弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

アフガンを支援する日本人女性たち

2009-06-30 20:18:12 | 歴史・社会
米軍主導のアフガニスタン戦争が終結した後、アフガニスタンを支援する活動で日本人女性の活動が目立ちます。
伊勢崎賢治氏の「武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)」のあとがきでは、「日本の平和貢献の将来は、女性が担う予感がする。」と期待を込めて書かれています。

まずは瀬谷ルミ子さんです。
アフガニスタン戦争後の旧軍閥の武装解除を日本主導で成功させたとき、在アフガニスタン日本大使館のDDR班で働きました。「瀬谷さんは、シエラレオネで国連スタッフとして僕の下で働いてくれて以来の付き合いであるが、まだ二十台の若さですでに二つのDDRを現場で経験した、これからの日本にとって逸材中の逸材である。(2004年伊勢崎著あとがき)」
現在は、日本紛争予防センター(JCCP)事務局長をつとめ、世界各国の紛争地で、紛争解決の専門家として活躍しています。ここでもNHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さんNHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さん(2)として紹介しました。

次に今井千尋さんです。
瀬谷さんと同じくアフガン戦争後の武装解除に携わります。
「今井千尋さんという一人の若い女性が、国籍も、育った文化も、そしてものの考え方もそれぞれ違う監視団員、それも全員が軍事経験者のつわもの達を一つにまとめる要となって働いている。今井さんは、この任務に就く前、JICA(国際協力機構)のアフガン事務所でDDRのRの部分を担当し、除隊兵士の職業訓練校の開設を実現させた。現在彼女は、公的な権威をもって武装解除の現場を監視する、日本初の女性軍事監視員である。(2004年伊勢崎著あとがき)」
その今井さんが、この6月からアフガニスタンの北大西洋条約機構(NATO)による地域復興チーム(PRT)に日本が送る初の文民要員の一人として派遣されることになりました(今井千尋さんがアフガニスタンへ)。

3人目が石崎妃早子(ひさこ)さんです。
今井千尋さんと一緒に、PRTの文民としてアフガニスタンに派遣されました。

4人目に野村留美子さんがおられます。
JICA職員で、インドネシアジャワ島中部地震の際には、国際緊急援助隊医療チームに参加して現地で活動をされました。1年前からアフガニスタンのカブールにあるJICA事務所に赴任され、危険と隣り合わせの生活を送りながら活動されています。こちらでもアフガニスタンからの便りとして紹介しました。

この4人の女性たちが、不思議な関連でつながりを持っていることが分かりました。
3人目の石崎妃早子さんと、4人目の野村留美子さんが、大学の同級生だったのです。石崎さんがチャグチャランの赴任地に赴く途中にカブールに滞在し、そのときに野村さんに電話連絡してきたのでした。野村さんのブログによると「彼女(石崎さん)は学部時代にイスラム系のゼミに在籍していて、卒業後は在日本イラン大使館で働いていたことは知っていたが、こんなところで再会(電話だったけれど)するとは思わなかった。」ということでした。

つまりこういうことです。

瀬谷ルミ子さん(以前アフガンDDR、現在JCCP事務局長)
 ∥
 ∥アフガン戦争後のDDRでともに活躍した。
 ∥
今井千尋さん(以前アフガンDDR、現在アフガンPRT文民要員)
 ∥
 ∥今回のアフガンでのPRT文民要員として一緒に働く。
 ∥
石崎妃早子さん(現在アフガンPRT文民要員)
 ∥
 ∥大学の同級生だった。
 ∥
野村留美子さん(現在JICAアフガン駐在)

伊勢崎賢治さんの「日本の平和貢献の将来は、女性が担う予感がする。」との予想が現実のものとなりつつあります。

ps 2011.12.14.
今井千尋さんと石崎妃早子さんが共著者に入っている書籍について、アフガニスタン奮闘記アフガニスタン奮闘記(2)として記事にアップしました。
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吉川徹「学歴分断社会」

2009-06-28 09:30:48 | 歴史・社会
学歴分断社会 (ちくま新書)
吉川 徹
筑摩書房

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「格差社会」というキーワードが巷にあふれています。
この本で著者はまず、「格差」という言葉が、論者ごとに様々な意味で用いられており、議論に混乱が生じているとします。そして、著書の半分以上をつかって、国民が抱いているイメージは何か、実は何が起こっているのか、といった点を丁寧に解きほぐします。この過程は、「ところで何が言いたいんだ」と結論を急ぐ読者にはもどかしいです。

著書では、学歴を「大卒/非大卒」に分けます。大卒には大卒・短大卒・高専卒が含まれ、非大卒には中卒・高卒・専門学校卒が含まれます。
以下のような事実があるようです。
(1) 少子化もあって、「大学全入(希望者の全員が大学に入れる)」の時代が近づいたが、同一世代に占める大卒層の比率は50%強で足踏み状態である。
(2) 世帯収入を中央値である550万円で高収入/低収入に区切ると、大卒層に占める高収入層は59%であるのに対し、非大卒層に占める高収入層は38%に過ぎない。
(3) 親が大卒/非大卒のいずれであるかと、子どもが大卒/非大卒のいずれになるか、との間に相関がある。

