弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

池上彰の新聞ななめ読み「記者クラブの開放」

2010-02-28 17:36:55 | 歴史・社会
2月22日の朝日新聞夕刊で、「池上彰の新聞ななめ読み」というシリーズ記事が以下のテーマを取り上げています。
「記者クラブの開放 原口総務相は何を言いたかった?」

2月9日に原口一博総務大臣が行った記者会見の内容について、新聞各紙がどのように報道したかという点を比較しています。

日経新聞
「東京地検を含めた行政機関が開く記者会見について『誰がどのように記者会見をやっているか調査を検討したい』と語り、行政評価局を活用した調査に乗り出す考えを示した。」

朝日新聞
「各省庁の会見が記者クラブ加盟社以外の報道機関にも開放されているかどうかを調べる意向を示した」

毎日新聞
「記者クラブ加盟社以外のメディアにも会見をオープンにしていくことが望ましい、との考えを示唆したと見られる」

読売新聞:黙殺して記事にもせず

池上氏の見解
「日本の役所の記者会見は、役所を担当する記者クラブに所属している新聞、放送、通信社の記者だけを対象に開かれることがほとんどです。このため、海外のメディアや、フリージャーナリスト(私のような立場の者)は記者会見に出席できません。記者クラブは単なる任意団体なのに、情報を独占していいのか、記者会見はもっと開かれたものにすべきではないか、とうい批判があります。
原口大臣の記者会見での発言は、おそらくこの批判を意識したものなのでしょう。
となれば、毎日新聞の解説が一番分かりやすいものになっていると言えるでしょう。朝日新聞の解説は、毎日ほど踏み込んでいないものの、まあ解説としては及第点ギリギリでしょうか。
それに対して、日経新聞は、何を言いたかったのでしょうか。記者クラブの解放問題については触れたくないが、記者会見があったことだけは書いておく、という政治的判断だったのでしょうか。」

日本の記者クラブ制度については、このブログでも長谷川幸洋「日本国の正体」上杉隆「ジャーナリズム崩壊」で紹介したとおりです。世界でも非常識な制度であり、日本のジャーナリズムが官に手なずけられる原因の一つとなっています。
民主党連立政権になって、さっそくこの記者クラブ制度にメスが入ると期待していたのですが、まだ遅々として進まないようです。民主党政権で「記者クラブ」はどうなる?でも話題にしました。やっと原口総務大臣が乗り出したということですか。

それにしても、大手新聞各社の中で、日経新聞のスタンスはいただけません。本音では記者クラブ制度を温存したいと考えているとしても、報道だけはきちっとしてもらわねばなりません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郵便不正事件の謎

2010-02-27 23:09:55 | 歴史・社会
厚労省の局長であった村木厚子氏を被告とする「郵便不正事件」が大変なことになっています。

《登場人物》(肩書は事件当時)
村木厚子氏(この裁判の被告人):厚生労働省障害保健福祉部企画課長
上村勉氏:同課社会参加推進室係長
塩田幸雄氏:厚生労働省障害保健福祉部長
石井一氏:民主党議員
河野克史氏:「凛の会」発起人
倉沢邦夫氏:「凛の会」会長(元石井議員秘書)
木村英雄氏:「凛の会」(元新聞記者)

大阪地検特捜部が描く事件の内容を、村木裁判の冒頭陳述から拾うと、以下の通りです。そしてこのストーリーについて、村木被告ただ一人が否認し、それ以外の関係者のすべてが「この通りである」と供述しているというのです。
《冒頭陳述》
【郵便不正事件】検察側冒頭陳述要旨
2010/01/28 産経新聞
『河野氏は低料第三種郵便を悪用する目的で、平成16年2月下旬、倉沢氏に石井国会議員へ口添えを依頼するよう指示した。石井議員は承諾して当時の塩田障害保健福祉部長に電話をかけ、証明書の発行を要請した。
塩田部長は村木課長に便宜を図るよう指示し、村木課長は企画課長補佐に担当者を紹介するよう指示した。
2月下旬、倉沢氏と面談し説明を受けた村木課長は、凛の会が障害者団体でないと理解して困惑しながらも、倉沢氏を塩田部長に会わせた。以後、村木課長ら担当者間では、実体がどうあれ発行が決まっている「議員案件」と位置づけた。
上村氏は4月1日付で係長となったが、凛の会から審査資料はまったく提出されていなかった。
日本郵政公社に実体がないことを気づかれると危惧した河野氏は、厚労省から近く証明書を発行する予定だと伝えてもらおうと考えた。5月中旬、倉沢氏が企画課に赴くと、村木課長は面前で公社東京支社に電話した。
6月上旬、上村係長は村木課長に問題点を伝えた上で、それでも発行していいか指示を仰いだ。村木課長は「先生からお願いされて部長からおりてきた話だから、決裁なんかいいんで、すぐに証明書を作ってください。上村さんは心配しなくていいから」などと告げた。
上村係長は6月上旬、深夜に書面を作り、翌早朝ごろ企画課長の公印を押して5月28日付の虚偽の証明書を作成し、村木課長に手渡した。
村木課長は部長に発行を伝え、部長は国会議員に電話で報告した。村木課長は証明書を受け取りにきた倉沢に証明書を交付した。
上村係長は稟議書だけでも残した方が言い訳しやすいと考えたが、村木課長は「もう気にしなくていいですよ。忘れてください」などと告げた。その後も凛の会は資料を提出せず、6月10日ごろ不正に入手した証明書を提出して行使した。』

私は、村木被告が逮捕されたときから、とても不自然な事件だと感じていました。
(1) 村木被告は、女性キャリア官僚の希望の星といわれた人で、次官候補ともいわれ、このようなけちな不正事件を起こす動機が考えられない。
(2) 5ヶ月間もの長い間拘留され取り調べられたのに、一貫して否認を貫いている。
(3) 検察ストーリーによれば事件に関与している厚労省の部長が、逮捕されていない。

