弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

石射猪太郎日記(3)

2008-11-30 15:02:40 | 歴史・社会
前回からの続きです。

昭和12年
8月20日
○近衛公のインタヴュー、
曰く、北支の特殊化絶対必要。
 支那の分割、そんなことにならぬとも限らぬと。
彼はだんだん箔が剥げて来つつある。
門地以外に取り柄のない男である。日本は今度こそ真に非常になってきたのに、こんな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと言うべきだ、これに従う閣僚なるものはいずれも弱卒、禍なるかな、日本。
8月21日
○(日高)君の話によれば国民政府は腹を据えて驚かない態度、空襲の日も南京は落ち着いていた、最悪の場合をちゃんと予想してかかっていると。
○日本は馬鹿にしてかかった支那に手強い相手を見いだしたのだ。私の不吉な予言が当たりつつあるを如何にせん。
8月23日
○陸兵上海に上陸。
8月24日
○派遣陸軍の上海上陸なかなか困難らしい。
陸戦隊はよく持った。
○本日の閣議でまた4箇師団。
8月26日
○英大使ヒューゲッセン、南京より上海に向かう途中、日本飛行機に空襲され負傷と。
悪いことをしたときは早くあやまるが良い。
8月27日
○英大使をやったのがわが飛行機とすれば文句を抜きにして謝るのが悪声を少しでも払拭する所以なることを豊田軍務局長に話す。同感なりという。しかるに情報の早きをもって誇る海軍に終日上海より確報来たらず。少し怪しい。現場にいるとヒキョウになるのが陸海の常だ。
8月29日
○とうとう蘇支不可侵条約だ。
支那をここへ追い込んだのは日本だ。これで日支防共協定の理想も消し飛んだのである。いらざる兵を用いて、へまな国際関係をのみ生み出す日本よ、お前は往年のドイツになる。
8月31日
○近衛首相の議会演説原稿を見る。軍部に強いられた案であるに相違ない。支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるには最後までブッ叩かねばならぬとある。彼は日本をどこへ持っていくというのか。あきれ果てた非常時首相だ。彼はダメだ。
9月1日
○呉松の砲台なんかとうの昔に占領したのかと思っていたら漸く昨日占領とある。上海戦は苦戦に相違ない。
9月2日
○現地海軍より英大使を撃った飛行機なしと報告来る。天下の物笑いである。
海軍もこんなことになるとだらしがない。
○米国の一新聞いわく、日本は何のために戦争をしているのか自分でも判らないであろうと。その通り、外字新聞を見ねば日本の姿がわからぬ時代だ。
9月5日
○近衛公の演説、答弁実に強行一点張りだ。支那政府と支那軍を参ったといわせるまで徹底的に膺懲するという。彼は中身のないテンプラであるのだ。
9月14日
○日本国民は満州事変以来言論機関がその用をなさなくなったので知識の進歩は止まってしまった。相当な人間でも調子外れなことをまじめでいう。
12月9日
○小川愛次郎君来訪、日本はbattleには勝ってもwarに敗れる。危機である、早く時局収拾せねばならぬと赤誠あふれる。上海戦線のわが軍士気は嘆ずべきものありという。
12月13日
○午後3時過ぎ総理官邸において連絡会議。出席を求められ案の説明を求められるべき拙者はいつまでも呼び入れられず、うすさむい部屋に待つこと1時間半余漸く呼び込まれたら何のことだ、陸軍案が議題になっていた。外務大臣は知らぬ顔。山本海軍次官の発言にて漸く三省案が議題となる。と決まったら首相は他に用事ありとて退席。散会、明日午後3時半から続行と決まる。出席者、首相、陸、外、蔵各大臣、両次長(多田駿参謀次長、古賀峯一軍令部次長)、山本次官、幹事として両軍務(町尻量基陸軍・井上成美海軍)局長、風見書記官長。大臣にうまく撒かれるところであった。
12月14日
○続いて連絡会議。我が輩呼び入れられて案の説明をなす。賀屋、末次(信正)新内相、陸相、参謀次長等強硬論をはき、わが方大臣一言もいわず。とうとう陸軍案にして了われる。あきれた話。さらに蒋介石を相手として和平の話をするの是非につき議論出て明日さらに連絡会議のこととなる。
12月15日
○今日の連絡会議は拙者の出る幕でなし。柴山氏の話によればやはりドイツを通じ蒋に呼びかけることに決まったという。こうなれば案文などはどうでもよし。日本は行くところまで行って行き詰まらなければ駄目と見切りをつける。
12月17日
○今日南京入城式とやら。
12月22日
○対独回答案午後6時に執行される。大臣官邸に独大使を招致し回答文を与える。大臣大使間に問答あり。独大使は蒋介石はこれでは聞くまいと。その通り。こんな条件で蒋が媾和に出てきたら、彼はアホだ。

