弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

電波法改正の思い出

2016-10-30 15:04:14 | 趣味・読書
私は、1990年に三級アマチュア無線技士資格を取得し、1991年にアマチュア無線局を開設しました。当時は山口県に在住していたので、コールサインは
JJ4MGJ
でした(現在はJI1RMW)。当時のアマチュア無線活動について、最近記事にしました

その当時、パソコン通信にもはまっていました。Nifty-serveの中の各種のフォーラムから、自分が興味を持つフォーラムを見つけ、会議室の中で議論を展開していました。
その中に、アマチュア無線フォーラム(FHAM)があり、そこにも出没していました。

ある日、FHAMの会議室に重い発言がアップされました。1992年頃と思います。
当時、アマチュア無線で個人の無線局を開局するためには、本人が日本国籍を有していることが必要でした。在日外国人の方は、無線従事者免許を持っていても、自分の無線局を開局できなかったのです。
その重い発言の主は、在日外国人の方で、日本に永住しているのに、個人でアマチュア無線局が開局できないのは不当ではないか、という趣旨でした。
その発言の重さに、しばらく会議室は沈黙に支配されました。私はその沈黙に堪えられず、一方で特にその問題に意見も持っていなかったのですが、取りあえず感想をアップしました。その後、問題意識を持っている別のメンバーから発言が相次ぎました。そしてその会議室での議論として、「われわれでできることを何とか始めようではないか」という方向に進みました。
問題が問題ですので、オープンな会議室で具体的な相談をすることも躊躇されます。アクティブ会員の一人が、Nifty-serveの中にこの問題のみを扱うプライベート会議室を開設してくれ、その後はこのプライベート会議室で相談が進みました。
主要な政党に法改正を働きかけようというのです。

まずは、各国において、外国籍の人に対してアマチュア無線局開局を認めているかどうか、調査することから始めました。分担して、各国のアマチュア無線連盟に手紙を出したと思います。返事が返ってくる国、返ってこない国などあったでしょうか。

その次に、各政党に送る要望の文面作成に入りました。文面ができあがったところで、各政党宛に郵送で発送しました。私は、知り合いの衆議院議員にも同じ手紙を発送しました。
しかし、どこからも何の反応もありませんでした。

その後、私は1993年の初めから弁理士試験の挑戦に入りました。勉強の邪魔になることはすべて排除です。Nifty-serveについては、弁理士受験会議室があるFLICのみにアクセスし、FHAMには入りません。自分で「FHAM絶ち」と名付けました。
その結果、アマチュア無線周辺の動きは全く入ってこなくなりました。

1993年のある日、わが家に大型封筒で郵便が届きました。差出人は公明党です。中には、以下の内容の手紙が入っていました。
「郵政省が国会に電波法改正案を提出した。改正電波法によると、アマチュア無線局の国籍条項が廃止され、日本国籍がなくても個人の無線局開局が可能になる。
皆さんの要望がそのまま実現する法案が内閣から提出されたことにびっくりしている。皆さんの熱意が届いたのかもしれない。」(だったと思う)
びっくり仰天です。

あわててFHAMにアクセスしてみると、一緒に活動した仲間は皆そのことを知っていました。
そして、電波法改正を記念して、仲間たちでアマチュア無線交信を行うことになりました。私のログブックを確認すると、1993年の7月17日に、JH2DBQさんとの交信記録が載っています。QSLカードも実在します。
私の送受信機は21MHz単一であり、山口県からこの周波数で交信すると、電離層で反射して届く最短は北海道付近です。それより近くでは、電波が電離層を突き抜けてしまって相手に届きません。東海地方にある相手のアンテナがよっぽど高性能だったのでしょう。何とか交信することができました。

それにしても、われわれが各政党にお願いの手紙を出したその直後に、郵政省が結果的にその願いを聞いてくれたわけです。単なる偶然でしょうか。
私は、私が手紙を出した衆議院議員が、郵政省に連絡してくれたに違いない、と信じているところです。その衆議院議員も亡くなってしまい、確認するすべを失いましたが。

ネットによると、アマチュア無線の国籍条項が廃止されたのは1994年4月、とありますので、1993年に国会で可決成立して1994年4月に施行されたのでしょう。

電波法改正の思い出でした。
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ダイソンDC12新聞記事

2016-10-26 21:35:28 | Weblog
このブログでは、2009年から2010年にかけて、ダイソンのDC12について3回にわたって記事にしてきました。
ダイソンの掃除機(2009-11-17)
ダイソンのDC12が大変なことに(2010-05-28)
ダイソンDC12~最終章(2010-08-10)

