弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

「朝生」に大西健丞氏?

2011-02-27 13:43:31 | 歴史・社会
2月16日に検索でこのブログにいらした方が多く、検索キーワードとして“大西健丞  鈴木宗男”が最多でした。
訪問されたページは鈴木宗男氏と大西健丞氏がメインで、さらにNGO、常在戦場駐ロ大使更迭と「闇権力の執行人」などです。

一体にながあったのでしょう。

調べたところ、大西さんのピースウィンズ・ジャパンのページで2/25 テレビ朝日「朝まで生テレビ!」にPWJ代表理事・大西健丞が出演との紹介がされていました。田原総一郎氏の司会で、「激論!国民に“国を守る義務”が有るのか?!」というテーマで議論が行われたようです。出席者に大西健丞氏が含まれており、おそらく議論の中で大西健丞氏と鈴木宗男氏がバトルした事件が話題になったのでしょう。
どんな議論がなされたのか、ネットでの記事を探しましたが、視聴者の感想を含め、何も情報を得ることができませんでした。
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「フェリカの真実」

2011-02-24 18:55:13 | 趣味・読書
「ソニーという会社は今どうなっているのか」という点について、3冊の本を読み、「ソニー最後の異端―近藤哲二郎」、『横田宏信「ソニーをダメにした「普通」という病」()』、「グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた」で記事にしてきました。

実は、もう1冊読んでいたのです。
フェリカの真実 ソニーが技術開発に成功し、ビジネスで失敗した理由
立石泰則
草思社

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JRがSUICAというICカード定期・乗車券を実用化し、その後に首都圏私鉄がPASMOというICカード定期・乗車券を実用化してSUICAとの共用を可能にし、生活はとても便利になりました。ICカードといいながらカードには電池が組み込まれておらず、外部から受けとる電磁波をエネルギー源として作動する模様です。そしてその心臓部にフェリカという半導体チップが使われており、そのフェリカはソニー製であるらしい、という情報までしか知りませんでした。

上記の本では、そのフェリカの開発物語とフェリカビジネスの顛末が語られています。

フェリカ誕生のきっかけは、1987年、ソニー厚木の情報処理研究所でした。大手宅配業者が、配送先の仕分けを自動化するための開発を依頼してきたことからです。伊賀章氏がリーダーとなり、その下に、のちのフェリカ開発の中心エンジニアとなる日下部進氏が加わりました。無線で機能するICチップの開発を開始します。しかし宅配業者の無線タグとしてはうまくいきませんでした。
そこに、JR鉄道総合技術研究所の三木彬生氏から「定期券に使えないか」という申し入れを受けます。しかしJRは出改札に磁気式システムを導入し、当面は非接触ICカードを採用する可能性がなくなりました。
ソニー社内では、非接触ICカードの開発プロジェクトが一度は消滅するのですが、1992年、当時「大賀天皇」といわれていた大賀典雄社長のツルの一声でプロジェクト再会が決まりました。

そうして本格的に開発した非接触ICカードが最初に実用化されたのは、香港の交通機関でした。このシステムへの受注活動を開始する中で、1994年に「フェリカ」という名前が付きました。開発チームの企画担当の木村美和子氏が、ソニー保有商標のストックから見つけてきたものだそうです。
香港プロジェクトでは、強力なライバルとしてオーストリアのミクロン社による「マイフェア」という製品がありました。マイフェアは、電池を内蔵しない、無線に短波を使用しているということで、当時のフェリカ(電池内蔵、無線にマイクロ波使用)よりもユーザーニーズに叶っていました。そこで伊賀章氏は、フェリカについても電池なし、短波使用への切り替えを決意します。しかし開発担当の日下部氏は驚きませんでした。実は開発チームは、すでに電池なしも開発していたのです。95年にフェリカ採用が決まりました。

実はフェリカは、ISOのICカード国際規格になっていません。マイフェアが普及している欧州勢からの反対にあったのです。ソニーがもっと技術を開示する姿勢を示したら国際規格が認められたのではないか、ともいわれているようです。しかしかろうじて、ニア・フィールド・コミュニケーション通信規格としての国際規格は取得できたので、JRのスイカのための国際入札には参加でき、フェリカ採用に至りました。


その後、フェリカは私鉄のパスモにも使用され、スイカとパスモは相互乗り入れが可能になっています。またおサイフケータイをはじめとする電子マネーもフェリカを使っています。しかし電子マネーは、チップはフェリカで共通なのにいくつもの規格が乱立し、相互乗り入れができない状況です。そのような乱立を招いた原因について上記書籍は考察しています。良く理解できないところはあるのですが、書籍の著者である立石氏は、ソニーのビジネスがやり方を間違えたのではないか、と推定しています。ソニー自身が「エディ」という電子マネーを経営し、排他的になったことが原因ではなかったかと。
私自身はほとんど電子マネーを使っていないのでその不便さを実感するには至っていませんが。

しかしもし、ソニーの立ち回り方次第では日本の電子マネーが乱立から免れ得たのだとしたら、現在の姿はとても残念ではあります。
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グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた

2011-02-22 22:22:13 | 趣味・読書
日本を代表するベンチャー起業家といえば、戦前であれば現パナソニックの松下幸之助や、シャープの早川徳治、戦後であればソニーの井深大とホンダの本田宗一郎が挙げられるでしょう。

ソニーについては、創業からしばらくは世界に誇りうる元気な会社であったのに対し、最近はすっかりソニーらしさをなくしてしまった、と言われているようです。ここでも、ソニー最後の異端―近藤哲二郎、横田宏信「ソニーをダメにした「普通」という病」()で話題にしてきました。