昭和13年
1月6日
○上海から来電,南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ。
1月13日
○国民政府から返事が来ないのにじれて15日までに諾否の返答なくば次のステップに移ることに閣僚午餐会で決定。
1月14日
○「支那現政府を相手とせず」声明にて閣議、午後4時半独大使大臣を来訪して支那側の回答をもたらす。いわく日本側の提示条件は漠として内容を詳かにせず、もっとハッキリ言ってくれと。これを閣議に謀るに、支那側誠意なし「相手とせず」に邁進すべしということに決定せらる。誰かにべそをかくだろう。
○河相君上海より帰来しての話に、前線は腐っている。
1月15日
○今日も朝から連絡会議と閣議。参謀本部は尚直接交渉に未練を残し声明をもう少しまったらいかがとあがいたが政府側の強気勝ちを制し明日ドイツに返事をしてすぐに声明公表ということに決まった由、午後8時過ぎ大臣閣議より帰っての話。
○漢口から帰還せる張李鸞(「大公報」主筆)の川越大使へ伝えたる蒋介石の伝言にいわく、和平は自分の欲するところなるもドイツを通じてのあの条件では問題にならずと。
1月16日
○今朝ドイツ大使を招致して大臣から「国民政府を相手とせず」の次第を説明し了解を得る。
○正午政府声明公表さる。
これでサバサバした。あとは運否天賦だ。
1月17日
○今朝の新聞は「国民政府を相手とせず」を皆礼讃している。憐れな言論機関だ。
○南京、杭州では引き続き日本軍が米国人の家屋へ侵入して略奪暴行をやるとて米大使より厳重抗議してくる。出先はまさに腐っている。人道の裁きは来ねばならぬ。
5月26日
○近衛内閣改造さる。
広田、賀屋、吉野(信次・商工大臣)退き、宇垣(一成)、池田成彬兼任としてそのあとを襲い、荒木(貞夫)文部へ。
○省内に白鳥(敏夫・待命公使)を次官に擁立運動起こる。ドイツにいて白鳥のケイガイに接したる若い事務官、省内ナチス党なんめり。
○この機会に省内外の人事異動断行を次官に進言す。
○陸軍は杉山(元)の代わりに板垣(征四郎)、その下に東条(英機)という話、これには部内に反対あれども、策動の余地なきように工作せられて手も足も出ぬと柴山君。
5月28日
○宇垣(一成・外務)大臣に所管事項を説明す。
氏曰く私は井伊カモンの守になる覚悟で外務大臣を引き受けたのだと。
言や大いに良し。
6月16日
○柴山大佐参謀本部付きとなり、影佐(禎昭)大佐軍務課長に内定。
7月1日
○陸相帰京車中で「蒋在職中は媾和なし」と語る。影佐の作なるべしとの説に一致す。
○対時局策を外相に提出す。
7月7日
○拙者の対時局考案を五相会議に出す、と外相いう。依ってその改正増補をなす。
9月29日
○宇垣外務大臣本日辞表提出。
きっかけは対支中央機関問題なるも、近衛とその内閣に愛想をつかしたのが深因であろう。
○拙者の進言を実施に移さんとの腹を持っていた宇垣大将、惜しい人である。岡(敬純・海軍軍務局第一課長)、影佐が下手人。
10月1日
○本朝辞表を次官手許に差し出す。
10月8日
○和蘭陀行き、次官より正式に話あり。

[以上]

石射猪太郎氏は1954年に亡くなっています。石射氏の日記は、その後ご遺族のもとでずっと眠っていました。
一方、「外交官の一生」は1950年に最初に出版された後、絶版と再出版を繰り返し、1986年に3度目の出版がされました。そのときに解説を執筆した伊藤隆氏がご遺族に日記の存否を質し、それが残されていることを確認します。
1991年になってご遺族との話し合いで中央公論社から出版することになり、残された日記6冊を伊藤氏らが閲覧・筆写し、漸く出版の運びに至ったものです。
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石射猪太郎日記(2)

2008-11-28 21:18:36 | 歴史・社会
前回紹介した「石射猪太郎日記」の中から、盧溝橋事件勃発時の内容について、ピックアップした事項を紹介します。
この日記の内容を、例えば服部龍二著「広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)」の日中戦争初期の部分を読みながら、下記を参照すると、あたかも同時代の外務省から日中戦争を追体験しているような感覚を得ることができます。

