弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

本間雅晴中将

2006-12-31 08:52:16 | 歴史・社会
本間正明氏が政府税制調査会会長を辞任しました。本間正明氏と本間雅晴中将とは縁戚関係にあるのかな、と漠然と考えていましたが、よく見ると「まさ」の字が違いますね。

本間雅晴中将は、太平洋戦争開戦時、ルソン島攻略の司令官であり、バターン半島のコレヒドール島攻略戦終了直後に、「バターン死の行進」で米兵捕虜を虐待死させたかどで戦犯として処刑されました。
本間中将指揮下のルソン島攻略については、当初の攻略作戦では成功せず、陣容を増やしての第二次攻略でやっと米軍を降伏に至らしめた経緯があります。中将はその責任を取らされ、攻略戦直後に司令官職を解かれ、予備役に編入されます。バターン死の行進当時にはすでに司令官職を離れていた、という説もあります。
しかし戦犯裁判では、責任を誰にも転嫁せず、ただ法律論で主張を展開し、最後は銃殺刑に処されたようです。
中将の夫人が法廷で証言に立ち、命乞いなどすることなく、本間中将が立派な人物であることを凛として述べたことも有名であるようです。

本間中将については断片的な知識しかありませんが、そのうちの一つは、辻正信に関するものです。太平洋戦争開戦当時、フィリピン人の有力者がおり、本間中将はその人物を占領後の軍政で活用する意図がありました。ところが、大本営の参謀に過ぎない辻正信が、独断でその人物を処刑してしまったというのです。
また、バターン死の行進で捕虜を虐待した件についても、辻正信の関与があったという話しも聞きました。

本間中将の人となりについて最も印象に残っているのは、日経の私の履歴書である人が語った事実です。最近になって、それが澄田智氏の巻であることがわかりました。何とかその内容を読みたいと検索したところ、電子書籍で閲覧できることが分かりました。私の履歴書についてはこちらで探すことができます。澄田智氏の巻はこちらです。

いずれの巻も、安い料金で購読することができます。また、最初の何節かだけですが、立ち読み(無料で)することもできます。
澄田智氏の巻について調べると、私が読みたいと思っていた節は立ち読みが可能な範囲に入っていました。さっそく読んでみました。以下に引用します。

