弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

特許料の自動納付制度

2008-08-31 18:21:33 | 知的財産権
特許庁から、予納台帳または銀行口座振替による特許料等(特・実・意)の「自動納付(自動引き落とし)制度」導入についてが発表になりました。

今まで、特許料(年金)の納付については厳しい期限管理が要求されていました。
1-3年分の特許料については、特許査定を受けてから30日以内に納付する必要があり、この期限を1日でもオーバーしたら、折角の特許査定はなかったこととなり、回復の手立てがありません。
4年目以降についても、期限までに納付が要求されます。期限を過ぎてしまった場合、半年以内であれば、倍額を支払うことによって特許は維持されます。その半年を経過してしまったら、やはり回復の手立てがありません。

何もこんなに厳しくしなくてもいいのに、と常々思っていました。この程度のうっかりミスについても、回復不可能な事態に至らせなければならない理由がわかりません。

今回発表になった自動納付制度は、一般社会における自動引き落として同じような制度です。対象は、特許であれば4年目以降の年金です。1-3年分については、従来と同様、特許査定から30日以内に納付しないとすべてがパーになります。

対象となる権利単位に、「自動納付申出書」を提出すると、予納台帳又は銀行口座から毎年特許料を自動的に引き落としてくれるという制度です。
引き落としの際には、事前に申出人にその旨を通知した上で引き落とすというサービスぶりです。
権利維持が不要となった場合には、「自動納付取下書」を提出すれば、個別納付に戻るので、そのまま納付しなければ自然に権利が消滅します。

従来、年金納付に関しては、期限管理にとても気を使っていましたから、この制度はありがたいです。
この制度がスタートして何年か経ったら、この制度がなかったこと自体が信じられない、という気分になることでしょう。
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伊藤和也さんを誇りに思う

2008-08-30 11:49:56 | 歴史・社会
アフガニスタンで拉致された伊藤和也さんが亡くなられたこと、痛恨の極みです。ご両親も、ペシャワール会の方々も、悔やまれていることと思います。

アフガニスタンの山岳地帯における治安が急速に悪化していることについては、ペシャワール会でも当然に把握しており、「そろそろ危ない」と判断した地域からは順次診療所などの拠点を撤退している実情がありました。「どこが危なくて、どこはまだ大丈夫か」の判断を緻密にやられていたのでしょうが、今回は残念なことに「まだ大丈夫」と判断していた場所で遭難してしまいました。
「判断が甘かった」といえばその通りで、今回の事件を受け、ペシャワール会は中村哲代表一人を除いて、日本人全員がアフガニスタンから撤退するという事態となりました。

いずれにしろ、「もう危ない」と「まだ大丈夫」の境界はあいまいであり、そのことは伊藤和也さん自身も十分に承知していながら現地で活動していたと思います。
現地での自分の役割を認識し、現地の人たちと溶け込み、現地の人たちが生存していく上で最も必要としている農業生産の向上に尽力している中での遭難でした。

危険は認識し、危険回避に全力を注ぎつつ、しかし完全に安全ではない中で活動を続けてきた伊藤和也さんの勇気には敬服し、誇りに思います。伊藤さんがされていたような活動が、日本の国際協力の基礎を支えていることは間違いがないでしょう。


話は変わりますが、日々の報道の中で1年に何回かは、消防士の方が消火活動中に殉職される報道に接します。消火現場において、消防士の方は燃えさかる火の中に飛び込んでいく必要に迫られるのでしょう。たまたまそのときに、燃える建物が崩れ落ちれば、直ちに危機状態に陥ります。
そして結果として殉職に至ったとしても、われわれは「何でそんな危険な活動をしたのか」と責めることはせず、そのような勇敢な消防士さんがおられたことを誇りに思い、感謝します。警察官が殉職されたときも同様です。

危険を認識しつつ、それでも残る危険を顧みずに職務を全うされる方については、消防士や警察官に限らず、すべての職種について感謝し、顕彰したいと思っている次第です。

ところで、危険を顧みずに職務を全うする職種の最大手は兵隊さんであることに間違いはないでしょう。ところが日本の自衛隊員は、赴任地で襲撃されて殉職することが絶対に許されないという特殊な扱いを受けています。「イラクで自衛隊員が殉職したら内閣が吹っ飛ぶ」ぐらいな言い方でした。そのため、陸上自衛隊はイラクの「非戦闘地域」へしか赴任できず、そこでも陣地に引き籠もるという状況でした。
何とも不思議な国民感情ではあります。

ps ねこまんまさんにリンクします。
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伊藤和也さん遭難とテロ特措法

2008-08-29 19:42:14 | 歴史・社会
アフガン支援継続を 拉致邦人殺害 政府、対テロに決意
8月29日8時1分配信 産経新聞
「町村信孝官房長官は28日の記者会見で、アフガニスタンでNGO(非政府組織)ボランティア、伊藤和也さん(31)が拉致され、遺体で発見された事件に関連し、「尊い犠牲が出たが、そうであればあるほど、日本がテロとの戦いに引き続き積極的に関与する重要性を多くの国民が感じたのではないか」と述べ、インド洋での海上自衛隊による補給支援活動の継続の必要性が一層高まったとの考えを示した。
 町村氏はまた、1月15日に期限を迎える補給活動を延長するための新テロ対策特別措置法改正について「前向きの対応で与野党が合意できるものであれば法案の修正を歓迎する」と述べた。」

