第二次大戦時の日本陸軍の軍人であった本間雅晴中将については、以前
本間雅晴中将としてここで記事にしました。そのときは、澄田智氏の思い出話を紐解くことによって本間中将に触れたのですが、今回は以下の本を読んでみました。
本間中将は、一度離婚し、再婚しているのですが、この本のはじめの方では、最初の奥さんとの結婚と破局について克明に記述しています。こりゃえらく情緒的な話が主体になっているな、とその後の展開が気になったのですが、幸いなことに情緒的な話はそこで終了し、日中戦争勃発前後からは軍人としての本間雅晴氏の足跡を追うことができました。
この本のすごいところは、著者の角田さんが可能な限り生存する当事者を探しだし、実際に話を聞いていることです。最初は昭和46~47年に出版されていますが、執筆した当時はまだ生存者が多くおられたようです。そのためこの本は、1級史料としても意味を持つだろうと思われます。
1937年(昭和12年)7月7日に日華事変が勃発した直後、7月22日に本間氏(当時少将)は参謀本部第二部長に就任しています。第一部長(石原完爾)が作戦担当、第二部長は情報担当です。このとき、事変不拡大をめざして本間少将が努力した足跡がこの本でたどられています。私にとっては、盧溝橋事件から第二次上海事変に拡大し、さらに南京攻略に至る日中戦争初期の状況を知る上で有益でした。この部分については
別の記事で詳しくたどりたいと思います。
日華事変勃発直後の参謀本部第二部長就任に至るまで、本間氏は実戦部隊を指揮した経験が全くありません。それが日中戦争中の1938年(昭和13年)に陸軍中将に昇進するとともに第27師団長に就任し、武漢攻略戦を実戦指揮しました。軟弱な軍人といわれ、対英米協調派であり、さらに海外駐在や秩父宮御附武官などを歴任して実戦指揮経験がないのですから、その指揮能力が危惧されましたが、本間師団長は困難な状況を乗り越えて戦いを勝利に導きました。このときの功績が、その後の太平洋戦争当初に本間氏を比島攻略戦の司令官に抜擢する下地となったのであり、戦後に戦犯として処刑される契機ともなりました。武漢攻略戦が終結した後、本間中将は天津防衛司令官に就任しました。
そして太平洋戦争に突入し、本間中将は第14軍を率いてフィリピンで米軍と戦うことになります。
日本軍がルソン島に上陸した後のマッカーサー率いる在比米軍の作戦は、首都マニラの防衛を放棄して非武装都市宣言をし、マニラの西にあるバターン半島に立て籠もって日本軍に対峙するというものでした。そのため太平洋戦争開始前からバターン半島に防衛陣地を構築しており、バターン半島先端の先に位置するコレヒドール島要塞を司令部としていました。しかし、マッカーサーによるバターン防衛方針発令は遅れ、日本軍上陸後にあたふたとバターン半島への移動を開始しました。
それに対して日本軍は、マニラ占領を第一目的とし、米軍が続々とバターン半島に撤退するのに対しては攻撃を加えませんでした。「バターンの残敵掃討は簡単」とたかをくくっていたのです。米軍人数も数万人程度と予測していました。
しかし米軍は、バターン半島の密林の中に重火器で武装した本格的防衛陣地を構築しており、人数も10万人を数えていたのです。
第14軍による比島攻略における第1の論点は、「なぜ米軍がバターン半島に立て籠もる前の段階で移動中の米軍を叩く作戦を採用しなかったのか。」という点です。
安易にバターン半島に攻め入った日本軍は、密林で道に迷いつつ米軍の強力な火力に圧倒され、2つの大隊が全滅しました。攻めあぐねた末に攻撃を一時中断せざるを得ませんでした。山下奉文に率いられたシンガポール攻略、今村均に率いられたジャワ攻略が成功する中、本間率いる比島攻略のみが頓挫しました。比島攻略戦終了直後に本間中将が罷免される原因となりました。
増援を得て特に重火器で武装した日本軍が第二次攻撃を開始すると、バターン半島の米軍は1週間で降伏してしまいました。さらにコレヒドール島もあっという間に陥落です。そして密林から湧き出てきた降伏米軍の数は10万人のオーダーとなり、日本軍の捕虜取り扱い計画をはるかにオーバーしていました。
ここで歴史に名の知れた「バターン死の行進」事件が発生することになりました。
詳しくは別の記事で。
角田さんの著書では、比島攻略戦後に罷免されて予備役となった本間雅晴について、終戦に至るまでの活動を淡々と描きます。「バターン死の行進」の話は一切登場しません。それは、本間本人が、戦犯に値するような事実があったことをまったく自覚していなかったためです。終戦間際、本間雅晴は早期和平をめざして種々の活動を行っていたのでした。
そして終戦後、本間雅晴は突然に戦犯として拘束され、フィリピンに移送されます。角田氏の著書では、本間氏、本間氏の弁護団、本間富士子氏(本間氏夫人)の目に見えた光景に沿って記述されてます。それらの人びとがそもそも「死の行進」をまったく認識していないのですから、「死の行進」で何が起きていたのかという点についてはあいまいなままの記述となっています。結局、南京大虐殺と同様、バターン半島で本当は何が起きていたのか、具体的には良くわかっていないのかも知れません。
ウィキの記述も借りて略歴を書くと以下の通りです。
1887年(明治20年)11月27日 - 佐渡島に生まれる。
1907年(明治40年) - 陸軍士官学校卒業(19期)。新発田連隊配属。
1913年(大正2年) - 最初の結婚(智子)。
1915年(大正4年) - 陸軍大学校卒業(27期)。
1916年(大正5年) - 参謀本部附勤務。
1918年(大正7年) - イギリス駐在(今村均と一緒)。日本の留守宅で智子が家出。1921年離婚。
1922年(大正11年) - インド駐剳武官(3年間)(少佐)。
1926年(大正15年) - 2度目の結婚(富士子)(中佐)
1927年(昭和2年) - 秩父宮御附武官。
1930年(昭和5年) - イギリス大使館附武官(大佐)。
1933年(昭和8年) - 歩兵第1連隊長。
1935年(昭和10年) - 陸軍少将に昇進。歩兵第32旅団長(和歌山)。このとき2・26事件
1936年(昭和11年) - ヨーロッパ出張(英国ジョージ6世戴冠式列席秩父宮随員)。
1937年(昭和12年) - 参謀本部第二部長(日華事変勃発直後に就任)。
1938年(昭和13年) - 陸軍中将に昇進。第27師団長。武漢攻略戦を実戦指揮し勝利。天津防衛司令官。
1940年(昭和15年) - 台湾軍司令官。
1941年(昭和16年) - 第14軍司令官。比島攻略戦司令官。
41年12月22日リンガエン湾上陸。
42年1月3日 マニラ占領
2月10日 第一次バターン半島攻撃失敗。
4月9日 第二次バターン半島攻撃でバターン制圧。
5月7日 コレヒドール島制圧。
1942年(昭和17年)8月31日 - 予備役編入、予備陸軍中将。
1946年(昭和21年)4月3日 - 未明、マニラ軍事裁判において刑死。