最近、同じ話題に関するもう1冊の本を読みました。
グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた
辻野晃一郎
新潮社

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著者の辻野晃一郎氏は1957年生まれ。1984年にソニーに入社し、若手エンジニアの頃は厚木の情報処理研究所などに勤務し、「ソニーは遅れているのではないか」と感じつつ仕事をしていました。上司とケンカして本社スタッフ部門に異動したこともあります。
転機になったのは、1997年にVAIOのデスクトップコンピュータの責任者に就いたことです。すでにデスクトップパソコンはコモディティ商品に成り下がっていましたが、外観のデザインにこだわったり、録画機能に特色を持たせたりした上で価格は高価格に設定し、VAIOデスクトップを大ヒットさせたのです。
なおこのとき、マザーボードをASUSに切り換えてVAIOデスクトップの成功に大きく寄与したとあります。私が自作パソコンにASUSのTX-97Xを採用したのが確か1997年です。それ以降、私が購入するショップブランドのパソコンはマザーにASUSを用いていることを条件にしています。“私と辻野氏は同じレベルじゃないか”と嬉しくなりました。

辻野氏が次に配属されたのはテレビ部門でした。新設されたカンパニープレジデントに2001年に任命されたのですが、不採算カテゴリーばかりを集めたようなカンパニーでした。ホームビデオカンパニーも辻野氏のカンパニーに統合され、2003年4月にスタートしました。ここで辻野氏は、年末商戦に間に合わせようとハードディスク録画機初代モデルの開発に着手し、僅かな期間で「スゴ録」を完成させてシェアトップを獲得するに至りました。

しかし辻野氏は、2004年1月でそのカンパニープレジデントを解任されたのです。社内抗争があったようでした。

辻野氏がソニーを辞めたのは2006年3月です。
しばらくはハローワークに通ったりコンサルティング会社を設立したりしていましたが、ヘッドハントされ、2007年4月にグーグルの日本法人に入社しました。

「グーグルが見つけた10の事実」というのがあるそうです。例えばこちらで見ることができます。
辻野氏は、井深大氏がしたためたソニーの設立趣意書と対比します。
「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」
辻野氏によると、今のソニーはそこに書かれた創業の理念や原点から外れることが増えているように見え、その結果、昔のソニーらしさを失っていったように感じています。
それに対して、創業時のソニーは現在のグーグルとよく似ていたということになるでしょう。

辻野氏は、辻野氏が見たグーグルの特徴点をいくつか語り、ついでクラウドコンピューティング(*1)がこれからのIT世界を変えていくだろうことを語り、そして辻野氏の“グーグルでの日々”を語ります。辻野氏は2009年1月にグーグル日本法人社長に就任し、そしてグーグルの組織改正で日本法人社長職が廃止された2010年4月にグーグルを退社しました。

本の題名「グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた」には若干の違和感があります。辻野氏にとって巨大企業ソニーはすでに昔のソニーではなかったのですから。この本の全編を貫いているのは、辻野氏がソニーとグーグルで何をやったか、という行動録です。そのような意味ではもちろんとても興味深い本になっています。

*1「クラウドコンピューティングとは何か」で書いたように、グーグルはクラウド・コンピューティングを牽引した主要企業の一つです。
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バターン半島の記憶

2011-02-20 15:26:49 | 趣味・読書
本間雅晴中将とバターン半島において、角田房子著「いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝 (中公文庫 M 14)」から、太平洋戦争比島作戦におけるバターン半島でのいきさつについて記述しました。

バターン半島というと、バターン半島に立て籠もった米軍が降伏した後の捕虜移送時に発生したといわれる「バターン死の行進」が有名です。
一方、私にとってバターン半島というと、最初に知ったのは別の情報でした。

私がまだ小学生だった頃、母がたの祖父から古い切手をもらったことがありました。小学生の頃にはクラスで切手集めが流行ることがあります。私のクラスでも流行りまして、私も流行に乗って切手集めをしたのですが、そのときに祖父が譲ってくれたものです。
その中に、第二次大戦中に日本で発行された「バターン半島」の切手があったのです。
下の写真です。

「大東亜戦争第一周年記念」とあり、平原を小型の戦車が走っている図柄です。切手には「バターン半島」とは書いてありませんが、どこかでこの切手はバターン半島での戦闘を描いたものだと聞かされた記憶があります。
戦争中に日本では、「バターン半島」というと日本がアメリカと闘った陸戦での勝利の記録としてあることがわかります。特に、開戦1周年の時期には、「苦戦の末に勝利を収めた」代表的な戦場だったのでしょう。“シンガポール陥落”を抑えて切手の図柄に選ばれているわけですから。

もう一つ、少年時代における「バターン半島」についての記憶は、「独立機関銃隊 未だ射撃中(1963年)」という映画のなかでです。この映画は、太平洋戦争末期におけるソ満国境での日本軍の重機関銃守備隊を描いた映画です。カメラはほとんど、重機関銃が1台備えられた狭いトーチカの中の映像のみで終始します。そのトーチカに立て籠もる日本軍守備隊から見た、侵攻するソ連軍との戦闘と、守備隊全員が戦死するまでの様子を描いたものです。
「マルキの三」と呼ばれるそのトーチカに立て籠もるのは、三橋達也扮する隊長(軍曹)、佐藤允扮する無口な射手(上等兵)を含め5名のみです。
その軍曹だったか上等兵だったかが、「ここへ来る前にバターン半島で闘った」と喋ったのを覚えています。

戦後にその責任者として死刑に処せられる本間中将ですら、戦争が終わるまで「バターン死の行進」と言われる事件について全く知らずにいたのですから、戦時中に日本人がその事件を知らないことに何ら不思議はありません。