3 恩人
 私は昭和一ケタの時代に中学生だった。三年生のときに満州事変が勃発して、日本は軍国主義への傾向を急速に強めていった。父は陸軍の軍人で参謀本部勤めをしていたが、私は軍人になる気持ちがなく、東京高等師範学校(前東京教育大学、現筑波大学)の附属中学で、ごく普通の中学生活を送っていた。
 ところが父の同僚の軍人の間では「軍人の子供で満足な者は軍人になるもの」と頭から決めているような風潮があり、はなはだ閉口したものである。
 そのころ父の友人である陸軍の軍人たちがよく家にきた。当時はみな貧乏軍人だったから、料亭ではなく、お互いに家庭に呼び合って宴会をしていたのだ。酒が一通り回ったころで家族一同があいさつに出る。
 そこで必ず始まるのが父の同僚からの「君はどこの学校へ行っているんだ」という質問である。「附属中学に行っています」と答えると「なぜ軍人にならないんだ」とくる。揚げ句の果てに、「不肖の息子だ。体も別に悪くなさそうなのに」としつこい。何になろうと勝手ではないか、野蛮な、いやな連中だと悔しくなるが、言い返すわけにもいかず、下を向いていると涙が出そうになる。
 そんなあるとき、一番上席にいた、威厳はあるが温厚そうな人が「いやあ、軍人にならなくてもいいんだ。学者になっても、外交官になっても、良い仕事をすれば立派に日本のためになる」と言ってくれた。その人はさらに「芸術家になって文学でも絵でもやって、それが立派な作品なら、それもお国のためだ」と言う。一番の上席にいる人がそういったので、私をからかった人たちはみな黙ってしまった。
 うれしかった。この世が急に明るくなったような気持ちだった。陸軍の軍人にもこういう人がいたのかと思った。
 席を外して母にそっと「いまの方はどなた」と聞くと、「最近、英国駐在武官から戻ってこられた本間さんよ」と教えてくれた。後に「バターン死の行進」の責任を問われて処刑された、あの本間雅晴中将で、当時は大佐だった。
 本間さんは海外駐在が長かったこともあり、開明的な考え方をもっておられたのだろう。今でもその時の情景は目に浮かび、本間さんの声が耳に残っている気がする。ちょうど進学を前にした中学四年生のときだった。私は本間さんの言葉をかみしめ、将来の志望を第一に外交官、第二に学者、第三に芸術家とひそかに心に決めた。
 結局、私はそのどれにもならず、あるいはなれず、もちろん本職の軍人にもならなかったが、短期現役の海軍士官になった。
 後年、日本輸出入銀行の総裁としてマニラに出張したとき、ロス・パニオスで現地の人に尋ねながら、草深い村を分けて処刑地を訪れた。そこにある本間中将の墓碑は地球の上にハトがとまっているという平和の象徴のような石像で、日本語と英語で本間さんをしのぶ文が書かれていた。
 極東裁判のとき、本間中将の友人の英国人将軍が、中将が親英米的で人道主義的だったことを証言する口述書を提出したという。結果は悲劇的な最期となったが、本間さんが国際的にも信頼される軍人だったことはこの碑を見ればよく分かる。
 その近くには「マレーの虎」といわれた山下奉文大将の碑もあったが、木製で半ば朽ちており、本間さんの碑に比べれば失礼ながら、かなり差があった。戦争中、日本では本間さんより山下さんの方が有名だったにもかかわらずである。人生の有為転変はまことに思いもよらぬ厳しいものだと思いながら、私は本間中将の碑の前にぬかずき、生前に果たせなかったお礼を申し上げた。
---引用以上------

 こうして再度紐解いて読んでも、いい話ですね。本間中将についてはもっとよく調べた方が良さそうです。
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すばる望遠鏡の補償光学

2006-12-28 20:56:44 | サイエンス・パソコン
天体望遠鏡で宇宙を観測するとき、対物レンズの口径が大きいほど、光の回折の影響が少なくなって像の解像度が上がり、細かい構造まで観察することが可能になります。しかし望遠鏡を地上で使う限り、空気のゆらぎの影響を受けるので、いくら口径を大きくしても解像度の向上には限界があります。すばる望遠鏡がハワイのマウナケア山(標 高:4139m)の山頂に設置されたのも、空気のゆらぎの影響を防ぐためです。それでもゆらぎの影響は大きく、対物反射鏡の口径が8mのすばる望遠鏡と、口径2.4mのハッブル宇宙望遠鏡とが互角に戦えるのも、ハッブル宇宙望遠鏡が宇宙空間にあり、空気のゆらぎの影響を受けないからです。

そのすばる望遠鏡に、大気のゆらぎによる光の乱れを測り、その乱れをリアルタイムで補正して本来の空間分解能を達成する「補償光学」技術が取り入れられました。観察方向のすぐそばの明るい星を使って、ゆらぎを評価し、補償するものです。すばる望遠鏡の解像度がこれによって10倍に上がりました。ただし、これまで補償光学系を使った観測ができるのは、すぐそばに明るいガイド星があるごく限られた天域 (全天の約1%) だけでした。

最近、レーザーガイド星を人工的に作り、これによってゆらぎを補償する「レーザーガイド補償光学」に成功したとのことです。すばる望遠鏡のホームページで紹介されています。この装置は、すばる望遠鏡から観測方向の空に向けて高出力レーザーを照射し、高度90kmの上層大気中にあるナトリウム層のナトリウム原子を発光させて、人工的にガイド用の星をつくってしまうという装置です。この 装置を搭載すれば、すばる望遠鏡で観たい方向にいつでも十分な明るさのガイド星をつくることができるので、これまで補償光学系を使った観測ができなかった、遠方宇宙の観測などに大変威力を発揮します。
すばる望遠鏡のホームページには、補償光学を使ったときと使わなかったときの星の像が対比されており、解像度の改善は一目瞭然です。これから、すばる望遠鏡は一段とその威力を増すことでしょう。

