前回からの続きです。
昭和12年
8月20日
○近衛公のインタヴュー、
曰く、北支の特殊化絶対必要。
支那の分割、そんなことにならぬとも限らぬと。
彼はだんだん箔が剥げて来つつある。
門地以外に取り柄のない男である。日本は今度こそ真に非常になってきたのに、こんな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと言うべきだ、これに従う閣僚なるものはいずれも弱卒、禍なるかな、日本。
8月21日
○(日高)君の話によれば国民政府は腹を据えて驚かない態度、空襲の日も南京は落ち着いていた、最悪の場合をちゃんと予想してかかっていると。
○日本は馬鹿にしてかかった支那に手強い相手を見いだしたのだ。私の不吉な予言が当たりつつあるを如何にせん。
8月23日
○陸兵上海に上陸。
8月24日
○派遣陸軍の上海上陸なかなか困難らしい。
陸戦隊はよく持った。
○本日の閣議でまた4箇師団。
8月26日
○英大使ヒューゲッセン、南京より上海に向かう途中、日本飛行機に空襲され負傷と。
悪いことをしたときは早くあやまるが良い。
8月27日
○英大使をやったのがわが飛行機とすれば文句を抜きにして謝るのが悪声を少しでも払拭する所以なることを豊田軍務局長に話す。同感なりという。しかるに情報の早きをもって誇る海軍に終日上海より確報来たらず。少し怪しい。現場にいるとヒキョウになるのが陸海の常だ。
8月29日
○とうとう蘇支不可侵条約だ。
支那をここへ追い込んだのは日本だ。これで日支防共協定の理想も消し飛んだのである。いらざる兵を用いて、へまな国際関係をのみ生み出す日本よ、お前は往年のドイツになる。
8月31日
○近衛首相の議会演説原稿を見る。軍部に強いられた案であるに相違ない。支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるには最後までブッ叩かねばならぬとある。彼は日本をどこへ持っていくというのか。あきれ果てた非常時首相だ。彼はダメだ。
9月1日
○呉松の砲台なんかとうの昔に占領したのかと思っていたら漸く昨日占領とある。上海戦は苦戦に相違ない。
9月2日
○現地海軍より英大使を撃った飛行機なしと報告来る。天下の物笑いである。
海軍もこんなことになるとだらしがない。
○米国の一新聞いわく、日本は何のために戦争をしているのか自分でも判らないであろうと。その通り、外字新聞を見ねば日本の姿がわからぬ時代だ。
9月5日
○近衛公の演説、答弁実に強行一点張りだ。支那政府と支那軍を参ったといわせるまで徹底的に膺懲するという。彼は中身のないテンプラであるのだ。
9月14日
○日本国民は満州事変以来言論機関がその用をなさなくなったので知識の進歩は止まってしまった。相当な人間でも調子外れなことをまじめでいう。
12月9日
○小川愛次郎君来訪、日本はbattleには勝ってもwarに敗れる。危機である、早く時局収拾せねばならぬと赤誠あふれる。上海戦線のわが軍士気は嘆ずべきものありという。
12月13日
○午後3時過ぎ総理官邸において連絡会議。出席を求められ案の説明を求められるべき拙者はいつまでも呼び入れられず、うすさむい部屋に待つこと1時間半余漸く呼び込まれたら何のことだ、陸軍案が議題になっていた。外務大臣は知らぬ顔。山本海軍次官の発言にて漸く三省案が議題となる。と決まったら首相は他に用事ありとて退席。散会、明日午後3時半から続行と決まる。出席者、首相、陸、外、蔵各大臣、両次長(多田駿参謀次長、古賀峯一軍令部次長)、山本次官、幹事として両軍務(町尻量基陸軍・井上成美海軍)局長、風見書記官長。大臣にうまく撒かれるところであった。
12月14日
○続いて連絡会議。我が輩呼び入れられて案の説明をなす。賀屋、末次(信正)新内相、陸相、参謀次長等強硬論をはき、わが方大臣一言もいわず。とうとう陸軍案にして了われる。あきれた話。さらに蒋介石を相手として和平の話をするの是非につき議論出て明日さらに連絡会議のこととなる。
12月15日