私が祖父からもらった切手の話をもう2つ。

上のバターン半島と同じ「大東亜戦争第一周年記念」のもう1枚として、下の「真珠湾攻撃」を図柄とした切手を所有しています。

私は、この切手を所有していることを今回見るまで忘れていました。一方で、真珠湾攻撃のこの写真については見た記憶が残っていて、おそらくこの切手に基づく記憶に相違ありません。アメリカ映画「ファイナルカウントダウン」で(たしか)この写真と同じ写真が出てきて、「この写真は以前見たことがある」とそのとき思ったのですが、多分切手から来る記憶だったのでしょう。
今回写真の出所を見つけることができませんでしたが、東白川村・平和祈念館 写真を見ることはできます。雷撃隊長の村田重治機が撮影した写真と伝えられているようです。背後の陸地で上がる白煙は、攻撃され燃えているヒッカム飛行場です。

3枚目の切手が以下の切手です。「航研機」ですね。機体上部に操縦席が出っ張っておらず、めくら操縦を強いられる外観であることからすぐにわかります。

航研機については、つい最近国立科学博物館「空と宇宙展」で記事にしたばかりだったのでタイムリーでした。航研機は長距離世界記録樹立を目的として東大航空研究所で制作された飛行機で、1938年5月、関東地方上空の周回コースを周り、周回飛行コースを飛び続けて、周回航続距離10,651.011kmと1万kmコース平均速度186.192km/時の2つの世界記録を樹立しました。この切手はその世界記録を記念して発行されたのでしょうね。

以上、「バターン半島」からの連想で、戦前・戦中の切手3枚にまつわる話でした。
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本間雅晴中将とバターン半島

2011-02-17 21:05:12 | 知的財産権
前回の日中戦争に引き続き、角田房子著「いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝 (中公文庫 M 14)」から今回はフィリピンのバターン半島でのいきさつについて書きます。

本間雅晴中将率いる日本の第14軍は、太平洋戦争劈頭の比島攻略作戦を担いました。1941年12月22日にルソン島のリンガエン湾上陸すると、翌1942年1月3日には米軍が退去して無防備都市宣言を行ったマニラを占領します。在比米軍はというと、マニラの西、南シナ海に面したバターン半島に移動してそこに立て籠もったのです。日本軍はバターン半島に1月10日前後から残敵掃討のつもりで攻め入るのですが、米軍は密林の中に強固な防衛陣地を築いていたのでした。日本軍は大きな損害を出した上で2月10日には攻撃を中断し、第1次バターン攻撃作戦は頓挫しました。

その後、援軍の到着を待って、4月3日に第2次攻撃が開始されました。24サンチ榴弾砲9門、15榴(15サンチ榴弾砲)25門、15加農(15サンチカノン砲)8門などの重砲を含め、300門に近い75mm以上の砲が一斉に火を吹いたのです。
日本軍の進撃は予想外に速く進み、9日にはバターン半島防衛米軍のキング少将が降伏し、バターン攻撃戦は1週間で幕を閉じました。
『この時を境にして、バタアン半島一帯の敵陣地から、ジャングルから、山陰から、谷間から--ありとあらゆる所から、地の底から湧き出るように投降者が現れた。』
『道という道を埋め、あふれ、なお刻々に数を増す投降者の群を、日本軍の将兵はただ唖然と眺めていた。14軍幹部は敵兵力の見積もりを4万か4万5千と語っていたが、それはせいぜい用心して最大限に算出した数字であり、本当はそんなにいないだろう--というのが実感であった。あとでわかったことだが、この時、実際には7万5千の米比軍が投降し、それに約2万の難民が加わっていた。』
『前線のここでは、日本兵の食料さえやっと間に合わせている実情である。それに、バタアンは陥落したが、まだコレヒドール島が残っている。この島の攻略を目前に控えた軍としては、攻略準備や防諜のためにも投稿者を移動させなければならない。』

投降した米兵はすでに栄養失調かつマラリヤに犯されており、米軍側の食糧の備蓄も底をついていました。後に「バターン死の行進」と言われた移動は、おそらく他に選択肢のないものだったでしょう。

当時のバターン半島地図          “死の行進”の行程図

作者 U.S. Department of the Army     作者 Howard the Duck

さらに、大本営参謀であった辻政信がここで悪魔的な所行を行いました。
このとき、辻政信がルソン島に前線視察に来ていたのです。
当時の参謀長・和知鷹二は、「辻は第16師団長の森本さんに会い、俘虜の一人を手招きして近づいた米兵にいきなりピストルを向けて射殺し、『この調子でやるんだ』と、いったそうだ」と語りました。

バターン攻略時に65旅団の歩兵第141連隊長であった今井武夫(少将)の体験では、4月10日以来、ジャングルから続々と投降者が現れ、たちまち千人を超しました。兵団司令部からの直通電話に呼び出された今井は、高級参謀松永中佐から「各部隊は手許にいる米比軍投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する」と命令されました。
今井はとうてい従うことのできないこの命令に対し、「改めて正規の筆記命令で伝達せられたい」と答えるや、全捕虜を釈放し、自由にマニラへ行けと指示しました。
これについて今井は、「松永参謀の談によれば、たまたま大本営から戦闘指導に派遣された、辻政信参謀が口頭で伝達して歩いたものらしく、某部隊では・・米比軍将校多数を殺戮した者がおり・・」と書いています。
第10独立守備隊も同じ「捕虜殺戮命令」を電話で伝達されました。このとき高級副官が軍司令部へ行き、この命令が本間軍司令官の関知しないものであることを偵知し、1万人の捕虜は殺戮を免れたといいます。