ところで、私のこのブログで望遠鏡撮像画像を用いてその成果を紹介したいと思い、すばる望遠鏡ホームページで画像の扱いについて確認しました。「画像等のご利用について」によると、「ホームページでのご利用は、ご遠慮ください。」とある一方、「天文学の広報普及活動を目的とするご利用の場合は「画像等の使用許可申請書」にご記入の上、国立天文台まで申請をお願いいたします。」とあります。そこで、申請書を提出してみました。

最近になって返答をいただきました。ホームページでの利用が天文学の広報普及活動を目的とするものであって、たとえ申請書を提出しても、原則は変わらず、ホームページでの利用は許可しない、という返答でした。

多分、公的機関の姿勢としては、すばる望遠鏡のこのスタンスが最も一般的であろうと思います。そしてそれと比較して、宇宙航空研究開発機構(JAXSA)のスタンスは非常にありがたいです。サイトポリシーに以下のように表示されています。
「利用の条件
(クレジットの表示)
 本サイトに掲載されているテキスト、図版、画像、音声、映像等をご利用する場合は、『提供:宇宙航空研究開発機構(JAXA)』『Courtesy of JAXA』のように出典元を明らかに表示していただくようお願いします。充分なスペースがない場合は『提供 JAXA』『JAXA』等の略式の表示方法も可とします。」

私としては、すばる望遠鏡についても宇宙開発と同様に応援していきたいのですが、両者の温度差についてはいかんともしがたいです。
ただしJAXAについても、もし心ない利用者が悪意の利用をした場合には、姿勢が後退することも十分にあり得るでしょうが。
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大型展開アンテナの展開に成功

2006-12-26 23:35:05 | サイエンス・パソコン
12月18日にH2Aロケット11号機で打ち上げられた人工衛星「きく8号」は、本日12月26日、大型展開アンテナの展開に成功しました(JAXAサイト)。
関係者の皆様、おめでとうございます。

25日の夜から2つのアンテナの展開を開始し、26日朝には両方とも展開し終わった報告が見られるはずでした。ところが、最初に展開を始めた送信アンテナの展開が思わしくなく、そちらを中断して受信アンテナの展開を行った模様で、26日朝の報告では受信アンテナのみの展開が完了した、ということでした。

そして26日夜、残っていた送信アンテナの展開に再度トライし、見事展開に成功したということです。私もはらはらしましたが、関係者の皆さんの緊張は大変なものだったでしょう。ご苦労様です。
下の写真は、衛星のモニターカメラによってとらえた、展開したアンテナです。

     提供 宇宙航空研究開発機構(JAXA)

     提供 宇宙航空研究開発機構(JAXA)
12月27日追記
宇宙航空研究開発機構(JAXA)のサイトでアンテナ展開時の様子を撮影した動画を見ることができます。
大型展開アンテナ(送信用)展開動画 [WMP 1.75MB]
大型展開アンテナ(受信用)展開動画 [WMP 885KB]
下は、本衛星の前に、展開アンテナの確認のために打ち上げられた予備衛星LDREX-2 での軌道上実証実験風景動画です。
アンテナ鏡面展開(20倍速)[WMV9.22MB]
動画としては、この予備衛星による映像の方がリアルです。最後の方では映像の右上に月が現れたりします。
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PCT緊急出願

2006-12-24 19:48:38 | 知的財産権
ある金曜日の午後5時過ぎ、特許事務所にファックスが届きます。
私の相方である所長弁理士宛で、ある出願人から、PCT出願を依頼する書類でした。PCT出願は私が担当することとなり、よくよく見ると優先権期限が翌週の水曜です。これはぼやぼやしていられません。

