弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

鳥人間コンテスト2014

2014-09-17 23:42:00 | 趣味・読書
鳥人間コンテスト2014は本年7月26、27日に行われ、テレビ放映は9月3日でした。私はテレビ放映をビデオに撮り、やっと最近視聴したところです。

最初に行われた滑空機部門、その次の人力タイムトライアル部門は、絶好の天候に恵まれ、いくつもの優れたフライトを目にすることができました。

その後、お目当ての人力ディスタンス部門はというと、次第に天候が悪化し、まずは風が強くなりました。東北大学ウィンドノーツが飛んだときも横風あるいは向かい風がひどく、記録は1849mでした。
さらに風が強くなり、大雨まで降り出しました。強豪チームのうち、日大は棄権、その後も天候が回復せず、東工大マイスターが飛ぶ前に「中止」ということになりました。
この1年、各チームとも機体作成と試運転に精魂を傾け、パイロットは猛訓練を積んできたはずですが、飛べなかったのは本当に残念です。

滑空機部門は、みたかもばら下横田の大木 祥資さんがまたも優勝です。自己記録501mには及びませんでしたが、407mを飛びました。その一方、今回は大木さんを追いかけるチームも健闘しました。アクティブギャルズ・ファミリーの佐多 宏太さんが394m、首都大学東京 MaPPLの鎌谷 直也さんが360m、九州大学鳥人間チームの石丸 隆宏さんが350mと、良好な成績を残しました。

人力タイムトライアルでは、名古屋大学 AirCraftの渡辺 幹志さんが1分43秒という驚異的な記録で優勝です。最近の歴史を振り返ると、名古屋大学 AirCraftチームは、昨年の2位で突然飛び出してきたように見受けます。
人力ディスタンス部門は、東北大、東工大、日大の御三家が牙城となっていますが、タイムトライアル部門は新しいチームの息吹が感じられます。
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朝日5月20日記事顛末

2014-09-15 14:41:52 | サイエンス・パソコン
朝日新聞社が9月11日19時半から記者会見を開き、5月20日の吉田調書をめぐる記事が誤っており、記事を撤回するとしました。
翌12日朝刊「吉田調書をめぐる朝日新聞社報道 経緯報告」2014年9月12日05時00分
『朝日新聞は、「吉田調書」の内容を報じた記事の中で、福島第一原発の事故で所員が「吉田所長の命令に違反し、福島第二原発に撤退」と誤った表現をした経緯について、社内で調べました。これまでの調査の結果、取材が不十分だったり、記事に盛り込むべき要素を落としたりしたことが、誤りにつながったと判断しました。
■「命令違反し撤退」と、なぜ誤ったのか
◇所員に「命令」が伝わっていたか確認不足 少人数で取材、チェック働かず
吉田所長が所員に指示した退避について、朝日新聞は「命令」とし、「命令違反で撤退」という記事を書いた。この記事については、福島第一原発事故の混乱の中で所員の多くに「命令」が伝わっていたかどうかを確認できていないなど、取材が不十分だった。その結果、所員の9割が「所長命令に違反し、福島第二原発に撤退した」と誤った記事になった。
特別報道部を中心とする取材班は、入手した吉田調書の内容を検討する中で、2号機が危険な状態に陥った2011年3月15日朝の動きに注目。所員の多くが福島第二に移動したことについて、「吉田所長の命令に違反した」と判断した。
その主な根拠は、(1)吉田所長の調書(2)複数ルートから入手した東電内部資料の時系列表(3)東電本店の記者会見内容――の3点だった。
吉田所長は(1)で、所員に福島第一の近辺に退避して次の指示を待てと言ったつもりが、福島第二に行ってしまったと証言。(2)の時系列表には、(1)の吉田所長の「命令」を裏付ける内容が記載されていた。また、東電は(3)で一時的に福島第一の安全な場所などに所員が移動を始めたと発表したが、同じ頃に所員の9割は福島第二に移動していた。』
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「(1)吉田所長の調書」は、記者会見と同じ9月11日に内閣官房から公表されました。その中の、朝日5月20日記事に関連する部分について、先日このブログに掲載しました(「吉田調書」抜粋)。
「(2)複数ルートから入手した東電内部資料の時系列表」については、今のところ、5月20日記事にも記載された『朝日新聞が入手した東電の内部資料には「6:42 構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう(所長)」と記載がある。』しか目にしていません。
そして、この「東電の内部資料」については、11日の記者会見でも記者から繰り返し質問がされていました。
『杉浦取締役「入手した資料では原発ではない場所でもテレビ会議がモニターであって、テレビ会議を聞いた方がメモした中に第1原発の線量の低いところに退避とメモがあった」
記者「命令はあったとすれば、吉田所長の伝え方が悪かったのか、途中の人がきちんと伝えなかったのか-所内の問題があったという印象も残る。そもそも、命令があったと認定した根拠は何なのか」
杉浦取締役「少なくともテレビ会議システムで、吉田さんの『第1原発のところに退避するように』という音声というか、が記録されていますので、テレビ会議を聞いた人には命令はあったと考えています」
記者「命令を聞いた第三者に確認をしたのか。聞き取った他の原発でのメモだけが根拠なのか」
杉浦取締役「現時点ではそういうことです」
記者「命令を聞いたという職員の方の取材は行ったのですか。この点は大事なので確認させてください」
杉浦信之取締役編集担当「取材はしたが話は聞けなかったということです」
記者「1人も話を聞いていないのに記事にしたのですか」
杉浦取締役「はい」
記者「メモでは『線量の低いところに行きなさい』と言っている。さらに、吉田調書では『線量の低いところがなければ、第2原発に行きなさい』と言っている。これは条件付きではないか。命令はあったと断定すると(命令の)伝え方や部下の問題という印象が残るのではないか」
杉浦取締役「ご指摘の通りだと思います。最初の命令はあったと思っておりますが、そこから違反に結びつくかという吟味。混乱があったり、やむを得ない事情で第2原発に行った人まで違反としたことが過ちだった」
記者「今後、その辺りを含めてさらに事実解明をする計画は」
杉浦取締役「ございます」』