ペシャワール会「方向が違う」=町村官房長官の給油継続発言
8月28日22時38分配信 時事通信
「町村信孝官房長官がアフガニスタンで伊藤和也さんが拉致され死亡した事件に関連し、インド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針を示したことについて、伊藤さんが所属する「ペシャワール会」(福岡市)の福元満治事務局長は28日、「方向が違うんじゃないか。だから武力がやっぱり必要だというのは浅過ぎる」と批判した。」


先日も述べたように、中村哲著カラー版 アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条 (岩波ブックレット)から得た知識によると、町村官房長官の発言は「それは違うだろう」と思いますし、ペシャワール会が発した上記コメントもうなずけます。

ペシャワール会は、20年以上もアフガニスタンでの活動を続けています。ソ連によるアフガン侵攻、アフガン共産政権崩壊、内戦時代、大干ばつ時代、タリバン政権時代、アメリカによるアフガン戦争とその後のカルザイ政権時代、と、ずっとアフガニスタンの山岳地帯での様子を見続けています。
つい最近まで、カブールでどのような政変があろうとも、山岳地帯ではその地帯の住民が自分たちの生活を営んでおり、生命を維持するためにもっぱら自然の猛威(干ばつ)との戦いを戦っていました。ペシャワール会はその住民を支援していたわけです。タリバン政権時代も同様です。日本人であることによって安全が確保されていました。
治安が悪くなったのは、911に対応したアメリカ主導のアフガン戦争の後です。山岳地帯にアメリカ軍が入り込んでくるほど、その地域における治安が悪化します。治安が悪化した地帯では、ペシャワール会の診療所が撤退を余儀なくされてきました。
アフガン空爆からイラク戦争にかけて、日本がアメリカ軍を支援していることが知れ渡り、日本人であることはむしろ危険を伴うようになってきました。

テロ特措法で日本が行っているインド洋上の給油活動は、アメリカを中心にNATOが行っている「不屈の自由作戦」を支援するものです。アフガニスタンの山岳地帯から見た光景に従うなら、「治安悪化の原因であるアメリカ軍を支援する」活動と言うことです。
町村官房長官の発言と全く反対の現象が起きているということになります。町村官房長官は、この辺の事情を全く知らずに発言しているのか、それとも実情を知りつつ欺瞞の発言をしているのか、一体どちらなのでしょうか。
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オリンピックのヨット種目

2008-08-28 22:55:31 | Weblog
今回の北京オリンピックで、セーリングでは女子470級の近藤・鎌田ペアが、「コンカマ」の愛称で試合前からメダルを期待されて騒がれていました。残念ながらコンカマペアは14位の成績に終わりましたが、一方では男子470級で、松永・上野ペアが7位に入賞する好成績を上げました。

ヨットレースは、テレビでほとんど放映されません。しかし男子470級の最終第11レースは、NHK朝の番組で録画放映していたので、見ることができました。松永・上野組は、10レースまでで10位に付け、最終レース(上位10チームのみ出艇)に出艇がかないました。そしてその最終レースで、見事2位でゴールし、総合成績を7位まで押し上げたのです。


最近のオリンピックでの成績を紐解くと、女子470級での重由美子・木下アリーシア組の成績が光ります。
1992年バルセロナオリンピック-5位。
1996年アトランタオリンピック-銀メダルを獲得。
2000年シドニーオリンピック-8位。
3大会に連続して出場し、このような成績でした。

今回北京オリンピックでの男女470級の成績を見ると、重・木下ペアの成績がどれほど大変なものか、わかろうかというものです。

ところで、今回男子で出場した松永鉄也、3大会に出場した女子の重由美子、木下アリーシアの3氏については、わが家族にとってとても懐かしい人たちなのです。


昭和61年から平成7年まで、わが家は山口県にある瀬戸内海沿岸の町に住んでいました。その町にはたまたまジュニアヨットクラブがありました。子ども3人が小学校時代であり、そのクラブのお世話になったのです。毎週日曜にクラブに出かけ、子ども達がヨットの練習をします。
小学生が乗るヨットというのは、OP(オプティミストディンギー)級といい、一人乗りです。小さい子は小学校2年から、中学3年生までが対象です。一人で乗り込み、誰の助けも借りずにヨットを操り、沖合いで練習し、また戻ってきます。
小学生が操るのですから、大人から見たらたらいのような船体で、1本のマストに1枚のセールです。参考に当時の写真を載せます。
  

OP級にもレースがあります。上手になってくるとレースを目指します。
わがクラブが定常的に参加するレースが年に3レースありました。そのうち、8月に毎年佐賀県唐津で「西日本OP級ヨット選手権大会」という大会が開かれました。唐津市には佐賀県ヨットハーバーという施設があり、そこで寝泊まりしながらレースに参加するのです。レース艇は持参で、親たちがマイカーの屋根にヨットの船体を積んで参集します。わが家は1台の車に2台のヨットを積んで出かけたことがありました。
その佐賀県ヨットハーバーで、参加するわれわれのお世話をしてくれるのが、何とあの重由美子さんと木下アリーシアさんなのです。お二人はハーバーの職員です。ちょうど、バルセロナの後、アトランタの前あたりの時期でした。朝食で食堂に集まると、木下アリーシアさんが一人一人に味噌汁を注いでくれるのです。オリンピック選手に注いでもらう味噌汁は美味でした。
朝、我々が起床して海を見ると、沖合いから帰ってくるヨットがあります。重さんと木下さんは、われわれの朝食の前に一練習を終えてきているのです。
あのあと、重さんと木下さんはアトランタで銀メダルを取ったのですね。