このような事実があった以上、最高責任者である本間軍司令官はとうてい戦犯裁判で死刑判決から免れることはできなかったのです。

マニラで開かれている戦犯裁判においては、本間富士子夫人も証言台にたちました。弁護人から「本間氏の人となりについて説明してくれ」と質問を受け、本間氏が戦争回避と和平実現に向けてどのような努力をしてきたか、夫人自身が夫から聞かされてきたことがらを証言しました。証言台での凛とした姿は、傍聴人に深い感動を与えたと言います。

ところで、日本軍の上陸を受けた在比米軍は、なぜバターン半島とコレヒドール島に立て籠もる作戦を採用したのでしょうか。あんなところに立て籠もっても何も積極的な行動をとることができません。
中途半端に立て籠もって、食糧が欠乏し兵士が栄養失調かつマラリアに罹患した後に、日本軍全部に匹敵するような人数で投降したら、無事に済むわけがありません。バターン死の行進の責任の一部はマッカーサーにもあるというべきでしょう。
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本間雅晴少将と日中戦争

2011-02-15 23:15:56 | 歴史・社会
前回に引き続き、角田房子著「いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝 (中公文庫 M 14)」について書きます。

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件に端を発した日華事変が、その後日中の全面対決から泥沼の日中戦争に拡大し、さらに太平洋戦争勃発に至った経緯について、私は以下の記事でたどってきました。
服部龍二著「広田弘毅」加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2)深堀道義「中国の対日政戦略」深堀道義「中国の対日政戦略」(2)石射猪太郎日記(2)石射猪太郎日記(3)

単なる発砲事件である盧溝橋事件が、なぜ全面的な日中戦争まで拡大してしまったのか。私は加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2)において、日本と中国が、双方の思惑を読み間違い、双方の軍事力を読み間違えたことが、悲劇を生んだのではないか、と推定しました。日本側で言えば、中国の軍事力を過小評価しすぎていました。ところが上海と長江流域には、蒋介石がドイツ人顧問団とともに育成した精鋭部隊8万を含む30万の中央軍が配備されていたのです。36年の統計では、ドイツは武器輸出総量の57%を中国に集中させ、国民政府軍はドイツ製の武器を用い、ダイムラー・ベンツのトラックで輸送し、ドイツ人顧問団に軍事指導を支援される状態にありました。対する日本軍は、陸軍の到着までは海軍特別陸戦隊の約5000名にしか過ぎませんでした。
蒋介石は、本気で日本軍を上海で壊滅するつもりだったのでしょう。

それでは、日華事変勃発直後から参謀本部第二部長(情報担当)だった本間雅晴には、日中戦争がどのように見えていたのでしょうか。

1937年10月頃、「多田・本間秘密工作」と呼ぶべき和平工作があったと言われていました。多田とは参謀本部次長だった多田駿です。この秘密工作の実態を解明しようと、著者の角田氏は、元中華公使の清水董三氏、本間第二部長の部下だった馬奈木敬信にインタビューして真相に迫りました。
馬奈木は、10月初め頃、多田次長、本間部長の二人から上海へ行けと命令され、駐支ドイツ大使トラウトマンに会い、ひそかに日本の和平条約案を示して日中講和の可能性を打診しようとしました。多田は上層部まで話を通さずに自分を派遣するらしいと、馬奈木は察しをつけました。そして上海でトラウトマンと会い、密書を手渡しました。馬奈木は、多田・本間の計画についても、託された密書の内容についても、一切聞かされておらず、トラウトマンに手渡した文書がその後どのような波紋を描いたかなどは一切知らないとしました。
こうして、「多田・本間秘密工作」が実在した証言は得られましたが、その後どうなったかは不明のままです。
その後、10月11日に広田外相が駐日ドイツ大使ディクルセンに和平斡旋を依頼し、それが契機で“トラウトマン和平工作”となりました。“トラウトマン和平工作”とその直前の「多田・本間秘密工作」との間に関連があったのかなかったのか、一切不明ですが、清水董三氏は、広田外相の工作にとって“瀬踏み”的な役割を果たしたのではないか、と述べています。
陸軍部内では対支強硬派が勢いを得ており、講和を推進する穏健派である本間雅晴はこのころ、毎日身を清め、下着を替えて出勤したと言われています。

トラウトマン和平工作において、日本側の条件は、南京陥落後にさらに吊り上げられました。中国に突きつけた回答期限までに中国の回答が得られなかったため、近衛首相は1月16日に「蒋介石を対手とせず」という声明を発し、支那事変を泥沼に引きずり込んでいきました。このとき、政府では多田参謀次長ただ一人がこの方針に反対を唱えたのですが、本間第二部長は最後の段階で沈黙しました。このときの本間雅晴をどう評価するか、角田氏の著書をご覧ください。

1938年(昭和13年)、本間は陸軍中将に昇進し、第27師団長に親補されました。第二軍司令官として武漢攻略戦の指揮をとるのは東久邇宮です。1971年当時、東久邇は当時を回想して「私は漢口攻略の今こそ、蒋介石と和平を講ずべき時だと考えていました。中支派遣軍司令官はじめ誰もが大反対を唱える中で、たった一人、本間中将だけが私の案を支持してくれました」と語りました。

以上が、角田著書からピックアップした、日中戦争勃発当初の本間雅晴像でした。
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角田房子著「本間雅晴中将伝」

2011-02-13 14:37:22 | 歴史・社会
第二次大戦時の日本陸軍の軍人であった本間雅晴中将については、以前本間雅晴中将としてここで記事にしました。そのときは、澄田智氏の思い出話を紐解くことによって本間中将に触れたのですが、今回は以下の本を読んでみました。
いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝 (中公文庫 M 14)
角田 房子
中央公論新社