相方から優先権基礎出願の電子データを受け取り、まずは明細書の作成に取りかかります。
現在は国内出願のためのパソコン出願ソフトを用いて、PCT出願のオンライン出願も可能です。そしてその場合には、国内出願の書類をほとんど修正せずに使うことができるので、とても助かります。

書類としては、
《国内出願》
【書類名】特許願
【書類名】特許請求の範囲
【書類名】明細書
【書類名】図面
【書類名】要約書
の順番だったものを、
《PCT出願》
【書類名】明細書
【書類名】請求の範囲(「特許」の文字を削除)
【書類名】要約書
【書類名】図面
と入れ替えます。

また、明細書の中身については、
《国内出願》
【発明の名称】
【技術分野】
【背景技術】
【発明が解決しようとする課題】
【課題を解決するための手段】
【発明の効果】
【発明を実施するための最良の形態】
【実施例】
【産業上の利用可能性】
【図面の簡単な説明】
【符号の説明】
の順番だったものを、
《PCT出願》では
【図面の簡単な説明】と
【符号の説明】を
【発明の効果】の後に入れ替えるだけです。その上で段落番号を付与し直せば完成です。段落番号の付与は、支援ソフトによって一発で行うことができます。そして国内出願と全く同様にHTML変換し、パソコン出願ソフトに読み込みます。

図面については、国内出願用の図面中の日本語説明部分を削除すれば完成です。

「願書」に相当する部分については、パソコン出願ソフトの入力画面において、出願人や発明者などの事項を記入して完成です。

翌週の月曜の午後にはPCT出願書類が完成し、出願人の求めに応じてファックスで書類を送りました。ところが、出願人からはOKの返事がなかなか来ません。火曜の夕方近くにこちらから確認の電話をかけたところ、「ああ、まだ連絡していませんでしたね」とのんきなもので、「OKです」との返答でした。
結局、優先権の最終期限日である水曜にオンラインで特許庁に送信し、出願手続を完了しました。出願番号も同時に付与されます。

PCT出願依頼を受けてから出願が完了するまで、当方がボールを持っていた時間は、実営業時間で1.5日程度しかなかった計算になります。

パソコン出願ソフトを用いてPCT出願をオンラインでできるようになった結果として、PCT出願(日本語)は恐ろしく楽になりましたね。
コメント (1)
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城彰二の引退

2006-12-23 20:34:24 | サッカー
サッカーの城彰二が引退するということで、テレビ番組を見、新聞記事を読むにつけ、特にフランスワールドカップの頃を思い出して感慨が湧きます。

フランスワールドカップアジア最終予選の頃、エースとされていた三浦知良は不調でした。不調にもかかわらず先発を指名され続けます。当時、城は「今の自分は絶好調なのだが、試合には出してもらえない」と述懐していました。
加茂監督が更迭されて岡田監督に代わっても、その状況はなかなか変わりませんでした。
例のジョホールバルの最終戦では、カズと中山が先発しますが、途中で城とロペスに交替します。そこで城はヘディングで貴重な2点目をゲットしました。その映像も最近繰り返し流れました。あの交替は岡田監督の名采配ということになっていますが、私から見ればなぜもっと早くできなかったのか、ということです。

フランス本大会となると、カズが代表から外れ、今度は城がエースに指名されます。しかし本大会が始まってみると、城は決して好調とはいえない状況でした。それでも今度は城が使い続けられます。城と中山のツートップだったでしょうか。
私は、「なぜロペスを使わないのか」と不思議でした。アジア最終予選で日本は崖っぷちに追い詰められていましたが、なんとか踏ん張って崖から転げ落ちずに済んだのは、ロペスのゴールによって引き分けで終われた試合があったからです。ロペスはフランス本大会前の3月に国士舘大との練習試合で頬骨を骨折しており、それが尾を引いていたのかもしれませんが。
ジャマイカとの最終戦では、城に変わってロペスが投入された後、左サイドの相馬からのセンタリングをロペスが折り返し、中山がゴールしてやっと1点返したのでした。

