会に及ぼした影響について書かれています。

1997年3月に被害者が殺される前、椎名さんは雑誌編集者として井の頭線の終電で帰宅する毎日でした。その電車の中で事件の2年前から、特に1996年10月から12月まではほぼ毎日、椎名さんは被害者と同じ電車に乗り合わせて彼女を見かけていたのです。「幾多の奇妙な行動を見かけるうち、わたしは、日課のように彼女の姿を目で追うようになっていた。」
「わたしが彼女の異変に気が付いたのは殺される半年ほど前からだ。彼女はさらに激痩せして、頬の肉は削げ落ち、首筋が浮かび上がっていた。コートの下から見える足も異常に細くなっていまにも折れそうだった。」

事件から4年が過ぎて。
「私は自分が被害者とどこかで結びついているように感じていた。そして、それは私だけの現象ではない。彼女の足跡をたどるように、殺害現場や円山町を徘徊する女性が出現しているという。」
2001年2月、精神科医である斎藤学氏が主催するフォーラムで、東電OLの事件がとりあげられます。千名近い女性たちが参加しました。斎藤学氏は、佐野眞一著「東電OL殺人事件 (新潮文庫)」でもインタビューを受ける学者として登場します。

そのフォーラムに参加した女性の一人
「『わたしも、後一歩間違えば被害者のようになっていたかもしれない。それほど危うい生活を過ごしたことがあるから、彼女の気持ちが痛いほどわかります』
週刊誌の記事などで伝えられる被害者の素行を知れば知るほど、彼女は被害者に自己投影していったという。
『もっと被害者のことを知りたい。被害者のことを知れば知るほど、彼女がわたしを救ってくれるような気がするんです』」

被害者が殺された年に大手商社に女性総合職で入社し、自殺を考えるほど苦しんだ女性
「『女性総合職の先駆けとして生きてきた被害者がどんなに大変だったか、想像がつきます。』『女性総合職を理解しているフリをしているけど、実際には歓迎していない。』『こんなに苦しい日々が続くなら死にたいと思ったこともあります。誰もわたしを知らない所へ消えてしまいたかった。そんなとき、たまたま試してみたチャットで、自分の苦しさを、やっとぶつけることができたんです。』『わたしを全く知らない人に話を聞いてもらうことで、やっと開放された感じ。知らない人だから素直に甘えられるし、返ってきた言葉に励まされる。被害者ももう少し後に生まれてきたなら、円山町に立たなくて済んだかも知れない。』」
ここで言われている「チャットの効用」は、現在の「ブログの効用」と言い換えることができるでしょう。

この事件は、社会にどのような影響を与えたのでしょうか。椎名玲さんのこの評論以降、新しい論説にお目にかかることはありません。

なお、椎名さんの記事には被害者と同時期に慶応女子高に通った人の話も載っています。大学卒業後に就職したのはたったの数名、大学を卒業したら親の決めた人と結婚するというのが一般的でした。サラリーマンの子女から見ると、周りのクラスメートは桁違いのお金持ちのコばかりで、遊びに誘うと、誘った方が全部払うという自然のルールがあったそうです。その人はいつも友人に誘われておごってもらうばかりで、いやでも家柄の格差を感じたとのことです。
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桐野夏生「グロテスク」

2006-11-21 22:49:56 | 趣味・読書
1997年に東京の渋谷で起きた東電OL殺人事件については、佐野眞一著「東電OL殺人事件 (新潮文庫)」があります。
東電OL殺人事件については大きな謎が二つあります。
(1) 最高裁で有罪が確定したネパール人のゴビンタ・マイナリは、本当に真犯人なのか。
(2) 東電でキャリアウーマンとしての道を歩み、39歳当時も昼間はキャリアウーマンを続けていた被害者は、なぜ毎夜渋谷の円山町の夜道に立って客を引く街娼となり、最後は殺されるに至ったのか。

佐野眞一著書では両方の謎に迫ろうとしますが、(1) についてはネパールまで足を伸ばして取材を重ねるものの、(2) については取材もままならず、真相に迫れません。

桐野夏生著「グロテスク(上下)」は、この東電OL殺人事件を題材にした小説ということで、小説という手法で被害者に関する(2) の謎にどこまで迫ったのか、注目していました。最近になって文庫本が出版されたので、読んでみました。
グロテスク〈上〉 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋

東電OL殺人事件 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

実際に起きた殺人事件と被害者のプロフィールは、佐野眞一著書によると以下のとおりです。
被害者は1957年、東大卒の父と日本女子大卒の母の間に長女として生まれ、1973年に地元(杉並区永福)の公立中学から慶応女子高校に合格し、アイススケート部に在籍したようです。1976年に慶応大経済学部に進学します。1977年に父親がガンで死亡し、そのころ本人は1回目の拒食症になります。
慶応大学卒業後、父親と同じ東電に就職します。今でいう総合職です。
被害者と同期で東大教養学部を卒業して東電に入社した女性がいました。この人が東電の社内選抜試験に受かって1986年にハーバード大学に留学したことが、被害者の転落のトリガーを引いた、という噂があったようです。被害者は1985年に2度目の拒食症になっています。
被害者は1988年~1991年、社団法人日本リサーチ総合研究所に出向します。
クラブホステスのバイトを始めたのは1989年、渋谷界隈で売春をするようになったのは事件の数年前。1996年6月頃から殺害当日まで、土、日ごとに五反田のホテトルに通勤し、その後、円山町で複数の男と売春行為をしています。
会社を退社した後、渋谷で着替え、円山町での夜の仕事を終え、井の頭線の終電に神泉駅から乗車して西永福で降り、母と妹と暮らす自宅に帰るという生活をずっと続けていました。
そして1997年3月8日夜、円山町にあるアパートの空き部屋で、被害者は殺されます。


桐野夏生著「グロテスク」では、語り部である「わたし」を中心に話が進みます。「わたし」はドイツ人の父と日本人の母の間に生まれ、高校から私立のQ女子高に進み、Q大学を経て、39歳の今は市役所でフリーター的に働いています。
「わたし」の妹で怪物的な美貌を持ち、Q中学からQ女子高に進むユリコ、「わたし」と同級で高校からQ女子校に進んだ佐藤和恵、中学からQ学園に進み、高校で「わたし」や佐藤和恵と同級だったミツルが主な登場人物です。

佐藤和恵のモデルが東電OL殺人事件被害者です。高校大学がQ女子高Q大学である点、本人と父親の勤務先がG建設産業である点、自宅が世田谷区烏山である点、殺されたのが2000年である点をのぞくと、上記東電OL殺人事件の被害者のプロフィールと全く一致します。
そして佐藤和恵が実際の事件のように街娼として殺害されるのみならず、その殺人の2年前に、ユリコも同じ円山町で街娼として殺害されるのです。

主な登場人物が皆Q女子高に学んでおり、Q女子高での生活がストーリーの重要部分を占めます。
Q学園の初等部は男女共学で80人、中等部からはその倍の生徒を入れ、高校からは男女別学となってさらにその倍の生徒を取ります。(女子)高校1学年160人のうち、高校から入学する生徒はその半数を占めます。厳しい入試をくぐり抜けて高校から進学した生徒(外部生)は、入学式の日から内部生(小学校、中学からQ学園に入学した子)との差別に悩むことになります。内部生は高価な服装と装飾品に身を固め、その垢抜けた様子に外部生は圧倒されてしまいます。
中学内部(中学からQ学園に進学)のミツルは「わたし」にこういいます。
「ここは嫌らしいほどの階級社会なのよ。日本で一番だと思う。見栄がすべてを支配してるの。だから、主流の人たちと傍流たちとは混ざらないの」
「主流って何」
「初等部から来る人たちのなかでも限られた本当のお嬢様たち。オーナー企業のオーナーの娘。就職なんか絶対しない人たち。したら、恥だと思っている」
「じゃ、傍流って」
「サラリーマンの子供よ」
ミツルはQ中学時代、激しい苛めを受けたのでした。それを克服したのは、勉強で一番をとり続け、級友にノートを貸すことによってでした。

テレビアニメで「花より男子」をたまに見ることがあり、セレブのお坊ちゃま、お嬢様たちの繰り広げる生活にあきれ果てたことがありました。アニメだから架空の物語だと思っていたのですが、どうも現実の日本に実在しているのですね。
もちろん「グロテスク」もフィクションですが、最も大事なQ女子高を全く架空の設定にはしないはずだと思います。また解説でも、解説者の知人は「あそこはほんっとにああだった」と話しているようです。