この中で、「ダイソンのDC12が大変なことに」では、2010年5月26日の朝日新聞記事を取り上げました。
ダイソン掃除機やけど続発 電源コード交換9万4千台
2010年5月26日16時21分 asahi.com
『英国メーカーのダイソンのサイクロン式掃除機「DC12」でやけど事故が多発している問題で、同社が販売台数の約1割にあたる9万4千台について、原因の電源コードを無償交換していることがわかった。コードの異常の訴えがあった1万6千台に加え、別のパーツの修理依頼があったものも含んでいる。』
記事によると、この掃除機は2004年6月に販売が始まり、これまでに約95万台売れています。コードの差し込みプラグ付近が断線して火花や煙が出たり、プラグが過熱したりする事故が07年6月以降に26件起き、24人が指などに軽いやけどをしたとのことです。
同社はこれまでにコードの異常の訴えがあった1万6700台についてコードの無償交換に応じたほか、別のパーツの修理依頼があった7万7800台についてもコードの無償交換を同時に実施しているのですね。
この機種の実に1割が何らかの故障でメーカーに送り返されている、というのもすごいです。
『ただ、全使用者を対象としたリコールは実施していない。「コードを無理に引っ張ったりねじ曲げたりしたためで、正しく使えば事故は防げる」とし、「あえて混乱させないように、使用者に対して事前の交換の呼びかけはしない」としている。』
『経済産業省によると、サイクロン式などの大出力掃除機で、配電電圧を海外仕様(230ボルト)から日本仕様(100ボルト)に変更した製品は、コードに流れる電流が約2倍、発熱量は約5倍になり、被覆が熱で軟らかくなりやすく、断線しやすいという。』

その後、新聞記事を朝日新聞サイトで確認することができず、上記記事が本当に新聞に掲載されたのか、確認の手段がなくなりました。ネット上では、私の上記ブログ記事が捏造ではないか、との意見さえ出ているようです。

私の職場の近所には杉並区立中央図書館があります。そこである日の昼休み、中央図書館へ出かけ、この新聞記事が入手できるか調べてみました。
縮刷を簡単に見つけることができました。

文章に一部不一致がありますが、基本的には私のブログで抜粋した記事がそのまま新聞記事であることを確認できました。
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伊藤祐靖著「国のために死ねるか」(2)

2016-10-23 14:16:20 | 歴史・社会
199年に、能登半島沖で発生した北朝鮮不審船事件(北朝鮮の工作船に対し、海上自衛隊の自衛艦に海上警備行動が発令され、海上自衛官が立ち入り検査しようとした)について、記事にしてきました。
1999年能登半島沖不審船事件」では、事件直後の文藝春秋誌に掲載された記事から、事件を振り返りました。そして『伊藤祐靖著「国のために死ねるか」(1)』では、下記の著書から、イージス艦「みょうこう」による海上警備行動の一部始終を追いかけました。

伊藤祐靖著「国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (文春新書)

伊藤祐靖著「国のために死ねるか」(1)』に記載したように、立ち入り検査員に任命された自衛官たちは、船乗りであって、近接戦闘の訓練を受けたこともありません。政治家である防衛庁長官から「海上警備行動」が発令されたからには、たとえ訓練されていなくても、重武装しているであろう北朝鮮工作船に、軽武装で立ち向かわなくてはなりません。かれらは“わたくし”というものを捨てきって、最後に残った願いは公への奉仕でした。

伊藤氏は、そのようなかれらが出動しようとするのを見送りながら、「彼らは向いていない」と思っていました。向いている者は他にいる。
『立入検査隊員の彼らは、自分の死を受け入れるだけで精一杯だった。任務をどうやって達成するかまで考えていない。しかし、世の中には、「まあ、死ぬのはしょうがないとして、いかに任務を達成するかを考えよう」という者がいる。この任務は、そういう特別な人生観の持ち主を選抜し、特別な武器を持たせ、特別な訓練をさせて実施すべきであって、向いていない彼らを行かせるのは間違っている。・・・
向いていない者にこの厳しい任務を強いるのは、日本国として、これを最後にしなければならない。そのために日本は、特殊部隊を創設すべきだ。創設は私の責務だ、と強く思った。』

日本初の特殊部隊である海上自衛隊の「特別警備隊」は、この能登半島沖不審船事件を契機として、2001年に創設されたとのことです。伊藤氏も、自ら強く希望し、特別警備隊の創隊に関わることになります。足かけ8年を先任小隊長として勤務しました。
任命された初代指揮官である一等海佐(海軍大佐)も、伊藤氏も、特殊部隊については何も知りません。そのような中で、隊員を集め、1年間で教育訓練を行い、2年後には実戦配備するというのです。

初代指揮官は、「何をやるにしろ、自分が納得する作戦行動に直結した理由の説明」を求めました。そして、自分が納得したら、誰でも首を縦にふる理屈を考えてくれる、というのです。これは、従来の自衛隊とまるで異なる発想であり、伊藤氏が日本初の特殊部隊を形成する上で大きな力になりました。

特別警備隊員の選抜が始まりました。肉体的基準は当然に厳しいとして、それとは別に、この部隊への配属を熱望していることが条件でした。結果的にはだいぶ変な者たちが集まりました。海上自衛隊のはみ出し者を全部かき集めてきて、肉体的基準を突破した者だけが残ったような感じでした。
『具体的に彼らの何が変かといえば、要は、指示や命令に黙って従うタイプではないのだ。よく解釈すれば、自分がやることには納得した上でやりたいタイプ。悪く解釈すれば、文句の多いわがままな者たちだった。』
伊藤氏は、かれらに頼もしさを感じていました。それが、特殊部隊員として当たり前の姿勢だからです。残念ながら、自衛隊という組織には、合理的な判断を極端に嫌う傾向がありました。
このような集団でしたが、隊員同士のトラブルは皆無でした。