その当時、西日本のOP界には怪物のOPセーラーがいました。それが誰あろう、北京で470級7位に入った松永鉄也君です。琵琶湖ジュニアに所属し、抜群のセーリング技術で、西日本に敵はいませんでした。ご父君がやはりヨット好きで、それが縁で鉄也君もヨットを始めたのでしょう。唐津で、松永君のお父さんが雑談しているのを横で聞いていたことがあります。
その松永君が、OPだけでヨットを止めるのではなく、ずっとヨットを続けていたのですね。そして今年、同志社大学のヨット部で一緒だった上野さんとのペアで北京に出場し、7位に入賞したというわけです。

ところで、女子470級のコンカマの一人、近藤愛さんについては、OPをやっていたうちの娘が「OPの試合に出ていた」と覚えていました。調べてみると、近藤さんは中学の頃葉山マリーナブルーアンカージュニアに所属し、全日本OP選手権(エクセル)の女子の部、広島で毎年行われたデンマークカップでも上位におり、全日本オープン(エクセル)では優勝していました。

上で紹介した重由美子さんですが、3度のオリンピック出場で現役を退いたわけではありませんでした。その後、イングリング級という3人乗りの種目に変更し、アテネと北京を目指していたのでした。アテネのとき、重さんは名倉海子(高知県夜須町役場)、中村光恵(山口県スポーツ交流村)の両名と組みました。この中村光恵さん、山口県での私と同じ会社に勤務していたという奇遇があります。やはり470級でのオリンピックを目指してその会社を辞め、その後、山口県スポーツ交流村に就職しています。この山口県スポーツ交流村こそ、わが家の子ども達がお世話になったジュニアヨットクラブの現在の所在地です。
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アフガニスタンで日本人拉致

2008-08-26 20:25:45 | 歴史・社会
タリバンが犯行認める アフガンで邦人男性拉致
2008.8.26 18:31
「アフガニスタン東部ジャララバード近郊で26日、日本の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(本部・福岡市)の日本人男性が拉致された。同会現地事務所が明らかにした。アフガニスタン反政府武装勢力タリバンの報道官は、共同通信に対し、犯行を認めた。
現地事務所によると、拉致されたのは静岡県掛川市出身の伊藤和也さん(31)。」

とうとう起きてしまいましたか。

ペシャワール会のアフガニスタンでの活動状況については、この7月10日に中村哲「アフガニスタンで考える」で紹介したばかりです。

ペシャワール会は、アフガニスタンの山間地で診療所活動、井戸の掘削、用水路の建設などを行っています。
2年前に刊行されたカラー版 アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条 (岩波ブックレット)では、以下のように述べられています。
-----------------
中村さんたちの用水路に平行してアメリカの資金で道路工事をしていたトルコの会社は、物々しく武装をしたセキュリティに守られて工事をしているのに、3回も誘拐事件に遭遇しました。不幸にも3回とも誘拐された人は遺体で見つかってしまいました。
ところが、中村さんたちは、武器を持っていませんが、現地の人々から攻撃を受けたり襲われたことがありません。

中村さんが活動を開始してアフガニスタンの山奥に徒歩で医療活動に向かった頃、山奥の村で「日本人だ」というと、半分外国人でないような丁寧な扱いをしてくれます。その後も、アフガニスタンにおいては、単に日本人であるがために命拾いをしたとか、単に日本人であるがために仕事がうまくいくようになった、とかいうことはそれこそ数知れずありました。
ところが1991年の湾岸戦争以降、決定的になったのは2001年のアフガン空爆からイラク戦争に至るまでの自衛隊の動きが現地に伝わるようになってから、徐々に変わり始めます。今や、地域によっては、単に日本人であるために攻撃を受けたり、単に日本人であるがために仕事の妨害をされる、といったことも起こりつつあります。

アフガニスタンに駐留する米軍が増派されることによって、かえって治安が悪化するという現実があるようです。
「それを私たちが肌で感じるのは、私たちの山奥の診療所が二つ閉鎖に追い込まれたことからです。これは、それまで平和な農村地帯であったところに米軍が進駐してしまったためにやむをえず閉鎖したのです。NGO活動を守るため、と言って米軍が入っていくところ、米軍からの“誤爆”だとか、地元の人々からの顰蹙だとかが絶えません。ですから、それまでは活動できていたことができなくなっていきます。また、米軍が来たために、さらに紛争が拡大するという悪循環が各地で起こり、治安は悪化しつつあるのです。これが現在の状況です。」
「私たちは日々、地元の作業員、農民たち、その地域の人々と触れあっておりますので、大方において、反米感情が、いまだ日に日に高まっていることがわかります。」(同上図書から)
-----------------

