弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

定額減税、事務負担重く

2024-05-30 15:20:48 | 歴史・社会
定額減税、事務負担重く
自治体、追加給付の対象特定 企業は扶養親族再確認
2024年5月30日 日経新聞
『政府が6月に定額減税を始めるのを前に、実務を担う地方自治体や企業は煩雑な事務作業に苦心している。減税額の計算や対象者の特定などを迫られているためだ。納税者本人と配偶者らを含む3200万人程度には減税と給付の両面から対応しなければならない。
定額減税は国の所得税を1人あたり年3万円、自治体の住民税を同1万円差し引く。会社員や公務員といった給与所得者の場合、6月以降の給与とボーナスの納税額を減らす。』
『住民税の非課税世帯など低所得層の1700万~1800万世帯は減税による恩恵を受けられないため、代わりに1世帯あたり10万円を軸に給付する。
・・納税額が少なく4万円分を減税できない世帯には給付を組み合わせる。4万円に足りない分を1万円単位で切り上げて給付する。』
『減税と給付を組み合わせる対象者は3200万人ほどとされる。給付の実務は市区町村が担う。』
『源泉徴収している企業の負担も重い。・・・定額減税の対象者数の把握には扶養親族の再確認が欠かせない。
給与明細には所得税の減税額を明記するよう義務づけられた。』

「減税」といいながら、何千万世帯もが減税と給付の組み合わせ、あるいは給付のみになる、という煩雑さです。そして市区町村は、給付が生じる世帯を割り出して連絡し、本人に銀行口座を含めて申告してもらわなければなりません。それを6月までに終える必要があります。

地方自治体と各企業での事務負担量の増加は半端なさそうです。これを経費に換算したら、大変な金額になるのではないでしょうか。

最近のテレビでのニュース番組では、定額減税の問題が大きく取り上げられています。
しかし、今回始まる制度で、このような問題が生じることについては、税務に携わる人であれば容易に把握できたはずです。主管官庁ならなおさらです。なぜ、このような制度の新設が提案されたときに、「このような問題が生じるので、定額減税はやめるべきだ。給付オンリーの制度とすべきだ」と進言しなかったのでしょうか。
最近の官邸主導の行政では、官邸から政策が降りてきたとき、問題点を指摘することなく、制度が成立して実施段階で大問題が生じても「ざまーみろ」という態度を取っているようです。
今から4年前、菅次期政権による霞ヶ関支配 2020-09-14において私は以下のように記述しました。
片山善博氏(元総務大臣)曰く『かつての官僚組織には問題もありましたが、プロフェッショナルとして国民に奉仕するという気概を持った方もたくさんいました。内閣人事局が悪用されている現在よりも過去の方が相対的にマシです。
役所のいいところを潰してしまいました。今の霞が関の雰囲気はこうです。国民のためではなく政権に言われたことをやる。それで失敗したら官邸のせいにして留飲を下げる。国民のためにならないのであれば、直言する気骨が失われてしまいました。』」

今回の定額減税制度についても、上記のようないきさつで馬鹿げた制度が成立してしまったのでしょうか。
上記記事を書いてから4年近くが経過しますが、霞ヶ関の劣化状況は改善されていないようです。

報道機関も報道機関です。ちょっと専門家の意見を聞けば、このような問題が生じることはすぐに判明するはずです。立法の段階で問題点を大々的に報道すべきでした。それが今になって、このような問題点を指摘されても後の祭りです。
日本の報道機関も劣化が激しいですね。
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杉山城訪問

2024-05-27 12:08:43 | 趣味・読書
5月25日(土)は、東武東上線の武蔵嵐山駅付近の2つのお城を訪問しました。菅谷館跡と杉山城です。
まずは菅谷館跡を訪問し、前報で報告しました。
ここでは、杉山城訪問記録を載せます。

付近の地図にあるように、杉山城は武蔵嵐山駅の北西方向に位置しています。
菅谷館跡を訪問し、ばんだい嵐山店でラーメンと餃子を食した後、電話でタクシーを呼んで、杉山城に向かいました。