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本間中将は、一度離婚し、再婚しているのですが、この本のはじめの方では、最初の奥さんとの結婚と破局について克明に記述しています。こりゃえらく情緒的な話が主体になっているな、とその後の展開が気になったのですが、幸いなことに情緒的な話はそこで終了し、日中戦争勃発前後からは軍人としての本間雅晴氏の足跡を追うことができました。

この本のすごいところは、著者の角田さんが可能な限り生存する当事者を探しだし、実際に話を聞いていることです。最初は昭和46~47年に出版されていますが、執筆した当時はまだ生存者が多くおられたようです。そのためこの本は、1級史料としても意味を持つだろうと思われます。

1937年(昭和12年)7月7日に日華事変が勃発した直後、7月22日に本間氏(当時少将)は参謀本部第二部長に就任しています。第一部長(石原完爾)が作戦担当、第二部長は情報担当です。このとき、事変不拡大をめざして本間少将が努力した足跡がこの本でたどられています。私にとっては、盧溝橋事件から第二次上海事変に拡大し、さらに南京攻略に至る日中戦争初期の状況を知る上で有益でした。この部分については別の記事で詳しくたどりたいと思います。

日華事変勃発直後の参謀本部第二部長就任に至るまで、本間氏は実戦部隊を指揮した経験が全くありません。それが日中戦争中の1938年(昭和13年)に陸軍中将に昇進するとともに第27師団長に就任し、武漢攻略戦を実戦指揮しました。軟弱な軍人といわれ、対英米協調派であり、さらに海外駐在や秩父宮御附武官などを歴任して実戦指揮経験がないのですから、その指揮能力が危惧されましたが、本間師団長は困難な状況を乗り越えて戦いを勝利に導きました。このときの功績が、その後の太平洋戦争当初に本間氏を比島攻略戦の司令官に抜擢する下地となったのであり、戦後に戦犯として処刑される契機ともなりました。武漢攻略戦が終結した後、本間中将は天津防衛司令官に就任しました。

そして太平洋戦争に突入し、本間中将は第14軍を率いてフィリピンで米軍と戦うことになります。
日本軍がルソン島に上陸した後のマッカーサー率いる在比米軍の作戦は、首都マニラの防衛を放棄して非武装都市宣言をし、マニラの西にあるバターン半島に立て籠もって日本軍に対峙するというものでした。そのため太平洋戦争開始前からバターン半島に防衛陣地を構築しており、バターン半島先端の先に位置するコレヒドール島要塞を司令部としていました。しかし、マッカーサーによるバターン防衛方針発令は遅れ、日本軍上陸後にあたふたとバターン半島への移動を開始しました。
それに対して日本軍は、マニラ占領を第一目的とし、米軍が続々とバターン半島に撤退するのに対しては攻撃を加えませんでした。「バターンの残敵掃討は簡単」とたかをくくっていたのです。米軍人数も数万人程度と予測していました。
しかし米軍は、バターン半島の密林の中に重火器で武装した本格的防衛陣地を構築しており、人数も10万人を数えていたのです。
第14軍による比島攻略における第1の論点は、「なぜ米軍がバターン半島に立て籠もる前の段階で移動中の米軍を叩く作戦を採用しなかったのか。」という点です。

安易にバターン半島に攻め入った日本軍は、密林で道に迷いつつ米軍の強力な火力に圧倒され、2つの大隊が全滅しました。攻めあぐねた末に攻撃を一時中断せざるを得ませんでした。山下奉文に率いられたシンガポール攻略、今村均に率いられたジャワ攻略が成功する中、本間率いる比島攻略のみが頓挫しました。比島攻略戦終了直後に本間中将が罷免される原因となりました。

増援を得て特に重火器で武装した日本軍が第二次攻撃を開始すると、バターン半島の米軍は1週間で降伏してしまいました。さらにコレヒドール島もあっという間に陥落です。そして密林から湧き出てきた降伏米軍の数は10万人のオーダーとなり、日本軍の捕虜取り扱い計画をはるかにオーバーしていました。
ここで歴史に名の知れた「バターン死の行進」事件が発生することになりました。
詳しくは別の記事で。

角田さんの著書では、比島攻略戦後に罷免されて予備役となった本間雅晴について、終戦に至るまでの活動を淡々と描きます。「バターン死の行進」の話は一切登場しません。それは、本間本人が、戦犯に値するような事実があったことをまったく自覚していなかったためです。終戦間際、本間雅晴は早期和平をめざして種々の活動を行っていたのでした。

そして終戦後、本間雅晴は突然に戦犯として拘束され、フィリピンに移送されます。角田氏の著書では、本間氏、本間氏の弁護団、本間富士子氏(本間氏夫人)の目に見えた光景に沿って記述されてます。それらの人びとがそもそも「死の行進」をまったく認識していないのですから、「死の行進」で何が起きていたのかという点についてはあいまいなままの記述となっています。結局、南京大虐殺と同様、バターン半島で本当は何が起きていたのか、具体的には良くわかっていないのかも知れません。