以上の状況からすると、ペシャワール会の日本人職員が現地で拉致されても決しておかしくない状況はあるようです。

今回、タリバーンが犯行を認めているようですが、いったいどのような背景で今回の拉致は起きたのか、拉致された伊藤さんが無事に救出されることを祈るばかりです。

ps 8/26 20:40 たった今、NHKのテレビ画面に「伊藤さんが解放された模様」とのテロップが表示されました。とにかく良かった、良かった。
この事件を契機に、アフガニスタンでの日本のNGO活動が大幅に制限されることにならないか、その点が心配です。

ps2 8/26 22:10 NHKニュースによると、「伊藤さん解放」との情報は誤報であったようです。続報を待ちたいと思います。

ps3 8/27 21:10 最悪の結果がもたらされました。まだ100%の確認ではありませんが。
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「日本外交の過誤」に関連する諸先輩の談話

2008-08-24 12:53:21 | 歴史・社会
先日吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」を紹介しました。1951年、吉田総理の指示により、外務省の職員がまとめた書類が「日本外交の過誤」です。そしてその書類には、「諸先輩の談話」という書類が附属しています。その当時に話を聞くことのできた、日本外務省出身の諸先輩に話を聞き、まとめたものです。
堀田正昭、有田八郎、重光葵、佐藤尚武、林久治郎、芳沢謙吉の諸氏です。私が知っている人は一人しかいませんでした。しかし読んでみると、満州事変から第二次大戦までの日本外交に携わった人たちであり、その談話の中身には興味ある発言が多く見られました。そこで、ここに興味を引いた発言を抄録しておこうと思います。なお、氏名の後の略歴については、日本人名大辞典から引用しました。

堀田正昭 1883‐1960
昭和9年国際会議帝国事務局長兼スイス公使となり,ジュネーブ一般軍縮会議に随員として列席。12年イタリア大使。
「国際連盟を脱退した理由は、結局判らない。」「斉藤首相も脱退の腹はなかったはずだ。どこから脱退論が頭をもたげてきたか判らないが、一体に極端論というものは、バカにして油断しているといつのまにか勢いを得るもので、こわい。」
○日独伊三国条約締結
「一体に、大島や白鳥は、政府のいうことを聞かないことが度々あった。そこで総理から、今度出先がいうことを聞かなかったら免職しますということを陛下に申し上げた。陛下は、内閣が代わるたびにグラグラしたからであろうが、書いたものにしてよこせといわれ、そういう一札が出ている。」「しかし、大島や白鳥はやめさせられなかった。」


有田八郎 1884‐1965
昭和11年広田内閣の外相となり,日独防共協定を締結した。のち第1次近衛・平沼・米内(よない)各内閣の外相。
「マッカーサー元帥が、その証言の中で、日本国民には勝者にこびへつらう性癖があるといったそうだが、どうにも癪にさわるけれどもそういわれても仕方がないかも知れない。」

重光葵 1887‐1957
中国公使時代の昭和7年上海爆弾事件で右脚をうしなう。駐英大使などをへて,東条・小磯・東久邇(ひがしくに)内閣の外相。20年首席全権としてミズーリ号上で降伏文書に調印。

佐藤尚武 1882‐1971
1937年林銑十郎内閣外相となり、従来の「広田三原則」にかわる新しい対中国政策を提起した。昭和17年ソ連大使。
「(外務大臣就任)当時は満州事変が起きてから6年経っており、支那との関係は相変わらずごたごたしていた。このままうっちゃっておくと国民政府は馬鹿にならぬ。これと戦っておると飛んでもないことになるというような気がしてならなかった。」「そこで大臣に就任すると直ぐ南京政府との交渉の下準備にかかった。」「(外務省、陸軍、海軍の担当者が相談し、関東軍の参謀とやり合っているうちに)6月3日林内閣が総辞職して自分も退いてしまった。その後をついだ第一次近衛内閣の外務大臣は広田であったが、広田に対しては2時間もかかって事務引継をした。ところが、その後の30日くらいというものは、自分の向かっていた方向に何もしていない。そのうち7月7日の盧溝橋事件が起こった。」
(駐ソ大使時代3年目)「軍部は、ソ連の嫌がるようなことをさんざんにやって来たくせに、何故かソ連に対して甘い考えを持っていた。」「アメリカの意向を気遣わねばならないソ連が日本の申出を断るのは始めから判りきったことであった。」
「広田マリク会談なるものが行われた。」「あの際、貴重な一ヶ月を空費したことは、承伏できない。」
(終戦後、陛下から)「『広田マリク会談で一ヶ月を空費したことについては、お前のいう通りだ。しかし、あの時代には、どうしてもそれを経なければ次の手がとれなかったのだ』という趣旨のお話しがあった。」

林久治郎 1882‐1964
昭和3年奉天総領事。6年柳条湖事件がおこると,軍部の行き過ぎを批判して平和的解決につとめたが,7年ブラジル大使に転出した。
「軍の堕落は、昭和の初め頃、その勢威が地に堕ちて、何とかばん回しなければならないとして焦ったことから来ている。内部では下克上の風がおこり、外には、トラブル・メイカーになった。軍紀の弛緩はひどいものだった。団匪事件の際の日本兵というものは、諸外国人を賛嘆させたものだったが、その時分のことを知っている外国人は、済南出兵の際の日本兵を見て、その変わり様に驚いていた。」
「満州事変の勃発する直前に自分は日本に帰って来て満州の事態がただならぬことを説いて廻ったが、どうも皆ピンと来ない様子だった。」「政府が予算を通しさえしなければ、軍事行動はできなくなる。」「満州事変を止めたかったら、なぜ金を出すことを拒まなかったか。」