日本代表が帰国して成田空港に到着したとき、城がファンから水をかけられるという事件が発生しました。調子が悪い選手を使い続けたのは監督の責任ですから、城には気の毒なことでした。

12月23日の日経新聞に城彰二に関する記事が載っています。
(前略)
「サッカー以前の問題。ぼろぼろだった」。引き金はフランスW杯直前の三浦知良の代表落選。代わってFWの柱に指名されたが「カズさんは僕にとっては絶対的な存在で精神的な支え。その人がいなくなりパニックになった」。誰にも相談できず眠れない夜が続き、部屋で嘔吐することもあった。
 3戦全敗。ノーゴールのエースは戦犯の責めを負わされた。体の変調を悟られまいと試合中に無理につくった笑顔はバッシングの対象となり、帰国した成田空港でファンに水をかけられた。「これがカズさんが背負ってきた重圧なのか。あらためて偉大さを知りました」
(後略)------引用終わり---------

代表監督の采配の難しさを本当に感じます。エースが不調でサブが好調でも、監督はなかなかエースを下げることができないのですね。そのエースを今度は代表からも外してしまいました。しかしそれによってチームは精神的支柱を失い、次に指名したエースの調子を狂わせてしまったということです。

フランスワールドカップの後、城は檜舞台から姿を消します。最近の番組によると、膝の故障を抱えて苦しんでいたようです。

しかし、現役引退を決意した今年、J2の横浜FCでやってくれましたね。横浜FCのJ2優勝とJ1昇格の牽引役となり、それを実現したのですから。それも、フランスワールドカップ予選と本戦でそれぞれエースとして苦悩したカズと一緒に。

最近の映像で見る城彰二は、本当にいい顔をしています。現役時代の栄光と苦悩の経験が、いい顔を作ったのでしょうか。
これからの人生を応援しています。
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日経夕刊-クラスルーム

2006-12-22 23:01:48 | 歴史・社会
最近はついつい教育に関する話題に目がとまります。今、日本の教育は崩壊の危機に瀕しているのではないか、と感じているからでしょうか。
最近の教育現場で何が起きているのか、その状況は、以前と比較してどのように変化しているのか、という現実をまず知ることが大事です。

12月22日の日経夕刊「クラスルーム」の記事です。
--------------------------------------------------
(前略)
二十年近く教師をしていると様々な子供達の変化を感じるが、特に大きな変化が「リーダーの不在」だ。いじめが起きているとき、リーダーの子が「もうそれぐらいにしておけよ」と言うと収まった。先生に言いたいことがあるとき、リーダーの子が代表で意見を言いにいくと、先生も一目置いているので態度を変えてくれたりした。私たちが子供時代には、そんなリーダーが存在した。
 でも、今はそういうリーダーの子はいない。前に立って何かをしようとすると、それを冷めた目で見る子が多いからだ。「まじめ」が損となり、「一生懸命」が軽視される。そんな社会情勢が子供たちにも広がっている。当然、昔ながらの「ガキ大将」は育たない。女子が先頭に立って引っ張る方がうまくいった時代もあった。十年ぐらい前までは、周りを納得させながら、うまくのせていく女子が、クラスに一人か二人はいたものだが、今では望むべくもない。(後略)
               (学校研究会)
--------------------------------------------------

12月22日朝刊によると、教育再生会議の議論が迷走しているようですね。
まあ、文部科学省が事務局をやっている限り、「委員たちに言いたいだけ言わせてまずガス抜きを行い、報告書は官庁が希望する方向にうまくまとめる」という旧態依然はなかなか抜けないでしょうが。