ウィキの記述も借りて略歴を書くと以下の通りです。

1887年(明治20年)11月27日 - 佐渡島に生まれる。
1907年(明治40年) - 陸軍士官学校卒業(19期)。新発田連隊配属。
1913年(大正2年) - 最初の結婚(智子)。
1915年(大正4年) - 陸軍大学校卒業(27期)。
1916年(大正5年) - 参謀本部附勤務。
1918年(大正7年) - イギリス駐在(今村均と一緒)。日本の留守宅で智子が家出。1921年離婚。
1922年(大正11年) - インド駐剳武官(3年間)(少佐)。
1926年(大正15年) - 2度目の結婚(富士子)(中佐)
1927年(昭和2年) - 秩父宮御附武官。
1930年(昭和5年) - イギリス大使館附武官(大佐)。
1933年(昭和8年) - 歩兵第1連隊長。
1935年(昭和10年) - 陸軍少将に昇進。歩兵第32旅団長(和歌山)。このとき2・26事件
1936年(昭和11年) - ヨーロッパ出張(英国ジョージ6世戴冠式列席秩父宮随員)。
1937年(昭和12年) - 参謀本部第二部長(日華事変勃発直後に就任)。
1938年(昭和13年) - 陸軍中将に昇進。第27師団長。武漢攻略戦を実戦指揮し勝利。天津防衛司令官。
1940年(昭和15年) - 台湾軍司令官。
1941年(昭和16年) - 第14軍司令官。比島攻略戦司令官。
 41年12月22日リンガエン湾上陸。
 42年1月3日 マニラ占領
   2月10日 第一次バターン半島攻撃失敗。
   4月9日 第二次バターン半島攻撃でバターン制圧。
   5月7日 コレヒドール島制圧。
1942年(昭和17年)8月31日 - 予備役編入、予備陸軍中将。
1946年(昭和21年)4月3日 - 未明、マニラ軍事裁判において刑死。
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「勝間和代ブーム」その後

2011-02-10 20:47:46 | 趣味・読書
一時期、書店の一番人目につく場所に、勝間和代さんの著書が何種類も、平積みにされていた時期がありました。世の中にカツマーと呼ばれる女性たちが出現しているといわれた時期でもあります。
最近は一時ほどの露出が見られませんが、あの「勝間和代ブーム」は現在どんな状況なのでしょうか。

私が勝間さんに注目したのは、パソコンのキーボードとして、彼女が私と同じ親指シフトキーボードを愛用していると知ったことからです。その点について記述されている勝間さんの「無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法」を読み、2007年8月に「年収10倍アップ勉強法」として記事にしました。
この本の影響で、わが家ではiPod nanoが2台とクリエイティブのMP3プレイヤーを導入し、それぞれにノイズキャンセリングイヤホンを装着して3人の家族で使うようになりました。また、ノートパソコンを購入するに際してはパナソニックのレッツノートを購入しました。親指シフトは前から使っています。

次に読んだのが「お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践 (光文社新書)」で、2008年4月に勝間和代「お金は銀行に預けるな」として記事にしました。
現在までに読んだ勝間本はこの2冊です。

その1年半後、2009年10月に私の事務所をコーチ21の五十嵐朝青さんが訪ねてくれました(コーチ21・五十嵐朝青さん)。雑談の中で私から「このコーチングという話は、勝間和代さんの活動と通じますね」とお話ししたところ、勝間和代さんをそもそも発掘したのがコーチ21の関連会社だったと五十嵐さんから伺いました。
後から調べてみたら、私が読んだ「無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法」、出版社はディスカヴァー・トゥエンティワンでコーチ21の関連会社でした。
勝間和代さんはこの当時、ものすごい勢いで本を執筆・出版していました。この点について五十嵐さんは「本人は“今が自分の旬”と心得ており、旬の間にできるかぎりの活動をしてしまおう、と頑張っているのでは」と言われていました。

さらに同じ2009年11月には、勝間さんがデフレ対策について論陣を張り、当時の菅大臣の「デフレ宣言」の動機になったのではないか、と想像したものです。それらの点については、「デフレ克服のためにどうすべきか」2009年11月、「日銀が新方針発表」2009年12月で記事にしました。

以上が、私が見てきた「勝間和代ブーム」です。

つい最近、勝間さんご自身のブログである「日々の生活から起きていることを観察しよう!!」を覗いたら、2010年12月12日の記事で「「ヒット商品」から「定番商品」を目指して~当事者の立場から「勝間和代ブーム」を振り返って」を書かれていました。

勝間さんご本人が『いわゆる「勝間和代ブーム」の嵐が過ぎ去ったあとに』とおっしゃっており、あの嵐はどうも過ぎ去ったようです。そして、2007年から2010年までを年を追って振り返っておられます。

2007年にサラリーマンを辞めて投資顧問会社を設立して独立し、たまたま春に出版した「無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法」がヒットし、さらに驚くほど売れたのが「お金は銀行に預けるな」だったということで、勝間ブームの先駆けとなった本を私が読んでいたのでした。
そして「勝間ブーム」は2008年にわき起こり、2009年が最高潮でした。

『私はブームのさなかにあって決意をしたことは、「どこまでできるかわからないけれども、最大限、自分の可能性を試してみよう」ということだったのです。すなわち、冠番組や、自分の名前を冠した雑誌コーナーは、今のタイミングを逃したら、もう一度持てる機会はないでしょう。
また、いわゆる「ビジネス誌」以外のところに露出が出来るのも、この時を逃したらなかなかないと考え、いろいろな角度のいろいろな記事や取材を試させていただきました。』
2009年に五十嵐朝青さんが私に教えてくださったとおりのことを、勝間さんが考えておられたのですね。

『そして、そのチャレンジの終止符が、ひとつが「勝間ショック」と言われた、現総理である菅さんへの2009年11月のデフレ対策の提言であり、もうひとつが「紅白審査員」だったのです。』
やはり菅大臣のデフレ宣言は、勝間さんの提言がきっかけだったのですね。

2010年になりました。
『2010年を迎え、とにかく行ったことは、2009年の清算をすることです。』
『2009年はギリギリにスケジュールを組んでいたため、乗ることがとても少なくなっていた自転車も、やっと仕事の整理がついた2010年夏くらいからは、ほぼ毎日乗ることができるようになりました。運動不足で戻ってきた体重も、再び減ってきています。
2009年は「仕事の宣伝ばかり」と評判が悪かったこのブログたちも、しっかりと書く時間を確保できるようになりました。』