以下、特別警備隊に関して、印象に残った記述を列挙します。
○訓練には二種類あることが判ってきた。実施頻度が少しでも低くなるとすぐに技量が落ちてしまうものと、一旦修得しさえすれば技量が落ちないものがある。すぐに技量が落ちてしまうものは、拳銃の射撃精度と体力だった。射撃訓練では通常の海上自衛官が一生かかって撃つくらいの弾数を一日で撃ったし、それを毎日繰り返した。
○筋肉そのものをつけ過ぎないようにした。筋肉はより多くの酸素を必要とするからである。
○実際に米海軍特殊部隊を見たとき、個人の技量は目を疑うほどの低レベルだった。
○某国(多分英国)の特殊部隊員は、プロフェッショナリズムを強く感じさせた。
○特殊部隊の文化は、陸軍の文化である。海上自衛隊の中に特殊部隊を創るというのは、海軍の中に陸軍を創るようなもので、この文化の違いというのが、非常にやっかいだった。
○陸軍と海軍の違いは、大きく2つ、意思疎通の手法の違いと、意志決定のシステムの違いである。
海軍は、意思疎通を図るための努力を通信に傾注してきた。一方陸軍は、意思疎通がとれない場合が多いので、作戦行動中に状況が大きく変化したとき、現地部隊は指揮官の意に沿うように判断ができるよう「任務分析」を行う。
乗り物に乗って戦闘をする海軍では、意志決定をするのは艦長、機長一人であり、その他の者は艦長の目、耳、指先のようなものだ。対して陸軍の個人で行う戦闘では、すべて一人の人間が自分の責任で行う。
海上自衛隊の指揮官は、特殊部隊に対して「状況、知らせ」が口癖だった。一方、陸上自衛隊と共同訓練をした時、伊藤氏に状況を聞いてきた高級幹部は一人もいなかった。その理由を聞いたところ「始まってしまったら、現場の指揮官に自由裁量の余地を少しでも多く与えること、現場指揮に専念できる環境を整えてやること、これが僕の仕事だからね」
○伊藤氏は、訓練中に部隊全滅を覚悟したことが2回あり、いずれも、山中で低体温症に直面した時だった。そのとき伊藤氏は、陸上自衛隊のX氏から指摘された。伊藤氏らの訓練で足りないのは「自然に対する驕りです。人間は、自然には絶対に勝てません。あと、体力の温存に関する感覚の違いですかね。」

○日本という国は、トップのレベルに特出したものがない一方、ボトムのレベルが他国に比べると非常に高い。自衛隊については、兵隊や下士官は他国に比べて極めて優秀である。

○特殊戦教育を終え、実戦配備に就けたとき、仲間から「あいつとは、一緒に行かない」と言われてしまう者が出てくる。戦闘行動の真っ最中に、仲間同士での意思疎通が突然とれなくなってしまうのだ。
伊藤氏は、将来的に仲間からはじかれてしまう隊員は、精神的ストレスをかけるとギブアップする、と考えた。そして、隊員選考テストの中に、一週間の精神的ストレスをかけ続けるテストを導入した。このテストがあるため、脱落者が多く、いつまでたっても定員に満たなかった。

当初、伊藤氏は米海軍特殊部隊(SEALs)へ留学する構想でしたが、米海軍が秘密保持を理由として拒否したために行きませんでした。もし留学していたら、米国で実施されている方法の模倣になってしまったといいます。そして伊藤氏は、「米国海軍の特殊部隊は低レベルである」と判定しました。
私はこのブログで、マークボウデン著「ブラックホークダウン」について記事にしました()。これは1993年10月3日にソマリアの首都モガディシュで起きた戦闘の記録です。当時、ソマリア内戦が泥沼化しており、戦争による難民の飢餓が国際的な課題となっていました。国連は食糧援助のためPKOによる軍事的介入を行いました。
国連と米軍に抵抗する最大武装勢力はアイディド派でした。米軍は、アイディド派の幹部二人がモガディッシュの中心部のある建物で会合するという情報をつかみました。そこで米軍は、真っ昼間にヘリコプターでこの建物を急襲し、幹部二人を拘束・拉致しようと企てるのです。この作戦で、米軍の特殊部隊であるデルタフォースと、おなじく米軍のレインジャー部隊が共同作戦を行います。ブラックホークヘリコプター搭乗したデルタフォース部隊が目標の建物にロープ降下して敵を急襲し、目標の幹部二人を拘束します。別のブラックホークヘリコプター4機にそれぞれレインジャー部隊が搭乗し、建物の周辺4箇所にロープ降下し、防御陣地を構築します。それと同時にハンヴィーとトラックからなる車列が米軍基地を出発して目標の建物に到着し、拘束した敵幹部を乗せて基地に帰還する、というのです。
デルタフォースとレインジャー部隊の共同作戦といっても、役割分担が異なり、異なった位置に配置されています。
ところが、米軍のブラックホークが現地で墜落し、計画が狂います。各戦闘員が墜落したヘリコプターを目指し、デルタフォースとレインジャー部隊は混在して行動することになりました。そしてその過程で、レインジャー部隊隊員は、はじめてデルタフォースの実力を目の当たりにするのです。その結果、謎に包まれていたデルタフォースの実力が語られることになりました。
デルタフォースの実力は凄まじいものでした。まわり中からソマリア人の銃撃を受けても米兵にはなかなかあたりませんが、デルタのメンバーが発砲すると百発百中のようです。
また、部隊で作戦計画を発令する雰囲気も、デルタフォースとレインジャー部隊では異なっていました。レインジャー部隊では、指揮官が計画を説明すると隊員は「了解」するだけです。ところがデルタフォースでは、隊員から反対意見が出され、議論が始まるというのです。
伊藤氏が特殊部隊のあるべき姿として語っているのは、デルタフォースのやりかたです。伊藤氏は、米国海軍のシールズと接した結果として、米国の特殊部隊はたいしたことない、と評価していますが、デルタはひょっとすると異なるかもしれません。
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ボケモンGOその後