杉山城の全体について、以下の絵図を掲載します。天然の小高い丘の全体を用いた山城であることがわかります。

杉山城

杉山城案内の1ページ目には、杉山城の復原鳥瞰図が記載されています。

駅でもらった「比企城館跡群ガイド」によると、杉山城は以下のように説明されています。
『杉山城跡は、戦国時代の山城跡です。
鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置した縄張り(城の建物などの配置)となっています。各郭には様々な工夫が凝らされており、攻めてくる敵兵に対して、強い防御力と攻撃力を誇っています。その作りには高度な築城技術が施されていて、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」と評価されてきました。』


杉山城説明図


杉山城跡航空写真(上の説明図の拡大)


杉山城跡縄張り図(上の説明図の右下部拡大)


杉山城の説明


大手口から本郭方向を望む

本郭へ向かうに際し、馬出郭から南3の郭、南2の郭と順に上り、本郭にいたる道を選びました。しかし経路は複雑に曲折し、人が歩く道は両側が土塁になっており、攻めるのは難しそうです。

馬出郭から本郭へ向かう


本郭


本郭から外郭とその左の切岸を望む


東2の郭から外郭とその左の切岸を望む


東2の郭

本郭から、東2の郭、東3の郭とたどるにつれて高度が下がります。そのまま東に抜ける道に通じていたのですが、向かう方向が違うかもしれないと不安になり、南方向に城の斜面を突っ切る強行突破になりました。
杉山城のスタンプを押さなければならないのですが、スタンプは嵐山町役場に用意されています。そこまでたどり着く必要があります。
玉ノ岡中学まで出て、紆余曲折、炎天下を延々と歩きました。最終的に町役場にたどり着き、続100名城のスタンプを押印するとともに、電話でタクシーを呼びました。
到着したタクシーの運転手さんは、さっき杉山城まで乗車したタクシーと同じ運転手さんでした。武蔵嵐山駅までタクシーで移動し、東武東上線で帰宅の途につきました。

杉山城についてウィキペディアで調べると
『市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や年代についてはほとんど分かっていない。地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、文献資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強くなっている。』

これだけ精巧に作られた城なのに、だれが造ったのか、どのような役割を担ったのか、全く不明であるというのは驚きです。
また、戦国期まで機能した城であり、江戸時代以降は使われていなかったにもかかわらず、各郭、土塁、切岸、空堀がほぼ完璧に保存されていたのも驚きです。石垣ではなく土塁ですから、自然に崩落しそうなものですが。
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菅谷館跡訪問

2024-05-26 15:33:50 | 趣味・読書
5月25日(土)は、東武東上線の武蔵嵐山駅付近の2つのお城を訪問しました。菅谷館跡と杉山城です。
まずは菅谷館跡を訪問しました。

武蔵嵐山駅付近の地図>でわかるように、武蔵嵐山駅の南に菅谷館跡があります。隣接する嵐山史跡の博物館で、まずは続100名城のスタンプを押印します。

嵐山史跡の博物館

菅谷館跡には、下の写真に示すような遺跡が残っています。

菅谷館跡全景


説明


石柱

館内の各郭の間は、空堀と土塁で守られています。

空堀と土塁


空堀と土塁

本郭に到着しました。

本郭

本郭の南には、本郭よりも高く盛られた地形が見られます(下写真)。反対側に回ってみたら、この地形は、本郭を守るための土塁であることが分かりました。

本郭から見た本郭南の土塁

本郭から二ノ郭に回りました。二ノ郭の奥に祠が建っています(下写真)。

二ノ郭の祠

下写真の説明がなされていました。明治から昭和にかけての戦役で、この町出身の戦没者を祀る祠であることがわかりました。説明によると、昭和40年、ラバウルの名将今村均元大将を招き、合祀慰霊祭が行われたとあります。今村均さんは私が尊敬する軍人なので、ここに挙げることとしました。

祠の説明


本郭と二ノ郭を隔てる空堀と土塁


畠山重忠像

ウィキペディアより
ここ菅谷館跡は、鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡です。畠山氏は、大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていましたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりです。
元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明です。
その後、後北条氏によって戦国末期まで使われました。この館は、全周を覆う堀には多くの折りが使用され、虎口には全て横矢が掛かる仕様、威圧感も兼ねた櫓、馬出しの併用、相互援助が想定された曲輪間の作り、外郭を予想される広大な縄張り等の特徴を有しており、このような実戦的な城郭は後北条氏の典型的な特徴だとのことです。
この館は、平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備しています。土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができます。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり、保存度もきわめて良好だとのことです。