(1) は、「希望すれば大学に入れる状況に近づいているのに、大学進学を希望しない18歳が半分近くいる」ということを示します。
(3) について、私たちが子どもの頃は、大卒/非大卒の収入の差は、今よりも顕著に認識されていたと記憶しています。ですから、親が非大卒の場合、「子どもに自分たちと同じ苦労をさせたくない」という意識でむしろ子どもに大学受験を勧めたのではないかと。
ところが最近はそうでもないようです。なぜそのような変化が生じたのでしょうか。

もうひとつ、終戦後から現在に至るまでの経済状況を、三つの時代に分けます。1945~70年が戦後社会、70~95年が総中流社会、1995~現在が格差社会です。この時代区分は、客観的にそのような時代であったというよりも、国民の気分がどのような気分だったかで区分けしていると思います。

高度経済成長により、国民の平均的な生活レベルが上がり、80%以上の日本国民が「自分は中流」という気分になったのです。総中流時代です。この時代に、学歴(大卒/非大卒)の差はあまり重要ではない、という気分も生じたかも知れません。そして、子どもが18歳の時点で進路を決めるに際し、苦労して大学に行くこともない、と考える子どもが増えたということでしょうか。親が非大卒の場合に顕著だったかも知れません。

1995年を境にして、それまでの総中流社会という気分が、格差社会という気分に変化しました。生活の豊かさが右肩上がりする時代が終焉したことが大きいでしょう。現実問題として、学歴差と収入差の間には強い相関があるという調査結果が出ているのですから、学歴との関係を避けて通るわけにはいきません。

最近までの社会の傾向として、学歴を表に出して議論することはタブー視されているようです。著者は、そのタブーを取り払うべきとしています。確かに、正規雇用と非正規雇用の生涯賃金の差が最近注目されていますが、その場合も学歴は大卒を前提とすることが暗黙の了解とされており、大卒/非大卒が及ぼす影響については全く言及されません。
「学歴をタブー視していたのでは、正しい姿が見えない」とする著者の警鐘は有意義と思います。

ただし、著者がほとんど触れておらず、しかし重要な要因となり得る事項を2つ、提示したいと思います。

第1は、大都市/非大都市の関係です。
大都市では、確かに大卒/非大卒の関係は著者が指摘するとおりと思います。一方、非大都市つまり地方都市や田舎ではどうでしょうか。現在でも、その土地の文化を継承しつつ安らかに生きていく途として、非大卒でその土地に留まるという選択肢が有効なのではないか。
大都市と違って、地方であればたとえ低収入でもそれなりの満ち足りた生活ができる現実があるのではないか。

第2は、高収入者と低収入者の収入格差は、広がっているのか否か、という点です。
もちろん、高収入者として例えばヒルズ族を取り上げ、低収入者としてフリーターやニートを取り上げたら、差は拡大しているかも知れませんが、そのような比較ではありません。あくまで「多数としての高収入者」「多数としての低収入者」の間の対比です。
中国の台頭で、従来、特に地方の人たちが担っていた生産従事者の立場が、「中国では同じ仕事を超低賃金で行っている」と脅かされ、また産業の空洞化が進み、低収入化が進行しているのではないかと危惧されます。そのような観点については、この著書では検討されていません。
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NHKあしたをつかめ「特許技術者」

2009-06-25 19:56:04 | 弁理士
NHK教育の番組に「あしたをつかめ平成若者仕事図鑑」というのがあります(というか今まで知らなかった)。
6月23日は「特許技術者」という表題で、岐阜市にある特許事務所で勤務する特許技術者を主人公に、「特許技術者」という仕事のジャンルを紹介するものでした。
番組紹介によると、
「この番組は、社会へ出ることを考え始めた10代後半~20代前半の方に、さまざまなジャンルの職業を紹介し、その特徴や魅力について考えてもらう“仕事ガイダンス番組”です。
実際の職場で働く人たちが、具体的に仕事のどんなところに打ち込み、どんな点に気をつかい、自分の仕事についてどんな思いを抱いているのか…。そうした仕事の具体的な中身や舞台裏などを見る機会はそう多くはありません。
(中略)
この番組を見た方が、仕事に興味を持ち、自分の将来を考えるきっかけになれば、と考えています。」ということです。

今回の「特許技術者」はこの番組の第206回です。いままで206種類も仕事が紹介されてきたということです。その一覧表を作ってみました(テキスト文書)。あらゆる職業が紹介されています。「士」がつく職業だけでも(最近放映された順)、税理士、介護福祉士、保育士(男性)、視能訓練士、潜水士、建築士、歯科衛生士、クレーン運転士、弁護士、臨床工学技士、義肢装具士、中小企業診断士、航空整備士、作業療法士、通関士、司法書士、言語聴覚士、救急救命士、歯科技工士、自動車整備士、プラモデル設計士、栄養士、建築塗装技能士、電気工事士、気象予報士、理学療法士、航海士、バス運転士、保育士、盲導犬訓練士、林業作業士、路面標示施行技能士と並んでいます。
それなのに何故か、弁理士が未だに紹介されておらず、今回は特許技術者が紹介されました。
うーむ。NHKの意図はどの当たりにあるのでしょうか。弁理士よりも特許技術者の方が就労人口が多いから、・・・でしょうか?