2016-10-18 19:35:42 | 趣味・読書
ポケモンGOについて前回報告したのは9月25日です。始めてから1ヶ月程度でした。
それからさらに20日以上が経過しました。

毎日確実に歩いているので、ゲームは着実に進行しています。
ゲーム開始以降、歩いた距離は累計221kmになりました。
訪れたポケストップは2759回、捕まえたポケモンは1790匹、孵化したたまごの数は212個です。
その結果、ポケモン図鑑に登録した種類は112種類です。
たまごから孵化したポケモンのうち珍しいものはというと・・・。
ラプラスを1匹孵化させたことは前回報告しましたが、その後、2匹目のラプラスも生まれました。また、プテラも2匹になりました。ルージュラも私にとっては珍しいポケモンです。カビゴン、ポリゴン、ラッキーは、前回の時点ですでにゲット済みでした。

歩くルートとしては、ずっと井の頭線の沿線(浜田山と明大前の間)のみでした。ポケモンはたまにしか出現しませんし、出現するポケモンの種類も限定されています。例えば、進化でギャラドスをゲットするためにはコイキングのあめを400個集めないとならないのですが、1日にゲットできるコイキングはせいぜい数匹の範囲内です。獲得したコイキングのあめが350個まで行きましたが、400個はまだまだ先です。

先週、9日の日曜、午前中は雨だったのですが、午後は雨が上がったので、近所にポケモン捕りに出かけることにしました。井の頭公園も近所にあります。そこで、井の頭公園へ行ってみることにしました。
行ってみてびっくりしました。公園の敷地内は、どこもしかこもポケモンがうじゃうじゃ生息しています。一番多いのはコイキングでした。普段、2km歩いてポケモンが数匹捕れる頻度と比較すると、全くの別世界です。
帰宅して整理してみたら、コイキングのあめは軽く400個を超えていました。こうして、進化によってギャラドスをゲットすることができました。

ギャラドス以外で、もうすぐゲットできそうだとして狙っているポケモンとしては、ニドラン♀を2段階進化させてのニドクイン、ニドラン♂を2段階進化させてのニドキング、ナゾノクサを2段階進化させてのラフレシア、イーブイの進化形としてのサンダースなどがありました。しかし、普段の通勤路では、ニドラン♀、ニドラン♂、ナゾノクサ、イーブイなどはほとんど出現しません。

翌10日(体育の日)は、久しぶりに雨が上がったので、家内と高尾山に出かけることにしました。別にポケモンを期待したわけではないのですが、京王線の高尾山口駅を出てからリフト乗り場に到着するまでの間、ここもポケモンがうじゃうじゃでした。一番多いのはコイキングですが、すでにギャラドスをゲット済みなので、コイキングはほとんどパスしてしまいました。そしてコイキング以外では、ニドラン♀、ニドラン♂、イーブイが、群れのように出現するのです。こちらは見かけたらゲット、を繰り返しました。
リフトを降りてから高尾山山頂までは、携帯の電波が届かないところが大部分ですが、山頂ではまた電波が届き、ポケモンGOが作動しました。山頂でも、特にイーブイがたくさん捕れました。

こうして、ニドキング、ニドクインが、あっという間に進化で獲得できました。

イーブイの進化形は3種類あります。シャワーズ、サンダース、ブースターです。このうち、シャワーズは野生で捕獲していました。バスで首都高を走っていたとき、たまたま渋滞だったのですが、高速道路上にシャワーズが出現したのです。うまく捕獲できました。ブースターは初期に進化で獲得していました。
残るはサンダースです。高尾山から帰ると、イーブイのあめは25個を超えており、進化の準備はできています。一方、普通にイーブイを進化させると、3種類の進化形のうちでどれが出現するか選択できません。そこで裏技を使いました。進化させるイーブイの名称を「イーブイ」から「ライゾウ」に変更し、そのうえで進化させると、確実にサンダースが生まれるというのです。やってみたらその通りでした。
こうしてイーブイの進化形3種類も獲得です。

トレーナーのXP値を上げるため、いわゆるポッポマラソンも4回か5回、行いました。キャタピー、ビードル、ポッポの3種類は、普段歩く道路でも頻繁に捕獲することができ、また、進化させるに必要なあめの数がいずれも12個なので、いっぺんに大量に進化させることができます。そしてこのとき、XPを獲得することができます。また、このときに「しあわせのタマゴ」を用いれば、獲得できるXPの値が倍になるのです。

このようにしてXPを増大した結果、現在では、取得したXPが693470、そして、トレーナーレベルは現在24、もうすぐ25です(前回報告時はレベル21)。

 

ところで、図鑑の末尾を見ると、右上写真のように、144の下、ハクリューの右にシルエットが見えます。ここはカイリューの場所です。これまではシルエットもなかったのですが、井の頭公園から帰った夜、ここがシルエットになっていることに気づきました。ということは、気がつかないうちに、どこかでカイリューに邂逅し、うっかり取り逃がしていた、ということになるのでしょうか。
その後、図鑑の004番もシルエットに変わっていました。ここはヒトカゲの場所のようで、ということはヒトカゲをも知らないうちに取り逃がしていたのでしょうか。