いずれにしても、以前と現在とを比較し、「こどもはどう変わったか」「親はどう変わったか」「社会はどう変わったか」をきちんと把握して議論を始めない限り、実のある結論を出すことは難しいでしょう。
そのためにも、現場経験が長い先生たちの、上記のような事実認識の積み重ねを大事にしたいと思っています。
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大昔の弁理士合格体験記

2006-12-20 23:13:22 | 弁理士
私が弁理士試験に合格したのは平成7年で、もう11年も前のことになります。その後、弁理士試験制度が変わり、出題傾向も変わり、試験合格に至るための勉強方法は当時と現在とでは全く相違するはずです。

この9月に、ネットで活動している弁理士受験生仲間のオフミーティングに参加する機会がありました。私が受験生のときにお世話になったパソコン通信でのフォーラムが発展したグループです。パソコン通信時代の受験生仲間で、その後合格された仲間と再会することができました。
その席で、私自身の合格体験記が話題になり、とても参考になったと言ってもらいました。「試験制度が変わったから現在は役に立たないのではないか」と言うと、「いや、現在の受験生にも役に立つはずだ」とのご意見をいただきました。

それではと自分のパソコンの中を探したのですが、どうしても電子ファイルが見つかりません。紙ならあります。そこでOCRで紙から読み取り、再現しました。その合格体験記をアップします(ワードファイルテキストファイル)。

「当時はこういう勉強をしていたんだ」という歴史資料としての価値はあるかもしれません。
コメント (2)
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H2A-11号機打ち上げ成功

2006-12-18 23:36:14 | サイエンス・パソコン
きく8号(人工衛星)を載せたH2Aロケット11号機が12月18日に打ち上げられ、見事に衛星を宇宙空間に運びましたね(JAXAサイト)。
 
   提供 JAXA            提供 JAXA
人工衛星きく8号は、以前ご紹介したように、大型展開アンテナを試験するための大型衛星で、重量は5.8トンもあります。右上の写真は衛星を格納したフェアリング部分です。下にいる人の大きさと比べてください。そのでかさに圧倒されます。
このような大型衛星を静止軌道に乗せるため、ロケットも過去最大の推力を有する新型が採用されました。204型といい、1段目に固体ブースターを4基設置しています。今までのオーソドックスはブースター2基でした。
午後3時半すぎに打ち上げられました。ネットでオンライン中継を見る予定にしていてうっかり失念し、4時前に気付いてあわててネットにつないだら2段ロケットに再点火するところでした。
今回のプロジェクトには山場が2つあるようです。第1は、H2A新型の204型が無事に打ち上がってくれるかという点で、この山場を無事にクリアーしました。
第2は、大型展開アンテナが無事に展開するかどうかです。このチャレンジは約1週間後に行われるようです。
無事に展開することを祈っています。

   提供 JAXA
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杉本信行著「大地の咆哮」

2006-12-17 20:45:37 | 趣味・読書
杉本信行著「大地の咆哮」(PHP研究所)を読みました。大仰な表題ですが、副題「元上海総領事が見た中国」が本の内容を的確に表しています。
大地の咆哮(ほうこう) (PHP文庫 す 19-1)
杉本 信行
PHP研究所

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2004年春、上海の日本総領事館で、一人の館員が遺書を残して自殺しました。中国筋からスパイを強要されていた疑いがあります。このときの上海総領事が、著者の杉本氏です。私はこの本においても、この事件について語られていると思っていました。本の宣伝でも、その点を強調しているような印象を受けました。
しかし実態は違いました。杉本氏が中国を中心とする外交官時代に実際に見聞した事実に基づき、現代中国の実相について語った本です。
本の題名といい、本の宣伝といい、出版社の営業姿勢が出過ぎており、折角の良書なのに残念です。