舞台は岐阜市にある大きな特許事務所です。事務所のホームページによると、弁理士は総計で20人以上、従業員数は岐阜だけで200人近くとあります。
ここで特許技術者として働く佐々木さん(29歳)が本日の主人公です。
大学院から多分新卒で事務所に就職して5年が経ちます。

画面にはたびたび小さな文字で「特許技術者は弁理士の監督のもと出願書類を作成」する旨が表示されます。番組もこの点は気を使っているのですね。

佐々木さん、発明の把握で迷うことがあると、所長弁理士のところに相談に行きます。結局、番組の中で登場した弁理士は所長お一人でした。番組以外では所長でない先輩(上司)弁理士とペアを組んでいるのでしょうね。

さて、佐々木さんは弁理士受験しないのでしょうか。その点が気になりつつ、番組は終盤に入ります。ここでやっと紹介がありました。佐々木さんは来年、弁理士試験を受験するとのことです。
受験勉強を始めているのでしょうか。番組ホームページの「◇特許技術者のある一日」に、平日の時間割が紹介されていました。なに?、22時まで残業、その後就寝ですよ。受験勉強が時間割に入っていません。
佐々木さん、短期合格に向けてがんばってください。

ところで、「あしたをつかめ平成若者仕事図鑑」で過去に紹介された職種ですが、やはり専門的な職種が中心ですね(テキスト文書)。今までの206回で放映された職業の就労人口を足しあわせたら、日本の全就労人口の何割位をカバーするのでしょうか。
多数を占めるであろう「一般サラリーマン」「一般工場就業者」にスポットを当て、その仕事のおもしろさを若者に紹介することこそ大事と思います。そうでないと、「サラリーマンにはなりたくない」という思い込みに縛られた若者の比率を下げることができません。
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コーデル・ハル著「ハル回顧録」

2009-06-23 21:29:02 | 歴史・社会
コーデル・ハルというと、われわれ日本人はハル・ノートを思い出します。このブログでもハル・ノートとして書きました。
1941年11月、太平洋戦争の開戦直前、日米交渉が最終局面を迎えていたとき、米国は日本に対して突如ハル・ノートを提示します。日本大百科全書ではハル・ノートについて「内容は、日本の中国および仏領インドシナからの全面撤兵、重慶を首都とする国民党政府以外のいかなる政権をも認めないことなど、きわめて非妥協的な要求をもつ対日要求であり、この文書の提出によって、日米交渉は事実上終止符を打たれた。日本側はハル・ノートをアメリカの最後通告とみなし、12月1日の御前会議では、日米交渉の挫折を理由に対米英蘭開戦を決定した。」としています。

ハル・ノートの名前の由来であるコーデル・ハルは、当時米国ルーズベルト政権の国務長官です。以下の本を読んでみました。
ハル回顧録 (中公文庫BIBLIO20世紀)
コーデル ハル
中央公論新社

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ハルは、1933年にルーズベルトの大統領就任時から国務長官を務め、健康問題で1944年に辞任するまで11年9ヶ月にわたって在任します。「ハル回顧録」は、その大部分が国務長官時代を回顧した内容です。
全編にわたって、ハルが誠実で有能な政治家であったことが伝わってきます。ルーズベルト大統領を有能な大統領として尊敬し、大統領との間に相互に深い信頼関係で結ばれています。その点はおそらく間違いないでしょう。

それでは、ハル・ノートについてどのように記述しているか。その点に関心が集中します。ところが残念なことに、ハル回顧録の中でハル・ノートは極めて僅かにしか扱われていないのです。
「私が1941年11月26日に野村、来栖両大使に手渡した提案(10カ条の平和的解決案)は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすことがあるかも知れない、というはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。あとになって、特に日本が大きな敗北をこうむり出してから、日本の宣伝は、この11月26日のわれわれの覚書をゆがめて最終通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方であった。」
これが全てです。

著書では、ハル・ノートの具体的な内容については一切触れていません。具体的な内容に沿って、ハルがどのような意図でハル・ノートを提示したのか、そのような解説を期待していたのですが、全くの肩すかしでした。
私がハル・ノートで書いたように、当時の日本外務大臣である東郷茂徳氏が、ハル・ノートを最後通牒と受け取って落胆した事実があります。日本政府がそのように受け取るだろうことを、ハルが予測しなかったとは考えられません。

自伝である以上、このようなこと(自分に不都合な点は詳細に述べないこと)は十分にあり得ることです。そのようなスタンスで読めばよろしいと言うことでしょう。

以上の点をさっ引いても、ハル回顧録は、有能な政治家の優れた回顧録としての価値があると理解しました。ルーズベルト大統領の在任の大部分の期間、大統領と二人三脚で、あの大変な時代にアメリカを指導した能力と努力には敬服します。

回顧録では詳細に説明されていないのですが、第二次大戦の末期に、ハルが後の国際連盟の設立に向けて、世界政治の中で大きな指導力を発揮した事実があるようです。ハルは「国際連合の父」と呼ばれています。
私はもちろん日本語訳で本書を読んだわけですが、同じ"United Nations"をあるときは「連合国」と訳し、あるときは「国際連合」と訳しているわけで、正しく訳語が選択されているかどうか、若干の危惧を感じました。
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審決取消訴訟の上告審での決定