○今日の連絡会議は拙者の出る幕でなし。柴山氏の話によればやはりドイツを通じ蒋に呼びかけることに決まったという。こうなれば案文などはどうでもよし。日本は行くところまで行って行き詰まらなければ駄目と見切りをつける。
12月17日
○今日南京入城式とやら。
12月22日
○対独回答案午後6時に執行される。大臣官邸に独大使を招致し回答文を与える。大臣大使間に問答あり。独大使は蒋介石はこれでは聞くまいと。その通り。こんな条件で蒋が媾和に出てきたら、彼はアホだ。
昭和13年
1月6日
○上海から来電,南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ。
1月13日
○国民政府から返事が来ないのにじれて15日までに諾否の返答なくば次のステップに移ることに閣僚午餐会で決定。
1月14日
○「支那現政府を相手とせず」声明にて閣議、午後4時半独大使大臣を来訪して支那側の回答をもたらす。いわく日本側の提示条件は漠として内容を詳かにせず、もっとハッキリ言ってくれと。これを閣議に謀るに、支那側誠意なし「相手とせず」に邁進すべしということに決定せらる。誰かにべそをかくだろう。
○河相君上海より帰来しての話に、前線は腐っている。
1月15日
○今日も朝から連絡会議と閣議。参謀本部は尚直接交渉に未練を残し声明をもう少しまったらいかがとあがいたが政府側の強気勝ちを制し明日ドイツに返事をしてすぐに声明公表ということに決まった由、午後8時過ぎ大臣閣議より帰っての話。
○漢口から帰還せる張李鸞(「大公報」主筆)の川越大使へ伝えたる蒋介石の伝言にいわく、和平は自分の欲するところなるもドイツを通じてのあの条件では問題にならずと。
1月16日
○今朝ドイツ大使を招致して大臣から「国民政府を相手とせず」の次第を説明し了解を得る。
○正午政府声明公表さる。
これでサバサバした。あとは運否天賦だ。
1月17日
○今朝の新聞は「国民政府を相手とせず」を皆礼讃している。憐れな言論機関だ。
○南京、杭州では引き続き日本軍が米国人の家屋へ侵入して略奪暴行をやるとて米大使より厳重抗議してくる。出先はまさに腐っている。人道の裁きは来ねばならぬ。
5月26日
○近衛内閣改造さる。
広田、賀屋、吉野(信次・商工大臣)退き、宇垣(一成)、池田成彬兼任としてそのあとを襲い、荒木(貞夫)文部へ。
○省内に白鳥(敏夫・待命公使)を次官に擁立運動起こる。ドイツにいて白鳥のケイガイに接したる若い事務官、省内ナチス党なんめり。
○この機会に省内外の人事異動断行を次官に進言す。
○陸軍は杉山(元)の代わりに板垣(征四郎)、その下に東条(英機)という話、これには部内に反対あれども、策動の余地なきように工作せられて手も足も出ぬと柴山君。
5月28日
○宇垣(一成・外務)大臣に所管事項を説明す。
氏曰く私は井伊カモンの守になる覚悟で外務大臣を引き受けたのだと。
言や大いに良し。
6月16日
○柴山大佐参謀本部付きとなり、影佐(禎昭)大佐軍務課長に内定。
7月1日
○陸相帰京車中で「蒋在職中は媾和なし」と語る。影佐の作なるべしとの説に一致す。
○対時局策を外相に提出す。
7月7日
○拙者の対時局考案を五相会議に出す、と外相いう。依ってその改正増補をなす。
9月29日
○宇垣外務大臣本日辞表提出。
きっかけは対支中央機関問題なるも、近衛とその内閣に愛想をつかしたのが深因であろう。
○拙者の進言を実施に移さんとの腹を持っていた宇垣大将、惜しい人である。岡(敬純・海軍軍務局第一課長)、影佐が下手人。
10月1日
○本朝辞表を次官手許に差し出す。
10月8日
○和蘭陀行き、次官より正式に話あり。
[以上]
石射猪太郎氏は1954年に亡くなっています。石射氏の日記は、その後ご遺族のもとでずっと眠っていました。
一方、「外交官の一生」は1950年に最初に出版された後、絶版と再出版を繰り返し、1986年に3度目の出版がされました。そのときに解説を執筆した伊藤隆氏がご遺族に日記の存否を質し、それが残されていることを確認します。
1991年になってご遺族との話し合いで中央公論社から出版することになり、残された日記6冊を伊藤氏らが閲覧・筆写し、漸く出版の運びに至ったものです。