あとがきを読んでびっくりしました。上記の館員自殺事件があった年の秋、杉本氏は思いがけず病魔に蝕まれていることを知ります。上海総領事を後任に託し、帰国して医師から知らされた病名は末期ガンでした。唯一化学治療でガンと闘いながら、限られた命をどう使うか、そこでこれまでの経験をもとに、現在の日中関係に何か貢献したいという思いが強くなり、抗ガン剤の副作用と戦いながらこの本を執筆したのでした。
あとがきの日付は2006年5月です。そして調べたところ、杉本氏はこの年の8月3日にご逝去されたそうです。まさに死を間近に見据えながら執筆し、文字通り絶筆になりました。
杉本氏は昭和24年生まれ、私の1年後です。早すぎるご逝去でした。

外務省に入って最初の北京研修時代(1974年)から最後の上海総領事時代まで、氏の経験に即しながら中国が語られます。本人が実際に目で見、耳で聞いた事実にほぼ限定されているので、それほど大きく話が展開するわけではありませんが、事実として間違いがないということから信頼して読むことができます。

最初の研修時代は文革(中国文化大革命)のまっただ中です。
「結局、文革の十年間とは、『失われた教育』の十年間でもあったのだ。まともな教育を受けなかった人たちはその後、各方面で本当に使いものにならなかった。」
「中国の人たちは、天安門事件以前を知る人と、それ以降に生まれて、以前の実態を知らない人、それから、文化大革命の十年を知っている人とそうでない人で、考え方、意識が全く違っていて非常に興味深い。」

最近の中国人による反日騒動は、反日教育を受けた若者が中心になっていますが、文革や天安門事件以前を知っている人たちはこれら若者と全く異なった考え方を持っているのでしょうね。ただし絶対に表では口に出さないようです。

83年以降、胡耀邦が総書記だった時代、胡耀邦が大の日本びいきで、日中の蜜月時代だったそうです。それは認識していませんでした。
ところが、信頼していた中曽根総理が85年に靖国神社に参拝したことで、胡耀邦としては完全に裏切られた恰好となったそうです。それも一因となり、87年に胡耀邦は失脚します。
その後中国で実権を握った胡錦涛にとって、同じ胡姓の胡耀邦が被った靖国参拝問題の影響が、トラウマになった模様です。

72年の日中国交正常化のとき、中国は賠償を放棄します。このとき周恩来が国内に向けて行った説得が「先の日本軍による中国侵略は一部の軍国主義者が発動したものであり、大半の日本国民は中国人民同様被害者である」という理屈でした。A級戦犯が合祀された靖国への首相の参拝を見過ごせば、国内向けに行ってきたこれまでの説明が破綻し、党・政府が苦しい立場に追いやられます。杉本氏はこの点を特に強調しています。下手をすると、中国に進出した日本企業の資産が、損害賠償として差し押さえられる事態も起こりかねません。
一方で杉本氏は、もし総理が中国側の非難に応じて靖国参拝を中止することになれば、中国側は「日本という国は経済利益のためには国の面子も捨てる」と受け取ってしまう可能性があるので、得策ではないとします。
このあたりの情勢判断を踏まえて、きちんと対応することが大切そうです。

日本は、中国政府に対する数十億円規模のODAとは別に、1件一千万円以下の「草の根無償資金協力」をやっているそうです。地方の行政機関から直接要請を受け、審査した上で必要な案件について協力します。中国では、一千万円で3階建ての立派の鉄筋コンクリート製の学校校舎ができるそうです。
このような案件ごとに杉本氏は中国の各地を訪問します。中国の農村部がかかえる問題を、杉本氏が直接肌で感じて知っているのは、このような経験に基づくようです。

上海を核とする長江デルタ地域は、日本企業の投資額の6割以上を占め、際だった存在感を示しています。その理由は、中国がさまざまな優遇策を出していることに加え、インフラが整備され、他の地域に比較してリスクが少なく、さまざまな部材を1時間以内で調達できるような便利さが実現しているためです。単純労働力のコストは相変わらず安く、有能で勤勉な労働者が容易に調達できます。