それにしても、関係者のすべてが「村木被告の指示があった」と供述している以上、村木被告に勝ち目はなさそうでした。

ところが、この1月から始まった村木被告の公判で、村木被告に不利な供述をしていた人たちのほとんどが、その供述を翻しているのです。

《公判での証人たちの証言》
厚労省元部長が証言翻す 郵便不正、民主議員の口利き「なかった」
2月8日11時36分配信 産経新聞
第5回公判(2月8日)で元部長(塩田氏)は、検察側の尋問に対し、口利き電話や村木被告への指示を事実上否定したうえで、村木被告から「証明書を渡した」と報告を受けた後に石井議員に連絡したという内容の供述調書についても、「電話の交信記録があると検事に言われたので論理的に判断したが、書かれてあることは事実ではない」と証言した。
捜査段階で供述したのは「政治家から電話を受けることは日常茶飯事で、倉沢被告と年齢が近い国会議員秘書の応対をした記憶が残っていた。検事に言われ、そういうこともあったかと思い込んだ」と説明した。
公判で一転させた理由として、最近になり、検事から交信記録はないと聞かされた▽倉沢被告が公判で「(私と)会ったことがない」と証言した▽上村被告が「村木被告の指示を受けていない」と供述を翻していると報道された-ことなどを挙げ、「この話が壮大な虚構ではないかと思った」と述べた。

<郵便不正>村木元局長の指示否定、上村被告前任の元係長
2月16日14時9分配信 毎日新聞
第6回公判で、上村勉被告(40)の前任の係長(48)が「おそらく村木さんは冤罪(えんざい)。まったく指示も受けていないし、報告していない」と証言した。
元係長は、村木被告に報告したかは「覚えていない。おそらく報告もしていないし、まったく指示も受けていない」と話した。

<郵便不正事件>石井議員との「面会記憶ない」と元記者証言
2月17日12時20分配信 毎日新聞
第7回公判が17日「凜の会」を設立した元新聞記者(木村氏)(67)が証人出廷した。木村氏は倉沢被告と共に石井一・民主党参院議員(75)に口添えを頼んだとされるが「会った記憶がない。検事にもそう言ったが聞き入れられなかった」と証言した。
木村氏は公判で、昨年5~6月に大阪地検特捜部から容疑者として取り調べを受けたことを明かし「私が石井議員に会ったことは既成事実として最初から調書に書かれていた。『私は会った記憶がない。それは作文でしょ』と否定した」と述べた。

厚労省元局長公判、検察苦戦=「虚構」「冤罪」証言相次ぐ-郵便不正・大阪地裁
2月21日14時57分配信 時事通信
検察側の構図を支えるのは倉沢被告の証言。しかし、村木被告の上司だった元障害保健福祉部長(58)との面会や同被告との会話などの供述内容を覆しており、4日の公判で検事が「供述が食い違っているが、村木被告から受け取ったことは一貫しているか」と問うと、「そうです」と答えるのがやっとだった。

厚労省元局長の指示否定=証明書「自分一人で」-公判で元係長証言・大阪地裁
2月24日11時45分配信 時事通信
第8回公判24日で上村勉被告は証明書発行について「自分で勝手に決めて、自分一人で実行した」と述べ、村木被告の指示を否定した。
上村被告は検察側の質問に対し、村木被告を含む上司には「まったく報告していない。一刻も早くこの雑事を片付けたかった」と証言。証明書は6月1日ごろに自分で作成し、その直後に厚労省の隣の建物の喫茶店で、自称障害者団体「凛(りん)の会」発起人河野克史被告(69)に渡したと述べた。 

郵便不正の上村被告「冤罪こうして作られる」
2月25日23時16分配信 読売新聞
被疑者ノートは、自白強要などを防ぐため、弁護人が拘置中の容疑者に差し入れ、取調官の言動などを書き込んでもらうもの。上村被告の逮捕2日後の昨年5月28日からほぼ毎日記載があった。
ノートには「調書の修正はあきらめた」「冤罪(えんざい)はこうして作られるのかな」などと取り調べに対する不満が記されており、法廷で上村被告は「(村木被告の指示を認めないと)死ぬまで拘置所から出られないのではと思い、怖かった」と当時の心境を証言した。
調書で訂正が認められなかったことを書き込む欄には、「〈1〉村木被告の指示〈2〉村木被告に(証明書を)渡したこと」と記され、検事の取り調べについて「(調書が)かなり作文された」「もうあきらめた。何も言わない」などと書かれていた。
弁護側が、逮捕数日後の「多数決に乗ってもいいかと思っている」という記述の真意をただすと、上村被告は「検事から『(村木被告の関与を認めないのは)あなただけだ』と言われ、自信をなくしていた。よくないことだが、『上司に言われてやった』という方が、世間が『仕方がない』と思ってくれるのではないかと考えた」などと答えた。

<郵便不正>元係長「再逮捕を恐れ」被告関与と供述
2月26日0時51分配信 毎日新聞
第9回公判は25日午後も続いた。上村勉被告(40)は取り調べ時に検事から別の公文書偽造での再逮捕をちらつかされたことを明かし、村木被告関与を認めた理由について「再逮捕を繰り返されるのが嫌だった。心理的に圧迫されていた」と述べた。
また、この日の上村被告の証言によると、取り調べの際、検事から「あなたが証明書を村木被告に渡すところを見た人がいる」と言われたという。上村被告は法廷で「私の記憶とは違うが、早く保釈されたい一心で(村木被告の関与を)認めてしまった。村木被告には申し訳なかった」と述べた。

《石井議員の発言》
<石井一参院議員>郵便不正事件での口添えを否定
2月25日13時15分配信 毎日新聞
石井一・民主党参院議員は25日、大阪市内であった後援会の会合で、「何の覚えもない」と話した。また、記者団の取材にも「厚生労働なんて関係したこともない。何で(私が)電話をかけるのか」と口添えを明確に否定した。
公判に3月4日、証人出廷する。


結局、検察のストーリーを支える証言のうち、維持されているのは倉沢被告の「村木課長から証明書を渡された」という一点のみです。その倉沢被告も、この一点を除くと証言を翻しており、信用性に問題があります。

素人目に見たら、大阪地検特捜部が勝手に描いたストーリーに、村木被告を除く全員が乗せられ、うその供述をしていたように見受けられます。
公判は集中審議で、3月中には結審するようです。このような状況で村木被告が有罪になるなどということがあり得るのでしょうか。