その後さらに進化が進行し、フシギバナ、ラフレシアも進化でゲットできました。
当面狙っていたものはほとんど獲得してしまいました。
後は、有名どころでは、カイリュー、カイリキーあたりが残っているのみです。
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伊藤祐靖著「国のために死ねるか」(1)

2016-10-16 12:11:21 | 歴史・社会
1999年に起きた能登半島沖不審船事件について、当時の文藝春秋記事から得た知識を、以前報告しました。
もともと前回の記事を書いたのは、最近読んだ下記の書籍に触発されたためです。
国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (文春新書)
伊藤祐靖
文藝春秋

巻末の著者紹介には以下のように書かれています。
『1964年東京都出身。日本体育大学から海上自衛隊へ。・・「みょうこう」航海長在任中の1999年に能登半島沖不審船事件を体験。これをきっかけに自衛隊初の特殊部隊である海上自衛隊の「特別警備隊」の創設に関わる。42歳の時、2等海佐で退官。以後、ミンダナオ島に拠点を移し、日本を含む各国警察、軍隊に指導を行う。・・・』

非常に面白い本でした。印象に残ったポイントは多いです。
○陸軍中野学校出身の父親との関係。
○大学卒業後に最下級兵士として海自に入隊。その後幹部候補生から士官へ。
○1999年に能登半島沖不審船事件において、何が起きようとしていたのか。
○日本最初の特殊部隊を海自の中に創設する過程でわかったこと。
○ミンダナオ島で何を体験したのか。

以下、順を追って書いていきたいと思いますが、まず最初に
○1999年に能登半島沖不審船事件において、「みょうこう」の艦上で何が起きようとしていたのか、について書きましょう。

『能登半島沖不審船事件は、私の人生の転機であっただけでなく、戦後日本の軍事・防衛にも大きなインパクトを与えた出来事である。なのに、一般的には、事件が起きたことすらほとんど知られていない。』(伊藤著)

前回の記事に書いたように、1999年3月19日に、北朝鮮から2隻の工作船が発進するとの情報が韓国と米国から日本にもたらされたことに端を発します。
3月23日早朝。海上自衛隊のP-3C対潜哨戒機が、佐渡島西沖と能登半島東沖で、相次いで計2隻の不審船を発見しました。

護衛艦「みょうこう」に出動命令が出され、「みょうこう」の物語が始まります。
著者の伊藤祐靖氏は当時、一等海尉(海軍大尉)で、「みょうこう」の航海長でした。「みょうこう」は舞鶴港に停泊し、伊藤氏も上陸していました。3月22日、携帯電話で緊急出航の命令が伝えられます。艦に帰ってみると、艦長は「秘のグレードが高すぎるので、行き先は出航直前まで言えない」と言うのです。そして出航直前に艦長に尋ねると、「行き先は富山湾だ」というわけです。
翌23日早朝、「みょうこう」は富山湾に到着し、不審船の捜索を始めました。日本漁船に擬装した不審船を見つけるのですから、簡単ではないはずです。捜索開始から半日後の午後、独行の漁船を発見しました。伊藤氏は、まだ操船になれていない若い幹部の訓練のつもりで、その漁船の後方500ヤード(460m)につけるよう、指示しました。そしてその漁船の後にスムーズに滑り込むと、なんと、漁船の船尾に縦の線が入っていました。船尾が観音開きになるのです。間違いなく北朝鮮工作船です。記載されている船名は第2大和丸でした。

不審船と併走しつつ海上保安庁へ連絡です。保安庁からは、「不審船に乗り込む海上保安官たちが、大阪から新潟へ航空機で移動中。新潟から高速巡視船で迫ってくる」との連絡が来ました。
日没前の18時頃、巡視船が追いついてきました。巡視船を見ると、若い海上保安官たちが、工作母船に飛び乗るために甲板上に並んでいます。
巡視船が工作船に近づき、若い海上保安官がまさに飛び移ろうとしたその瞬間、工作母船が増速しました。みょうこう、巡視船もスピードを上げて追跡します。みょうこうは、10万馬力のガスタービンエンジンの全力を出し、最大戦速で追跡を開始しました。
巡視船が威嚇射撃を始めましたが、上空に向けて小口径の砲をパラパラと打ち上げるだけです。そのうち、巡視船は、新潟に帰投する燃料に不安があるとの理由で、突然帰投するのです。