昼食は、近くのばんだい嵐山店でラーメンと餃子を食しました。
昼食後、タクシーを呼び、杉山城に移動しました。
以下次号
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小机城訪問

2024-05-08 09:03:12 | 趣味・読書
5月5日、小机城を訪問しました。
都内から東急東横線で菊名へ、そこで横浜線に乗り換えて各停で2駅、小机駅で降ります。
まずはスタンプです。小机駅の南口側にある、横浜市城郷小机地区センターです。事前に電話して、1階でスタンプが押せることを確認していました。
スタンプ押印の後、近くで昼食を取る計画でしたが、近くにはお店がありません。諦めてまずは城址を見学し、昼食はそのあととしました。
下の地図、右下に「↓小机辻」とあります。その小机辻の十字路を曲がり、地図の下から上へと歩きました。城址の入り口がわかりません。ちょっとうろちょろしましたが、ご近所の方に教えていただき、下の地図の右下の十字路を左に折れれば良いことがわかりました。

小机城概略図

城址の領域に入り、本丸広場を目指します。下の写真にあるような竹林の中を進みます。


城址は、下の写真のような空堀が縦横に配置され、二つの高台広場があります。一方が本丸広場、もう一方が二ノ丸広場と呼ばれています。

空堀

下の写真は、本丸広場に到着したところです。広場への入り口に、下写真のような冠木門が配置されていました。

本丸への入り口

下の写真は本丸広場、左隅にわれわれが通った冠木門が見えます。

本丸広場

本丸広場で一休みし、二ノ丸広場へ向かいます。道は、空堀の中に設けられています。下写真のように、本丸広場から下って二ノ丸方向へ向かう途中、右へ行くと井楼跡、との標識がありました。

空堀を行く

空堀から急斜面を登り詰めると、二ノ丸広場です。

二ノ丸広場

二ノ丸広場横に一段高い場所があります。櫓台とのことです。

二ノ丸広場と櫓台

櫓台の頂きの地面に、下写真のような礎石が埋まっています。礎石には円形の穴が開いています。この礎石が小机城の一部だったのかどうかは不明です。この礎石に柱を立てて櫓を構築し、物見として使われたのでしょうか。

櫓台

ネットで調べたところ、市教委が「小机城」を初めて発掘、二の丸広場近くで“柱の痕跡”、空堀には土器(2021年12月07日)との記事が見つかりました。しかし、上の写真の櫓台頂上の礎石の話ではないようです。櫓台近くの南曲輪(二ノ丸広場?)を掘削したところ、礎石のない穴が見つかり、掘立柱の穴らしい、との推定が書かれていました。

二ノ丸広場からちょっと下ったところに、下写真のような標識があります。

井楼跡(せいろうあと)
「井楼」とは、柱を井桁状に組んだ高い構築物で、物見の役割を果たしていたようです。

こうして、小机城訪問を終了しました。
下にも記すように、小机城が城として機能していたのは、12世紀ごろから1600年頃までであり、江戸時代にはすでに廃城となっていました。廃城から400年以上が経過しましたが、よくぞこれだけの城址として維持されたものです。

小机城の来歴
現地の案内板に以下のように説明されています。
『築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。そのころは、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、・・。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山に退陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10年(1478)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40年間廃城となっていました。
大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、小笠原越前守信為を城代として再興しました。小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な枠割りを果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が滅び、4代目城主の弥次平衡重政が徳川家の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。』

下の写真は、北方上空から小机城址を撮影したものです。小机城が、独立の山に設けられた平山城であることが分かります。城址の西端が第三京浜で分断されています。
 Hovering Cat