なお、文章中の漢字の使い方やかな遣いについては、原文通りとはせず、現代の使い方に修正しています。

昭和12年
7月17日
○而して東亜局長なる職が難儀な役目であることは予想していたことであったが、今度のような馬鹿げた北支事変に巻き込まれようとはこれまた夢思わなかった。
○而してまた広田外務大臣がこれほどご都合主義的な、無定見な人物であるとは思わなかった。
○所謂非常時日本、ことに今度のような事変に、彼のごときを外務大臣にいただいたのは日本の不幸であるとつくづく思うのである。
7月20日
○朝から閣議あり。内地3ケ師団を動員するや否やを議題とす。
○夕方7時半過ぎよりまた閣議、始まる前に首相官邸に行き兼ねて用意の嘆願文を広田大臣に手交す。石射上村連名。
○11時過ぎ外務大臣官邸に帰来、3ヶ師団動員閣議決定という。大して議論なしに。
○辞職、少なくとも休職の決意をしつつ帰宅。
7月21日
○次官(堀内謙介)次いで大臣に上村君同道面会し心境を申し出る。大臣種々答弁、且つ曰く、知りもせぬくせに余計なことを言うなと。
出兵するや否やを見るまでこのままいることにする。
○柴山(兼四郎・陸軍)大佐来訪、帰来談に曰く、現地は実に冷静、条件は次第に実行されつつあり、増兵なんかは要求はしておらずと、大臣にその旨報告し置く。
○後宮局長来訪・・動員はまだ下さず今晩一晩猶予することになったという。あるいは賢きあたりから注意があったのではないかとの観測あり。
7月22日
○現地より帰来の柴山課長の意見上申もあり、天津軍よりの援兵無用の来電もあり軍は動員をしばらく見合わせることになったという。
陸軍大臣(杉山元)より外務大臣にもその話あり。
東亜局第1課これによりて大いに活気づき今後の平和工作をねる。
○今日の閣議で広田大臣は局地解決、次いで日支国交打開に大きな手を打つべしと大いに主張して閣議を驚かしたと。陸軍大臣から頼まれたらしい、陸軍も広田もヅルイヅルイ。
7月26日
○昨夜廊房で日支衝突、切断された電線修理のため廊房へ出動の日本軍に28師兵が攻撃してきたのだという。
○おまけに北京へ入城せんとした日本軍に支那兵が広安門で攻撃してきたという。
○どっちが悪いのだ。
7月27日
○軍は閣議へ3ヶ師団動員の通告をする。今更反対はできぬ閣議となってしまった。
7月28日
○午前衆議院で事件費の予算総会。質問を用いず全会一致でウノミ、さすがに軍国日本ではある。
○29軍を今朝から全面的にやっつけているようだ。コレが皇軍の姿だ。
7月31日
○柴山大佐来訪、支那軍に一撃を与える前に日支停戦提議を支那側から言わせる工夫はあるまいかという。全面的国交調整を外務省案によってするならば、工夫なきにあらずと告げ、柴山君これを了して帰る。
○昨夜大臣からの謹話によれば一昨夜近衛首相お召しになったとき、陛下からもうこの辺で外交交渉はできぬものかとお言葉ありたる由、叡慮の存するところ、まことに有り難い極みだ。
8月1日
○午後柴山大佐、そのあと保科大佐来訪、停戦交渉及び全面的国交調整案につき意見一致し、そのラインにより軍部内を納得させるべく約束して柴山君帰る。うまくいけばいいが。
8月2日
○柴山大佐、豊田軍令部長(ママ)来訪。
今朝海軍大臣官邸における、梅津(美治郎・陸軍次官)、後宮、山本(五十六・海軍次官)、豊田、4人会談の結果をもたらし、外務大臣の工作を要望す。
8月3日
○支那側より停戦提議をなさしむべく工作のため船津氏に急に上海に帰ってもらうことに話す。
8月4日
○外務次官、陸軍次官会見。
 これに基づいて夕方保科、柴山、上村3課長を会同して停戦案、国交調整案を練る。だんだんコンクリートなものになる。これが順序よくはこべば、日支の融和、東洋の平和は具現するのだ。日本も支那も本心に立ち帰り得るのだ。崇い仕事だ。
8月6日
○陸海外三相会議、何を相談したのか要領を得ない。結果につき三人三様のことをいっている、この国家非常のことを議するのに、いい加減さも程がある。
○とにかく南京へ停戦工作条件を打電す。
○夜陸軍次官、外務次官を来訪したが、主張をせぬ外務次官だからこまる。
8月7日
○三相会議においてようやく対支案確定す。深夜大臣官邸に赴き発電案にサインをもらう。
8月10日
○川越大使高宗武と会見、打診したのはよけれども船津を阻止して高との話をはぐらかしてしまったのは誠に遺憾だ。スキを見せねば打ち込んでこぬ、その工作のためにやった船津だったのに。
○昨夜上海で陸戦隊の大山(勇夫)中尉、斉藤水兵がモニュメント路で支那公安隊から殺される。またにぎやかになった。モニュメント路なんて余計なところへ行ったものだ。
8月11日
○海軍が上海へ派遣せる1千名の陸戦隊増援部隊今朝上海着の由、だから心配、何ごともなければいいと念ずる次第だ。
8月12日
○上海からの電報。
88師は北停車場へ出動、保安隊は陸戦隊ウラの線路まで出てきた。陸戦隊危うく居留民危うい。海軍あせる。
○明日の閣議で上海への陸兵派遣を決するという。
8月13日
○上海では今朝9時過ぎからとうとう打ち出した。平和工作も一頓挫である。
○川越大使より出兵思いとどまるようにと来電ありたるも、もう遅い。夫子自ら少しも働かずに、高宗武に会いながら高飛車に出て追い返したりするのは面白くない。
○海軍もだんだん狼になりつつある。
8月14日
○上海で支那飛行機の空爆あり。
○海軍は南京を空爆するという。とめたが聴きようもない。
○陸戦隊は日本人保護なんかの使命はどこかに吹き飛ばして今や本腰に喧嘩だ。
もう我慢ならぬと海軍の声明。
8月15日
○(内閣の声明)独りよがりの声明、日本人以外には誰ももっともというものはあるまい。
○無名の師だ。それがもとだ。日本はまず悔い改めねばならぬ。しからば支那も悔い改めるに決まっている。日支親善は日本次第という支那の言い分の方が正しい。
○日本機昨夕杭州、広徳を空襲し敵に多大の損害を与えたという。なお今日午後南京を空爆した。
○高、日高昨日会見、本日さらに会見して我が方の腹をある程度話せと訓示したが空爆のため連絡つかずと夜来電。これが最後の望みの綱であったのに。
8月16日
○英代理、米大使本日それぞれ次官及び大臣を来訪、上海戦争をやめてくれという、英の語気すこぶる荒らし。その回答ぶりにつき海軍を説く、豊田軍務局長も事態を知るが故に停戦を欲しているのだが、部内の昂奮に手が出ない形だ。
8月17日
○支那は大軍を上海に注ぎ込んで陸戦隊殲滅を図っている、これに対して幾日もてるか。陸戦隊本部は陥落しはしないか。
8月18日
○広田外相は時局に対する定見も政策もなく、全くその日暮らし、いくら策を説いても、それが自分の責任になりそうだとなると逃げを張る。
頭が良くてズルク立ち回るということ以外にメリットを見いだし得ない。それが国士型に見られているのは不思議だ。
8月19日
○本日石原完爾の河相情報部長に内話するところによれば、支那軍に徹底的打撃を与えることは到底不可能と、私の予見もその通り。日本は今やソビエットの思う壺に落ち込みつつある。新追加予算、陸海軍併せて30億という。愚かなる日本国民はどんな顔をするだろうかあざ笑うはロシアばかりではない、拙者もだ。
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長くなったので以下は次回に。
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石射猪太郎日記

2008-11-26 21:01:07 | 歴史・社会
石射猪太郎著「外交官の一生 (中公文庫BIBLIO20世紀)」については、こちらこちらで紹介しました。
石射猪太郎氏とは、大正から昭和初期の外交官であり、以下のような経歴をたどった人です。

1887年、福島県生まれ
1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社
1915年、外務省入省
1918年、サンフランシスコ在勤。1920年ワシントンの駐米大使館三等書記官。
1924年6月再び本省勤務
1927年、駐英大使館一等書記官
1929年、在吉林総領事
1932年、上海総領事
1936年、駐シャム(タイ)大使
1937年3月、外務省東亜局長
1938年11月、駐オランダ公使
1940年10月、駐ブラジル大使
1944年8月、駐ビルマ大使
1946年7月帰国。外務省に辞表を提出。同28日にGHQの公職追放令を受けた。

石射猪太郎外交官は、終始一貫、国際協調と国家間の親善を心がけ、中国に対しても対等の付き合いを行おうと努力した人です。
特に、満州事変勃発時には吉林総領事を務めて現地で当事者として体験し、盧溝橋事件から日中戦争拡大期には外務省東亜局長として平和解決の努力を図りました。
上記「外交官の一生」でその全体像が明らかになります。
ただし、「外交官の一生」は、第二次大戦が終了した後に本人が執筆した著書であり、さらには公職追放解除請願を目的として書き始められたといういきさつもあり、内容がどれだけ真実であるかについては別に検証が必要です。