これで大阪地検特捜部が負けることになったら、重大な汚点を残します。民主党連立政権下で、大阪地検特捜部は潰されるのではないでしょうか。

ps 4/10 凛の会の元新聞記者である木村氏を誤って河野氏としていました。修正しました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「はやぶさ」いよいよ月軌道の内側へ

2010-02-26 23:42:53 | サイエンス・パソコン
はやぶさプロジェクトサイトのトピックスに、最新ニュース「「はやぶさ」いよいよ月軌道の内側へ」が掲載されました。
はやぶさはイオンエンジンを噴射し続け、軌道を修正し、地球に近づく努力を継続しています。そしてとうとう、「現時点でイオンエンジンが停止して慣性軌道に入ったとしても、最接近時に地球と月の距離よりも近いところまで地球に近づく」というコースまでたどり着いたということです。

先週の18日にはやぶさ」まもなく月軌道の内側への記事が載って以来、今週は何の音沙汰もなかったので、実は心配していたのです。イオンエンジンが不調になったのではないかと。
しかし「今週の軌道推定の結果,はやぶさは,月の内側を通過する軌道にのったことが確 認されました.
6月の地球からの最接近距離は,約31万km になっています.
はやぶさ搭載のイオンエンジンは順調に運転されています.」
ということで、一安心です。


  提供  宇宙航空研究開発機構(JAXA)

上の図は、地球の近くを通過するはやぶさの軌道について説明した図です。「はやぶさのイオンエンジンがX日に停止し、その後慣性飛行を続けたら、はやぶさは地球付近のどのあたりを通過するか」という点に関し、X日をいろいろ変化させて軌跡を記入しています。

今までは、軌道が地球に接近し、地球の引力圏内に入るといっても、地球付近でのはやぶさの推定軌道はほとんど直線のままで、地球の引力が効いているように見えませんでした。しかしここに来て、図面をよく見ると、はやぶさの軌道は確かに地球付近で曲がっています。引力の影響が出はじめたのですね。

「3月初めには,一旦エンジンの運転を止め,精密な軌道推定を行う予定です.」

これからも、地球に向かう軌道に入るまで、イオンエンジン推進を継続(3月・再突入90日前)し、そして地球に近づいたら、再突入42日前から目標への誘導制御開始、再突入9日前から最後の軌道調整という大仕事が始まります。これらが成功した上で、再突入時のカプセル分離とカプセル再突入、そしてオーストラリアでのカプセル回収作業が待っています。

いよいよ緊張の瞬間がやってきます。

ところで、第10回 宇宙科学シンポジウム(2010/1/7~8)講演集録というサイトで、「はやぶさの現状 ~地球帰還に向けて~(pdf)」という資料を読むことができます。
このブログの立ち直った!はやぶさでご紹介したように、昨年11月、はやぶさはイオンエンジンの重大な危機を、起死回生の策によって乗り越えてきました。そのときの対策に付いて上記講演集録では
「設計時の工夫
・いかにして・・発想できたのか?
・バイパスダイオードの挿入
・打ち上げ前の地上試験は未実施
・探査機の宇宙空間に対する電位はモニタできない」
と記録されています。この文章のみでは内容が分かりませんが、誇ることのできる対応であったことが伝わってきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

参議院特別委員会での瀬谷ルミ子さん

2010-02-25 21:46:55 | 歴史・社会
瀬谷ルミ子さんご自身のブログで、瀬谷ルミ子さんが24日の参議院の特別委員会で参考人として意見陳述を行うと紹介されました。ライブでは観られませんでしたが、その後、インターネット録画中継で拝見しました。
参議院インターネット審議中継で、カレンダーで日付を選ぶか、あるいは「会議名からの検索」で「政府開発援助等に関する特別委員会」を選んだ上で2月24日をクリックすると、録画中継を見ることができます。直接ジャンプする場合はこちら
なお、委員会は全体で2時間弱です。瀬谷さんの部分だけ視聴する場合はこちらから入ってください。
本日のテーマは、委員長の発言によると、「政府開発援助等に関する調査のうち、平和構築と我が国ODAの役割、及び、我が国ODAと援助人材の育成」ということのようです。
意見陳述を行うのは、
木邨洗一(参考人 独立行政法人国際協力機構企画部審議役)
瀬谷ルミ子(参考人 特定非営利活動法人日本紛争予防センター事務局長)
のお二人です。このうち、瀬谷さんの分を聞きました。

持ち時間は各人20分のようです。瀬谷さんは、話したいことが山ほどあるようで、早口でお話になりましたが最後まで話さないうちに時間切れとなりました。内容を半分程度に絞った上で、ゆっくりお話になった方がよろしかったでしょう。

メモしたポイントを挙げておきます。
・アフガニスタンなどでの援助に際し、日本の中立性は大きなアドバンテージになる。
・ハードの予算は取りやすいのだが、人の派遣のみに関する予算が今までは取りづらかった。
・日本はアフガニスタンに対し、警察官の給料を補填する援助を行っている。ただしこれだけではタリバンと対立する援助になってしまう。タリバン上層部との和平プロセス推進とパッケージで進めるべきである。
・日本は、安全が問題で現地に人が入れないことが多い。これは、日本にできることが限られると見られる原因となっている。
・アフガニスタンの武装解除(DDR)で同僚の日本のスタッフが働いていたが、それら同僚の経験が現在は消えてしまっている。

ここで時間切れとなってしまい、肝腎の人材育成についての意見陳述ができませんでした。ここで、質問に立った犬塚直史委員(民主党・新緑風会・国民新・日本)が、「質問時間の中で残りのお話をしてください」と助け船を出し、話を続けることができました。
[人材育成]
・世界の各国と比較すると日本人の専門家が少ない。
 国連の中の日本人比率は2.8%
 ・・・PKOの日本人比率は0.04%
・日本人専門家が増えない理由
 ・専門知識を学ぶ機会が少ない。
 ・急な募集が多く、対応が困難。
 ・長期的な雇用保障がない。(プロジェクトが終了した後、日本に戻ろうとしても受け皿がない)
 ・(外国の団体で活動しようとしても)日本人は面接で落とされる(プレゼン能力)。
・提案
 ・援助活動を始めたいと考える初心者の入り口を作るべき。
 ・現地に柔軟に人を送れるシステムを作るべき。
 ・スキルを保持している人(が継続して活動できるようにとの)ケアをしていない。
(以上が瀬谷さんの意見陳述で、以後、委員との質疑応答に入ります。)