2009-06-21 10:41:22 | 知的財産権
無効審判において、私が被請求人(特許権者)の代理人を務める案件がありました。審決は請求棄却でした。
審判請求人から審決取消訴訟が提起され、私が被告(特許権者)訴訟代理人を務め、判決は請求棄却でした(裁判所HP)。
この判決に対して、原告(審判請求人)から上告状と上告受理申立書が出されていました。先般、最高裁判所から「調書(決定)」が送られてきました。
「調書(決定)
裁判官全員一致の意見で、次のとおり決定。
第1 主文
 1 本件上告を棄却する。
 2 本件を上告審として受理しない。
 3 上告費用及び申立費用は上告人兼申立人の負担とする。
第2 理由
 1 上告について
   民事事件について最高裁判所に上告をすることが許されるのは、民訴法312条1項又は2項所定の理由に限られるところ、本件上告理由は、理由の食い違いをいうが、その実質は単なる法令違反を主張するものであって、明らかに上記各項に規定する自由に該当しない。
 2 上告受理申立てについて
   本件申立ての理由によれば、本件は、民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。
   日付  裁判所書記官名」

折角の機会ですので、民訴法と対比しながら見ていきます。

《民訴法》
(上告の理由)
第312条1項 上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。
2項 上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。
 1号~6号の限定列挙(主に裁判の形式違反)
(上告裁判所による上告の却下等)
第317条2項  上告裁判所である最高裁判所は、上告の理由が明らかに第312条第1項及び第2項に規定する事由に該当しない場合には、決定で、上告を棄却することができる。
(上告受理の申立て)
第318条1項 最高裁判所は、原判決に最高裁判所の判例(・・・)と相反する判断がある事件その他の法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる事件について、申立てにより、決定で、上告審として事件を受理することができる。
------------------------

上告状、上告受理申立書において、上告人兼申立人の主張は、一口でいうと「進歩性の判断が誤っている」というものです。
まず、民訴法312条1項2項の「上告の理由」には該当し得ません。
問題は318条1項の「上告受理申立て理由」に該当するか否かです。条文を素直に解釈する限り、ちょっとやそっとの理由では受理されそうにありません。「法令の解釈に関する重要な事項を含む」には、広い意味で「特許法29条2項(進歩性)の解釈の誤り」も含みそうですが、その前に書かれた「判例違反その他の」がハードルを思いっきり高くしている印象があります。
今回、最高裁は「上告受理申立て理由なし」と判断しました。

そして、上告については、317条2項を適用して決定で上告を棄却、上告受理申立てについては318条1項の「決定で受理することができる」に対応して「決定で“受理しない”」としました。

317条2項の決定、318条1項の決定は、裁判所書記官による「調書」の形を取るのですね。

今回の最高裁の決定については、当方の主張を認めていただいた決定ですから、ありがたく承りました。

一方、審決取消訴訟に関する一般論でいうと、「どうも最高裁は門戸が狭すぎるのではないか」と危惧します。
特許庁での審判を経た後、裁判所での判断は知財高裁での裁判が第一審です。そしてその次の最後が最高裁となります。
前回、特許無効審判の今後でも述べたように、審決取消訴訟における知財高裁の第一審において技術の見誤りによる誤判断はある確率で発生すると私は見ています。このような状況下で最高裁の門戸が狭かったら、特許権者の運命は第一審の判断次第ということになります。私は「審決取消訴訟は三審制ではなく一審制である」との印象を持っているのです。
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テポドン1号発射と防衛庁

2009-06-18 20:57:51 | 歴史・社会
今年4月のテポドン2号について6月4日に話題にしてから、ずいぶん経過してしまいました。今回はテポドン2号発射の11年前、テポドン1号についてです。
1998年8月31日、北朝鮮は突然、テポドン1号を用いた3段式と思われるロケットを発射、第1段は日本海に落下、第2段以降は日本の上空を飛び越え、太平洋に落下しました。
この日一日の日本政府と防衛庁の顛末が、「文藝春秋」誌1998年11月号に詳しく記録されています。

このとき、米軍は事前に発射予定をつかんで日本防衛庁に連絡しており、海上自衛隊はイージス艦「みょうこう」を配備して警戒に当たっていました。
昼過ぎの12時15分、アメリカからの早期警戒警報が「北朝鮮がロケットを発射」と伝えてきました。警報は、防衛庁運用局と防衛局、海上幕僚監部調査部と防衛部、中央指揮所(CCP)の専用電話にそれぞれほぼ同時に入電されました。

日本海に展開していたイージス艦「みょうこう」は、フェーズド・アレイ・レーダーのビーム範囲を極端に絞り、弾道ミサイルの方向に集中的に照射していました。するとどうでしょう。発射されたロケットの航跡がクリアーに、しかもリアルタイムでLSDに映し出されたのです。数十秒後。ロケットから何かが分離したのをレーダーは捉えます。1段目ブースターの切り離しです。2段目はその後、放物線を描きながら日本海のどこかに自由落下する・・・はずでした。
ところがここで驚くべきことが起きます。2段目の部分が加速を始めたことがわかったからです。2段目は加速したまま、日本列島の上空を飛び越えることはもはや間違いありません。
LSDの映像は、日本列島を越えようとする直前に、もうひとつの物体が切り離され、さらに飛行する物体が存在しました。数分後、SSDに映し出された“最後の物体”は、落下コースを辿り、三陸沖数百キロの地点に向かっていました。

「日本列島を越えたことを、イージス艦がキャッチ!」との第1報は、興奮した「みょうこう」から衛星電話でSF作戦室へ伝わります。さらに東京・六本木の海上幕僚監部防衛部(オペレーション担当)、防衛庁運用局(オペレーション担当)、防衛庁トップの事務次官へと立て続けに流れました。