このように中国の明るい部分を描いた後、杉本氏は中国が抱える負の部分について詳細に語ります。著書の中で、この部分の記述が最も詳細です。都市住民と農民との間に生じている圧倒的な格差、農民の生活の困窮の実態が語られます。国家、省、県、市、郷鎮など各段階ごとに存在する無駄な行政機関と役人の存在により、国が政策を立案しても末端では全く実施されません。
農民は、国から耕作地を割り当てられている一方、生活最低保障、失業保険、医療保険など、都市住民が受ける社会保障の対象外となっています。逆に、地方政府からさまざまな制度外費用を徴収されます。
中国社会は、都市住民と農民との差、豊かになった沿岸部と内陸部の格差、都市の中における貧富の格差、この「三重の格差」が構造問題となっています。

中国では、富める都市が貧窮する農村を搾取する実態があるようです。また、先に富を蓄積した富裕層は、ろくに税金を納めていません。富の再配分がまったくされていないのです。これが共産主義国家だろうかと目を疑います。日本の方がよっぽど社会主義国家です。

死の床にある杉本氏が、最後の力を振り絞って執筆した本書には、おそらく氏が実際に見聞した中国の真実が語られていると思います。本書中の解説で、岡本行夫氏も、「現代中国の真の姿をこれほどよく分からせてくれる本に出合ったことはない」と述べています。

現代中国を観察する上で、この本はしばらくの間リファランスたり得るのではないかと思っています。
イラク戦争後のイラクについて、酒井啓子先生の「イラク 戦争と占領」「イラクはどこへ行くのか」がリファランスになったように。
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太子堂と目青不動

2006-12-16 17:36:33 | 杉並世田谷散歩
先日、三軒茶屋方面に出かける機会があり、そのおりに太子堂と目青不動尊に参拝してきました。
東京は世田谷区三軒茶屋付近に太子堂という地名があり、世田谷線の三軒茶屋駅も太子堂四丁目に位置しています。
この太子堂という地名、太子堂3丁目30-8にある円泉寺というお寺に聖徳太子像を祀った太子堂があり、これに由来する地名なのです。
円泉寺は、1597年に建てられた真言宗のお寺ということです。
正面の本堂に向かって右側に、太子堂があります。太子堂の内部は窺い知ることができませんでした。太子堂の正面に飾られた額のみ紹介します。

    本堂
 
    太子堂                    太子堂の額

世田谷線三軒茶屋駅のすぐ北側に、目青不動尊があります。
目青不動尊は、世田谷区太子堂4ー15-1の教学院というお寺にあります。境内の説明によると、教学院は、1604年に江戸城内紅葉山に建てられ、明治41年(1908)に青山からこの地に移されました。
同じ境内の説明によると、不動堂の目青不動は東都五色不動(五眼不動)のひとつとして有名だということです。しかしその割りにはひっそりとした境内です。
左の写真の左端が本堂、右端に不動堂が見えます。不動堂の目青不動尊を拝観してきました。右の写真がそうなのですが、鎮座するお不動様は暗いので写っていません。
 
本堂         不動堂        不動堂
東都五色不動尊サイトによると、
「寛永年間の中旬、三代将軍徳川家光が天海大僧正の具申をうけ江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、江戸市中の周囲五つの方角の不動尊を選んで割り当てた「東都五色不動【五眼不動】(目白、目赤、目黒、目青、目黄)」のひとつである。
五色とは密教の陰陽五行説由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄でしれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表しています。
そして、この五色不動の 位置を線で結んだ線の内側を、江戸の内府と呼ばれた。しかしながら現在の住所は、明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動しているので本来の結界の役を失ったといってよい。」
とあります。

上のサイトにおいて、ここ目青不動については、
「当初不動尊は港区麻布谷町(現:六本木)勧行寺にあったが廃寺となり明治15年青山南町「教学院」に移転、その後同41年この地に移り現在にいたる。」
と説明されています。

太子堂、目青不動いずれも、その近くを昔は烏山川が流れており、今は烏山川緑道になっています。ちょうど紅葉の盛りでした。
 
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