城址から小机駅に向かう道で、正面にスタジアムが見えました。小机駅は、横浜Fマリノスのホームの最寄り駅だったのですね。

日産スタジアム
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忍城訪問

2024-05-07 15:27:23 | 趣味・読書
5月3日、埼玉県の行田にある忍城を訪問しました。
東京から忍城を訪問するのにはいくつかのルートがあります。
新幹線か高崎線で熊谷まで行き、秩父鉄道で押田または行田市まで行って徒歩で忍城に向かう。
高崎線で吹上または行田まで行き、そこからバスで忍城近くまで行く。
秩父鉄道もバスも本数が少ないので、東京からの出発時刻次第で、お勧めのルートが変化するようです。
ゴールデンウィーク中で新幹線指定席が取れなかったので、高崎線(または湘南新宿ライン)で熊谷に出て、そこから秩父鉄道を利用するルートとしました。秩父鉄道は行田市駅で下車しました。

忍城に到着です。

御三階櫓と木橋

下の地図と照合すると、現在の内堀は城の東側に残っており、その堀にかかった木橋を渡って東門から城内に入場することになります。

現在の忍城(上が南東)


東門

御三階櫓の中に、当時の忍城のジオラマが飾られています(下写真)。

戦国時代の忍城(上が西)


戦国時代の忍城(上が北)

戦国時代の忍城の絵図としては、こちらの絵図がわかりやすいです。この絵図からも、当時の御三階櫓は、本丸の敷地ではなく、本丸からはるか南、三之丸よりもさらに南の領域に建っていたことが明らかです。しかし現在、城跡公園として使えるのは本丸領域のみですから、やむを得ず、御三階櫓を再建するに当たって本丸に設置したのでしょう。

御三階櫓


御三階櫓

本丸領域の北端角に鐘楼が建っています。

鐘楼


鐘楼

    赤城山                             白根山

遠望


伝進修館表門

忍城の来歴(ウィキ
『室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている[2]。数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。』
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。』
『湿地帯を利用した平城であった。元々沼地だったところに島が点在する地形だったが、沼を埋め立てず、独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築いた。』

行田は足袋が名産であると知られ、私も小学生の時代から知っていました。現在、足袋は廃れましたが、足袋の産地としての記憶が街の中に残っています。街中に足袋に起因する蔵が点在しているようです。
ぎょうだ足袋蔵ネットワーク
たまたま、そのうちの一つである、「旧小川忠次郎商店店舗及び主屋」を通りました。
『足袋の原料を商っていた小川忠次郎商店の店舗及び主屋として昭和4年頃に完成した、行田の足袋産業隆盛期を象徴する近代化遺産。内部1階は店舗南側を土間のミセとし、北側に帳場、主屋部分のナカノマ、オクヘと縦1列に並べる間取りで、2階に格式高い座敷を設けている構造で、こうした構造は明治・大正期の行田の店舗型町屋に共通する。
足袋原料を扱った小川忠次郎商店が大正14年(1925)に棟上した土蔵造りの店舗併用住宅。現在はNPO運営の蕎麦店となっている。』
そこで、この店でそばをいただくこととしました。

蕎麦 忠次郎蔵


蕎麦 忠次郎蔵


ざるそばと天ぷら

こうして、忍城訪問の一日が終了しました。
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朝日新聞「ラピダス秘録」

2024-05-06 09:29:32 | 歴史・社会
朝日新聞朝刊に、半導体製造の「ラピダス」に関する3回連載の特集記事が載りました。
(けいざい+)ラピダス秘録:上 なぜ日本?IBMは突然に
2024年4月30日 朝日新聞
『経済産業省の平井裕秀は2020年7月、商務情報政策局長に昇進した。ハイテク産業を所管する同省の枢要ポストである。着任してまもなく、入省年次で九つ上の先輩が就任祝いのあいさつにやってきた。先輩は平工奉文。製造産業局長を最後に退官し、このときは日本IBMの特別顧問を務めていた。』
このときから、IBMと経産省の密談が始まりました。
『IBM側は「2ナノ技術の導入について日本政府は関心はありますか」と投げかけてきた。』
米国IBMは、半導体の自社開発をあきらめず、オールバニで開発を進めていました。
経産省の平井は、IBM側の申し出を日本のどの企業に伝えるか頭を悩ませました。候補に挙がったのは、ルネサスエレクトロニクス、ソニー、東芝系のキオクシア、それにNTTでした。
IBMが、日本側のリーダー格の候補として唐突に持ち出したのが、半導体製造装置メーカー、東京エレクトロンのトップを長く務めた東哲郎でした。東の頭の中に、日立半導体部門出身の小池淳義の名が思い浮かびました。
『その年の暮れ、小池を中心にして2ナノを日本に導入できるか検証するチームが、ひそかに立ち上がった(マウントフジプロジェクト)。』
『最先端の2ナノの半導体製造に挑む国策会社ラピダスが誕生し、北海道千歳市に急ピッチで工場建設が進む。先端半導体の開発競争からとっくに脱落していた日本が、なぜ復権を目指すのか。その舞台裏を探った。』