防衛庁において、オペレーションは運用局が担当し、情報は海上幕僚監部の調査部と防衛庁内局の防衛局調査課が担当します。
たとえ防衛庁にオペレーション系、情報系でバラバラに入った情報でも、新たに情報系の部署で集約され分析されれば問題ありません。あくまでも情報は情報系が分析し、それをオペレーション系が実際のオペレーションとして生かす、これが軍事組織の常識だそうです。

ところがこの日、“日本列島を通過したロケットの軌跡をリアルタイムで観測できた”という衝撃的な情報を、オペレーション系のイージス艦が取得したのです。オペレーション系はこれで舞い上がってしまいました。情報は集約されることなく、もっぱら運用局長からその上の防衛次官へ上げられました。この日1日、運用局長と防衛局長は、一度も顔を合わせませんでした。防衛庁長官が思わず「どうして情報がバラバラに来るんだ!」と声をあげる一幕もありました。

こうして、イージス艦は12時過ぎにリアルタイムでテポドン1号の航跡を捉えたのに、総理、官房長官に報告したのは20時頃、マスコミに発表したのが23時15分頃という体たらくとなりました。

89年当時、突然有事となった場合の防衛庁の指揮命令系統において、防衛庁長官、防衛次官の次に位置し、オペレーションのトップに立つべき人が運用局長であったようです。昔の日本軍で言えば、陸軍の参謀総長、海軍の軍令部長にあたる人でしょうか。
運用局長とはどのような人がなるのでしょうか。98年8月当時について正確には分かりませんが、98年11月まで運用局長だった人が大越康弘氏で、東京大学出身であることまでわかりました。
現在の防衛省では運用局が運用企画局に変更になり、現運用企画局長の徳地秀士氏は1979年東京大学法学部卒とあります。いずれにしろ、東大卒の行政職(背広組)が運用局長を務めるならわしのようです。
そして、防衛出動を想定したような訓練を、運用局長を含めた全体でなされているという形跡がありません。軍人でもない法律系の官僚が、訓練も受けずに、突然軍隊の指揮を任されたってうまくいくはずがありません。

当時の防衛庁は「世界最強の兵器を持ち、世界最高レベルの士気が高い自衛隊員を持っていても、戦闘できない---笑い話にもならない現実です」(防衛庁OB)という状況だったのです。
さて、それから11年が経過した現在、防衛省の有事における指揮命令系統はどのようになっているのでしょうか。ネットで調べてみましたが、結局よくわかりませんでした。
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特許無効審判の今後

2009-06-16 20:47:57 | 知的財産権
特許庁長官の私的研究会である特許制度研究会は、この1月5日に日経記事「特許法改正」 として紹介したように、特許庁は1月から1年間かけて特許法改正の方向を検討。2010年には産業構造審議会で審議したうえ、11年の通常国会に特許法改正案か新法を提出、12年の施行をめざす、そうです。
その第4回研究会が5月29日に開かれ、議事要旨が公開になりました。

議事要旨を読むと、各委員が個別に意見を披瀝されており、全体としてどのような方向に向いているかはよく読み取れません。

議題は大きく4つに分かれるようです。
<ダブルトラックによる対応負担・判断齟齬について>
<特許の有効性をめぐる紛争の蒸し返しについて>
<無効審判ルートの在り方について>
<裁判所が公衆の意見を聴取することを可能とする手続の導入について>

2番目の<特許の有効性をめぐる紛争の蒸し返しについて>の議論の中で、ある委員が
「生海苔の異物除去処理装置再審事件のような極端な事例を受けて制度を根本から変えることには違和感がある。」
と発言しているように、この議論が、生海苔の異物除去処理装置再審事件を契機にして大きく取り上げられていることは間違いないようです。
この点は、ここで1月12日に日経記事「特許の侵害訴訟の件数が減っている」 として紹介した内容が関連しています。ここではまず生海苔の異物除去処理装置再審事件の弁護を担当した松本直樹弁護士が登場、続いて飯村敏明判事(知財高裁)が登場し、「特許権者と第三者の利益のバランスを図って、公平なものにするには、特許庁と裁判所のダブルトラックによる紛争解決制度を見直すべきだ。例えば、①無効審決の効力は、既に確定した特許権侵害訴訟の被告には及ばないようにする②一定の期間後の無効審判請求を制限する-などの制度変更が考えられる。紛争を1回の手続で解決し、いたずらに繰り返される無効審判で特許権者を疲弊しないようにすることが必要だ」と意見を述べておられます。
飯村判事は、特許制度研究会の委員でもあります。

生海苔の異物除去処理装置再審事件については、このブログの生海苔異物除去装置事件の全経緯で詳しく紹介しました。

この特許関連では、特許権者がX社を被告として侵害訴訟を提起し、差止請求が認められて判決が確定しました。
一方X社は、主証拠を変えて次々と無効審判を請求します。最初の2件は請求棄却で確定しましたが、3件目の無効審判において、審判段階では請求が棄却されますが、審決取消訴訟で審決が取り消され、最終的に請求項1の無効が確定しました。4件目の無効審判では同じ証拠で請求項2の無効も確定します。