みょうこうは、30ノットを超える高速で工作母船と併走します。
伊藤航海長が食堂で休息していると、突然「戦闘配置につけ」を意味するアラームが鳴ります。「海上警備行動が発令された。総員、戦闘配置につけ。準備でき次第、警告射撃を行う。射撃関係者集合。立ち入り検査隊員集合。」
127ミリ単装速射砲による警告射撃が始まります。1発目は後方200m、2回目は前方200m、さらに後方100m、前方100m、後方50mと、着弾点を目標に近づけますが、工作船は減速の兆しを見せません。
と、突然、工作船が減速しました。工作船、みょうこう、ともに日本海のど真ん中で停止しました。官邸からの海上警備行動の発令を受けてここまで来たのですから、次は工作母船内の立ち入り検査です。
しかし、隊員たちは、立ち入り検査について1回も訓練したことがないのです。海軍が立ち入り検査を行うという考えは世界的にも最近出てきたばかりで、みょうこうは防弾チョッキも装備していないのです。
立ち入り検査のための準備作業が整い、一旦解散することになりました。立ち入り検査員の中に、伊藤航海長直属の部下がおり、緊張した面持ちでやって来ました。
『「航海長、私の任務は手旗です。こんな暗夜の中、あんなに離れた距離で手旗を読めるわけがありません。行く意味はあるのでしょうか?」
私は答えた。「つべこべ言うな。今、日本は国家として意志を示そうとしている。・・・国家がその意志を発揮する時、誰かが犠牲にならなければならないのなら、それはわれわれがやることになっている。その時のために自衛官の生命は存在する。行って、できることをやれ」
彼は、一瞬目を大きく見開いてから、なぜかホッとした表情を見せた。
「ですよね、そうですよね。判りました。」』
『そして、一旦解散した検査隊員たちが、食堂に帰ってきて再集合した。驚いたことに、彼らの表情は一変していた。・・・10分前とは、まったく別人になっていたからだ。悲壮感の欠片もなく、ニコニコはしていないが、清々しく、自信に満ちて、どこか余裕さえ感じさせる、』
伊藤氏の部下が立ち止まり、
「航海長、お世話になりました。行って参ります。」そして5、6歩行ったところで急に振り向き、「航海長、あとはよろしくお願いします」

伊藤氏は「これは間違った命令だ」と考えていました。幸いなことにこのときは、彼らの出撃直前に、工作母船が再び動き出したので、「立ち入り検査」は実施されませんでした。工作母船は逃走を続けて日本領海を離れ、作戦中止命令が発令されました。

それまでは手旗要員でしかなく、近接格闘戦など訓練したこともなかった海上自衛官が、短い時間のうちに出撃を覚悟し、多くの欲求を諦めていきました。かれらが“わたくし”というものを捨てきって、最後に残った願いは公への奉仕でした。

以上が、「国のために死ねるか」で描かれた能登半島沖不審船事件の顛末です。
不審船の立ち入り検査は、本来であれば海上保安庁の任務です。その任務が海上自衛隊に回ってきました。根拠となる「海上警備行動」について、法律では、
『強力な武器を所持していると見られる艦船・不審船が現れる等、海上保安庁の対応能力を超えていると判断されたときに、防衛大臣の命令により発令される海上における治安維持のための行動である。
自衛隊法82条に規定されたものであり、自衛隊法93条に権限についての規定が定められている。海上における治安出動に相当し、警察官職務執行法・海上保安庁法が準用される。発令に当たっては、閣議を経て、内閣総理大臣による承認が必要である。』
としています。
「海上保安庁の対応能力を超えている」とされるのは、あくまで「強力な武器を所持していると見られる」からです。
しかし、「国のために死ねるか」によると、巡視船の燃料が不足しただけのことでした。また、文藝春秋記事によると、巡視船の速力が遅くて高速の工作船について行けなかっただけのことです。どちらも、相手の武装が優越だったためではありません。従って、「海上保安庁には無理だが、海上自衛隊の得意技である」とはとても言えません。巡視船であれば不審船に直接接舷してして乗り移れますが、みょうこうでは小型ボートに移乗した上で小型ボートから不審船に乗り移る必要があり、明らかにこちらの方が不利です。
今から考えると、このときに海上警備行動が発令されたことは、決して適切とは言えないでしょう。

当時の「海上警備行動」を規定した法律に無理があり、実施部隊の準備もされていません。そのような無理な命令を発令すべきではなかったのでしょう。
現在、南スーダンに派遣された自衛隊PKO部隊に「駆け付け警護」の任務を付与しようとしています。「工兵隊が戦闘に参加するのか」と首をかしげますが、能登半島沖不審船事件における海上警備行動発令の方が、よっぽど不可解でした。

「国のために死ねるか」記載内容と文藝春秋記事を対比すると、各所に不一致が見られます。少なくとも「みょうこう」が関連した部分については、「国のために死ねるか」の記述が正しいのでしょう。

能登半島沖不審船事件を契機として、海上自衛隊にはじめての特殊部隊が創設されます。「国のために死ねるか」においてその顛末が詳細に語られています。
以下、次号で。
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日米の企業文化比較

2016-10-15 10:53:32 | 歴史・社会
10月13日の新聞記事(日経か朝日)だったのですが、一つのコラムに目が留まりました。ブログ記事にするつもりだったのですが、うっかりして翌日の古紙回収に出してしまい、新聞を見ることができません。思い出しながら書くことにします。

そのコラムというのは、アメリカのシリコンバレーやシアトルの企業を訪問したときの話でした。
それら米国の都市にある企業では、社員の執務場所が職場に限定されません。自宅でも自由に仕事することが許されています。
それに対して、コラム執筆者が知っている日本の企業では、執務場所が職場に限定されています。職場以外での執務を許容すると、情報漏洩の恐れがある、というのが主な理由だったと思います。

日本での話を米国企業の人に話すと、彼らはびっくりします。
「情報漏洩を回避する方法はいくらでもある。そもそも、執務場所を職場に限定するようなことをしたら、社員が創造性を十分に発揮できないではないか。」というのが米国人の意見です。

日米のこの差は、一体なぜ起きるのか。それを考えていて、一つのアイデアに至りました。

コラム執筆者が比較の対象としたアメリカの企業は、おそらく才能に溢れた人たちが中心をしめる企業です。
そのような企業では、社員がその才能をどれだけ発揮できるかが最大のポイントであり、才能を発揮するために必要であれば、執務場所についても自由を保証し、そのときに必要となる情報漏洩防止の策も惜しみなく投資することでしょう。