このような過酷な環境を、ミツルは頭脳を磨き、「わたし」は悪意を磨き、ユリコは怪物的な美貌によって、生き抜いていきます。和恵のみは、不器用で苛めを受け続けます。

「グロテスク」よって、東電OL殺人事件のかかえる闇は少しは見えてきたのか。わたしにはよく分かりませんでした。

それともう一つ、本来こどもは弱いものをいじめる動物である、ということを再確認しました。いじめによる被害、例えば自殺が生じたときに、校長や教育委員会のみを責めても何の益もない、ということがよくわかります。

ps 関連する文藝春秋の記事をこちらに別記事としました。
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審査官との対話

2006-11-19 20:58:14 | 弁理士
拒絶理由通知に対して意見書と補正書で対応する際、「審査官の意図を十分に理解して応答しているだろうか」「この応答で審査官の心証を特許査定に導くことができるだろうか」と心配になることがあります。
審査官に面接を申し込んで直接対話すれば、相互の意識のずれがあれば修正することができ、正しい方向に進むことができます。いずれにしろ、審査官と面接を行った案件は、特許になりやすいという印象は確実にあります。

しかし、常に審査官に面接を申し込むというわけにも行きません。私は審査官の意図をきちんと理解して応答しているかどうか疑問が残る場合、審査官に電話し、「補正案、及び補正内容を説明する意見書案を作成したので、一度見ていただけないか」とお願いすることが多いです。審査官に応じていただければ、補正書と意見書をファックスで送って見ていただきます。

審査官によって、「事前には見ません」という方、「36条対応なら見ますが29条対応については見ません」という方、「いいですよ」と見てくださる方、様々です。こればかりは電話で問いかけない限り分かりませんから、まずは問いかけてみることです。

先日も、36条違反について、当方としては技術常識と思える事項について拒絶理由が出ていて、当方の応答で審査官に納得してもらえるか不安があり、審査官に電話して「36条違反について応答案を作ったのだが見ていただけないでしょうか」とお願いしたところ、快く応じていただけました。
ファックスをお送りしてから半日も経ずして審査官から電話がありました。「概ねこれでいいと思うが、2点ほど疑問点がある」ということで、その疑問点をお話しいただきました。そのうちの1点については特許請求の範囲の補正の文言を変えることでより明確にすることができ、他の1点については電話で応対するうちに審査官に納得していただけました。

このような応答を経た案件については、意見書・補正書を提出した後に特急で特許査定をもらえることが多いです。

また別件で、進歩性違反とされたものの引用文献に記載の発明を審査官が誤って受け取っていると思われる案件がありました。そうはいっても、審査官は引用文献についてわれわれと異なった解釈をしている可能性もあります。
このような場合もためらわずに審査官に電話してみます。今回の件については、審査官から「確かに本願発明と関連する発明は引用文献に記載されていなかった。意見書でその旨主張してもらえばいい」という回答をいただきました。これで安心して意見書を提出できます。

この半年程度で特許査定を受けた案件を振り返ってみると、意見書・補正書提出前に何らかの形で審査官と対話を行った案件が多いことに気付きました。対話によって応答がより適切になったのか、対話によって審査官の印象に深く残り、それが良い方向に働いたのか、いずれにしろ審査官とはできるだけ対話の機会を増やした方が好ましい結果を得ることができます。
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Windowsの寿命

2006-11-18 18:17:19 | サイエンス・パソコン
パソコンのOSは、MS-DOS, Windows3.1, Windows95, 98, 2000, WindowsXPと変遷してきました。そして次世代のWindowsVistaの発売が間近です。

現在使っているOSを新しいバージョンに乗り換える理由は何でしょうか。
従来のOSよりもより高機能のソフトが走るようになる、安定性が増してフリーズしづらくなる、新しい機能が使える、などの理由の他に、「従来のOSのサポートが終了する」という理由があります。

現在使われているOSのサポート終了時期について、以下の記事を読みました。

■三浦優子のIT業界通信■
Windows 98/Meのサポート終了の理由
~XP HomeもVista登場後2年で終了

●Vista発売後、2年しかないWindows XP Homeのサポート期間

 発売から時間が経っていることもあり、Windows 98、98SE、Meのサポートがセキュリティ面から見て対応しきれなくなったという説明はまあ納得できる。

 だが、これ以降、Windows 2000が2010年の7月13日に、Windows XP Home EditionがXPの次期OS発売の2年後、Windows XP ProfessionalがXPの次期OS発売の7年後にサポート期限が切れるという事実には納得し難いものがある。
(2006年7月11日)
---以上---