民主党の犬塚委員の発言でしたが、アフガニスタンのチャグチャランでPRTとして活動している日本人文民に、女性が4人配属されており、非常に有意義な活動を行っているとのことでした。チャグチャランには、日本から今井千尋さんと石崎妃早子さんが派遣されていることは、このブログのクローズアップ現代・アフガニスタンでの日本の復興戦略今井千尋さんがアフガニスタンへでご紹介しました。派遣された文民4名のうち2名が女性、と理解していたのですが、さらに2名の女性が派遣されて活動されているのでしょうか。
私は、日本における援助人材として、女性が適しているような気がしています。

犬塚委員の後の質問者は、木村仁(自由民主党・改革クラブ)委員でしたが、この人はひどかったです。カルザイ政権をカイザル政権と呼んだり、瀬谷さんが関与したDDRは戦勝側の北部同盟の武装解除だったのに、「タリバン兵士の武装解除」と勘違いしたりしていました。

「日本が5千億円をアフガニスタン復興に拠出しても、腐敗汚職のカルザイ政権にピンハネされてしまうのでは」という質問に対して瀬谷さんは、
・援助額が日本より少ない国でも、お金の使われ方をチェックする人を派遣している。そのような人材を派遣することが必要
と発言されていました。

さて、このように参議院特別委員会で瀬谷ルミ子さんが意見陳述を行ったわけですが、これが有意義な政策につながっていくでしょうか。
議論はあまりまとまりがなく、さほどの期待を抱くには至りませんでした。

p.s. 3/6 上記委員会の議事録が参議院ホームページにアップされたので、お知らせします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特許料金値下げとの新聞記事

2010-02-23 21:29:23 | 知的財産権
2月16日の日経新聞朝刊記事です。
「特許料金 引き下げ検討 知財保護を後押し」
「特許庁は特許の出願や審査、維持にかかる料金を引き下げる方向で検討に入る。企業が知的財産の保護に前向きに取り組みやすくするのが狙い。中小企業向けの料金の減免制度も手続を簡素にして利用を促す。早ければ来年中に料金を改定する。審査料を引き下げれば、1999年以来となる。出願料や維持量は2008年に引き下げたばかりだが、企業の研究開発を促すうえでも一段の負担軽減が必要と見ている。」
「直嶋正行経済産業相が特許の料金体系を見直すよう指示した。3月から産業構造審議会(経産相の諮問機関)の知的財産政策部会で検討を始め、6月をメドに引き下げ幅などの方針を固める。」

《審査請求費用》
審査請求費用については、04年の特許法改定で、それまで1件10万円前後だったものを一気に20万円前後に値上げしました。
このとき、日本弁理士会は反対意見を表明しましたが、弁理士会以外には反対を唱える団体はなかったと記憶しています。
それが今回、「企業から不満も出ている。」「企業の技術開発への意欲がしぼむ恐れもある」などとしています。「審査件数とのバランスに配慮しながら引き下げ幅などを検討する。」
結局、審査請求期間が7年から3年に短縮されて年間の審査請求件数が一時期倍増し、その間の審査待ち滞貨を減らそうとする特許庁の思惑で、出願人の審査請求意欲を減退させるため、審査請求料を倍増した、という背景が見えてきます。

《維持料(年金)》
         請求項数が1のとき
1~3年   2500円
4~6年   7600円
7~9年  23100円
10年以降 66400円

04年の特許法改正時、1~9年の年金については大幅に減額したのですが、10年以降については手を付けませんでした。何で10年以降についても同時に減額しなかったのか、当時理解に苦しみました。これでは「10年経ったら特許を消滅させなさい」と勧めているようなものです。
今回の記事では「こうした料金体系が響いて、取得から6年後には2割、10年後には5割が特許を取り下げている」って、今ごろ気付いたのですか。

《中小企業を対象に審査料を半減する制度》
「要件や提出書類等の手続きを見直す。」
ごちゃごちゃとうるさいことを言わず、米国の「スモールエンティティ制度」(従業員500人以下の中小企業、個人については一律半額)のような制度にしたら良いと思うのですが、なかなかそのような方向には進みませんね。

ところで、今回の日経新聞記事も、長谷川幸洋「日本国の正体」でご紹介したように、通産官僚が日経記者にリークして法改正を既成事実化しようとしているものなのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

審査基準専門委員会の議事録公表

2010-02-21 10:47:54 | 知的財産権
産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会の審査基準専門委員会(第4回)で、「除くクレーム」に関連して「補正の新規事項追加不可」に関する審査基準の改訂議論がされました。このブログではこちらこちらで紹介しました。

先般、この専門委員会の議事録が公表されたので(pdf)、内容を検討してみました。
審査基準における「除くクレーム」の取り扱いについての部分を抽出します。

1.日時平成22年1月28日(木)10:00~12:00
3.出席委員 中山座長、片山委員、筒井委員、永井委員、長岡委員、萩原委員、(参考人)豊田様
竹中委員、榊委員が御欠席

田村審査基準室長『最後に、c.は「除くクレーム」です。これも「各論」の中に入っているものの一つですが、大合議判決の中では、「除くクレーム」を例外的に認めているかのような記載はおかしいと言われておりますので、「例外的に」という文言を削除させていただく。さらに、結果的に、「除くクレーム」――これは29条の2の先願を除くとか、39条の先願を除く、それに加えて29条1項3号の新規性欠如に係る先行技術を除くものは補正が認められることが書いてあるわけですが、そこについても、基本的には「新たな技術的事項を導入しないもの」として補正を認めることとさせていただければと思っております。』