芳沢謙吉 1874‐1965
大正12年中国公使となり,ソ連のカラハン大使との間で14年日ソ基本条約を締結。昭和5年駐仏大使,国際連盟日本代表を兼務。7年犬養内閣外相。
「昭和7年の初め頃、犬養首相が自分に『陸軍の統制が乱れている。30人ばかりの青年将校が団結して軍を牛耳っている。このままにしておいたらどういうことになるわからぬ。閑院参謀総長宮殿下のご同意を得て陛下に直訴し、彼等をクビにしようと思う』といった。」
「ところで五・一五事件の翌朝、森内閣書記官長が『総理はいけないよ、こんな事を考えていた』といって、総理が自分に言った右のことを話した。森に話せば小磯などに話すことは判り切ったことだった。何でも森から軍に筒抜けになっていたわけだから、春秋の筆法をもってすれば森が犬養を殺したのだともいえよう。」
「デニソン氏が『日本人はミリタリーの勇気があるが、シヴィルの勇気に乏しい』といったことがあるが全くその通りである。」
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吉田茂の自問「日本外交の過誤」

2008-08-21 22:06:32 | 歴史・社会
先日、服部 龍二著広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)を紹介しました。
この本の中では、多くの文献が参照されるのですが、第二次大戦当時に政治の現場で携わった人たち自身が書いた書物が多かったのが印象的でした。
その中には、石射猪太郎著「外交官の一生 改版 (中公文庫 B 1-49 BIBLIO20世紀)」、幣原喜重郎著「外交50年 (中公文庫)」などが含まれます。
また、原田熊雄述「西園寺公と政局9冊セット」も多く引用されていました。今から30年以上前に書かれた書物では、参考文献として唯一この「西園寺公と政局」が使われているような時代がありました。最近はそのような状況がありませんが、多くの文献が発掘されたためでしょうか。この本が1982年に岩波書店から復刻出版があったとき、私はこれを衝動で購入し、その後書棚に鎮座したままです。懐かしく思って今回開けてみたら、だいぶん黄色く変色していました。

そして以下の文献も「広田弘毅」に紹介されていましたように思います。
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」
小倉 和夫
藤原書店

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1951年、首相だった吉田茂が外務省の課長に対し、満州事変から終戦までの日本外交について検証し、取り纏めるように指示します。その結論は、「日本外交の過誤」と名づけられた50ページほどの「調書」にまとめられます。この調書には、外務省の幹部だった人たちにインタビューしたコメント集、それと調書の土台となった「作業ペーパー」が附属しています。
本の紹介によると、これらの文書は、2003年4月、50年の眠りからさめて外務省によって公表されたとあります。それまでは外交秘密として秘匿されていたのでしょう。そしてこの文書をもとにして、小倉和夫氏が上記の著作を出版したのです。

そこで、購入して読んでみました。
著者の小倉氏は、1938年生まれ、外交官を務め、フランス大使などを歴任し、2002年に退官した人です。
最初のうちはとまどいました。著書のうち、どの部分が「調書」そのもので、どの部分が著者小倉氏の意見なのかがよくわからなかったのです。結局、明らかになったのは、各章ごとに、まず小倉氏の意見が延々と述べられ、章の末尾に「調書」の該当部分が記載されているのです。
普通、このような書物を書くのであれば、まず「調書」の記述を紹介し、その後で著者による解釈や意見が述べられるものでしょう。この本ではそれが逆になっているのです。

そこで、途中で中断し、まずは各章章末の「調書」本文を通読し、さらに巻末の「諸先輩の談話」「作業ペーパー」抜粋を読むことにしました。「作業ペーパー」は「事実ないし経緯に関する部分」と「批判の部分」に分けて記述しています。
その「作業ペーパー」ですが、「ここでは『作業ペーパー』の『批判』の部分で『調書』と比べて、ニュアンスの異なる部分のうち、特に興味あると思われる部分を事項別に左記に収録した」ということで、「作業ペーパー」全体のうち、ごく一部のみしか収録されていないことがわかりました。せっかく、全体で300ページにわたる書物に取りまとめ、定価で2400円もの値段を付けるのですから、元となる「作業ペーパー」については全文を収録して欲しかったものです。

「調書」を通読しましたが、特に目新しい情報や見解が示されているということではないようです。1951年当時、外務省の若手(課長)クラスが、満州事変から終戦までの日本外交をどのように見ていたか、という観点での文献ということになるのでしょう。

「諸先輩の談話」では、堀田正昭、有田八郎、重光葵、佐藤尚武、林久治郎、芳沢謙吉の各氏に対するインタビュー結果が収録されています。このインタビュー結果の中に、「ほほう」という発言がいくつか含まれていました。また別の機会に紹介したいと思います。

そして、また最初に戻って、著者の小倉氏による記述(これが大部分を占める)を含めて通読しました。
折角、「50年の眠りからさめた外交文書」を紹介するのですから、著者のコメントは、その外交文書の解説及び若干の解釈に留めておくべきだったでしょう。書物のほとんどが、著者である小倉氏の自説記述に終始していたのが残念でした。
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韓国特許庁「審査猶予制度」