(けいざい+)ラピダス秘録:中 台湾に生産集中のリスク、日米重ねた議論
2024年5月1日 朝日新聞
『経済産業相の萩生田光一は2022年1月、初めて「最先端の次世代半導体について検討していきたい」と聞かされた。報告したのは商務情報政策局長の野原諭。萩生田は「TSMCを決めたばかりなのに、もう次の案件を持ってきたのか」と驚いた。台湾のTSMC誘致に巨額補助金を支出できるよう、前年暮れに5G促進法を改正したばかりだった。』
極秘裏にできた「マウントフジ」チームが米国から帰り、野原はリーダーの小池から「IBMの2ナノの先端半導体を日本でも出来そうです」と聞かされていました。
自民党の甘利明氏は、元経産相で半導体戦略推進議連会長を務めます。議連の事務局長の関吉弘衆院議員は「40ナノしか作っていない日本に、2ナノはジャンプしすぎだ」と思いました。
2022年5月、萩生田氏は訪米し、日米会談を行いました。この頃から「米国がフルサポートするなら大丈夫」(甘利)と、自民党内の懐疑的な見方が少しずつ沈静化していきました。
経産省の野原氏は、2ナノ導入にはオランダのASML社が生産する極端紫外線(EUV)露光装置の調達が不可欠と思っていました。萩生田氏と訪米した野原氏は、その足でオランダに飛びました。1台200億円で、2年待ちと言われる装置を、「商用なら2台以上入れた方が良い」と言われました。

(けいざい+)ラピダス秘録:下 異形ベンチャー「やるなら一気に最先端」
2024年5月2日 朝日新聞
『小池淳義は2022年春、もはや自分たちで新しい会社をつくるしかないと腹を決めていた。』
東芝など国内メーカーが相次いでIBMの技術の導入に尻込みしたうえ、「マウントフジチーム」に参集したメンバーの約半分が「20年遅れの我が国には無理」と脱落しましたが、残った仲間は手ごたえを感じていました。
東は、「ラピダス」を22年8月に設立。東、小池とマウントフジチームの12人が個人出資した上、経済産業省幹部も同行してお願いに回り、トヨタ自動車やNECなど8社も出資。後に1兆円近い政府資金が投入されてゆきます。
--連載記事以上-----------------

私は、このブログの過去記事「湯之上隆著「半導体有事」 2023-06-04」、「新会社ラピダスが2nm半導体を目指す 2022-12-24」において、ラピダスについて意見を述べてきました。
流れてくる情報からでは、新興企業であるラピダスが2nmロジック半導体の量産に成功するような匂いを感じることができませんでした。
今回の朝日新聞の特集記事を読みましたが、私の危惧を払拭してくれるような内容は見られませんでした。「米国IBMの開発成果は、2nm半導体の量産を成功させるレベルにどれだけ近づいているのか」「ラピダスは、米国IBMの開発成果をさらに向上し、2nm半導体の量産を実現させるだけの技術力を具備できるのか」といった疑問に、朝日新聞の記事は何ら踏み込んでいません。
1年前の情報では、2nm半導体を量産できるのは台湾のTSMCのみであり、韓国のサムスンもアメリカのインテルも成功していませんでした。TSMCが量産に成功する裏では、膨大な数の試運転を繰り返して最適製造条件を探索してきた実績があります。インテルは7nmでつまずいていました。日本メーカーは、ルネサスが自社生産するのは40nmまでであり、それよりも微細の半導体はTSMCなどに生産委託していました。
日本でのロジック半導体メーカーの最大手はルネサスなのに、なぜルネサスがラピダスに関与していないのか、の裏事情について、今回の朝日記事を読むと、「早々に尻込みして退出した」ということかも知れません。
このような状況下で、半導体生産の経験が皆無であるラピダスが、どのようにして2nm半導体の量産に成功し得るのか、道筋が全く見えません。