「例外的に」という文言を削除し、基本的には「新たな技術的事項を導入しないもの」として補正を認めるということです。そうすると、「29条の2の先願を除くとか、39条の先願を除く、それに加えて29条1項3号の新規性欠如に係る先行技術を除くものは補正が認められる」という前提が宙に浮いてしまいます。
「例外的に」を削除したとたんに、先願や新規制違反を回避する目的があるかないかにかかわらず、「新たな技術的事項を導入しないもの」か否かのみを判断基準とする、ということになってしまうのですが、審査基準室長はその点を敢えてぼかして説明しています。

審査基準室長のこの説明に対して、委員のみなさんはどのような議論をされたのでしょうか。
永井委員が「御提案になった「除くクレーム」についての表現ぶりを改めることについては全面的に賛成したいと思います。」と発言した以外は、「除くクレーム」関連についてはだれからもコメントがありませんでした。
「新規事項に関する補正要件」全体については、永井委員の他、豊田氏、筒井委員、片山委員から発言がありましたが・・・。

改訂後の審査基準は、「除くクレーム」について「例外的に」を削除する一方、「29条の2の先願を除く、39条の先願を除く、29条1項3号の新規性欠如に係る先行技術を除く場合に限って補正が認められる」という構成を残すのでしょうか。どうしても論理矛盾に陥ると思うのですが。

その他、田村審査基準室長の説明の中に以下のようなご発言がありました。
『ただ、新たに大合議判決の判断基準を入れさせていただきますので、これまで補正が認められていなかったようなものでも、この新しい判断基準に照らせば補正が認められるのではないかということでチャレンジされてくる出願人もあろうかと思われます。そこで、「d.審査基準のいずれの類型にも該当しないものの取扱い」といたしまして、「現行審査基準に示されていない類型の補正について上記a.の一般的定義にしたがって判断する際の審査基準の適用に関する方策を、改訂審査基準に記載することとする。」というふうに入れさせていただいております。具体的に申し上げますと、自明でなく、「各論」にも「補正が認められる」というふうに明示的に記載されていないような新しい類型、すなわち従来「新規事項」であると考えられていたような補正が提出された場合に、審査官が慎重に審査するための方策を審査基準の中に明記したいと考えております。』

さて、どのような方策が審査基準の中に明記されるのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半藤一利「昭和史1926->1945」(3)

2010-02-18 21:02:57 | 歴史・社会
前回に続き、半藤一利著「昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)」の3回目です。

《310万人の死者が語りかけてくれるものは? 昭和史20年の教訓》
日中戦争から太平洋戦争までの戦争における日本人の死者は、最近の調査では約310万人を数えるとされています。
半藤氏は15回にわたる授業を終わるに際して、昭和史の20年がどういう教訓を私達に示してくれたかを話します。以下、ピックアップします。

第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。
マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人々を引っ張ってゆき、流してきました。

二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論を全く検討しようとしないことです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。
ソ連が満州に攻めてくることが目に見えていたにもかかわらず、攻めてこない、という思い込みになっているのです。
昭和16年の開戦時にも、“ドイツがヨーロッパで勝利する”ことを前提としており、また“アメリカ海軍主力を日本近海におびき寄せて艦隊決戦で葬り去る”と決めつけます。
三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。
陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。軍令部でも作戦課がそうでした。

そして四番目に、ポツダム宣言の受諾が意思の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人は全く理解していなかったこと。

さらに五番目として、何かことが起こったときに、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。

昭和史全体を見てきて結論としてひとこと言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人びとは、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。
そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です。今日の日本人にも同じことが多く見られ、別に昭和史、戦前史というだけでなく、現代の教訓でもあるようですが。』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半藤一利「昭和史1926->1945」(2)

2010-02-17 00:44:58 | 歴史・社会
前回に続き、半藤一利著「昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)」の2回目です。

日華事変(日中戦争)の続きです。
《泥沼化していった戦争》
昭和12年暮れの南京陥落後、日本軍はさらに奥地まで進撃します。
このとき、日本陸軍の参謀次長は早期の戦争終結を望みますが、肝腎の近衛文麿総理大臣が逆に強気です。
そして翌1月16日、近衛さんは「国民政府を対手(あいて)にせず」との声明を発してしまうのです。これで日中戦争を終わらせることは不可能となり、次の段階として、その中国を後方から援助しているアメリカ・イギリス相手の戦争になるわけです。

ここまで、だいぶ長々と本の内容を紹介してきたので、ここからははしょります。

《イギリス・アメリカとの敵対》
昭和14年4月、中国で「天津事件」が起きると、日本はイギリスに対して強硬に敵対します。その後とうとう、アメリカが日本に敵対する姿勢を明確にします。
《日独伊三国軍事同盟》
昭和15年9月、日独伊三国同盟の締結です。
かつて海軍の米内光政大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長が身体を張って阻止した三国同盟でした。それがこのとき、近衛文麿首相のもと、及川古志郎海軍大臣は三国同盟締結を認めてしまうのです。
9月15日の海軍首脳会議で
及川海軍大臣「もし海軍があくまで三国同盟に反対すれば、近衛内閣は総辞職のほかはなく、海軍としては、内閣崩壊の責任は取れないから、この際は同盟条約にご賛成願いたい」
伏見宮軍令部総長「ここまできたら仕方ないね」
大角岑生軍事参議官「軍事参議官としては賛成である」
山本五十六連合艦隊司令長官「私は大臣の統制に絶対に服従するものであるが、この条約が成立すればアメリカと衝突する危険が増大する。条約を結べば英米勢力圏の資材を失うことになるが、その不足を補うためにどういう計画変更をやられたか、この点を聞かせていただきたい。」
この発言を豊田次官は完全に無視し、「いろいろご意見もありましょうが、おおかたのご意見が賛成という次第ですから」

三国同盟締結と北部仏印進駐を経て、山本五十六が浜田熊雄に語って
「じつに言語道断だ。・・・自分の考えでは、アメリカと戦争をするということは、ほとんど世界を相手にするつもりでなければだめだ。しかしここまできた以上は、最善を尽くして奮闘せざるを得ない。そしておれは戦艦長門の艦上で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度ぐらい丸焼けにされて、非常なみじめな目に遭うだろう。」