3、4件目の無効審判の主証拠はパルプの技術分野に関わるものです。本件特許の生海苔異物分離装置と対比すると、装置の構成は似ておりますが、私が見る限りでは、スリットを生海苔が通り抜ける技術思想と、パルプが通り抜ける技術思想は著しく相違しているように見受けられます。
パルプに関する主証拠を参酌しても、生海苔の当業者は本件発明を容易に想到し得るとは思えない。
この点を審決取消訴訟の知財高裁は見誤ったのではないか、と危惧しているのです。

審決取消訴訟では、技術の見誤りによる誤判断はある確率で発生すると私は見ています。この場合、負けた側が最高裁に上告しても、判断を覆すことが困難であるという現実があるようです。
この点は、先日報告した足利事件での最高裁判断を見るとうなずけます。

このような現実があるため、特許を潰す側が主証拠を取っ替え引っ替えして数多くの無効審判を仕掛けてきた場合、たとえ本当はその全てで無効になり得ないはずとしても、間違えてそのうちの1件で特許が無効になってしまうことがあるのです。一度潰れたらアウトです。
これでは特許権者にとって酷です。

特許制度研究会の議論の方向も、“これは何とかしなければならない”という方向に向いているようです。
それではどのような法改正が打ち出されるのだろうか。

どうも、「一定の期間(除斥期間)後の無効審判請求を制限する」という方向(飯村判事意見の②)に向かう気配がしています。
しかし、一律に例えば「特許権設定登録から5年経過後は無効審判請求できない」というような制度にするのは問題です。特許権者としては、除斥期間が経過してから突如侵害訴訟を起こすという手が使えるからです。
ここは「侵害事件の被告は、侵害判決が確定したあとは無効審判請求できない」というような制度にする必要があるでしょう。しかしその場合は、侵害事件の被告がダミーを立てて無効審判を請求することが可能となるので、その対応も考える必要があります。
むしろ、飯村判事意見の①の方が良いかも知れません。

さて、どのような方向に向かうのでしょうか。
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足利事件の裁判経緯

2009-06-14 10:26:10 | 歴史・社会
足利事件のDNA鑑定について、このブログで2回にわたって話題にしました()。
その後、私のブログを閲覧されるリンク元を調べてみると(こちらこちら)、「警察が当初行ったDNA鑑定は、“当時の鑑定は分離精度が低かったから別人が同一人物と鑑定されたのであって鑑定自身は正しかった”のでははなく、鑑定が間違っていたのだ」という事実について、私のブログ記事ではじめて知った方が多いということに気付きました。
このような誤解を一般に生じさせている点については、マスコミの報道に問題があると思います。

ところで、足利事件で控訴審以降の菅家さんの弁護を担当した佐藤博史弁護士へのインタビュー記事を読むと、DNA鑑定の問題以外にも、裁判がらみの問題が浮かび上がってきます。
「足利事件とは、1990年5月12日(土)に栃木県足利市内のパチンコ店で4歳の幼女(松田真実ちゃん)が行方不明になり、翌13日、近くの渡良瀬川の河川敷で死体となって発見されたわいせつ目的誘拐、殺人、死体遺棄事件である。
 捜査は難航したが、DNA鑑定が決め手となって、およそ1年半後の91年12月1日、菅家利和氏(当時45歳)が任意同行され、その日のうちに自白して、翌2日未明に逮捕された。
 菅家氏は、以後捜査段階だけでなく、公判段階でも自白を維持し、途中公判で否認に転じたものの、すぐに再び自白して結審し、結審後再び否認に転じたが、2週間後の93年7月7日に、宇都宮地裁で無期懲役の判決を受けた。」

第一審の地裁を担当した国選弁護人は、菅家さんが犯人であると信じていたそうですから、地裁段階では関係者全員が“菅家さんが犯人”で固まっていたようです。
地裁で有罪判決が出た頃、佐藤弁護士はDNA鑑定に関する論文を法律雑誌に投稿していました。菅家さんの支援者がこの論文を見て、菅家さんに弁護を依頼してきました。そのころ国選弁護人は、控訴期限が迫っているのに菅家さんと接見して事情を聞くことさえしていません。佐藤弁護士は即座に弁護人になることを決意しました。
「菅家さんと初めて東京拘置所で接見しましたが、拘置所に向かうときの不安な気持ちと、拘置所を後にしたときの晴れやかな気持ちを今でも覚えています。接見して間もなく、私は無実を確信しました。私の刑事弁護人としての感性が試された瞬間だったと今思います。以来、100回近く接見していますが、無実の確信が揺らいだことは一度もありません。(佐藤弁護士)」

佐藤弁護士が把握した“菅家さんが真犯人でない証拠”は多々あります。
真犯人が小児性愛者であることは疑う余地がなく、また佐藤弁護士はそれまでの経験から小児性愛者であるかどうかを判断する知識を有していました。小児性愛者は普段の行動を見ていれば小児に対して必ず特異な行動を取りますが、幼稚園バス運転手だった菅家さんはそのような行動を取っていません。警察は、事件発生から菅家さん逮捕まで1年以上、菅家さんを尾行していたのですから、その点を警察は把握していたはずです。

足利市周辺ではこの事件以外にも幼児誘拐殺人事件が3件相次いで発生していました。警察で菅家さんは、このうちの2件についても「自分がやった」と自白しているのです。しかし、検察官は、その自白は信用性に疑問があるとして起訴できなかったのです。
それなのになぜこの事件だけは自白の信憑性を信じたのか。「まさに「DNA鑑定神話」が支配していたからです。」

最初の自白では、真美ちゃんを殺した後、午後8時頃にスーパーで買い物をしたことになっていましたが、警察はそのレシートをスーパーで見つけることができませんでした。その後菅家さんは自供を覆し、スーパーに寄ったのは午後3時としました。佐藤弁護士はスーパーでレシートを調べ、菅家さんが供述する買い物に付合するレシートを見つけ出しました。警察も見つけていたはずです。

事件当日、犯人と真美ちゃんが歩いて事件現場へ向かう姿を目撃した人がいました。ところが、菅家さんが「自転車に真美ちゃんを乗せて現場へ行った」と自供したので、この目撃証言は無視されることになりました。

真実ちゃんの死体の鼻と口からは白い細かな泡が出て来ましたが、これは溺死の所見で、真実ちゃんの首を絞めて殺したという菅家さんの自白と矛盾します。

「菅家さんは真犯人ではない」というこれだけの証拠が揃っていながら、控訴審では有罪を維持する判決がなされました。
「私は1996年5月9日に東京高裁の判決が言い渡されるとき、菅家さんは無罪とされるものと信じて疑いませんでした。しかし結果は「控訴棄却」。菅家さんも落胆しましたが、私もそうでした。その日、帰宅する道すがら、泣きながら「菅家さん、ごめんなさい」と言い続けたことを思い出します。(佐藤弁護士)」

結局、「犯人と菅家さんのDNA型が同一」というDNA鑑定にすべてが引きずられたのです。

佐藤弁護士は、菅家さんのDNA型を再鑑定することを思いつき、菅家さんの毛髪を用いて鑑定を行い、真犯人の型と異なることを立証しました(押田鑑定書)。しかしこの立証は控訴審判決の後、最高裁の段階でした。

佐藤弁護士は最高裁に対して、押田鑑定書を添付して、1997年10月28日、菅家さんのDNA型と犯人のDNA型は異なる可能性があるので、DNA鑑定の再鑑定を命じてほしいと申し立てました。
「しかし、最高裁は最終的にこれを無視しました。この事件の調査官だったG裁判官との何回かの面接で、「最高裁は事実審ではありませんので…」と言われたのがわずかに聞けた理由らしきものです。私たちは「最高裁が事実を取調べる必要はない。最高裁がなすべきことは、DNA再鑑定を命じることだけで、鑑定するのは鑑定人です」と訴えましたが、無駄でした。(佐藤弁護士)」
2000年7月、上告棄却決定が出されます。

残されたのは再審請求のみです。押田鑑定書を添えて、2002年12月に宇都宮地裁に再審請求しました。しかし宇都宮地裁はDNA再鑑定を命じることなく、2008年2月に再審請求に棄却決定します。
「裁判長の池本寿美子裁判官に聞いてみないと分かりませんが、本件のDNA鑑定が正しい型判定をしたものではないことを認めながら、「一致」することに変わりはないとした東京高裁判決があったこと、最高裁が押田鑑定が提出されたにもかかわらず、再鑑定を命じないで上告を棄却したことが重くのし掛かっていたのではないかと思います。
 ほかに、DNA鑑定の再鑑定を命じるということは、当時のDNA鑑定に問題があると裁判所が考えたことを意味しますので、科警研の権威を傷付けたくないという配慮もあったのかも知れません。しかし、所詮、権威をとるのか、真実に忠実であるべきかという問題です。(佐藤弁護士)」
全く、酷い話です。

宇都宮地裁の棄却決定に対する即時抗告が東京高裁に係属します。佐藤弁護士は、そこでも苦しい戦いを予想しますが、事態は急転直下、高裁が再鑑定を命じる決定書を出しました。昨年12月24日です。佐藤弁護士は、マスコミの影響も大きかったのではないかと推定しています。
そして今年5月8日、検察側、弁護側双方から鑑定書が提出され、いずれも、犯人と菅家さんはDNA型が異なるとの鑑定結果がなされました。

佐藤弁護士が担当するようになった以降、控訴審を含め、最高裁、地裁での再審請求のいずれの審理でも、有罪判決を覆すことは可能であったと思われますが、それがなされず、菅家さんが服役して17年の歳月が流れることとなりました。

今年から始まった裁判員制度については、賛否両論がありますが、今回のような事件でこそ、裁判員制度のもつ特性を発揮することが期待されるでしょう。ただし裁判員がつくのは地裁のみですが。
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サッカーW杯カタール戦

2009-06-11 21:16:42 | サッカー
6月10日のカタール戦、どう評価したらいいのでしょうか。

試合展開としては、先日のウズベキスタン戦とうり二つとの印象を受けました。
○試合開始早々の得点
○以後は日本選手走れず、常に相手ペース

今回は「アウェーの笛、深い芝」という言い訳が使えません。もっとも、ホームゲームでありながらジャッジはアウェーのようではありましたが。

「中盤の底に遠藤と長谷部がいなかったら、今の日本は攻撃の組立ができない」ということでしょうか。そうであれば、選手層の薄さは深刻です。
後半、憲剛がトップ下からボランチの位置に変わったようです。しかし試合前から、中盤の底のパスの出し手がいないことは分かっていたのですから、もっと考えても良かったのではないでしょうか。
わが家でも試合前、「今日はパスの出し手がいないなあ」「だって中村憲剛選手がいるでしょう」「いや、彼はむしろパスをもらう側だから」という会話がありました。