ところで、石射氏は外務省入省以来日記をつけていました。日記であれば、執筆時の脚色はあるにしろ、後からの脚色がありませんから、戦後に書かれた自伝に比較すれば真実味がまします。その日記の大部分は、残念なことに戦災で家宅とともに運命をともにし、郷里に疎開した数冊が残存するに過ぎない、とのことです。

石射氏のその日記が、1993年になって刊行されました。
石射猪太郎日記
石射 猪太郎
中央公論社

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しかし残念ながら絶版であり、古本でも39000円台と高価で手が出ません。
そこで今回は図書館を利用することにしました。
在住する杉並区の図書館を検索すると、杉並区中央図書館に所蔵されていることが判りました。利用登録をしている人は、インターネットで申し込みを行い、最寄りの杉並区図書館に取り寄せてもらうことができます。しかし私はまだ利用登録をしておらず、お取り寄せが利用できません。仕方がないので、利用登録を兼ね、中央図書館まで出かけることにしました。

そして「石射猪太郎日記」を手にすることができました。
800ページの分厚い本です。
収録されている日記は、以下の期間についてでした。
昭和11~14年(1936~39年 上海・バンコク・東京・ハーグ)
昭和17~19年(1942~44年 リオデジャネイロ・東京)

吉林での満州事変体験談が現存していないのは残念でしたが、東亜局長時代の盧溝橋事件部分が完全に収録されていました。これだけでも十分な価値があります。

1937年3月にシャム(タイ)大使から外務省東亜局長に異動したところでいったん日記は途絶えます。それが、7月8日の盧溝橋事件を受け、7月17日から日記が再開されているのです。

盧溝橋事件から南京事件(大虐殺)までの推移が、国際協調を旨とする外務省東亜局長の目にどう映っていたか、その点を明らかにしてくれる貴重な書物でした。
図書館からの貸し出し書物であり、手許に保管できないので、上記期間の興味ある記載について書き写しました。長くなるので次回以降に分けます。
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讃岐うどん

2008-11-24 11:11:35 | Weblog
11月はじめの連休で高松を訪問しました。高松といえば讃岐うどんです。

高松市内の某所を訪問したときに、窓口の女性に讃岐うどんのおいしい店を紹介してもらいました。「高松市内にはいい店がない」という答えでしたが、2店を紹介してくれました。こんぴらや竹清(ちくせい)です。
しかし竹清は土日(祝日除く)定休で営業時間は11:00~14:30、こんぴらやは日曜定休で営業時間は19時までです。ときは土曜の18時過ぎ。今からだったら急いでこんぴらやへ行くしかありません。
こんぴらやは、高松市街中心のアーケードにありました。
 
こんぴらや          さぬき麺業

こんぴらやを外から覗くと、何だかセルフサービスの小さな店です。その隣にさぬき麺業という店がありました。ちゃんとした椅子席です。今回はそちらに入ることにしました。
メニューを見るがいろいろ書いてあってよくわかりません。そこで、店員さんにお勧めを聞いてみると、「釜あげです」ということでした。そこで、「てんぷら釜あげうどん」を注文しました。


夜、市街を歩いていたら、たまたま「竹清」の前を通りかかりました。実に小さな店です。

翌日、別の訪問先に行ったら、「さぬきうどんの作り方」という本が置いてありました。開いてみると、昨日のさぬき麺業も編集に加わっています。釜あげうどんの由来が書いてありました。
本場さぬきうどんの作り方
香川県生麺事業協同組合
旭屋出版

このアイテムの詳細を見る
釜あげうどんについては「さぬきうどんの代表的な食べ方の一つが釜あげうどん。打ちたての麺を茹で、茹で湯とともに器に入れてつけ汁で賞味する。」と説明されていました。

また、この本には、讃岐うどんに特有の「セルフ」についての説明があるとともに、竹清が1ページをかけて紹介されていました。
「セルフ型うどん店」では、かけうどんが一玉150円前後と激安です。そのうどんを、客が自分で湯の中に漬けて温めるのです。また山積みされている天ぷらの中から欲しいものを選び、代金を支払い、最後に自分でどんぶりの中につゆ(讃岐うどんでは「だし」という。)をかけてできあがりです。
こうなったのは、香川県のうどん店の多くが製麺所から生まれたという独特の理由によります。うどん玉を卸す製麺所が工場のそばでお客の注文に応じてセルフスタイルで売り始めたため、普通の飲食店よりはるかに安い売値がつけられました。

「竹清」もセルフ店だそうです。昼にはすぐに行列ができます。この店の奥さんが天ぷらを揚げ、ご主人は奥の厨房でもくもくとうどんを打つといいます。天ぷらの中では「茹で玉子の天ぷら」が大人気だそうです。セルフだから3人目の店員がいなくても客はうどんを食べられるのでしょう。

月曜の昼にもう一度讃岐うどんを食べました。竹清を予定していたのですが、上の本によると行列ができるということであり、電車の時間が決まっているので竹清は敬遠し、再度さぬき麺業を訪問しました。また店員さんに「釜あげの次にお薦めは何ですか」と聞くと「生醤油です」ということです。今回は「てんぷら生醤油うどん」を注文しました。
器の中にはだしの入っていないうどん、それに醤油壺に入った生醤油がついてきます。うどんに生醤油をかけて食するのですが、生醤油をかけすぎないように注意しないといけません。私はその注意を聞く前にたくさんかけすぎてしまいました。

以上のように、われわれは「釜あげ」と「生醤油」を食べたのですが、メニューを見るとその他に「ざる」「かけ」「ぶっかけ」などが並んでいます。

ウィキペディアで調べると以下のことが判りました。
《かけ》:うすめのだし汁をかけ、刻みねぎや天かすを載せたうどん。薄切りの板かまぼこを加える場合もある。シンプルで値段も安く、20世紀後半まで最も主流の食べ方だった。
《生醤油(きじょうゆ)》 :うどん玉に醤油を少しかけただけのうどん。しょうゆうどんとも呼ばれる。醤油は火入れしないいわゆる生醤油とは限らない。調味された醤油が使われたり、薬味や具が入ることもある。麺そのものの味が味わえ、家庭でも手軽にできるため、店では「かけ」家庭では「生醤油」が讃岐うどんの定番という人も多い。
《釜揚げ》 :ゆでて水洗いする前の熱いうどん。麺の状態のことを指すこともあれば、完成した料理のことを指すこともある。
《ぶっかけ》 :濃い目のだし(つけだしに近いぶっかけだし)が、少なめにかけられたうどん。ぶっかけうどんは、具のあまり乗っていないシンプルなものから豪華なものまで、店によって様々であり、共通点は「濃い目のだしが少なめにかけられている」という点である。