海軍第一委員会と石川信吾大佐については、NHK「日本海軍 400時間の証言」にも書きました。

《太平洋戦争開戦前夜》
開戦前の日米交渉に臨むため、昭和15年末、駐米日本大使に海軍大将野村吉三郎が選ばれます。
ところで、野村吉三郎は昭和14年に外務大臣に就任していました。そしてこのとき、野村さんは外務省の大改革を行ったのです。英米協調派の谷正之を次官に据え、米英強硬派を外へ転出させようとしました。親ドイツの元凶である駐独大使大島浩と駐伊大使白鳥敏夫を日本に呼び戻します。これが外務省エリートたちのものすごい反撥を招きました。このように、外務省にとって目の敵の野村さんが駐米大使になったことから、外務省はサボタージュでもってこれを迎え、日米交渉はスムーズに行かなかった、と半藤氏は語ります。
野村大使とコーデル・ハル国務長官の最初の会談で、「日米諒解案」が提案され、4月に最終案がまとまりました。これを受け取った日本政府は狂喜します。松岡洋右外務大臣はモスクワ旅行中であり、外相兼任の近衛首相は大歓迎します。しかし残念なことに、近衛首相は「松岡外相が帰ってくるまで待って意見を聞こう」と言い出したのです。帰国した松岡外相はこの案を一蹴し、日米諒解案はすっ飛んでしまいました。

そしてドイツが突然、ソ連に侵攻します。

昭和16年7月の第1回御前会議では、南進の方針をかかげ、「本目的達成のため対英米戦を辞せず」と決定します。
この頃、アメリカは本の外交暗号の解読に成功していました。従って御前会議の決定は、すでにアメリカに筒抜けだったのです。
そして7月28日、日本は南部仏印進駐を開始すると、その途端、8月1日にアメリカは石油の対日輸出の全面禁止を通告しました。「えっ、まさかそこまでやってくるとは」と海軍の何人かは言ったそうです。
日米諒解案なんて吹っ飛ぶと同時に、野村とハルの地道な交渉もこの瞬間に吹っ飛びます。

9月2日の第2回御前会議の前。米英に対して戦争準備をすることが第一番に挙げられます。天皇は会議前、近衛首相、杉山参謀総長、永野軍令部長に対して内容を追求しますが、最後は納得して御前会議の開催を許可してしまいました。この間のいきさつは本を読んでください。

《開戦の詔勅》
日清、日露、第一次大戦それぞれの開戦の詔勅にはいずれも、「国際法、国際条規を守れ」との文言が入っています。それに対して今回の開戦の詔勅にはその文言が入っていません。マレー半島上陸作戦において、どうしても中立国のタイ領土に侵入する必要があり、そこで国際法違反を最初から承知していたからです。「このことは後に、意識の上でまことに大きな問題を残すことになります。」

《日本の家屋は木と紙だ》
カーチス・ルメイ中将がマリアナ方面の指揮官に赴任すると、夜間低空飛行による焼夷弾攻撃を立案します。3月10日の東京大空襲が皮切りとなりました。著者の半藤氏もこの空襲で死にかけたといいます。日本政府は戦後、ルメイに勲章を授与したと最近知人から教わりましたが、この本にも「勲一等の勲章を差し上げました」と書かれています。

《原子爆弾とポツダム宣言の「黙殺」》
7月26日にポツダム宣言が発せられると、天皇は「これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。」と東郷外相に告げます。ところが日本政府はソ連仲介の以来の返事を待っているところだったので、とりあえずは無視しようということになりました。そして新聞にはできるだけ小さく発表しようとしましたが、新聞社は独自に解釈して戦意高揚をはかる強気の言葉を並べてしまいます。軍もいい気になって「完全無視」の声明を出すように政府をせっつき、仕方なく鈴木貫太郎首相は28日「ただ黙殺するだけ」と会見で述べてしまうのです。
日本への原爆投下はこの「黙殺」声明が原因といわれていますが、事実は、この前の24日にすでに投下命令が出されていたのです。
アメリカのトップのほとんどの指導者たちは、日本に原爆を投下することになんらためらいませんでした。ラルフ・バード海軍次官のみが、「どうしても投下するなら前もって日本に予告すべきである」と主張し、無警告投下が決定されると自ら職を離れました。

《ポツダム宣言受諾》
7月8日、天皇から木戸内大臣に「なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ」とのお言葉があり、鈴木首相はさっそく最高戦争指導会議を開こうとしますが、軍人たちは忙しいということで9月朝に延期することにします。そして9日の午前零時を過ぎた途端、ソ連が満州の国境線を突き破って侵入してきます。
9日朝からの最高戦争指導会議、突然の御前会議、その場で首相が天皇に聖断を仰いで終戦が決定したいきさつ、などが著書に詳細に記されています。
10日に中立国を通じて日本の受諾条件を通告すると、12日夜に連合軍側からの回答が伝わります。その中の"subject to"の解釈をめぐる騒動についても著書に記されています。14日朝の御前会議、再度首相から“聖断”を求められた天皇が語った言葉が掲げられています。

《降伏することの難しさ》
8月14日午後11時、日本のポツダム宣言受諾は中立国を通じて連合国に通達されました。しかしこれは「戦闘をやめる」との意思表示にすぎず、「降伏の調印」をするまでは戦争が終結したことになりません。そのことを日本政府は知らなかったらしいのです。ドイツの場合は降伏を申し出てから2日後に調印をしています。
降伏の調印がなされないことを利用したのがソ連です。ソ連はそのまま満州をぐんぐん攻めてきます。この戦いで日本は戦死8万人、一般民間人が18万人死亡しました。57万人がシベリアに抑留され、10万人以上がシベリアの土の下に眠っています。
日本がもっと真剣に考えるなら、直ちに満州に天皇の使者を送り、政府同士で戦闘停止の決め事をきちんとしなくてはいけなかった、というのが半藤氏の見解です。

東京湾に浮かんだ戦艦ミズーリ艦上で降伏文書の調印式が行われたのは9月2日です(戦艦ミズーリ訪問参照)。

結局は長い記事になってしまいました。以下次号
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半藤一利「昭和史1926->1945」

2010-02-14 14:12:26 | 歴史・社会
昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
半藤 一利
平凡社