「連戦で選手の疲労が蓄積していたから」ということだとしたら、キリンカップのスケジュールがまずかったということになるのでしょうか。
日本はどうも、本番直前の親善試合ではいいプレーをするのだが、本番で力を出し切れない、という場面が多いですね。ドイツW杯での直前の対ドイツ戦を思い出します。

まだもう一戦、オーストラリア戦がありますが、日本はさらにタレントが欠如した戦列での戦いとなりますね。


ところで、日本のホームゲームでジャッジが日本に厳しい、という事例が良くあるように記憶しています。なぜでしょうか。

私は、日本の観客がレフェリーに全く恐怖を与えていないからではないか、と推定しています。日本の応援は、その場面場面のシチュエーションに関係なく、一本調子で大声を張り上げるばかりです。ヨーロッパでの応援はそうではなく、ホームサポーターが一体となって、相手選手、レフェリーに脅威を与え続けているのではないか、と想像します。実際に見たことがないのであくまで想像ですが。
コメント (3)
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足利事件のDNA鑑定(2)

2009-06-09 20:50:44 | 歴史・社会
足利事件のDNA鑑定に関する前報で、大雑把な説明をしました。6月5日の朝日新聞朝刊の記事が出典だったのですが、旅行中に読んだもので新聞を保管することができず、概略のみの報告になりました。

その後調べた結果、まず私が読んだ朝日新聞の記事についてBecause It's Thereで確認することができました。

朝日新聞平成21年6月5日付朝刊2面(14版)「きょうがわかる」
「検察 DNAに完敗 足利事件釈放 旧鑑定「二重のミス」
 「科学的捜査」の代名詞だったはずのDNA型鑑定。足利事件で菅家利和さんを「有罪」とする根拠とされた旧鑑定は、約20年を経て、誤りだったことがほぼ確実となった。検察側は捜査員の汗などのDNA型を誤って検出した可能性も探ったが、ついに折れて釈放を決めた。他の事件への影響も、ささやかされ始めた。
 弁護側が推薦した鑑定人の本田克也・筑波大教授(法医学)が今春の再鑑定で最初に手がけたのは、91年に行われた旧鑑定と同じ「MCT118」という方法を、もう一度試みることだった。
 本田教授は当初、女児の肌着に残る体液のDNA型と菅家さんのDNA型は一致するだろうと思っていた。 「これまでの裁判で、そう認められているのですから」
 菅家さんの型は「18-29」というタイプ。しかし何度実験しても、肌着の体液からは、そのDNA型が検出されない。むしろ「18-24」という別の型がはっきりと出た。
 自分が間違えているのではないか。鑑定書を裁判所に提出する前日まで実験を繰り返した。 「国が一度出した結論を、簡単に『間違っている』と否定できるわけがありません。でも何百回試しても、一致しませんでした」
 旧鑑定では、肌着の体液と菅家さんのDNA型はともに「16-26」で一致すると結論づけていた。
(中略)
旧鑑定書にはDNA型を示す帯グラフのような写真が添付されており、これが判断の根拠とされていたが、写真を見た本田教授は「これでよく同じ型と言えたな」と感じた・・。
(後略)」

もうひとつ
<「足利事件」とDNA鑑定>佐藤博史弁護士に聞く(2/10)の中でのコメントを紹介します。
「科警研が行ったDNA鑑定は、MCT118と呼ばれる遺伝子の部位を対象とする鑑定法で、MCT118法と呼ばれていますが、科警研のMCT118法では誤った判定がなされる危険性があることが当時から指摘されていました。DNA鑑定を行うための基盤になるゲル(寒天のようなもの)と物差しに当たるマーカーにそれぞれ問題があったのです。
 1995年には科警研も当時の判定が間違っていたことを論文で認めました。しかし、当時の判定と正しい判定には規則性があるといい、16型は18型、26型は30型であるとしました。
 当時のDNA鑑定によれば、犯人と菅家さんのMCT118型は16-26と判定されたので、科警研の論文によれば、正しい判定は18-30だったことになります。菅家さんと犯人のMCT118型は、16-26ではなく、同じ28-30だというのです。
 しかし、弁護団が菅家さんの毛髪を用いて行ったDNA鑑定では、菅家さんのMCT118型は18-29で、18-30ではありませんでした。日大の押田茂實教授による鑑定がそれです。」


以上を総合すると、以下のような状況だったようです。

(1) 事件当時の科警研が行ったDNA型鑑定は、「MCT118」という方法を用い、犯人と菅家さんがともに「16-26」という型であると判定した。
(2) 科警研も当時の判定が間違っていたことを認めたが、間違いには規則性があり、「16-26」は正しくは「18-30」であると主張した。
(3) 弁護側が推薦した鑑定人の本田克也・筑波大教授(法医学)が、同じ「MCT118」法を用いて鑑定したところ、菅家さんは「18-29」、犯人は「18-24」であって、いずれも科警研が出した結論「18-30」とは相違していた。
(4) 弁護団が菅家さんの毛髪を用いて行った鑑定(2002年)も、「18-29」であって本田教授の鑑定結果と一致している。


いやはや。驚いたものです。
裁判の現場では、「科学絶対信奉主義」のような雰囲気に縛られていたのでしょうか。誰か一人でも、「鑑定結果に落とし穴はないのだろうか」と疑問を持ち、その点を追求しさえすれば、このようなことにはならなかったのでは、と悔やまれます。
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