特に「釜揚げうどん」についてウィキペディアでは
「麺を茹でた釜そのままから掬い上げたものを食べるため「釜揚げ」という。・・・釜揚げうどんは、水で締めていないうどん特有のもちもちとした歯ごたえが楽しめるが、時間が経つと小麦粉のアルファ化が進行して食味が低下するため、タイミングが味の決め手となる料理でもある。」と説明されています。
水で締めた麺を湯を張った桶に入れたものは「湯だめ」といい、似て非なるものです。


旅行から帰ってしばらくして、朝のテレビ番組を見ていたら、かばちゃんと女子アナが讃岐うどんを食べる、という番組を放送していました。3軒のうどんやを廻りましたが、いずれも山の中や田畑のど真ん中にある店でした。あばら屋のような建物で営業しています。われわれが不動産屋で讃岐うどんの店を紹介してもらったとき、「高松市内にはあまりない」ということでしたが、このテレビ番組で紹介されたような店が、地元の人にとって「おいしい店」なのでしょう。

番組では、1軒目でぶっかけ、2軒目で生醤油、3軒目で「釜玉」を食べていました。釜玉というのは、まずどんぶりに生卵を溶いておき、それに熱々の釜あげうどんを入れてかき混ぜるのです。「和風カルボナーラだ」といって食べていました。
生醤油を食べるとき、店の女将から「醤油をかけるときは一回り半」と説明されていました。かけすぎないようにということでしょう。

釜玉について、ウィキペディアには以下の説明があります。
釜玉(かまたま) :湯を切った釜揚げのうどん玉、卵、薬味、だしまたは醤油を混ぜて作られるうどん料理。うどん玉が冷めないうちに卵をかき混ぜて半熟にし、少量ずつ薬味とだしを自分の好みに合わせ、好みに応じて揚げ玉も入れる。綾川町の山越うどんが発祥といわれている。サッカー四国社会人リーグのカマタマーレ讃岐の名称の由来にもなっている。
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自衛隊「歴史観」教育の講師

2008-11-22 10:36:28 | 歴史・社会
田母神氏が科目創設、統幕学校「歴史観」講師を公表…防衛省
11月20日0時0分配信 読売新聞
「田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長(60)(3日付で定年退職)が、昭和戦争などに関して投稿した懸賞論文の内容を巡って更迭された問題で、防衛省は19日、前空幕長が統合幕僚学校長時に創設した科目「歴史観・国家観」の講師陣を公表した。
 うち2人は「新しい歴史教科書をつくる会」副会長の福地惇(ふくちあつし)・大正大教授、同会理事の高森明勅(あきのり)・国学院大講師(当時)で、今年まで6年間にわたり同科目の講師を務めていたという。福地教授は「蒋介石と日本の衝突の背後には米英、ソ連、コミンテルンが存在」などと教え、前空幕長の論文と似たテーマとなっている。」

話が変な方向にそれてきましたね。

「蒋介石と日本の衝突の背後には米英、ソ連、コミンテルンが存在」というのは、これこそ客観的な歴史事実であり、さほど異論はないはずです。当時の国際社会において、各国が自国の国益を実現するために権謀をめぐらせていたことは当然であり、そのこと自体を責めても意味はありません。自国も、その国際社会の中で立ち回り、良好な地位を占めるよう努力が必要なだけです。

田母神論文の問題は、「コミンテルンの存在」を取り上げた点そのものにあるわけではありません。
田母神論文中
「実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。・・・コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。」
についてはおかしくありません。問題はその後に続く文章です。
「我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」

盧溝橋事件発生が7月7日です。演習中の日本軍が中国軍軍地からの射撃音を耳にし、牟田口連隊長が大隊に出動を命じたため、日中両軍が戦闘状態に入ります。その後、7月11日に現地で停戦協定が成立するにもかかわらず、日本から3箇師団を動員する決定がなされ、日本から中国に対して強硬な条件が提示され、7月28日に日本軍は中国で攻撃を開始します。
8月9日、上海で海軍特別陸戦隊の2名が射殺される事件が起こると、日本は戦線を一気に拡大し、8月13日に内地2箇師団の上海派兵を決定します。

この直後に出された近衛首相の声明が、「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」です。

この間のいきさつについては、服部龍二著「広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)」を参照しました。

盧溝橋での中国軍陣地からの射撃音、上海での海軍将兵2名の射殺事件、これらを契機として日本が華北、上海、南京を攻め落とす攻撃を開始し、その際に近衛首相が上記声明を発したというわけです。
これら中国側が起こした事件の裏でコミンテルンの策謀があったのかなかったのかは判りません。しかし、その後の日中戦争の拡大について、田母神氏が論じるように「我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって」「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」と結論づけるのは、誰からも支持を得ることができないでしょう。


話は元に戻ります。
上記のように、田母神論文の問題は、コミンテルンの策謀を日本の自己弁護の種に用いたところにあります。コミンテルンの策謀を話題にしたこと自体ではありません。

ところが、「歴史観・国家観」の講師については、コミンテルンの策謀を話題にしたそのことが問題であるような書きぶりです。
こういう短絡的な決めつけは止めて欲しいものです。
また、講師が「つくる会」メンバーであっただけで問題がましく取り上げるところもいただけません。
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塩野七生「ローマから日本が見える」

2008-11-20 20:41:35 | 歴史・社会
塩野七生著「ローマ人の物語」を文庫本で読み進めています。文庫本は、以下のように1年に1回、3冊程度が順次発行されており、発行されるたびに読み進めている状況です。