来年早々にVistaが発売になることから、WindowsXP Homeのサポートは2009年まで、WindowsXP Proのサポートは2014年まで、ということになります。

私が使っているパソコンキーボードは、RboardProという親指シフトキーボードで、すでに発売が中止されており、サポートも終了しています。このキーボード用のドライバーは、Windows2000, XPのものは入手できますが、その次のOSに対応する予定がないのです。従って、Windows2000, XPのサポート終了と同時に私のキーボードの寿命が尽きる可能性があるのです。
キーボードそのものは、職場用、自宅用の他に予備を含め、合計3台のRboardProを持っているのですが、それらが物理的に寿命を迎える前に、ソフトの面で寿命が来てしまうかもしれません。

ひょっとしたら、誰か奇特な人がVista用のドライバーソフトを作ってくれるかもしれませんが、あまり期待できません。

今のキーボードが使えなくなった時点で、今のキーボードと同等あるいはそれ以上の使い心地を有する親指シフトキーボードが手にはいるのかどうか、絶滅危惧種である親指シフトユーザーの悩みは尽きません。

ところで、最近(この1年程度)に個人で購入したパソコンのOSはその大部分がWindows XP Homeだと思いますが、そうするとそのパソコンのOSの寿命はあと2年ちょっとしかないということになります。そのことを知って購入した人などいないと思いますが、購入後たった3年程度でOSが使えなくなったら、やはり怒るでしょうね。
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すべての道はローマに通ず

2006-11-16 23:37:36 | 趣味・読書
塩野七生著「ローマ人の物語」文庫本27~28巻は、「すべての道はローマに通ず」との題で、ローマ帝国時代を特徴づけるインフラについて特集しています。
ローマ人の物語〈27〉すべての道はローマに通ず〈上〉 (新潮文庫)
塩野 七生
新潮社

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ローマ帝国時代に敷設された街道として、アッピア街道が有名です。ローマから南に下り、南東端近いブリンディッシまで延びていた街道で、現在もごく一部に当時の面影が残っているということです。
また、「ローマ水道」という名前で、ヨーロッパの各地に石造りの高架橋の残骸が残っています。

今回、上記「ローマ人の物語」を読んで、当時のローマ帝国の人たちが実に徹底的にローマ街道とローマ水道を建設していたことを知りました。

現在のアッピア街道遺跡の写真を見ると、道路には大きな石が敷き詰められているのですが、角が丸い石がごろごろと置かれており、こんなでこぼこ道をタイヤも持たない馬車が走れるはずがない、と思っていました。
しかし現在の遺跡は、長いこと補修が行われなかったために敷石の角が丸くなっただけであって、当時はきちんとメンテされ、鉄輪の馬車が高速で走れる平坦性を確保していたのだそうです。
ローマ街道は、平坦に敷石を敷き詰めた車道の幅が4m(両側)であり、その両側に片側3mの歩道を持っていました。そしてこのような街道が、ローマ本国はおろかヨーロッパ、北アフリカ、西アジアのローマ帝国全域に張り巡らされ、その全長は幹線だけで8万キロに達したというのです。これだけの街道を、紀元前3世紀から紀元後2世紀までの500年間に敷設し、常に最良の状態を保持するようにメンテし続けられました。


ローマ水道は、都市近郊の数十キロ先の水源地から地下あるいは高架橋を使って水を都市まで引き込みます。都市内の終点で貯水槽に溜めるので、貯水槽の水面より高い位置を流すため、都市周辺では必ず石造りの高架橋になるようです。
ローマ帝国の首都ローマには合計11本の水道が引き込まれ、紀元1世紀半ばで、1日あたり百万立方mの水が供給されたそうです。ローマの人口一人あたり1日1立方mであり、途中のロスによってこの半分が供給されたとしても、現代東京の0.47立方mに匹敵するということです。

ローマ帝国時代は、属州を含め主要都市のすべてにこのような水道を敷設し、水を供給したそうです。ローマ時代には伝染病被害は少なく、それはこの水道によって衛生が保たれたからではないか、と推測されています。