この「東電の内部資料」は、柏崎メモと呼ばれているようです。
『吉田調書以外に、朝日が「命令違反」の根拠にしたのは「柏崎メモ」といわれるノートだ。
福島第1原発事故時のテレビ会議映像が柏崎刈羽原発(新潟県)のモニターにもリアルタイムで流れており、それを所員が個人的に記したノートを朝日が独自に入手していた。ノートには、吉田氏の命令として「1F(福島第1原発)の線量の低い所へ待機」と書かれているという。』

(1)9月11日に公表された「吉田調書」、(2)東電の内部資料(柏崎メモ)、(3)東電の記者会見「一時的に福島第一の安全な場所などに所員が移動を始めたと発表」のみから、5月20日の記事が書かれたということでしょうか。しかしそれにしては、5月20日の記事は、吉田所長の判断と決定事項を本人から聞いたかのように詳細に語っています。

5月20日記事のうち、私が「何を根拠にして記載したのだろう?」と疑問に思う部分を列挙します。下記のうちで太線の部分です。
福島第一の原発所員、命令違反し撤退 吉田調書で判明~木村英昭 宮崎知己2014年5月20日03時00分
『吉田調書や東電の内部資料によると、15日午前6時15分ごろ、吉田氏が指揮をとる第一原発免震重要棟2階の緊急時対策室に重大な報告が届いた。2号機方向から衝撃音がし、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったというものだ。2号機の格納容器が破壊され、所員約720人が大量被曝(ひばく)するかもしれないという危機感に現場は包まれた。
とはいえ、緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していなかった。この時点で格納容器は破損していないと吉田氏は判断した。
午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」


葬られた命令違反 吉田調書から当時を再現
『そして、午前6時すぎ。衝撃音が緊急時対策室に響いた。吉田氏は白い防災ヘルメットをかぶった。
2号機の格納容器下部の圧力抑制室の圧力が「ゼロになったという情報」と「ぽんと音がしたという情報」が、中央制御室からほぼ同時に入ってきた。
2号機格納容器の爆発が疑われる事態だった。
計器を確認させると、格納容器の上部側の圧力は残っていた。吉田氏は「(格納容器が)爆発したということはないだろうな」と思ったが、圧力計が壊れている可能性は残るため、「より安全側に判断すれば、それなりのブレーク(破損)して、放射能が出てくる可能性が高い」と考えた。
吉田氏は一方で、構内や緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していないという事実を重くみた。様々な情報を総合し、格納容器は壊れていないと判断。現場へすぐに引き返せない第二原発への撤退ではなく、第一原発構内かその付近の比較的線量の低い場所に待機して様子を見ることを決断し、命令した。
朝日新聞が入手した東電の内部資料には「6:42 構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう(所長)」と記載がある。吉田調書と同じ内容だ。命令の少し前に「6:34 TSC(緊急時対策室)内線量変化なし」と報告があったとの記載もあった。』