朝日新聞の記事から匂うのは、経産省幹部の前のめりの姿勢であり、「経産省はまた以前の失敗を繰り返すのか」との心配しか見えてきません。
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諏訪・高島城訪問

2024-05-05 09:48:44 | 趣味・読書
前号で紹介したように、4月29日30日、松本に一泊し、1日目に松本城、2日目に諏訪の高島城を訪問しました。ここでは、2日目の高島城について紹介します。
朝、JR特急あずさで松本を発ち、上諏訪で下車しました。駅前の観光案内所に立ち寄って情報を仕入れ、徒歩で高島城に向かいました。

上諏訪駅から南に向かうと、高松城北側のお堀にかかる冠木橋に到達します。

冠木橋と天守

現在の高島城の地図(上が南)と、古地図の高島城(上が北)を対比します。この古地図は、こちらのブログで紹介されていました。
同じブログに掲載されている古地図の高島城周辺(上が北)と、現代の地図(上が北)を対比します。
現代の地図の上端付近にJR上諏訪駅、下端近くに高島城が位置しています。上諏訪駅の東側で線路を北から南へ渡り、並木通り沿いにお城に向かいます。並木通りは途中、右に直角に曲がりまた左に直角に曲がるクランク状となっています。そして、上記古地図にはまさに、高島城の北側に同じクランク状の道が形成されています。
高島城はその昔、「浮城」と呼ばれていました。古地図によると、高島城が諏訪湖の中に建っていたわけではないのですが、高島城の西に諏訪湖湖畔が迫っており、高島城はその四周を田んぼで囲まれていたようです。市街地は現在のJR上諏訪駅付近に存在し、その市街地から高島城までは、田んぼの中にクランク状の一本道が形成され、それが唯一のお城への道でした。田んぼに水が張られていたら、まさに四周を水に囲まれた「浮城」に見えたことでしょう。

高島城に至る途中に、三之丸湯跡がありました。

三之丸湯跡


冠木橋と冠木門


冠木門(城外から)


冠木門(城内から)


石垣


諏訪護国神社


天守と藤棚

お城の南西隅に角櫓が再建されています。

角櫓


角櫓、冠木橋と天守


天守


天守

天守閣の中に、下の由布姫の人形が飾られていました。

由布姫
私は「諏訪御前」が記憶にあります。子供の頃、テレビの時代劇ドラマで見ました。諏訪氏のお姫様で、父親が武田信玄に滅ぼされ、その後に信玄の側室(勝頼の母親)になるという悲劇の主人公です。ネットで調べたら、「諏訪御前=諏訪御料人=由布姫」ということで、私の記憶と繋がりました。
風林火山 (1969年のテレビドラマ)(ウィキ)
『「風林火山」(ふうりんかざん)は、NETテレビ(現・テレビ朝日)の「ナショナルゴールデン劇場」枠で1969年1月30日から同年3月6日まで放映されたテレビドラマ(時代劇)。
キャスト
山本勘助:東野英治郎
武田信玄:緒形拳
由布姫:栗原小巻』
由布姫を演じた女優は栗原小巻で、その点も私の記憶通りでした。
ただし、以下の高島城の来歴からも明らかなように、現在の地に高島城ができたのは、由布姫の時代よりも後のことになります。

高島城の来歴(ウィキ
『中世、諏訪郡の領主であった諏訪氏は現在の諏訪高島城の北方に位置する茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪氏の滅亡後、・・・高島城は武田氏による諏訪郡支配の拠点となった。
天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、・・・1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城した。

日根野は1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築いた。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。
1875年(明治8年)に天守閣など大部分の建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられた。
現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。』