一方、コラム執筆者が比較の対象とした日本の企業は、おそらく凡人たちが中心をしめる企業です。
凡人たちが中心ですから、自由な執務場所を保証してアイデアを発揮してもらうことなどあまり期待していません。凡人の中には注意散漫な人、悪意をもった人の混入率も高いでしょうから、情報漏洩の恐れの方が大きな心配となるでしょう。それがために、安全策として執務場所を職場のみに限定しているものと想像されます。

ところで、職業人全体に占める、才能豊かな人の比率と凡人の比率が、アメリカと日本でさほど異なるようには思えません。アメリカにも凡人は大勢いるし、日本にも才能豊かな人は一定の比率で存在するはずです。上記コラムの比較において、なぜアメリカは才能豊かな人たちの企業、日本は凡人中心の企業になったのでしょうか。

われわれが「アメリカを代表する企業」として着目する企業が、おそらく才能豊かな人たちが中心となった企業なのでしょう。このような企業がイノベーションを生み出し、アメリカ、そして世界を牽引する業績を生み出すのでしょう。
それでは、アメリカに大勢いるはずの凡人はどうしているのか。今まで、われわれ日本人からはよく見えませんでした。思うに、今回のアメリカ大統領選挙で、アメリカの凡人が見えてきたような気がします。あのトランプが共和党大統領候補にまで上り詰めたのは、白人の中下流の人たちが支持しているためといいます。そうか。アメリカの凡人がここに出現したか。私はそう思いました。

一方、われわれが「日本の一般的な企業」として目にしている企業は、凡人が中心となっている企業です。凡人でも勤まるような構造となっています。日本では、凡人といってもそのボトムが一定レベルを確保できているので、凡人中心であってもそれなりに機能するのでしょう。
それでは、日本の才能溢れる人たちはどうしているのでしょうか。
恐らく、凡人中心の企業の中で、凡人たちの中に埋没して日々を過ごしているのでしょう。あるいは、才能溢れる人たちは学業も優秀でしょうから、最初から管理職候補として、ゼネラリストコースを歩いているかもしれません。いずれにしろ、創造性を発揮することは難しいですね。

さて、新聞で読んだ一つのコラムから想像をたくましくしましたが、真実の一端をついているでしょうか。
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1999年能登半島沖不審船事件

2016-10-09 12:32:13 | 歴史・社会
伊藤祐靖著「国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (文春新書)
巻末の著者紹介には以下のように書かれています。
『1964年東京都出身。日本体育大学から海上自衛隊へ。・・「みょうこう」航海長在任中の1999年に能登半島沖不審船事件を体験。これをきっかけに自衛隊初の特殊部隊である海上自衛隊の「決別警備隊」の創設に関わる。42歳の時、2等海佐で退官。以後、ミンダナオ島に拠点を移し、日本を含む各国警察、軍隊に指導を行う。・・・』

『能登半島沖不審船事件は、私の人生の転機であっただけでなく、戦後日本の軍事・防衛にも大きなインパクトを与えた出来事である。なのに、一般的には、事件が起きたことすらほとんど知られていない。』(伊藤著)

1999年に起きた能登半島沖不審船事件、確かに事件直後の報道の記憶は全くありません。一方私は、事件直後の文藝春秋の記事でこの事件のことを知っており、強烈な印象を受けていました。記事のスクラップが取ってあります。文春記事を追ってみましょう。

『自衛隊員は「玉砕」寸前だった
初めての海上警備行動に踏み込んだ深夜の海で何が起きようとしていたのか』麻生幾
(文藝春秋 1999年5月号146~152ページ)

1999年3月19日。北朝鮮から2隻の工作船が発進するとの情報が韓国と米国から日本にもたらされた。
3月23日早朝。海上自衛隊のP-3C対潜哨戒機が、佐渡島西沖で工作船を捉えた。護衛艦「みょうこう」に佐渡島沖に向かうように命令が出される。
さらにその2時間半後、能登半島東沖に、P-3Cがもう1隻の不審船を見つけた。護衛艦「はるな」にも出動命令が出される。
「はるな」は、まず能登半島沖で「第2大和丸」を発見、次に佐渡島沖で「第1大西丸」を発見した。能登半島沖では「みょうこう」が第2大和丸の追跡を開始、佐渡島沖では「はるな」が第1大西丸の追跡を開始した。
午後8時、海上保安庁は巡視船に対して武器使用の命令が下った。巡視船「ちくぜん」は、能登半島沖を逃げる第2大和丸に威嚇射撃を行ったが、工作船の速力(35ノットを超える)は巡視船の速力をはるかに凌駕し、逃げられる。能登半島沖でも、巡視船「さど」は第1大西丸から引き離される。
一方、海自の「みょうこう」と「はるな」は、工作船の速度に負けず、それぞれの工作船を追跡し続けていた。