吉田調書の内容について検討します。
「吉田調書」は、政府事故調査委員会ヒアリング記録として内閣官房で開示されました。
吉田調書はA4で400枚ということで、通読はあきらめました。朝日新聞9月12日には、吉田調書の抜粋が2面ぶち抜きで掲載されています。当の朝日が掲載するのですから、5月20日の問題記事が依拠した部分は全部抜粋しているだろうと考え、取りあえずはこれだけ読むことにしました。それと、朝日新聞デジタル『「吉田調書」福島原発事故、吉田昌郎所長が語ったもの』というサイトに出てくる吉田調書抜粋も参照しました。背実のブログ記事(「吉田調書」抜粋)に掲載しました。
「吉田調書」の私が知り得た範囲(ブログ記事に掲載した範囲)では、以下の記述があります。

『保守的に考えて、これは格納容器が破損した可能性があるということで、ぼんという音が何がしかの破壊をされたのかということで、確認は不十分だったんですが、それを前提に非常事態だと私は判断して、これまた退避命令を出して、運転にかかわる人間と保修の主要な人間だけ残して一回退避しろという命令を出した』
『2号機はサプチャンがゼロになっているわけですから、これはかなり危ない。ブレークしているとすると放射能が出てくるし、かなり危険な状態になるから、避難できる人は極力退避させておけという判断で退避させた』(なお、この部分については、内閣官房が公表した吉田調書中の記載箇所がまだ確認できていません)

以上の調書内容からは、「2号機の格納容器が破損している可能性があり、これから大量の放射線が発生する可能性がある」として、退避を判断しています。「免震重要棟からの退避」です。1Fの構内で免震重要棟の中よりも安全な場所があったとは思えず、免震重要棟からの退避であれば2Fは適切な判断と思われます。
そして、「現時点で免震重要棟の内部は線量が上がっていないから、2Fまで退避する必要はない」と吉田所長が判断していたことを示唆する記述は、どこにも見つかりません。「これから放射線が上がるかもしれない」と危惧している所長が、「現在免震重要棟内の線量が上がっていないから2Fに行く必要がない」と判断するのはあまりに不可解です。
上記5月20日記事のうちで私が太線とした部分は、一体何を根拠に記述したのでしょうか。

2011年3月15日未明から早朝にかけての「退避行動」は、3つのフェーズがあります。
(1)関連会社の人たちが退避
    (吉田調書中「○質問者 そのときは、実際、協力企業さんたちは帰られたんですね。
           ○回答者 まず、廊下にいる人はほとんど帰ったと。)
(2)東電社員が(最少人数を残して)退避(2Fへ)
(3)中央操作室の運転員が免震重要棟へ引き上げ
    (吉田調書中「中央操作室も一応、引き上げさせましたので」)

当時、これらの情報が現場で錯綜していたはずです。(3)のつもりで1F緊対室でされた発話が、(2)のことだと間違って他所でメモされた、ということもあるかもしれません。
「中央操作室の運転員が免震重要棟へ引き上げ」は、「一時的に福島第一の安全な場所などに所員が移動を始めた」と表現することができます。

東電社員の待避先が2Fになったことについて、吉田調書の実際の記述は以下のとおりです。
『○質問者 あと、一回退避していた人間たちが帰ってくるとき、聞いたあれだと、3月15日の10時か、午前中に、GM(グループマネジャー)クラスの人たちは、基本的にほとんどの人たちが帰ってき始めていたと聞いていて、実際に2Fに退避した人が帰ってくる、その人にお話を伺ったんですけれども、どのクラスの人にまず帰ってこいとかいう。

 A 本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しようがないなと。2Fに着いた後、連絡をして、まずGMクラスは帰ってきてくれという話をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです。

○質問者 そうなんですか。そうすると、所長の頭の中では、1F周辺の線量の低いところで、例えば、バスならバスの中で。

 A 今、2号機があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、ここから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して。

 Q 最初にGMクラスを呼び戻しますね。それから、徐々に人は帰ってくるわけですけれども、それはこちらの方から、だれとだれ、悪いけれども、戻ってくれと。

 A 線量レベルが高くなりましたけれども、著しくあれしているわけではないんで、作業できる人間だとか、バックアップできる人間は各班で戻してくれという形は班長に。(8月9日聴取)』

質問者の質問は、「退避先について」ではありません。「2FからGMクラスに帰ってきてもらった」ということです。従って、吉田所長の「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。」がどういう意図での発言なのか、いろいろな解釈があり得ます。

その発言を受け手の次の質問「所長の頭の中では、1F周辺の線量の低いところで、例えば、バスならバスの中で。」と想像を交えて語ると、それに対する吉田所長の回答は質問者の想像を否定する趣旨と受け取れます。

なお、「最少人数を残して退避」と命じた後、退避した人の中から必要な人たちを呼び戻した点については、吉田調書で「線量レベルが高くなりましたけれども、著しくあれしているわけではないんで」と発言しており、同じ吉田調書中の「放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、我々のイメージは東日本壊滅ですよ。」からは一難去った、と考えていたらしいことがうかがえます。

いずれにしろ、私が接した情報の範囲内では、朝日5月20日記事中の
『様々な情報を総合し、格納容器は壊れていないと判断。現場へすぐに引き返せない第二原発への撤退ではなく、第一原発構内かその付近の比較的線量の低い場所に待機して様子を見ることを決断し、命令した。』
なる文章はとても生まれてきません。

朝日新聞は、単に謝罪して5月20日記事を取り消すだけではなく、取材陣はどのような証拠と判断に基づいてこのような記載に至ったのか、その点を詳細に調査し、われわれにわかるように明確に説明してほしいものです。
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「吉田調書」抜粋

2014-09-13 22:55:30 | サイエンス・パソコン
(10月4日修正)
「吉田調書」をはじめ、政府事故調査委員会ヒアリング記録が内閣官房で開示されました。
吉田調書だけでA4で400枚ということです。ちょっと眺めたら、テキストではなくイメージファイルですね。検索もできないし、これを読み通すことにはならなそうです。2年以上前、政府事故調中間報告、国会事故調報告書では、それぞれ両面で4~5cmの厚さになる書類を印刷して読みましたが、そのときほどの逼迫感はもちろんありません。

朝日新聞9月12日には、吉田調書の抜粋が2面ぶち抜きで掲載されています。当の朝日が掲載するのですから、5月20日の問題記事が依拠した部分は全部抜粋しているだろうと考え、取りあえずはこれだけ読むことにしました。

しかし、朝日新聞の抜粋を上記内閣官房の公表書類と比較してみると、朝日の抜粋では微妙に抜けているところがありました。そこで、朝日の抜粋のうちで5月20日記事が関連する部分について、内閣官房の公表書類を補って以下に掲載します。

また、朝日新聞デジタル『「吉田調書」福島原発事故、吉田昌郎所長が語ったもの』というサイトを見つけました。この中に出てくる吉田調書抜粋には、9月12日の朝日新聞記事に掲載された抜粋には出てこない部分があります。この部分が調書のどこに乗っているのかもわかったので(xls-hashimotoさん、ありがとうございます)、調書の記載順に則って並べ替えました(10月4日)。
以下で、「Q」「A」から始まる部分は朝日新聞の記事、「---」「吉田」から始まる部分は朝日新聞デジタルです。また「○質問者」「○回答者」で始まる部分は、内閣官房の資料から文字起こししたものです。

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朝日新聞デジタルに掲載された部分(その1)
2011/7/29 事故時の状況とその対応について (PDF:7,170KB) 56ページ

--- 2号機とは限らないんですが、3月15日の6時から6時10分ころ、その前後の話なんですが、このとき、一つは2号機の圧力抑制室の圧力が急激に低下してゼロになる。それから、このころ、何か。

吉田「爆発音ですね」

--- 音があったと。これは免震重要棟から聞こえたり、感じたりしましたか。衝撃なり音なりというのを。

吉田「免震重要棟には来ていないんです。思い出すと、この日の朝、菅総理が本店に来られるということでテレビ会議を通じて本店とつないでいたんです。我々は免震重要棟の中でテレビ会議を見ながらということでおったら、中操から、あのとき、中操にたまたま行っていたのかよくわからないですけれども、その辺は発電班の班長に聞いてもらった方が、記憶にないんですけれども、要するに、パラメーターがゼロになったという情報と、ぽんという音がしたという情報が入ってきたんですね。免震重要棟の本部席に」
 「私がまず思ったのは、そのときはまだドライウェル圧力はあったんです。ドライウェル圧力が残っていたから、普通で考えますと、ドライウェル圧力がまだ残っていて、サプチャンがゼロというのは考えられないんです。ただ、最悪、ドライウェルの圧力が全然信用できないとすると、サプチャンの圧力がゼロになっているということは、格納容器が破壊された可能性があるわけです。ですから保守的に考えて、これは格納容器が破損した可能性があるということで、ぼんという音が何がしかの破壊をされたのかということで、確認は不十分だったんですが、それを前提に非常事態だと私は判断して、これまた退避命令を出して、運転にかかわる人間と保修の主要な人間だけ残して一回退避しろという命令を出した

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朝日新聞9月12日吉田調書の抜粋に載っている内容は、事故時の状況とその対応について 4がそれに該当します。
まずはそのうちの52ページです。
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《2号機について》
○回答者 そうです。これもどこで燃料入れて、水が入ったか、覚えていないんですけれども、その後、下がっているんで、やはり水が入ったと思うんです。水が入ったら、逆に、今度は、水が過熱した燃料に触れますから、ふわっとフラッシュして、それで圧力がぐっと上がってしまったという現象だと思っているんですけれども、また水が入らなくなる。そういう形で若干落ちてきて、そういう現象だと私は思っているんですけれども、解析をやってみないとわからないです。いずれにしても、かなりこれは損傷して、メルトに近い状態になっていると私は思っていましたから。

○質問者 14日から15日のかけての夜ですね。

○回答者 はい。

○質問者 そのときは、実際、協力企業さんたちは帰られたんですね。

○回答者 まず、廊下にいる人はほとんど帰ったと。

○質問者 当時ですと、
 Q 本部に詰められている東電の社員の方々いますよね。その人たちはどう。

 A 本部といいますか、サイトですね。免震重要棟。そのときに、■君(政府が名を伏せている)という総務の人員を呼んで、これも密(ひそ)かに部屋へ呼んで、何人いるか確認しろと。協力企業の方は車で来ていらっしゃるから……。うちの人間は何人いるか確認しろ。特に運転・補修に関係ない人間の人数を調べておけと。本部籍の人間はしようがないですけれどもね。使えるバスは何台あるか。たしか2台か3台あると思って、運転手は大丈夫か、燃料入っているか、表に待機させろと。何かあったらすぐに発進して退避できるように準備を整えろというのは、こんなところに出てきていませんが、指示をしています。

 Q それは、2号機とか4号機がああいう感じに、15日の6時になりますね。それよりももっと前にそういうふうにして。

 A ずっと前です。2号機はだめだと思ったんです、ここで、はっきり言って。

 Q それは3号機とかよりも2号機。

 A 3号機は水入れていましたでしょう。1号も水入れていましたでしょう。水入らないんですもの。水入らないということは、ただ溶けていくだけですから、燃料が。燃料が溶けて1200度になりますと、何も冷やさないと、圧力容器の壁抜きますから、それから、格納容器の壁もそのどろどろで抜きますから、チャイナシンドロームになってしまうわけですよ。今、ぐずぐずとは言え、格納容器があり、圧力容器、それなりのバウンダリを構成しているわけですけれども、あれが全くなくなるわけですから、燃料分が全部外へ出てしまう。プルトニウムであれ、何であれ、今のセシウムどころの話ではないわけですよ。放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、我々のイメージは東日本壊滅ですよ。

 Q それで準備は一応、最低限の人間を残そうということで考えておられて、その後、すぐに退避というふうになっていないですね。

 A それは、水を入れに行ったわけですよ。水がやっと入ったんですよ。入ったという兆候が出たんで、そこで、水入ったというふうに喜んで、あとはずっと水を入れ続けるだけだということで、忘れてしまいました、はっきり言って、ここは忘れたいんだけれども、余りここの時間を取りたくないんですけれども、忘れてしまいましたけれども、やっと助かったと思ったタイミングがあるんです。(8月9日聴取)

(続いて、55ページから始まる部分です。)

 Q 3月15日の6時ぐらいに異変が生じて、最初は2号機の圧力が一気に低下していって、それから、衝撃音がしたということが合わさって、最初の報告のときは2号から報告が来て、2号であったんだろうという、この音と結びついてですね。その後、今度また4号の方という話も来るわけですね。しばらく人員が少なくなる。

 A バスで退避させました。2Fのほうに。

○質問者 このときというのは、例えば、さっきの引き続き爆発音というか、何があるかわからないから、しばらくは現場で作業とかはできないですね。ただ、注水の、例えば。

○回答者 それは、どちらかというとストップして何かしたかというと、周辺の放射線量だとか、そこをまずしっかり測れと。だから、何かあったと。何かあったから、まずは引き上げろと。一番重要なのは、放射線量が急激に増加する、格納容器が破れるということで急激に放射線量が上がるわけですから、それをまず確実に測定して連絡しろと。その値を見て、どう操作をするとか、次のステップを決める、こういうことですから、まずはそういう対応をした。

○質問者 その後、例えば、パラメータとか、要するに、何が起こったかと。

○回答者 中央操作室も一応、引き上げさせましたので、しばらくはそのパラメータは見られていない状況です。いずれにしても、まずは放射線量がどうかということで、それが大きく変化するようであれば、またそれは考えないといけませんし、まずはそこをしっかり見ましょうと。

○質問者 当時はこんなのがわかっていたのかどうか、定かではないんですけれども、これはどういう意味なんですか。3月16日のこの辺り、原子炉圧力がマイナス。

○回答者 データは、16日の1時ですね。2号機は、パラメータがわけがわからない状態になっていて、サプチェンがゼロからダウンスケールでしょう。圧力容器が、ドライウェルの方が高くて、サプチェンがそれより低い状態から、ドライウェルの圧力は残ったままサプチェンがゼロになって、それに引き続いてドライウェルの圧力がどんどん落ちてきた。水位はマイナスのままですね。炉圧も途中で変な値を出しているんで、逆に言うと、ここのプレークか何かによって、圧力計だとか、その辺の異常が起こったのかなと、こんなふうに思った。

○質問者 圧力計が仮に故障していなかったとして、圧力がマイナスの状態というのは考えがたい状況だというのがありますね。基本的にこれは圧力計が故障しているのだろうと、爆発の影響で。
 あと、一回退避していた人間たちが帰ってくるとき、聞いたあれだと、
 Q 3月15日の10時か、午前中に、GM(グループマネジャー)クラスの人たちは、基本的にほとんどの人たちが帰ってき始めていたと聞いていて、実際に2Fに退避した人が帰ってくる、その人にお話を伺ったんですけれども、どのクラスの人にまず帰ってこいとかいう。

 A 本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しようがないなと。2Fに着いた後、連絡をして、まずGMクラスは帰ってきてくれという話をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです。

○質問者 そうなんですか。そうすると、
 Q 所長の頭の中では、1F周辺の線量の低いところで、例えば、バスならバスの中で。

 A 今、2号機があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、ここから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して。

 Q 最初にGMクラスを呼び戻しますね。それから、徐々に人は帰ってくるわけですけれども、それはこちらの方から、だれとだれ、悪いけれども、戻ってくれと。

 A 線量レベルが高くなりましたけれども、著しくあれしているわけではないんで、作業できる人間だとか、バックアップできる人間は各班で戻してくれという形は班長に。(8月9日聴取)
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朝日新聞デジタルに掲載された部分(その2)
2011/11/6 事故時の状況とその対応について (PDF:4,233KB)30ページの真ん中より下

○吉田所長 そのときの免震棟の本部の状況を言いますと、あれは菅さんが来ていたときです。来ていたというのは、本店の方にですね。朝から待機するだとか、訓示を垂れるか何か知らないですけれども、テレビ会議をつないでやっているときに、私自身は音を聞いていないです。

○質問者 聞こえなかったですか。

○吉田所長 私自身は免震重要棟で、そのタイミングでの音を聞いていないんですけれども、運転の方から、2号機のサプチャンの圧力がゼロになったという話と、音の話が先に入ってきたんです゜音とサプチャンゼロという話が入ってきて、2号かどうかはわかりませんが、音が聞こえたという事実と、2号のサプチャンがゼロになったという話があったんで、一番危険なことを考えると、そのときにまだ4号機の情報が入ってきていませんから、2号機が格納容器が破壊されてゼロになったんではないか。そのとき、ドライウェルの圧力がまだあったんで、本店からすると、ドライウェルの圧力があるんだから問題ないだろうと。それは遠くにいるから思うんであって、音を聞いて、サプチャンがゼロになったら、危ないと思うのは当たり前でしょう。ドライウェルの圧力計などは、計器そのものがほとんど信用できない状態だったものですから、まず、それを中心に、最低限の人間は置いておいて、避難しないといけないと言った。
吉田「20~30分たってから、4号機から帰ってきた人間がいて、4号機ぼろぼろですという話で、何だそれはというんで、写真を撮りに行かせたら、ぼこぼこになっていたわけです。当直長は誰だったか、斎藤君か、斎藤当直長が最初に帰って来て、どうなのと聞いたら、爆風がありましたと。その爆風は3、4号機のサービス建屋に入ったときかどうか、そんな話をして、爆風を感じて、彼は入っていくか、出ていくかだったか、帰りに見たら、4号機がぐずぐずになっていて、富田と斎藤が同じだったかどうか、私は覚えていないんだけれども、富田と斎藤から後で話を聞いたら、ぼんと爆風を感じた時間と、2号機のサプチャンのゼロの時間がたまたま同じぐらいなので、どちらか判断できないというのが私がそのときに思った話で。だけれども、2号機はサプチャンがゼロになっているわけですから、これはかなり危ない。ブレークしているとすると放射能が出てくるし、かなり危険な状態になるから、避難できる人は極力退避させておけという判断で退避させた
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(10月4日修正)
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八田隆著「勝率ゼロへの挑戦」

2014-09-07 15:19:45 | 歴史・社会
勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか
八田
光文社

著書の扉によると、
「八田氏は東大法学部卒業後、ソロモン・ブラザーズ証券、クレディ・スイス証券、ベアー・スターンズ証券に在籍。クレディ・スイス証券在籍時の株式報酬過少申告を故意の脱税とされ、国税局査察部強制捜査後、刑事告発。東京地検特捜部起訴。法廷闘争により、査察部告発・特捜部起訴の事案で史上初の無罪が確定。それまで税務調査開始から5年あまりを要した。」

2007年1月、八田氏はクレディ・スイスのマネージング・ディレクターに昇格しましたが、そのときすでに職場での八田氏の立場は弱くなっていました。東京オフィスにアメリカ人が一人、送り込まれてきました。八田氏はあくまでビジネス・パートナーのつもりだったのですが、そのアメリカ人は上司風を吹かせようとして軋轢が生じたのです。
結局、八田氏は解雇されることになりましたが、条件はすべて会社都合解雇に準ずることになりました。クレディ・スイスでは、給与の少なからぬ部分が自社株で払い出されますが、一定期間経過後でないと売却できない約束です。自己都合で会社を辞めるとその権利をすべて失ってしまう契約ですが、会社都合であればその株式を受け取ることができます。八田氏は、その未経過分の株式報酬を退職金として前倒しで受け取ることになり、後の脱税容疑につながることになりました。


国税庁資料調査課(リョウチョウ)による捜査は、2008年に始まりました。税務調査は、クレディ・スイス証券の従業員および退職者に対して一斉に行われました。その年のうち、捜査は査察部(マルサ)に渡りました。
八田氏の給与の一部が現物株(合計約3億円)ないしストックオプション(5千万円)といった株式報酬で支払われ、会社はそれら株式報酬に関して源泉徴収の義務なしと判断して源泉徴収を行っていませんでした。しかし八田氏は、会社からもらう源泉徴収票に記載されていない会社の給与があるとは全く思いもしなかったため、申告漏れとなっていたのです。
クレディ・スイス証券の在職者・退職者のうち、税務調査の対象となったのは300人。そのほとんどが株式宇報酬を申告できずに修正申告となり、約100人が八田氏と同じく株式報酬の無申告となっていました。クレディ・スイス証券以外の外資系証券でも同じ状況でした。そのような対象者数百人のうち、八田氏ただ一人が、国税局、検察から故意による脱税だと刑事告発、起訴されたというのがこの事件です。

マルサによる強制捜査が行われた時期、八田氏はアメリカ在住でした。取り調べのために日本との間を往復する日々でした。取り調べでは八田氏は「身に覚えがない」と答えるのみです。もちろん故意による脱税だとする証拠も一切ありません。
それにもかかわらず捜査は長引きます。2009年9月ごろ、八田氏は捜査官に「上司に会わせてくれ」と談判し、査察部統括官との面談を実現しました。八田氏が、なぜここまで時間がかかっているのかと詰め寄ったところ、統括官は言いました。
「証拠がないからです。証拠があれば、ほらこんな証拠があると、八田さんに提示できるから話も早いのだが、その証拠がまだ見つかっていません。私たちの仕事はあなたを告発することです。だから時間がかかっていることをご理解ください。」

2010年2月、国税局が八田氏を刑事告発したとする新聞報道がなされました。
メディア関係者からヤメ検の弁護士を紹介されました。そのヤメ検弁護士は、否認しないことを勧めました。また、知人の一人は弁護士と相談し、子どものためを思って虚偽自白することを勧めてくれました。その言葉で逆に八田氏は意を決しました。子どものためを思うからこそ、真実を貫かなければならない。正面突破です。
このとき、八田氏は刑事裁判の有罪率が99.9%を超えることを知りました。ましてや国税局査察部が刑事告発して、検察特捜部が起訴しなかったこともなければ、査察部事案で特捜部に起訴されて無罪になったことも歴史上1件もないということを知りました。

まずは一緒に戦える弁護士が必要です。元ベアー・スターンズ証券の知り合いから紹介を受けました。経歴が刑事専門でないこともあり、断りの電話を入れようと弁護士に電話しました。しかし電話で話をしているうちに、一緒に戦えそうなイメージが沸いてきました。そこでその日のうちに弁護士に会う約束をしました。それが、一審・控訴審で主任弁護人を務めた小松正和弁護士との出会いでした。

東京地検特捜部の捜査は、刑事告発から1年半も放置されました。その間に、大阪地検特捜部による村木厚子氏事件(郵便不正事件)が勃発していたのです。

特捜部による取り調べが始まります。この取り調べ、まさに刑事被告人八田氏と特捜検事との真剣勝負ですね。そして、取り調べの全期間を通して、八田氏のエネルギーは衰えることがなく、特捜検事に対して互角以上の勝負を演じました。これは希有のことです。特捜検事と対峙してこれだけめげずに戦った例としては、佐藤優氏しか思い浮かびません。
大阪地検特捜部による郵便不正事件・証拠(フロッピー)改ざん事件が発覚後であったことも、八田氏に味方しました。
検事が作成する調書は、「私は~」という形式で作成されます。ところが、彼らが不審に感じていると強調したい部分だけは問答形式にするという、裁判官に対する符牒があるそうです。八田氏は取り調べ初日から、それをやめてくれと強く要求しました。相当時間激しく押し問答をした後、検事は、それ以降全ての調書を逐語的に問答形式で取ることになったのです。

これでも、取り調べを受ける被疑者側が、検事と比較して圧倒的に不利な状況であることにかわりありません。八田氏はさらに、立場をイーブンに持って行くためのさまざまな工夫を凝らしました。
検事の質問に対して「全く分からない」と答えると検事のつけいるすきを作るので、一旦、敢えて「ほとんど分からない」というあいまいな回答をし、検事がそのあいまいな範囲を特定しようとしたら「その範囲が特定できないため、むしろ全く分からなかったという方が適当だと思います」と切り返すのです。
検事から「AかBか」と二者択一を求められたときには「どちらでもなかった」と答えます。
八田氏は、問答形式という特殊な形式で調書が取られることのメリットを最大限利用しようと知恵を絞り、取り調べを戦い抜きました。

八田氏がツイッターをはじめたのは2010年4月、ブログはしていませんでした。
検察の取り調べは19回にわたりました。18回目の取り調べの際に検事の態度が大きく変化したことから、これは彼の手を離れたなと感じ、起訴を覚悟しました。そしてそれまでの経過報告を全てブログに転載して一般公開に踏み決ります。

著書の第3章「外資系証券マンとしてのキャリア」は、八田氏の職業人としての足跡を記録したものです。これだけでも、一人の外資系証券マンのサクセスストーリーとしておもしろい内容でした。

地裁は、第11回公判で無罪が言い渡されました。
判決理由が述べられた後の、佐藤弘規裁判長の説諭
「今回のことで時間が過ぎ、大切なものをなくしてきたと思います。それを取り戻すのは難しいと思いますが、家族やいろんな人が残ってくれましたね。そういった人のために前を向いて、残りの人生を、一回しかない人生を、しっかり歩んでほしいと思います。私も・・・私も初心を忘れずに歩んでいきます」

控訴審が開かれ、第2回公判で控訴棄却が言い渡されました。
判決文の一部
「本件は検察官において多数の間接事実の積み重ねによって被告人のほ脱の故意を立証しようとするものであるが、この場合積極方向の事情のみならず、消極方向の事情も踏まえて総合判断をすべきは当然のことである。
被告人は、所得証明に対する虚偽の書類を作成したり、預金口座や財産等を隠匿したり、当時の勤務先の担当者に何らかの働きかけをするなどの積極的な所得秘匿工作を行った形跡は窺われない。
本件では多数の間接事実から被告人にはほ脱の故意が推認できるか否かが争点なのであり、上記のように所得秘匿工作を全く行っておらず、いったん税務当局が調査に入れば多額の脱税の事実が直ちに判明する状況にあったことは、ほ脱の故意を推認するに当たり消極方向に働く事情であることは留意すべき点である。」
門田正紀裁判長の説諭
「刑事手続きが決着したら、前の仕事には戻れないようだが、あなたは能力に恵まれているし、再スタートを切ってほしい。裁判所も迅速な審理に努力したが、難しい事件でもあり、証拠は1万ページにのぼり、双方の主張を十分聞いたために、一審で1年3ヶ月、控訴審で9ヶ月かかってしまった。もっと早くと、被告人の立場からは思うだろう。これは、裁判所の課題です。」

検察控訴棄却の報道に、検察幹部の「遺憾である」とのコメントが付されました。八田氏は「検察よ、遺憾というのなら上告せよ」とブログで上告を促しました。しかし、検察は上告を断念したのです。

八田氏は、えん罪の原因究明を目的として、国家賠償請求訴訟をはじめています。2014年3月、国賠審の戦いは端緒についたばかりです。
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