このようなローマのインフラも、ローマ帝国末期、蛮族の侵入が繰り返され、廃れてしまいます。

紀元150年頃のローマ帝国では、ローマ本国といわず属州といわず、ローマの覇権の許でともに暮らす人であるというだけで、自由にかつ安全にローマ帝国内を旅行することができました。ローマ街道というハードのインフラが整備されていたのみならず、帝国内の治安も十全に保たれていたのです。それが本当だとしたら、2000年前のヨーロッパは現代と同様の安全と治安が保たれていたということになります。「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」は、本当の意味で平和を実現していたようですね。

人類が保有する輸送能力が2000年前のローマ時代を超えるのは、はるか近代になって鉄道が開設されるまで待たなければなりませんでした。
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ローマ皇帝ハドリアヌス

2006-11-14 23:00:12 | 趣味・読書
紀元2世紀、ローマ帝国の5賢帝の2人目のトライアヌスの後、3人目はハドリアヌス帝(在位紀元117~138年)です。
塩野七生著「ローマ人の物語」文庫25巻はハドリアヌス帝の物語です。
ローマ人の物語〈25〉賢帝の世紀〈中〉 (新潮文庫)
塩野 七生
新潮社

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ハドリアヌス帝の特徴は、在位約20年の2/3を帝国を巡察する旅に費やしたことです。

ハドリアヌス帝の時代、ローマ帝国の版図は最大に達しています。西方(オチデント)ではライン川の西、現在のフランス、ベルギー、スペイン、大ブリテン島の南半分の地域です。東方(オリエント)はドナウ川の南側、黒海からユーフラテス川に至るまでであり、アフリカの北岸は全域が帝国版図です。ドナウ川北岸のダキアも、トライアヌス帝の時代にローマ属州になりました。
そしてハドリアヌス帝以降、ローマ帝国は攻勢の時代を脱し、帝国を維持し帝国の安全を保障することに重点が置かれる時代になっています。

帝国内においては、属州といえどもローマ本国と同化を図り、先住民の指導者は世襲のローマ市民権を取得し、自治を認められ、街道や上下水道などのインフラについてはローマ本国と同等の設備がローマ本国によって建設されます。
一方帝国外については、ライン川の東側、ドナウ川の北側の地域は当時ゲルマーニアと呼ばれ、ローマ人が「蛮族」と呼ぶゲルマン人が部族ごとに割拠していました。ゲルマン人が帝国版図に侵入してくるのを防ぐため、ライン川沿いとドナウ川沿いには強力な防衛陣地がしかれ、軍団が常駐しています。
またユーフラテス川の西側、今のイランのあたりはパルティア王国の土地であり、ローマ帝国の隙あらばと常に狙っています。

ハドリアヌス帝の旅は、少数の実務家を引き連れ、主に軍団基地を中心に、僻地に至るまでの全域を網羅します。各地において実情視察とともに現地の実務家の意見を聞き、帝国の安全保障体制を万全のものにするための必要な措置を講じていきます。
こうしてハドリアヌス帝によって万全の安全保障体制が構築され、ローマ帝国は自身が「黄金の時代」と称する時代を迎えるのです。

ハドリアヌス帝が旅の最後に行ったもう一つの事件は、ユダヤ人の運命をその後20世紀に至るまで決定づける事件でした。

ローマ属州に組み込まれた諸地域において、原住民はローマが定める法に従いさえすれば、広範な自治が認められていました。またローマ文明圏に属することで安全にかつ豊かに暮らすことができます。
このような属州としての地位にひとり肯んじなかったのがユダヤの地に住むユダヤ人です。ユダヤ教の神のみに服するユダヤ人は、ローマ法に服そうとしません。カエサル以来歴代のローマ指導者は、何とかユダヤ人とうまくやっていこうと苦労しました。

ハドリアヌス帝は旅の最後にユダヤを訪れ、「割礼の禁止」を言い渡します。この措置はユダヤ人の気持ちを逆なでし、ユダヤ人の過激派が暴動を起こします。塩野七生氏は、ハドリアヌス帝はこれを狙って「割礼の禁止」措置を講じたのではないかと推測しています。

ハドリアヌス帝は何年もかかって暴動を鎮圧した後、イェルサレムからのユダヤ教徒の追放を決定したのです。ユダヤ教徒はイェルサレムに居住できなくなり、各地に離散(ディアスポラ)することになります。
こうしてユダヤ人は祖国を失い、元老院での採決を経て公式に発効した紀元135年からの「ディアスポラ」は、20世紀半ばのイスラエル建国までつづくことになります。

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