ブームが去ることにより、勝間さんは自分を取り戻したのですね。
『2010年の今、私は自分のホームポジションに帰ってきた気分ですが、それはやはり、2008年後半~2009年にかけて、がむしゃらに新しいことをしてみたからこそ、やはりここが自分の居場所なのだ、ということがわかったのではないかと思います。』

勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!を覗いてみると、毎日のように更新されており、発言は元気いっぱいです。電子ブックのための書籍の自炊にチャレンジしたり、電動バイクに乗り始めたことから自動二輪免許取得に動き出したり、といった具合です。
これからの方がむしろ楽しみになってきました。
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Number 771

2011-02-08 19:12:40 | サッカー
Number 771(1月27日発売)を買ってみました。といっても、明日(2月9日)には次の772号が発売されるようですが・・・。
Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2011年 2/10号 [雑誌]

文藝春秋

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まずびっくりするのは、サッカーアジア杯の話題が皆無であることです。

発売日の1月27日といえば、準決勝も終わって決勝を待つばかりの時期ではないですか。せめて、アジア杯に向けての日本代表の準備状況、見通しぐらいは記事になっていてもいいはずです。
くまなく探しましたが、次号(2月10日発売)の予告が「アジアカップ総力特集 ザック・ジャパンの論点」として紹介されているのみです。

開催前の段階ではよほど日本サッカーファンの間でアジア杯の注目度が低かったことの表れでしょうか。
それが始まってみたら、各試合ドラマの連続で、さらに優勝までしてしまうのですから、ナンバー誌が予想もしなかった展開で盛り上がったということになりますか。

今回のナンバー誌特集は「天才プレーヤーの創り方。」で、バルサのイエニスタ、レアルのエジルに加え、日本人選手として香川真司が取り上げられています。
神戸市で生まれた香川は、小学校5年から神戸NKサッカークラブに所属し、中学からはJクラブの下部組織ではなく、遠く離れた宮城県にある街クラブ「FCみやぎバルセロナ」に入りました。
仙台にあるこのクラブの当時の指導方針は「徹底したドリブル教育」でした。日本で多数派であるパスサッカーに対するアンチテーゼであるかのように、異質な哲学を掲げていました。
「真司はファーストタッチが他と全然違った。ドリブルで運ぶというより、常に一番良い場所にボールを置いていくという感じでした。」当時の香川は、すでに現在の香川の特徴をしっかりと具備していたのですね。
寮生活だった香川は、寮の廊下でもはだしでペタペタと音を立てながらドリブル練習をしていました。

高校生になった香川選手。
05年9月に開催された仙台カップは、U-18の日本代表、ブラジル代表、クロアチア代表に加えて、東北代表が加わりました。その東北代表に香川が入っていたのです。日本代表対東北代表戦では、東北代表ボランチの香川が日本代表を90分間翻弄し続け、3得点にからみ、5-2で東北代表が大勝したといいます。
この活躍で注目され、高3でセレッソ大阪に入団しました。クラブ下部組織以外から高校卒業前にトップチームとプロ契約を結んだのは香川が史上初であったそうです。
当時、同い年で森本貴幸が注目を集めており、香川は「本当に悔しかった」と当時を振り返っています。

セレッソに入団した当時の香川はプレーが遠慮がちだったようで、目立ちたくなかったそうです。今の香川にもそういうところがありますね。アジア杯グループリーグ第1戦の対ヨルダン戦でも本田圭佑に遠慮している気配がありました。
07年、J2に落ちたセレッソ大阪にブラジル人のクルピ監督が就任します。クルピ監督はすぐに香川に注目し、トップ下にコンバートしてレギュラーに抜擢しました。
「高い技術はあるが、簡単にボールを奪われる場面がある。試合に出ないと経験を積めないから、ミスをしながら成長していってほしい。でも彼は正しい道を歩んでいるよ」よい指揮官に恵まれたものです。
さらに、08年に引退を発表した“ミスター・セレッソ”森島寛晃が直々に香川を後継者に指名しました。これによって香川は「自分がやらないといけない」と責任感が湧き、積極果敢にシュートを打ち、13試合で12得点という成果をあげたのです。
09年には27得点でJ2の得点王に輝きました。

しかし、U-20W杯では控え、北京五輪でも思うようなプレーができませんでした。香川はそこで世界に出ることを目標にすえ、W杯前にボルシア・ドルトムントへの移籍を果たしたのです。
W杯では23人の中に選ばれなかったにもかかわらず、ドルトムントでのあの活躍は何ということでしょう。この移籍は見事に香川を飛躍させました。
今回は出鼻をくじく骨折に見舞われましたが、何とか元のパフォーマンスを復活させてさらに飛躍してほしいものです。

ナンバー誌の別の記事(カズへの手紙)で、香川真司からの手紙にカズが答える企画がありました。この中で三浦知良選手は、日本代表とドルトムントの試合の両方に出続けることから、くれぐれも健康と怪我には気をつけて、休めるときには思い切って休むことを勧めています。今回はカズの心配が的中してしまいました。

ナンバー誌では、香川選手の他に、細貝萌選手の記事があるのですが、長くなったのでこの辺で。
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ザッケローニ監督

2011-02-06 19:02:48 | サッカー
アジアカップの余韻は醒めつつあります。
今大会で、ザッケローニ監督が注目されました。私も、便乗するわけではありませんが、今大会でのザッケローニ監督の印象を一言語りたい気持ちです。