JR上諏訪駅の観光案内所で、この近辺のおいしいお店を紹介してもらいました。紙の裏表におすすめの蕎麦店と鰻店が記された地図をいただきました。昔は諏訪湖でうなぎが獲れたのでうなぎ店が多い。ただし現在は諏訪湖では獲れない、とのことでした。
諏訪湖周辺のうなぎ屋のおすすめ人気ランキング4選には、
『信州諏訪湖の周辺は、うなぎ屋の激戦区です。浜松・三河一色と並ぶ天然うなぎの名産地で、昔から漁獲量・消費量とも多く、湖を囲む長野県諏訪市・岡谷市・下諏訪町には約30店舗が集中しています。』とあります。

当初は、高島城のすぐ西に位置する「ねばし」を目指しました。到着するとどうでしょう。定休日でした。ちらしによると定休日は月曜です。本日は火曜で営業中と考えていたのですが、よくよく見ると「祝日の場合は翌日」との記載がありました。
そこで、次の目標を「うな藤」に変更しました。まずは琵琶湖畔に向かいます。

諏訪湖
琵琶湖畔を北に進みます。途中、諏訪赤十字病院の側を通りました。

諏訪赤十字病院

そして、「うな藤」に到着しました。案の定、多くの客が順番待ち中でした。
やっと順番が到来しました。
メニューには、うなぎ2枚、3枚、蒲焼き3枚+白焼き1枚、などが並んでいます。最近東京でうな重を注文すると、うなぎ2枚では物足りなさが残ります。そこで蒲焼き3枚を注文しました。

うな重
びっくりしたのは、うなぎが肉厚であることでした。3枚完食したらおなかがパンパンになりました。
食事後、歩いてJR上諏訪駅に向かいました。特急あずさ指定席を予約しています。うなぎ屋さんでの順番待ちでずいぶん時間が消化したのですが、それでも十分な待ち時間が残っていました。
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松本城訪問

2024-05-04 15:55:09 | 趣味・読書
4月29日30日、松本に一泊し、1日目に松本城、2日目に諏訪の高島城を訪問しました。
まず、松本城訪問について記します。
松本城は、江戸時代からの天守閣が現存している貴重なお城として有名です。

天守


現在の松本城(上が北)


戦国時代の松本城(上が北)

内堀の南側に配置された橋を渡ると、門の先に券売所⑥があります。門に名前はついていないのですが、形式は高麗門のようです。

高麗門(城外側から)


高麗門(城内側から)

高麗門の先に、いわゆる黒門があります。形式は櫓門です。高麗門と黒門に囲まれた領域が、枡形を形成しています。

黒門(城外側から)


黒門(城内側から)

黒門をくぐると、そこは本丸の敷地内です。

天守
天守の拝観待ち時間は40分と表示されていました。ただし、立って待つのではなく、テントで雨よけされたベンチに腰掛けて待つことができました。

天守の内部

城から北西方向には、北アルプスの山々を見ることができました。

天守から埋橋(うずみばし)と北アルプスを望む
写真中央の右にそびえるのが常念岳、その右が横通岳と東天井岳です。中央左奥の雪が見えるのが大滝山です。


天守


天守

100名城のスタンプを押印し、、松本城訪問を終えることができました。

お昼は、おそばをいただきました。松本に到着してホテルにチェックインし、そのときにお勧めのお店を教えてもらいました。出かけてみると、やはりお勧め店は行列ができています。比較的行列が短かったので、たかぎで食べることとしました。

そば定食

それでは、松本城の来歴をウィキで確認します。
『戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが松本城の始まり。
甲斐の武田氏に攻略され、その後武田氏が滅亡し、徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
徳川家の関東移封と松本城主小笠原秀政の下総国古河への移動により、代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行った。
江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって、買い戻されて難を逃れる。
明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより「松本天守閣天主保存会」が設立され広く修理費の寄付を募り、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われた。』
明治維新後の廃藩置県により、日本全国のお城のほとんどが破却される中、松本城の天守閣はよくぞ保存されたものです。明治期の有識者たちの活躍に感謝です。

この日は松本のホテルで一泊しました。翌日の諏訪高島城訪問については次号で紹介します。
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