昭和12年
8月20日
○近衛公のインタヴュー、
曰く、北支の特殊化絶対必要。
支那の分割、そんなことにならぬとも限らぬと。
彼はだんだん箔が剥げて来つつある。
門地以外に取り柄のない男である。日本は今度こそ真に非常になってきたのに、こんな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと言うべきだ、これに従う閣僚なるものはいずれも弱卒、禍なるかな、日本。
8月21日
○(日高)君の話によれば国民政府は腹を据えて驚かない態度、空襲の日も南京は落ち着いていた、最悪の場合をちゃんと予想してかかっていると。
○日本は馬鹿にしてかかった支那に手強い相手を見いだしたのだ。私の不吉な予言が当たりつつあるを如何にせん。
8月23日
○陸兵上海に上陸。
8月24日
○派遣陸軍の上海上陸なかなか困難らしい。
陸戦隊はよく持った。
○本日の閣議でまた4箇師団。
8月26日
○英大使ヒューゲッセン、南京より上海に向かう途中、日本飛行機に空襲され負傷と。
悪いことをしたときは早くあやまるが良い。
8月27日
○英大使をやったのがわが飛行機とすれば文句を抜きにして謝るのが悪声を少しでも払拭する所以なることを豊田軍務局長に話す。同感なりという。しかるに情報の早きをもって誇る海軍に終日上海より確報来たらず。少し怪しい。現場にいるとヒキョウになるのが陸海の常だ。
8月29日
○とうとう蘇支不可侵条約だ。
支那をここへ追い込んだのは日本だ。これで日支防共協定の理想も消し飛んだのである。いらざる兵を用いて、へまな国際関係をのみ生み出す日本よ、お前は往年のドイツになる。
8月31日
○近衛首相の議会演説原稿を見る。軍部に強いられた案であるに相違ない。支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるには最後までブッ叩かねばならぬとある。彼は日本をどこへ持っていくというのか。あきれ果てた非常時首相だ。彼はダメだ。
9月1日
○呉松の砲台なんかとうの昔に占領したのかと思っていたら漸く昨日占領とある。上海戦は苦戦に相違ない。
9月2日
○現地海軍より英大使を撃った飛行機なしと報告来る。天下の物笑いである。
海軍もこんなことになるとだらしがない。
○米国の一新聞いわく、日本は何のために戦争をしているのか自分でも判らないであろうと。その通り、外字新聞を見ねば日本の姿がわからぬ時代だ。
9月5日
○近衛公の演説、答弁実に強行一点張りだ。支那政府と支那軍を参ったといわせるまで徹底的に膺懲するという。彼は中身のないテンプラであるのだ。
9月14日
○日本国民は満州事変以来言論機関がその用をなさなくなったので知識の進歩は止まってしまった。相当な人間でも調子外れなことをまじめでいう。
12月9日
○小川愛次郎君来訪、日本はbattleには勝ってもwarに敗れる。危機である、早く時局収拾せねばならぬと赤誠あふれる。上海戦線のわが軍士気は嘆ずべきものありという。
12月13日
○午後3時過ぎ総理官邸において連絡会議。出席を求められ案の説明を求められるべき拙者はいつまでも呼び入れられず、うすさむい部屋に待つこと1時間半余漸く呼び込まれたら何のことだ、陸軍案が議題になっていた。外務大臣は知らぬ顔。山本海軍次官の発言にて漸く三省案が議題となる。と決まったら首相は他に用事ありとて退席。散会、明日午後3時半から続行と決まる。出席者、首相、陸、外、蔵各大臣、両次長(多田駿参謀次長、古賀峯一軍令部次長)、山本次官、幹事として両軍務(町尻量基陸軍・井上成美海軍)局長、風見書記官長。大臣にうまく撒かれるところであった。
12月14日
○続いて連絡会議。我が輩呼び入れられて案の説明をなす。賀屋、末次(信正)新内相、陸相、参謀次長等強硬論をはき、わが方大臣一言もいわず。とうとう陸軍案にして了われる。あきれた話。さらに蒋介石を相手として和平の話をするの是非につき議論出て明日さらに連絡会議のこととなる。
12月15日