 巻  タイトル           発行日
1~2 ローマは一日にしてならず   H14.6
3~5 ハンニバル戦記        H14.7
6~7 勝者の混迷          H14.9
8~10 ユリウス・カエサル(ルビコン以前)H16.9
11~13 ユリウス・カエサル(ルビコン以後)H16.10
14~16 パクス・ロマーナ       H16.11
17~20 悪名高き皇帝たち       H17.9
21~23 危機と克服          H17.10
24~26 賢帝の世紀          H18.9
27~28 すべての道はローマに通ず   H18.10
29~31 終わりの始まり        H19.9
32~34 迷走する帝国         H20.9

今年の9月に発行された「迷走する帝国」を読むに当たり、毎度のことですが、これ以前の事象については記憶がほとんど消滅しており、復習から入る必要があります。

本年は、たまたま同じ塩野氏が書いた以下の本が発行されており、まずはこの本を読んでみました。
ローマから日本が見える (集英社文庫 し 47-1)
塩野 七生
集英社

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ただし上の本は、アウグストゥスによるローマ帝政の確立までを対象としています。アウグストゥスから「迷走する帝国」が対象とする時代までの間の記憶を、他の本で補う必要があります。
そこで、以前にも紹介した以下の本を再読しました。
ローマ帝国 (岩波ジュニア新書)
青柳 正規
岩波書店

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青柳著「ローマ帝国」は、ロムルスによる建国からローマ帝国の滅亡までを対象としています。
《建国から王政、共和制を経てカエサルに至るまでの記述について》
まず、青柳先生は、この時代について書かれた文書史料をあまり信用していません。考古学史料を優先しています。青柳先生の専門は古典考古学と美術史ということで、その態度はうなずけますが、文書史料を大事にする塩野氏の著述と比較すると、どうしても躍動感が失われます。
また、青柳先生はローマが嫌いなのだろうか、と思わせるぐらい、この時代のローマに厳しい視線を向けています。記述についても、唯物史観的な臭いがところどころに感じられます。
青柳先生のこの本が発行されたのは2004年11月で、すでに塩野氏の「ローマ人の物語」が広く知られていた時代です。青柳先生の著書には塩野氏の名前が出てきませんが、当然に意識していたはずです。
私が思うに、青柳先生は塩野氏の著書を意識しつつ、極力塩野氏の著作と異なる観点を強調したのかも知れません。それならそうで、はっきりと「塩野氏の著述とはここが異なる。理由はこうである。」と書いてもらった方がよかったです。

《アウグストゥスによるローマ帝国の樹立とパクスロマーナの時代》
ところが、アウグストゥスの時代になると、青柳先生の態度はガラッと変わります。絶賛といった雰囲気でローマが語られるのです。
《帝国の混迷と解体》
「なぜローマ帝国は滅びたのか」について、多くは語られていません。この点については、塩野著「ローマ人の物語」を読み進めていく過程で探求することにしましょう。
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上杉隆「ジャーナリズム崩壊」

2008-11-18 20:53:50 | 歴史・社会
現在の日本マスコミ界には「記者クラブ」制度があるといいます。
例えば「外務省記者クラブ」。外務省で取材するためにはこの記者クラブに加盟していることが必須で、そうでないと外務省から提供される情報を享受することができません。私が想像するに、記者クラブにより、取材側は労せずして情報を入手することが可能であり、役所側は自分に都合の悪い取材を阻止することが可能であり、このようなもたれ合い関係が成立しているのではないでしょうか。その結果、どのメディアからも金太郎飴のように同じ記事しか出てこないことになります。
しかしマスコミ本来の役割は、役所側が隠そうとしている事実を明らかにし、正しい方向に国民を導いていく記事を提供することであるはずです。そうだとしたら、この記者クラブ制度というのは日本のマスコミをダメにしている制度であると思われます。

以下の本を見つけたので、早速購入してみました。
ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書 う 2-1)
上杉 隆
幻冬舎

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著者の上杉氏は、NHK記者をスタートに、鳩山邦夫議員の公設秘書を経験し、ニューヨークタイムズ東京支社取材記者を経て、2001年からフリーランスのジャーナリストとなった人です。

ニューヨークタイムズ記者時代、上杉氏は記者クラブに加盟せずに取材を行っていました。本書は、このときの経験を中心に、日本のマスコミと日本以外のマスコミの相違点をクローズアップした内容といったらいいでしょう。

私としては、「記者クラブ」に依存する日本マスコミの病理を、内部から描写してくれるとありがたかったのですが、そうではなく、ニューヨークタイムス記者、フリーランス記者として記者クラブを外部から観察した書物になっています。それでも、外部からみたときに、日本の記者クラブ制度というものが、いかに世界の非常識になっているのか、という点についてはよくわかりました。

ニューヨークタイムスは記者クラブに加盟していません。そのため、記者クラブ主催の記者会見には出られないか、出られても質問できないオブザーバーとしてだけです。記者クラブに加盟するためにはスタッフをクラブに常駐させなければならず、ニューヨークタイムス東京支局規模ではそれは不可能です。

ニューヨークタイムスのクリストフ東京支局長が、ときの小渕総理とのインタビューを試み、首相官邸は単独取材を了承します。ところが最後の段階で小渕事務所が「内閣記者会にはそちらから連絡し、了解を取ってほしい」と言われるのです。この国では、首相インタビューの際になぜか同業者の許可がいるのです。内閣記者会は了解を出しませんでした。クリストフ氏は日本嫌いになって帰国しました。

このように、日本のマスコミ界は海外の同業者の足を引っ張ることしかしません。日本びいきで日本にやってきたジャーナリストが、帰国するときには日本嫌いになっている、ということです。

大手メディアの社員である記者は、そのメディアが記者クラブに所属していますから記者クラブを通しての情報にアクセスできます。そのような記者が権力に立ち向かうような記事を書いて「出入り禁止」になったらどうでしょうか。本来なら記者の勲章の筈ですが、大手メディアではなぜか「ダメ記者」の烙印が押されてしまうのです。当然ながら、批判的な記事を書く政治記者は減り、当局と一体化した者が幅を利かせるようになります。

記者クラブ問題については当のメディアがほとんど情報発信しないので、その実態は闇に包まれています。記者クラブの実態を内部からえぐるような書籍があれば読んでみたいです。

また、上杉著における日本と欧米の記者比較は面白いです。
ニューヨークタイムスの記者は、「ジャーナリスト」として大成することを目標としています。決して新聞社の経営者になりません。もしニューヨークタイムス経営者になるのであれば、「記者」としての資格を捨てる必要があります。記事は、必ず記者の署名がなければなりません。
事件報道の速報を競うのはAPや共同通信の仕事であり、ニューヨークタイムス記者は速報を追わず、事件の深層を探ることに注力します。

これに対し日本メディアの記者は、昇進してデスクから経営者への道を目指します。また、政治部であれば担当する政治家を出世させることが目標となります。従って、ジャーナリストとして優れた記者は政治部では生き残れません。「日本の記者はジャーナリストではない」ということになります。
日本の記者は常に迅速に記事にすることが要求されています。
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最近の渡部昇一氏

2008-11-16 10:24:52 | 歴史・社会
私は、渡部昇一氏を尊敬しています。15年ほど前に読んだ以下の本(いずれも渡部昇一著)に深く共鳴して以降です。当時は単行本で読みました。
日本史から見た日本人 古代編―「日本らしさ」の源流 (祥伝社黄金文庫)
日本史から見た日本人 鎌倉編―「日本型」行動原理の確立 (祥伝社黄金文庫)
日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎 (祥伝社黄金文庫)

また、渡部昇一氏と谷沢永一氏の以下の共著についても興味深く読みました。
誰が国賊か―今、「エリートの罪」を裁くとき (文春文庫)
こんな「歴史」に誰がした―日本史教科書を総点検する (文春文庫)

ところが、前回コメントした、田母神論文を最優秀賞に選んだアパグループ「真の近現代史観」懸賞論文の審査委員長が、渡部昇一氏だというのです。
田母神論文の中身については、前回コメントしたように、歴史事実のうち、自分にとって都合の良い部分のみをピックアップして用い、不都合な事実については全く触れずに論理を組み立てたに過ぎず、評価に耐えません。私が尊敬する渡部昇一氏が、なぜこのような稚拙な論文を最優秀に選んでしまったのか。

渡部昇一氏とペアを組むことの多い谷沢永一氏には、「「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する」という書籍があります。いわゆる「つくる会」の歴史教科書、その作成の趣旨については谷沢氏も同じ考えであるはずですが、できあがった教科書そのものはひどすぎる、ということでこてんぱんにやっつけています。
谷沢氏のこの考え方にのっとったら、今回の田母神論文などこてんぱんにやっつけられるはずです。それなのに、谷沢氏とタッグを組んでいた渡部昇一氏が最優秀と選定した。一体どうなっているのでしょうか。
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田母神論文

2008-11-13 20:56:25 | 歴史・社会
前回は、田母神氏の参議院外交防衛委員会参考人招致の様子を書きました。問題の論文は、アパグループ「真の近現代史観」懸賞論文において最優秀藤誠志賞を受賞したもので、論文そのものはこちら(pdf)にあります。

マスコミでは、「現職の空幕長が、政府の公式見解と異なる趣旨の論文を投稿した」ことが問題になっています。しかし、政府の公式見解と異なる趣旨でも、その趣旨が正論であるならば、少なくとも耳を傾ける必要はあるでしょう。

ところが、論文を読んでみたところ、正論であるどころか、歴史事実をほんの一面からしかとらえていない論文であることが判りました。歴史事実や解釈のうち、自分にとって都合の良い部分のみをピックアップして用い、不都合な事実については全く触れずに論理を組み立てています。これはひどいです。日本の防衛軍の現職トップが、このような意見の持ち主であり、それを堂々と「論文」として公開するような人物であったことを世界に知らしめたわけで、この罪は軽くありません。アパの上記サイトには論文の英語版もアップされていますから、世界中の人が読むことができます。

田母神論文の中身について、若干のコメントを加えます。

《日本は中国・朝鮮を侵略しなかったといえるか》
日本政府に侵略の意図がなかったことについては私も了解します。ところが、現地に派遣された日本軍が、「これを侵略といわなくて何が侵略なんだ」といっていいような残虐な行為を広範に行ってしまったのでした。この一点のみをとって、「あの戦争は侵略戦争ではなかった」とは決していえないと考えています。この点を、日本人は決して忘れてはなりません。
日本軍が行った残虐行為の全体像については、国がきちんと調べていないこともあり、明らかではありません。そのため、「それはデマに過ぎない」と反論される余地があるわけですが、種々の情報を総合して、私は上記のように捉えています。
ところで論文の表題は「日本は侵略国家であったのか」です。「侵略国家」というと、政府も侵略を意図していた、という意味になってしまい、それは違う、という結論に達します。実態は、現地派遣軍が侵略的行為を行ったことが問題なのです。そこで誤魔化されないようにしないといけません。

《日本軍にテロ行為を繰り返したのは蒋介石国民党だ》
支那事変以前において、蒋介石国民党が一つにまとまった国家ではなく、蒋介石は各軍の行為を統制できていませんでした。そのため、南京領事館に避難中の日本居留官民が北伐軍に大略奪を受けるという事件も起きます。しかしこれらの事実のみでは、日本が中国全土に攻め入って全土を戦火にさらす理由にはなりません。あくまで戦闘は局地戦のみで終わらせ、あとは外交でかたを付けるべきでした。

《支那事変は、我が国が蒋介石により引きずり込まれた戦争か》
盧溝橋での演習中の日本軍に対する発砲は、中共軍の謀略だった可能性はあります。しかし単なる発砲です。
これを契機に日本軍が中国に対して大動員を行い、上海・南京を攻め落とし、重慶に撤退した蒋介石に過重なる要求を突きつけた日中戦争について、「蒋介石に引きずり込まれた」などと言い訳することは許されません。

《張作霖爆殺はコミンテルンの仕業か》
そのような説があることを私は知りませんでした。
しかしネットで調べる限り、一定の支持が得られているどころか、荒唐無稽な説であると考えられているようです。

《日本は満州や朝鮮の経済発展に貢献した》
そのような事実はあると思います。
しかし朝鮮の人たちは、経済発展の貢献をありがたがるより、朝鮮人が日本人から下等人民のように扱われた屈辱を忘れずにいるのです。いくら「経済発展での寄与」を叫んでも意味がないでしょう。

《日米開戦は、アメリカが仕掛けた罠か》
善人である日本が、アメリカが仕掛けた罠で戦争に引きずり込まれた、というのは、どだい無理があります。
「ハルノートにより、戦争開始が早まった」「ハルノートがあろうがなかろうが、早晩アメリカは日本と戦争するつもりだった」という点はそのとおりです。
しかし、日本が日中戦争を拡大し、日独伊三国軍事同盟でナチスドイツと手を組み、南部仏印に進駐した結果の戦争突入ですから、「日本は騙された善人だ」という主張は成立しません。

《日米戦争を戦っていなかったら、日本は白人の植民地になっていた》
当時のアメリカ人の気質を知っていた人たちであれば、このような恐れは全く感じることがなかったでしょう。

《日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与えている》
旧日本軍の軍人が10人いたとして、10人のうち9人まではりっぱな軍人だったと私も思います。ところが、10人のうち1人だけ、暴虐な行為を行う兵隊がいたのであろうと。この1人の暴虐な行為を日本軍は罰することなく、際限のない暴行を許してしまいました。このような集団を外から見ると、それは「ならず者集団」です。外から見るとそれだけで、日本軍はりっぱな侵略軍になってしまったのです。
従って、10人のうち9人に接した人たちが「日本軍人はりっぱな軍人だった」というだけでは、日本軍を弁護することができません。

「1945年までの日本はすべて悪だった」と切り捨てることは間違いです。日本の歴史において、誇るべき点は誇るべきです。
しかし、1930年から1945年にかけての日本の行為については、やはり真摯に反省し、謝罪すべきでしょう。
リンクを入れます。
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田母神氏参考人招致

2008-11-12 22:55:50 | 歴史・社会
11月11日、前航空幕僚長の田母神氏が参議院外交防衛委員会に参考人招致されました。先日のペシャワール会現地代表中村哲氏の参考人招致に引き続き、インターネット中継を見てしまいました。当日の午後はネット接続が困難でしたが、夜になったら十分に安定していました。

しかし、国会討論を中継で見るというのはなかなか楽しいですね。今ではこうしてインターネットであらゆる委員会討議を視聴できるのですから、便利になったものです。あっという間に3時間が経過します。
弁理士稼業をリタイアした後、老後の時間つぶしに好適かもしれません。

さて、田母神氏の参考人質疑です。

民主党委員による質疑が冒頭にありました。田母神氏の書いた論文の中身についての質問はほとんどありません。もっぱら、村山談話と対立する論文を公表した田母神氏に対する、防衛省の処分が不適切であった、という点についての質疑です。
民主党委員が「なぜ懲戒手続きに入らなかったか」と質し、防衛相が「懲戒手続きは長期間を要する。1月に定年延長が切れると中断することになる。ここで定年延長を停止するのが最適と考えた。」と反論し、この押し問答が延々と続きます。

聞いていながら、なぜ民主党は「もっと定年を延長して懲戒手続きをすべき」と主張しないのか、疑問がわき起こります。そこでネット中継を聞きながら、ネット検索を行ってみました。
自衛隊法45条3項で、「防衛大臣は、自衛官が定年に達したことにより退職することが自衛隊の任務の遂行に重大な支障を及ぼすと認めるときは、・・・六月以内の期間を限り、当該自衛官が定年に達した後も引き続いて自衛官として勤務させることができる。」と規定しています。
自衛官の定年は、空幕長であれば62歳、空将であれば60歳だそうです。田母神氏は5ヶ月前に60歳を迎えています。
防衛省側の言い分は、空幕長を更迭された田母神氏は一般の空将となり、60歳を迎えた5ヶ月前が定年となる。従って、6ヶ月の定年延長を行っても来年1月に延長が切れてしまう。というものです。
しかしこの考え方は納得できません。
普通に考えたら、空幕長でいる間は定年を迎えていないのですから、空幕長を更迭されたその時点で定年が到来した、ということになると思います。そしてそれから6ヶ月間、定年を延長できるはずだと。
そうでないと、例えば61歳になった幕僚長が不祥事で更迭されたとき、60歳を1年経過していますから、定年延長は一切不可能ということで、懲戒手続きが全く不可能という不合理な事態となってしまいます。

民主党は、なぜ上記のような論理を展開して「定年延長はまだ6ヶ月可能と解釈すべき」と攻めないのでしょうか。
この点について、民主党の中村てつじ議員にメールで質問を投げかけています。

次の自民党委員による質問は、結論としては防衛省に対する賛成質問ですね。

共産党委員による質問は迫力がありました。
田母神氏が統幕学校の校長時代、「国家観・歴史観」という講義を新設した、という事実を明らかにしたのです。
部外から講師を招いて講義したそうですが、共産党委員が防衛省から入手した資料では、外部講師の名前が黒塗りされていたようです。
「歴史観」という名称はいただけません。このように名づけた時点でイデオロギー臭を感じます。唯物史観、皇国史観、自虐史観、東京裁判史観、いずれもそうですね。田母神氏のようなスタンスを自由主義史観というのでしょうか。学校ではあくまで「歴史」を教えるべきで、「歴史観」を押し付けてはいけません。

社民党委員の持ち時間については、田母神氏や防衛相に対する質問はほとんどなく、持ち時間の大部分を使って沖縄戦に関連する自説を開陳していました。実はペシャワール会中村代表の参考人招致のときも同じだったのです。これは問題ですね。


今回の参考人質疑でも、「田母神論文のどこが不適切か」という具体的な議論はほとんどありません。参議院の委員会が田母神氏の個人意見開陳になることを恐れ、わざと議論しなかった可能性はあります。
しかしその結果、「田母神論文は本当は正論なのではないか」という疑問を抱く国民が多く存在することになる可能性が大です。
参考人質疑で田母神氏は、「ヤフーのアンケートでは私の言い分が正しいという人が半分以上だった」と言っていました。田母神氏が言うべきことではありませんが、そのようなアンケート結果があることは事実なのでしょう。それだけ、田母神氏を支持する層が存在していると思います。

田母神氏の論文の中身については、次回コメントしたいと思います。
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