午後11時47分、「はるな」のレーダーが、第1大西丸が停船したことを確認したと連絡が入る。
『「今から立ち入り検査ができる。対応可能は護衛艦だけだな!
防衛庁長官が言った。
首相官邸も決断した。日付が変わった3月24日午前零時30分。防衛庁長官に対し、運輸大臣からの電話によって、海上警備行動の発令を依頼。・・・運命の時間。午前零時50分。防衛庁長官は、居並ぶ自衛隊幹部の前で、宣言した。
「海上警備行動を発令する」』
このあと、「はるな」と「みょうこう」はそれぞれ工作船に停戦命令を発し、停戦命令に従わない工作船に対して127ミリ速射砲での警告射撃を繰り返す。
しかし、3時20分、第2大和丸が日本の防衛識別圏を越境、6時6分に第1大西丸が日本の防衛識別圏を通過したため、作戦行動が中止された。

『海上警備行動を命ずる防衛庁長官の言葉に、横に座っていた海上自衛隊の幕僚長の顔が大きく引きつったのを、多くの関係者は目撃している。
幕僚長の心中は、海上自衛隊の幹部たちは全員わかっていた。もし工作船に立ち入り検査を行う場面があったら最悪の事態が起きるだろう。大勢の隊員たちが殺され、内閣も吹っ飛ぶだろう・・・
「立ち入り検査は、甲板上に備えつけられた内火艇(小型ボート)を降ろし、隊員を乗せて近づくしかない。選抜されるのは砲雷科の隊員で、六四式自動小銃を携行することになろう。だが、海上自衛隊では、外洋での立ち入り検査訓練を一度もやっていない。荒れる海に浮かぶ内火艇に銃を持って乗り込むだけでも大変。恐らく、二、三名は銃を海に落とすだろう。そして、防弾チョッキもなく工作船に近づいた時、隠していた無反動砲や機関砲で撃たれれば、隊員たちは有効な反撃はできない。間違いなく、全員玉砕だ」(海上自衛隊OB)
海上警備行動は、日本の現行法を考えれば、極めてスムーズにいったと言えよう。ただ、実際に運用するためには、余りにも欠陥が多い。多くの隊員たちの生命が奪われることは必至--それが海上警備行動であることを知るべきだ。』

「海上警備行動」とは何でしょうか。ウィキペディアには以下のように記述されています。
『強力な武器を所持していると見られる艦船・不審船が現れる等、海上保安庁の対応能力を超えていると判断されたときに、防衛大臣の命令により発令される海上における治安維持のための行動である。
自衛隊法82条に規定されたものであり、自衛隊法93条に権限についての規定が定められている。海上における治安出動に相当し、警察官職務執行法・海上保安庁法が準用される。発令に当たっては、閣議を経て、内閣総理大臣による承認が必要である。』
海上警備行動発令後にどのような行動がなされるのか、上記の記述からは明らかではありません。能登半島沖事件の経過によると、少なくとも不審船に乗り込んでの臨検はその一つであるようです。

しかし自衛隊の得意技は、敵対する相手方に対し、相手よりも優勢な武器を用いて、相手を殲滅することによって無力化することを目的として構築されています。強力な武器で武装した不審船に対し、小火器のみを携行して乗り込んだ上で臨検するなど、(少なくとも当時の)海上自衛隊が得意とする行動では決してありません。
このとき、もしも本当に臨検隊が不審船に接近し、さらに乗り込もうとしたら、多くの隊員が戦死し、あるいは不審船の自爆によって全員が戦死した可能性があります。このような重大な事態について、日本人は知らなすぎる気がします。

安保関連法案が昨年改正され、「駆け付け警護」が可能となりました。現在、南スーダンでPKO活動を行っている自衛隊において、次期の派遣部隊から駆け付け警護を任務に加えるよう、検討されています。
南スーダンに派遣される部隊は施設部隊、即ち工兵隊です。工兵隊員が陸上戦闘を担うのには無理があるのではないか、と私は思います。
しかし、能登半島沖不審船事件で海上警備行動が発令されたときは、対人戦闘を任務とせず、訓練も受けていない隊員が矢面に立たされようとしたのです。次回記述する伊藤祐靖さんの著書によると、このときの臨検隊員の中には、手旗要員も含まれていました。訓練を受け重武装した工作船の工作員に対し、手旗要員が訓練も受けずに小銃と拳銃で立ち向かおうとしたのです。

日本の自衛隊では、軍人が勝手に暴発することのないよう、シビリアンコントロールが徹底しています。しかしこのときの実態を見ると、シビリアンである防衛庁長官と官邸が突っ走り、軍事専門家である幕僚長は、「無理だ」と意見具申するどころか、顔を引きつらせることしかできませんでした。これでは間違ったシビリアンコントロールであると言わざるを得ません。

当時の政権は、よくもこのような無謀な作戦を発令したものです。また、マスコミもこのことを大きな問題としては報じませんでした。
当時の政権担当者を挙げておきます。
 内閣総理大臣 小渕恵三
 防衛庁長官 野呂田芳成
 運輸大臣 川崎二郎
 内閣官房長官 野中広務
 外務大臣 高村正彦

文藝春秋の上記記事によると、第1大西丸が停船したのは海上警備行動が発令される前です。海上警備行動発令後にどちらかの工作船が停止し、それに対応して臨検隊が実際に出動した、という内容は文春には記述されていません。
しかし、伊藤祐靖さんの著書によると、海上警備行動発令後に、第2大和丸が停船し、臨検隊が編成されて出撃直前まで行ったとあります。出撃直前に第2大和丸が再度動き出したため、臨検が実行されることはありませんでしたが。

それでは、第2大和丸を追っていた「みょうこう」で実際にはどのようなことが起こっていたのか。次回の記事で。
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