○今日の連絡会議は拙者の出る幕でなし。柴山氏の話によればやはりドイツを通じ蒋に呼びかけることに決まったという。こうなれば案文などはどうでもよし。日本は行くところまで行って行き詰まらなければ駄目と見切りをつける。
12月17日
○今日南京入城式とやら。
12月22日
○対独回答案午後6時に執行される。大臣官邸に独大使を招致し回答文を与える。大臣大使間に問答あり。独大使は蒋介石はこれでは聞くまいと。その通り。こんな条件で蒋が媾和に出てきたら、彼はアホだ。
昭和13年
1月6日
○上海から来電,南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ。
1月13日
○国民政府から返事が来ないのにじれて15日までに諾否の返答なくば次のステップに移ることに閣僚午餐会で決定。
1月14日
○「支那現政府を相手とせず」声明にて閣議、午後4時半独大使大臣を来訪して支那側の回答をもたらす。いわく日本側の提示条件は漠として内容を詳かにせず、もっとハッキリ言ってくれと。これを閣議に謀るに、支那側誠意なし「相手とせず」に邁進すべしということに決定せらる。誰かにべそをかくだろう。
○河相君上海より帰来しての話に、前線は腐っている。
1月15日
○今日も朝から連絡会議と閣議。参謀本部は尚直接交渉に未練を残し声明をもう少しまったらいかがとあがいたが政府側の強気勝ちを制し明日ドイツに返事をしてすぐに声明公表ということに決まった由、午後8時過ぎ大臣閣議より帰っての話。
○漢口から帰還せる張李鸞(「大公報」主筆)の川越大使へ伝えたる蒋介石の伝言にいわく、和平は自分の欲するところなるもドイツを通じてのあの条件では問題にならずと。
1月16日
○今朝ドイツ大使を招致して大臣から「国民政府を相手とせず」の次第を説明し了解を得る。
○正午政府声明公表さる。
これでサバサバした。あとは運否天賦だ。
1月17日
○今朝の新聞は「国民政府を相手とせず」を皆礼讃している。憐れな言論機関だ。
○南京、杭州では引き続き日本軍が米国人の家屋へ侵入して略奪暴行をやるとて米大使より厳重抗議してくる。出先はまさに腐っている。人道の裁きは来ねばならぬ。
5月26日
○近衛内閣改造さる。
広田、賀屋、吉野(信次・商工大臣)退き、宇垣(一成)、池田成彬兼任としてそのあとを襲い、荒木(貞夫)文部へ。
○省内に白鳥(敏夫・待命公使)を次官に擁立運動起こる。ドイツにいて白鳥のケイガイに接したる若い事務官、省内ナチス党なんめり。
○この機会に省内外の人事異動断行を次官に進言す。
○陸軍は杉山(元)の代わりに板垣(征四郎)、その下に東条(英機)という話、これには部内に反対あれども、策動の余地なきように工作せられて手も足も出ぬと柴山君。
5月28日
○宇垣(一成・外務)大臣に所管事項を説明す。
氏曰く私は井伊カモンの守になる覚悟で外務大臣を引き受けたのだと。
言や大いに良し。
6月16日
○柴山大佐参謀本部付きとなり、影佐(禎昭)大佐軍務課長に内定。
7月1日
○陸相帰京車中で「蒋在職中は媾和なし」と語る。影佐の作なるべしとの説に一致す。
○対時局策を外相に提出す。
7月7日
○拙者の対時局考案を五相会議に出す、と外相いう。依ってその改正増補をなす。
9月29日
○宇垣外務大臣本日辞表提出。
きっかけは対支中央機関問題なるも、近衛とその内閣に愛想をつかしたのが深因であろう。
○拙者の進言を実施に移さんとの腹を持っていた宇垣大将、惜しい人である。岡(敬純・海軍軍務局第一課長)、影佐が下手人。
10月1日
○本朝辞表を次官手許に差し出す。
10月8日
○和蘭陀行き、次官より正式に話あり。
[以上]
石射猪太郎氏は1954年に亡くなっています。石射氏の日記は、その後ご遺族のもとでずっと眠っていました。
一方、「外交官の一生」は1950年に最初に出版された後、絶版と再出版を繰り返し、1986年に3度目の出版がされました。そのときに解説を執筆した伊藤隆氏がご遺族に日記の存否を質し、それが残されていることを確認します。
1991年になってご遺族との話し合いで中央公論社から出版することになり、残された日記6冊を伊藤氏らが閲覧・筆写し、漸く出版の運びに至ったものです。