2008-08-19 21:55:14 | 知的財産権
2006年6月に、このブログで特許審査期間を短縮するためのアイデアをひとつ提案しました。2006年9月にも関連する意見を述べました。

特許審査期間を短縮するためのアイデアとは以下のようなものです。

最近になって特許審査待ちの滞貨が増えたのは、従来の審査請求期間が7年だったのに対し、2001年10月出願分から審査請求期間が3年に短縮されたのが原因です。この4年ほど、7年期間と3年期間の審査請求がダブってされているので、定常時の2倍近い審査請求件数になっているわけです。
このダブり期間数年間も今年の10月に終わるので、審査請求件数は低減して元のレベルに戻ると言うことになります。
従って、特許審査待ちの滞貨については、短期対策さえ講じればいいということです。任期付き審査官を大量に雇い入れたのもそのためです。

出願から3年の期間内で審査請求された案件の中には、権利化を急がない案件がたくさんあります。半分以上はそうでしょう。そうであれば、「この出願は権利化を急がないから、審査の順番を下げてもらって結構です」と意思表示させ、そのような出願については審査を後回しにしたらいいのではないか、というのが私のそのときの提案でした。そのような出願を不急出願と呼びましょう。
そして、平均審査期間の算定にあたっては、不急出願を除いた出願のみについて計算するのです。

「不急出願」以外の通常出願の審査請求件数が減りますから、通常出願については審査待ち時間が減少します。特許庁は対外的に「審査の迅速化を実現した」と発表できるのです。
不急出願については、元もと出願人が審査を急がないのですから、審査待ち時間が増大しても文句をいいません。

このアイデア、当ブログで発表するとともに特許庁にもメールで提案したのですが、結局は何ら採用されませんでした。


先日、韓国の金・張 法律事務所(KIM & CHANG)からいただいたニュースレター7月号に、「特許庁、『早い審査』から『高品質審査』へ政策転換」とのトップニュースが載っていました。
審査請求から審査着手までの期間で区分けして、下記(1) (2) に加え、(3) が新設されるというのです。今年10月から施行の予定です。
(1) 優先審査請求(日本の早期審査に相当) → 2~3ヶ月以内
(2) 通常の審査(日本の通常審査に相当) → 平均16ヶ月以内に結果を提供
(3) 審査猶予申請 → 出願人が出願審査の着手時期を一定の範囲内(審査猶予申請の1年6ヶ月以後から出願から5年までの間)で任意に選択できる


上記(3) の審査猶予申請、私が発案した上記「不急出願」と同じ考え方ではありませんか。残念ながら韓国特許庁に先を越されてしまいました。

日本特許庁は、これからの審査請求件数は減少する見込みとはいえ、過去4年間で通常の2倍の審査請求件数によって滞貨が積み上がっています。これらの滞貨を、今までと同じ「通常審査」以外に、「審査猶予」(私の「不急出願」)を募集し、審査待ちの順番を入れ替えれば、効果は大きいと思います。

早期審査を申し出ない案件であっても、大部分の案件は早く審査結果を出すべき案件です。そうではない「不急出願」を抽出して待ち行列の後に入れ替えることにより、これら通常案件の審査着手時期を早めることができるのですから、出願人はもちろん喜び、特許庁も「通常案件の審査着手時期を早めることに成功した」と花火を上げることができます。
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軍部大臣現役武官制と宇垣流産内閣

2008-08-17 09:51:54 | 歴史・社会
前回の服部龍二著「広田弘毅」において、広田内閣時代に「軍部大臣現役武官制」が復活したことを紹介しました。また、半藤一利「太平洋戦争への道」でも紹介したことがあります。

この頃の日本の政治について印象に残る著書の第一は、渡辺昇一著「日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎 (祥伝社黄金文庫)」でしょう。
ここでも、この著書からの知識を中心に記録します。

戦前の日本で、陸軍大臣・海軍大臣には軍人が就任していました。1900年、山県有朋内閣のときに、「軍人」というだけではだめで、「現役武官」であることとの制度を導入しました。現役武官というと陸軍などの軍部に組み込まれていますから、陸軍が陸軍大臣候補を出さなかったら、内閣を組むことができません。軍部にとって実に強大な権力です。実際、この制度によって西園寺内閣が倒されました。

これに対し1913年、山本権兵衛内閣のとき、山本首相は、軍部大臣が現役の武官でなくても良いという官制に変更します。当然、軍部はこの制度改正に反対することが予想されます。海軍については、山本が海軍の大御所ですから抑えられます。問題は陸軍です。
陸軍全体としては絶対反対でした。ところが当時の陸軍大臣である木越安綱中将が、一身の栄達を犠牲にして山本案に賛成し、ここに現役武官制が廃止になりました。
このときの木越安綱の功績は大したものです。このあと木越は陸軍大臣を辞任し、中将のままで陸軍を退役しました。
私は、自分が出処進退の岐路に立たされたとき、少なくとも木越安綱に笑われないように身を処したいものだと、常々思っているところです。

こうして、軍の専横を許す装置としての「軍部大臣現役武官制」が廃止となりました。

ところが、前回も紹介したとおり、広田弘毅内閣時代の1936年5月、ときの寺内寿一陸軍大臣が永野修身海軍大臣と共同で、「軍部大臣現役武官制」の復活を提議するのです。二・二六事件の後始末で、事件の黒幕と見られた陸軍軍人の荒木貞夫や真崎甚三郎は予備役に編入されました。これらの人たちが政治に復活するのを防止するため、というのが「軍部大臣現役武官制」とする表向きの理由でした。そして広田首相は、「軍部大臣現役武官制」復活を認めてしまうのです。
とにかくこれによって、山本・木越のやったことは水泡に帰し、今後は、軍部の賛成を得ない組閣は一切不可能となるのです。

1937年1月、浜田国松議員の国会発言に対して寺内陸相が挑発に乗ってしまい、「腹切り問答」となり、寺内は議会で辱められたと感じて議会の解散を主張します。広田首相は、解散はしませんでしたが総辞職してしまいました。

広田内閣当時、政党である政友会や民政党は、軍部の次なる野心を嗅ぎとっており、これを未然に防止するため、宇垣一成を次の首班として構想したようです。上の腹切り問答は、宇垣内閣を作るために陸相を追い詰めたのであり、宇垣自身も今回は出馬の決意を固めていました。このあたりは、坂野潤治著「昭和史の決定的瞬間 (ちくま新書)」を参照しています。
宇垣一成という人は、陸軍軍人であり、木越安綱が軍部大臣現役武官制を廃止したときはこれに反対する立場でしたが、1912年には加藤高明内閣の宇垣陸相は4個師団の廃止という大軍縮を敢行した人です。1931年には橋本欣五郎らの三月事件に担がれたと信じられており、宇垣は陸軍大臣を辞任、朝鮮総督になって予備役に入りました。
それから5年、宇垣は「陸軍の一部の動きが変だ。近いうちに何か外に対して事を始めるのじゃないか。」と危惧し、「自分がもう一度犠牲となって、これを脱線させぬように出なければならない」と考えていたようです。

湯浅倉平内大臣が病床の西園寺公望を訪ね、宇垣を天皇に奏請することを決めます。1月25日、宇垣に組閣の大命が降下します。しかし陸軍は宇垣内閣に絶対反対です。参謀本部戦争指導課長の石原完爾がその急先鋒でした。組閣に際して陸軍大臣を出しません。
半年前なら、予備役の宇垣が陸軍大臣を兼務することも可能でしたが、今ではそれができません。
しかし宇垣は諦めませんでした。陸軍に陸軍大臣を出すよう、天皇から直接指導して貰おうと考えたのです。しかし当時の法制では、予備役の宇垣は、直接天皇に拝謁することができません。湯浅内大臣に取り次いで貰わなければならないのですが、湯浅内大臣が頑として取り次がないのです。湯浅内大臣は「そう無理をなさらぬでもよいではないか。そういう無理をなさると血を見るような不祥事が起こるかも知れぬ」と述べたそうです。ここでも、二・二六事件の影を色濃く感じます。
天皇から組閣の大命を受けた首相候補者が、その天皇に会うことができないという不思議な制度でした。
こうして、宇垣は陸軍大臣を得ることができないために、組閣の大命を拝辞することになりました。

宇垣流産内閣ほど、国民に軍の横暴を印象づけたものはなかったそうです。これ以後は文官が首相になったとしても、それは軍の傀儡政権に過ぎないだろうということは誰にも明らかになりました。

日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎 (祥伝社黄金文庫)
渡部 昇一
祥伝社

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服部龍二著「広田弘毅」

2008-08-14 23:27:09 | 歴史・社会
広田弘毅というと、まずは「東京裁判で、文官としてただひとり絞首刑に処せられた人」、「二・二六事件の後に首相となり、在任中に『軍部大臣現役武官制』が復活した」という2点で記憶があります。その広田弘毅について、以下の本を読みました。

この本は、広田弘毅について書かれたものですが、広田弘毅を通じてあの時代の日本史を再認識するという成果が得られました。
広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)
服部 龍二
中央公論新社

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広田弘毅という人は、福岡県で石屋のせがれとして育ち、玄洋社という団体の世話で一高・東大を出て外務省に入省します。
外務省内で幣原喜重郎が主流であった頃はその幣原氏と距離を置いており、決して主流には乗っていませんでしたが、満州事変の後、広田が駐ソ大使を勤め上げた頃に、定まらない日本の政治潮流がいつしか広田を時代の主役に押し上げようとしていました。

1933年9月、広田は斉藤内閣の外相に就任します。
1935年、日中双方の在外公館が、それまでの公使館から大使館に昇格します。広田が推し進めた「日中提携」の成果です。これは、日本政府が蒋介石政権を一人前と認めた証でもあります。
しかしこれは、日本陸軍の反対を押し切っての決定でした。これ以降、陸軍は広田外交に敵対するようになります。陸軍は、すでに成立している満州国と陸続きの華北に日本傀儡政権を樹立することを画策します。これによって日中間は険悪になるのですが、これに対し広田外相は「広田三原則」を中国に示します。広田三原則は、中国に一方的に要求する内容であり、中国がとても応じられないものでした。広田外相が強硬な陸軍の姿勢に屈服したのです。
広田の第1期外相時代はこのようにして終わりました。

1936年2月26日、二・二六事件が勃発します。
事件で襲撃された岡田啓介首相に代わり、広田が首班に指名されます。広田内閣時代が始まります。
組閣に当たって、陸軍は徹底的に横やりを入れます。まず「吉田茂外相はダメ」、司法大臣、拓務大臣候補も拒否します。政党出身者も4名は不可、2名までと主張しましたが、これは広田外相が峻拒しました。

戦前の日本で、陸軍大臣・海軍大臣には軍人が就任していました。ただし、広田内閣の前までは、軍人といっても予備役でもOKだったのです。
ところが広田弘毅内閣時代、ときの寺内寿一陸軍大臣が海軍大臣と共同で、「軍部大臣現役武官制」の復活を提議するのです。二・二六事件の後始末で、事件の黒幕と見られた陸軍軍人の荒木貞夫や真崎甚三郎は予備役に編入されました。これらの人たちが政治に復活するのを防止するため、というのが「軍部大臣現役武官制」とする表向きの理由でした。
そして広田首相は、「軍部大臣現役武官制」復活を認めてしまうのです。これ以降、陸軍としては、自分の思い通りに行かない内閣については、陸軍大臣が辞職し、その後釜を推薦しないだけでいいのです。内閣を自由に崩壊させる制度が完成しました。

広田内閣は1936年11月25日に日独防共協定を締結しました。
1937年1月、国会では浜田国松議員と寺内寿一陸軍大臣の間に「腹切り問答」があり、広田内閣はこれを原因として総辞職してしまいます。

広田内閣総辞職の後、組閣の大命は宇垣一成に降りますが、陸軍がこれに反発、陸軍大臣を出さないことによってとうとう潰してしまいます。軍部大臣現役武官制が早くも利用されました。この「宇垣流産内閣」についてはまた別に。

その後成立した林銑十郎内閣は「食い逃げ解散」を行い、1937年6月4日に近衛文麿内閣が成立します。その内閣で、広田弘毅は2度目の外務大臣を務めます。

そしてそのわずか1ヶ月後、7月7日に盧溝橋事件が勃発します。
支那駐屯軍の第一連隊の中隊が北京郊外の盧溝橋で夜間演習を行っているとき、中国軍陣地から射撃音を聞きます。集合してみると、一兵士が行方不明となっていました。この兵士はほどなく帰隊したものの、連隊長の牟田口廉也は第三大隊に出動を命じ、日中両軍は戦闘に入ります。
それでも現地では、7月11日に停戦協定を成立させます。
しかし陸軍中央は、中国への出兵を進めようとします。外務省では、堀内次官、石射東亜局長、東郷欧亜局長らの意見を聞いて、陸軍の動員案に反対することを申し合わせて五相会議と閣議に臨みます。ここで杉山陸相が5個師団、さしあたり3個師団の動員を主張すると、広田外相や近衛首相はこれをあっけなく認めてしまうのです。
さらに7月17日の五相会議で、杉山陸相は中国に対する厳しい要求を掲げ、それが認められなければ中国を「膺懲」するという陸軍案を示します。この陸軍案に、広田も同意してしまうのです。そして7月20日の閣議では、内地3個師団の華北派兵を決します。
このときの広田外相の消極的な態度について、内務大臣や、近衛首相自身による「あきれた」という発言が残されています。
愛想を尽かした外務省の石射局長らは辞表を提出します。すると広田外相は「黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな!」と感情を露わにしました。

結局のところ内地3個師団が現実に派遣され、近衛内閣は戦費の支出についても承認します。7月28日に日本軍が中国大陸で攻撃を開始します。

その後、戦火は上海に飛び火し、支那事変は泥沼へと引きずり込まれます。
日本が上海を陥落し、さらに南京に迫ろうとする中、蒋介石政権と和平交渉を行う広田外相の和平条件はどんどん吊り上げられます。近衛首相も広田外相も、世論を気にした政治を行っており、世論がどんどん高揚している状況の中で自身の政策も硬化していくのです。もともと高揚する世論も、近衛内閣が焚きつけたものだったのですが。

日本軍に占領された南京では、いわゆる南京大虐殺事件が起こっています。南京総領事館からは外務省に詳細な報告が上がっていました。広田外相は石射欧亜局長を介して陸軍省軍務局に厳重注意を申し入れますが、現地軍はかえって怒るばかりです。さらに広田は杉山陸相に軍紀粛正を要望したものの、閣議には南京事件を提起しませんでした。
このときの広田外相の対応が、後の東京裁判で絞首刑判決を受ける大きな要因となりました。

1938年1月、大本営政府連絡会議では、日支交渉を打ち切るかどうかを議論します。このとき、陸軍の参謀次長は打ち切り慎重を唱えるのですが、杉山陸相に広田外相が同調し、外相自ら外交交渉打ち切りを主張するのです。そして16日、近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」とする近衛声明を発表してしまいます。
この声明の結果、支那事変の外交解決は遠のき、そののちの太平洋戦争へと突き進んでいくこととなります。


二度目の外相時代、広田弘毅は陸軍に対してなぜこれほどに弱気だったのでしょうか。
私は、二・二六事件の影を感じます。あの頃の政治家にとって、「陸軍に反対したら暗殺される」というのは現実の恐怖だったでしょう。政治の場で自分の信念を押し通そうとしたら、「明日殺されても本望である」という覚悟が必要だったはずです。木戸幸一も、「あれは恐怖だった」と語っていたように記憶します。
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