このアイテムの詳細を見る

昨年の6月に発行された本です。本屋の店頭に並んでいるのを見て買っておいたのですが、上巻のみやっと読みました。
厚い本(上巻だけで540ページ)なので後回しにしていたのですが、読んでみたらとても読みやすい本でした。

540ページあるとはいえ、1926年から1945年までの日本史を半藤一利氏が語るのですから、詳細に追っていったらとても足りないはずです。この時期の日本史を半藤氏は、メリハリを付け、概略のみをすっと流して語る部分、微細部分まで語る部分と語り分けています。そのような構成であるため、分厚いけれども読みやすく、一方で540ページしかないのに必要と思われる部分は詳細に理解することができる、という構造になっています。

あとがきによると、この本は、戦後生まれ3人を含む4人の聴衆を前に、日本史講座として半藤氏が語った内容なのだそうです。「授業はときに張り扇の講談調、ときに落語の人情噺調と、生徒たちを飽きさせないようせいぜい努めたつもりであるが」とあり、そのような講義をまとめた本ですから、上記のような特徴を持つ本に仕上がったということのようです。

話は、日露戦争が終わった後の日本と中国の状況から始まります。
《張作霖爆殺事件》
詳細に語られる最初の事件は張作霖爆殺事件です。
時の総理大臣は田中義一氏。陸軍出身です。事件後、昭和天皇と陸軍との板挟みになり、首相は天皇から叱責を受け、総辞職をした後、すぐに亡くなってしまいます。
このことから昭和天皇は、結論として、
「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」と、戦後の昭和天皇独白録に語りました。
これがのちに日本があらぬ方向へ動き出す結果をもたらすのです。
《統帥権干犯》
「陸軍が張作霖爆殺事件で昭和4年に「沈黙の天皇」をつくりあげ、昭和をあらぬ方向へ動かしてゆくのと同時に、海軍も翌年のロンドン軍縮条約による統帥権干犯問題をきっかけに、まことに不思議なくらい頑なな、強い海軍ができあがっていく。つまり昭和はじめのこれら二つの事件によって、昭和がどういうふうに動いていくか、その方向が決まってしまったともいえるのではないでしょうか。」
《満州事変》
「君側の奸」「石原完爾」「柳条湖事件と満州事変勃発」「新聞が突然、関東軍擁護にまわる」などが記されます。
満州国が建国された後、本来は大元帥命令なくして戦争を始めた重罪人である、本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり男爵となります。石原完爾はまもなく参謀本部作戦部長となり出世の道を歩みました。
「昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。」
《(第一次)上海事変》
満州事変に対して国際社会から厳しい目が注がれる中、陸軍は上海で事件を起こし、これが事変に拡大します。このとき、上海派遣軍の司令官である白川義則大将に昭和天皇は、「国際協定を守ること」「上海から十九路軍を撃退したら決して長追いしないこと」を命じます。白川大将はこれを守り、上海から中国軍を追っ払うと同時に停戦命令を出します。参謀本部は驚いて追撃命令を出しますが、白川大将はこれを聞かず、上海事変を収めてしまいます。
盧溝橋事件後の(第二次)上海事変とこれに続く南京事件の惨状を考えると、隔世の感があります。
《五一五事件、満州国建国、国際連盟脱退》
国際連盟脱退の際の松岡洋右全権大使は、自分では「外交の失敗」と認識していたのに日本では英雄のように扱われ、日本は排外主義的な「攘夷」思想に後押しされた国民的熱狂が始まりました。
「一番大事なのは、この後から世界の情報の肝腎な部分が入ってこなくなったことです。」「この後、孤立化した日本はいよいよ軍部が支配する国となり、国民的熱狂に押されながら、戦争への道を突き進むことになるのです。」
《陸軍「統制派」と「皇道派」》
昭和7年、永田鉄山が参謀本部第二部長(情報)に、小畑敏四郎が参謀本部第三部長(運輸通信)となり、参謀本部で二人は席を並べます。しかし小畑と永田は性格的には水と油で、ぶつかり合うことが多くなります。その後、この二人に派閥として従う子分たちの間も喧嘩となり、「統制派(永田派)」と「皇道派(小畑派)」の分派が始まりました。
この派閥抗争、一度は喧嘩両成敗になりますが、陸軍大臣が替わって永田鉄山が軍務局長として復帰すると、陸軍は「統制派」のもとで一枚岩となります。
《天皇機関説問題と国体明徴の政府声明》
これ以後、まず枢密院議長の一木喜徳郎氏が襲撃され、とたんに牧野伸顕内大臣は辞表を出そうとし、元老西園寺公望も政治に嫌気がさし、天皇側近の穏健自由主義者たちはどんどん腰砕けになります。残る鈴木貫太郎侍従長、斉藤実は頑張り、高橋是清蔵相も予算面で軍部にたてつきますが、彼らは皆二・二六事件で狙われることになります。
《二・二六事件》
この本の中で、二・二六事件については詳細です。半藤氏も思い入れがあるのでしょう。天皇が事件勃発を聞いたのは午前五時半。“鈴木貫太郎襲撃 → 鈴木貫太郎のたか夫人が宮中の甘露寺受長(おさなが)侍従に電話 → 天皇に報告”というルートで、実はたか夫人は、天皇の子どもの頃の乳母でした。このルートによる情報が、二・二六事件に対する天皇のスタンスを形成したのではないか、というのが半藤氏の推理です。
午前6時過ぎ、本庄繁侍従武官長が天皇に拝謁すると、この日は朝から大元帥の軍服に身を固めて出てきます。天皇はこの事件を「内政問題ではなく軍事問題、軍の統帥の問題である」と考えたに違いない、と半藤氏は考えます。
そして湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長、木戸幸一内大臣秘書官庁の3人は、「岡田首相はやられたが暫定内閣は置かない」と決めます。これにより、事件の起きた数時間後にはすでに決起の「失敗」が決定していました。
二・二六決起部隊は、宮城占拠を目的としていました。ところが、宮城へ向かう近衛歩兵連隊の中橋基明中尉率いる中隊が、途中に高橋是清邸があることから、「ついでに大蔵大臣もやってこい」ということで襲撃し、高橋是清を惨殺します。その後に中橋中隊は宮城に入りますが、それまで宮城を守っていた大高少尉は中橋中尉を危険視しており、中橋中尉に「すぐ出ていってもらいたい」と要求するのです。中橋中尉は大高少尉を射殺することもできたでしょうがそれをせず、宮城占拠は失敗しました。
《広田内閣が残したもの》
「(二・二六事件)以後の日本はテロの脅しがテコになって、ほとんどの体制が軍の思うままに動いていくことになるのです。またここで皇道派が完璧につぶれます。」
「(事件後の)広田(弘毅)内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。」