今までの代表監督の発言からの知識では、監督というのは、選手と若干の距離を置くことが必要なのだと感じていました。コーチは選手の兄貴分でいいが、監督となると一段上に立って采配しなければならないのだと。
ところがテレビ映像でザッケローニ監督を見ていると、選手にとって父親、それも厳父ではなく慈父のようです。監督の風采が“気の良いおじさん”に見えるせいもありますが。
試合後、決勝点を挙げた伊野波がテレビインタビューを終えたすぐ後、すれ違ったザッケローニ監督が伊野波選手の頭をぽんぽんと叩いてにっこり笑った姿が印象的でした。

選手一人一人とのコミュニケーションも飛び抜けています。特に控え選手に対するケアが秀逸でした。李忠成選手には大会期間中ずっと声をかけていたといいます。それがあの歴史に残る決勝弾につながったことは間違いないでしょう。李選手に限らず、今大会で先発組と控え組とが気持ちの上で一体になれたのは、半分は監督のお陰と思います。
先発組に対しても、例えば本田圭佑選手がインタビューで「監督から自信を与えられた」と語っているように、ずいぶんと力を与えていたようです。
ザッケローニ監督は就任してからJリーグの試合を見て回り、今回招集した選手たちのプレーをそこで確認しています。監督は選手たちに「Jリーグでのプレイを見てお前を信頼している」と信頼を伝えていたようで、選手には励みになったことでしょう。

ザッケローニ監督がインタビューで選手批判を行ったのは唯一、カタール戦でのゴールキーパー川島選手についてでした。次の韓国戦で誰がキーパーに起用されるか注目していましたが、結局川島選手でした。そのとき監督は、「川島選手を信頼していると(本人に)伝えてある」と話しており、川島が自信喪失しないようにケアしていたのでしょう。

カタール戦後の監督インタビューでは、韓国人記者から「次の試合は韓国とイランのどちらがやりやすいか」と聞かれ、「まず、この場を借りて岡崎選手の2人目のお子さんが生まれたことについて、おめでとうと言いたい。」と答えて質問をはぐらかせたのはザックさんらしいですね。

帰国後の記者会見で「一番嬉しかったことは」と聞かれ「期間中に3人の選手が誕生日を迎えて、それをお祝いしたのが楽しかった。岡崎、永田に子供が生まれて、期間中に祝ったこともうれしかった。」と答えたのもザックさんらしいです。

決勝のオーストラリア戦での最初の選手交代については、その後いろいろな情報が伝えられています。
試合のライブにおいてはアナウンサーが
「交代で岩政が入るようです」
「今野が今『バツ』を出しました」
「監督は岩政の交代を取りやめたようです」
と次々コメントし、一体何が起こっていたのかわけが分かりませんでした。
その後の情報によると、まず監督は今野を中盤の底にアンカーとして入れることを考え、岩政交代前にその戦術を周知させようとしました。ところが今野が(怪我をしているし中盤は不安があるということで)『バツ』をベンチに送りました。そこで監督は考えを変え、岡崎を左から右へ、長友を左サイドバックから左サイドハーフへ、今野をセンターバックから左サイドバックへ、という布陣に変更したというのです。報道によると、この布陣変更については、ピッチ内で選手たちが相談した上で監督に意見具申した、ともいわれています。
試合中にピッチ上の選手とベンチの間でこのような濃密なコミュニケーションが可能だなどと、私は想像したこともありません。イタリア語と日本語の壁もあったはずです。監督と選手のコミュニケーション、ピッチとベンチのコミュニケーションという意味で、今回は本当に驚かされました。


ついでにアジアカップの試合で印象に残った場面について。
最初のヨルダン戦でかろうじて引き分けた後、松井の呼びかけで長谷部キャプテンが話し合いを招集したことが大きな転機になっているようです。普段温厚なザッケローニ監督がこのときは初めて言葉を荒げたといいます。それまで「お客さん感覚」だった若手選手も、ようやく自分たちのやるべきことに気づいたといいます。
監督は、そこでベテランと若手の融合を効果的に図った長谷部のリーダーシップを大いに褒めていました。

カタール戦での伊野波決勝ゴールに至るパスワーク
中盤の長谷部からシュートのように速いパスが香川に渡り、香川が密集するディフェンスを振り切ってペナルティエリアに侵入し、敵のファウル性アタックで倒されたところを伊野波がゴールしました。
まずは、長谷部の弾丸パスの精度が高く、香川の足元に通ったのが1点目のポイントです。その弾丸のようなパスを一発のトラップで自分の制御下に置いた香川のトラップが2点目、そこから瞬発力で香川が抜け出しました。そして“なぜか”あそこに伊野波が詰めていたのが3点目です。1点目、2点目いずれも、優れた個人技でした。

オーストラリア戦での李忠成の決勝ゴール
長友からのセンタリングを受けるときの李忠成はフリーでした。「何であんなフリーになれたのか」とびっくりしたものです。
その後のリプレーで解説を聞いて納得できました。センタリングの直前、李をマークするディフェンスがちらっと李を見た瞬間、李はニアに行くそぶりで足を踏み出しました。それを見たディフェンスがニアへ進み出すとともにボールウォッチャーになったのを見届け、李はすっとファー側に身をかわし、まさにその場所に長友のセンタリングが供給されたということでした。そしてこのような戦術についても、試合前から選手間で打ち合わせされていたようです。

湯浅健二氏によると、今大会の試合をビデオでリプレーすると多くの発見があるようです。残念ながら私は試合のビデオを収録していないのでそれができません。

カタール戦後監督会見
韓国戦後監督会見
決勝前日の監督コメント
オーストラリア戦後監督会見
ザッケローニ監督帰国会見
ザックジャパンの成長と課題
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