①「軍部大臣現役武官制」これ以後、陸軍や海軍が「ノー」といえば大臣ができないから内閣が組織できない、つまり軍の思うままになります。
②日本とドイツが「防共協定」を結ぶ。
③陸軍の統制派と海軍の軍令部が相談し、これからの国策の基準を「北守南進」と決めます。
《盧溝橋事件》
事件は、盧溝橋付近で天津駐屯の第一旅団第一連隊第三大隊が演習をしている折、同じように夜間演習をしている中国軍側から数発の実弾が撃ち込まれたことから始まります。
第一旅団長:河辺正三少将 → インパール作戦時の牟田口司令官の上官
第一連隊長:牟田口廉也大佐 → インパール作戦の立案実行者。
第三大隊長:一木清直少佐 → ガダルカナルに上陸して全滅する一木支隊の司令官になる人。
《南京虐殺はあったが・・・》
盧溝橋事件は(第二次)上海事変へと拡大します。ここで苦戦を極めた日本軍は、上海鎮圧では休戦せず、さらに南京へと進撃します。
半藤氏はここで、石川達三が南京事件終了後の南京を取材して書いた小説「生きてゐる兵隊」と、日本陸軍省が密かにつくった「秘密文書第四○四号」について言及しています。私も「生きている兵隊 (中公文庫)」を読みました。また、上記「秘密文書第四○四号」は、このブログの加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)で紹介された「陸軍次官通牒」の出典のようです。

以下次号
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛ばさぬ若者 死亡事故激減

2010-02-11 18:10:31 | 歴史・社会
2月9日の日経朝刊に「飛ばさぬ若者 死亡事故激減」という記事が載っています。
「無謀なスピードで運転する若者による死亡交通事故が激減している。16~24歳が運転した死亡事故で、最高速度違反(スピード違反)が主因になったケースは2009年で120件と10年前の5分の1以下の水準。09年に57年ぶりに5千人を下回った死亡数減少の一因となった。ゲームなどに熱中する「草食系」の運転は、交通安全にプラスになっているようだ。」
《原付バイクと自動車を運転中の16~24歳による死亡交通事故》
      全体 うちスピード違反主因
90年     約1600件(←グラフから読み取り)
99年 2090件 628件
09年  715件 120件(←全体は記事から逆算)

  日経新聞から

この減り方はすごいですね。
頭の中では、「25歳以下の若者は自動車運転で無謀に陥りやすく、事故を起こしやすい」「だから自動車保険についても25歳以下免責とすると保険料が安くなる」と理解していました。
10年前、さらに20年前はそれ以上に、確かにその通りだったのですね。しかしこの20年間で状況は急速に変化しました。若者はスピード違反の無謀運転をしなくなり、結果として死亡事故が激減しました。

ただし注意を要するのは、この記事には「若者が自動車を運転する頻度」の変化が載っていないことです。“若者が自動車を運転しなくなり、結果として事故も減った”という要因があり得ると思うのですが、その点はきちんと層別されていません。

「25歳以下の若者は交通死亡事故を起こしやすい、特にスピード違反で」「最近の日本の若者は、交通死亡事故を起こす頻度が大幅に減少した」という事実を見せられると、「殺人と若者」の関係を思い出します。
このブログでも、NHK爆笑学問「ヒトと殺しと男と女」年齢・性別と人殺し比率の関係で紹介しました。
一言でいうと、
「人が殺人を犯す比率は、年齢・性別の影響を強く受ける。世界中どの国でも、文化・宗教によらず共通している。二十台前半の男性が殺人を犯す比率が圧倒的に多い。ところが唯一の例外があり、現代の日本では二十代男性の殺人比率が劇的に下がっている。」
という内容です。

私は今まで、「25歳以下の男性はカッとなりやすい傾向を持っている。それが原因で、殺人を犯す確率が高く、交通事故を起こす確率も高い。」と考えていました。
そして「現代日本の男性は25歳以下でも殺人を犯す確率は他の年代と同じ」とも。
これに、「現代日本の若者は25歳以下でも交通事故を起こす確率が減ってきた」が新たに加わったわけです。

それでは、「日本で25歳以下の男性が殺人を犯さなくなった原因と、日本で25歳以下の若者が交通事故を起こさなくなった原因とは、同じなのか異なるのか」が次に気になります。殺人は男性に特有の傾向であることがわかっているのに対し、交通事故については「若者」としかわかっていませんが。
まず、“減少が開始した時期が異なる”という違いがあります。25歳以下男性の殺人率が減り始めたのは1955年くらいからのようです。それに対して25歳以下若者の交通死亡事故が減り始めたのは1990年くらいからですから、全く一致しません。

そして、「何が原因か」という点について、いろいろと思い当たるフシを以下のようにリストアップすることはできますが、どれが真実かは不明のままです。
[殺人について]
①長谷川眞理子先生は、「戦後の日本社会は、国全体が豊かで、貧富の差が少なく、あまねく高学歴となり、国民のすべての層で若者がリスクを回避する要因が増加したからだ」と論じておられます。
②戦後の日本で男性がユニセックス化する傾向が増大し、それがために若い男性が人を殺さなくなった。
[交通事故について]
③社会学者の山田昌弘・中央大教授は「最近の若者、特に男性の内にこもる傾向のひとつの現れ」と見ています(日経記事)。
④若者が、車への関心や購買意欲をなくしている。

ところで、これだけ25歳以下の交通事故死が減ったら、自動車の任意保険についても、25歳以下免責との条件を付けなくても保険料が高くならないように修正すべきですが、対応はすでに行われているのでしょうか。

p.s. 2/20 貴重な情報ですが入手が困難なようですので、新聞記事をこちらに保管しておきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする